Photographer's File

 #16:テラウチマサト

取材・撮影・文  HARUKI



テラウチマサト(てらうち まさと)

プロフィール:1954年富山県生まれ。明治学院大学卒業後、日本実業出版社を経て1991年に独立。2000年、20代向けのフォトカルチャー誌「PHaT PHOTO」を創刊。編集長&発行人として、若者マーケットが不在といわれた写真業界に新ジャンルを確立。雑誌の成長と共にプロデューサーとしての手腕を 発揮。挑戦者を拒まない参加型写真イベント「御苗場」を立ち上げ、総合プロデューサーに着任。2011年には10回目となる「御苗場」をニューヨークで開催。同年10月よりテレビ東京の「ヴィーナスの秘密」でスチール撮影を担当。出版多数。ポートレイト、風景、プロダクトから空間まで、独自の表現手法で常に注目を集める写真家。プロデューサーとしても活躍中。



 写真家? カメラマン? 編集者? 経営者? 先生? 審査員? プロデューサー? いくつもの顔を持ち、独特の手法で写真界に新しいジャンルを確立されてきたテラウチマサトさんとは何者なんだろうか? この人の名前を目にした10年くらい前からの疑問だった。

 この人をいちどハダカにしてみたら、謎の一部でも少しは見えるかも知れないという勝手な思いから、超多忙なテラウチさんを春まだ雪の残る季節から長い間追いかけて話をきかせてもらった。



「テラウチマサト」と「寺内雅人」

 北陸の富山に公務員の家庭の長男として生まれ育った雅人少年。お父さんの仕事の関係で幼少の頃から引っ越しが多く、自ら東京へ出てきてからも度々、住まいを変えてきた。トータルでは約30回くらい引っ越しを繰り返してきたという。つまり2年に1回は越してきた計算になる。

 お父さんのお仕事は電電公社(今のNTT)ということで、実はボクの実家も同じだったけど、ウチでは父親が単身赴任の転勤をしていたのでボク自身は実家で暮らしている間には一度も引っ越しをした経験がなくて、テラウチさんの引っ越し人生を想像することさえできない。

「だから急に来週から○○へ行ってくれといわれても大丈夫なんです。幼い頃から引っ越しを繰り返してきたんで、いつでも動ける準備が身についているから。地方の町興しのイベントのお手伝いとかもしているんですけど、昨日Aから新幹線で帰って来て、今日からBへ飛行機で飛んでゆくのもちっとも苦じゃない、平気なんですよ」


(c) Masato Terauchi(c) Masato Terauchi
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−−テラウチさんはCMSという会社の経営者でもありながら、写真家としての一個人という側面もあるわけですが、そこの違いというかバランスはどのように保ってらっしゃるんでしょうか?

「例え話でよくいうのですが、矢沢永吉さんが出演依頼をされたとするじゃない、そこで矢沢さんは“今の件は良い話しだと思うんですが、YAZAWAがOKするか訊いてきます”っていって別室に向かい、少しの時間を過ごしてから戻って来た矢沢さんが、“YAZAWAのOKが出ました!”っていうんです(笑)。それと似ているような気がします」

「例えばディズニーランドの中には例えば、冒険の国とかファンタジーの王国みたいないろいろなゾーンがあって、その集合体がディスニーランドそのものであるように、CMSという会社がブランドだとするとその集合体の中には、PHaT PHOTOという雑誌を作ってたり、御苗場や町興しのイベントをしたり、写真教室を運営してたりといろんな国(セクション)があり、そのうちの一つの国みたいな存在としてのテラウチマサトという写真家がいるわけです。それをもうひとりの存在のプロデューサーとして、あるいは会社の経営者としてのテラウチマサトが醒めた目で見ていて、ここは写真家テラウチマサトはどう行動するかという冷静な判断をコントロールするという、もしかしたらそういう事かも知れないです」

−−ところで、今、ボクがこうやって話しを訊かせてもらっているテラウチマサトさんは、どのテラウチさんなんですか?(笑)

「今は会社経営者としての寺内雅人です。写真家としての一個人であるテラウチマサトの時にはすごく感覚的な人間になっているし、自分の世界に入り込んでいるからヤンチャだしその瞬間はちゃんとした会話が成立しないかもです(笑)」

−−つまり、目の前にいる寺内雅人さんに、ボクはもうひとりの主に写真家としてのテラウチマサトさんのことを訊いているわけなんですね?(笑)

「はい。まさに、そういうことです(笑)」


−−写真家としての活躍については、これまで数え切れないくらいのインタビューを受けてらっしゃると思いますが、先日の富山での展覧会オープニングで小学校時代の恩師の先生が“目立たないけど勉強はできる子でした”って仰ってましたので、ココではあまり語られていない、少年時代のテラウチマサトさんについて是非お話してください。

「自分でいうのも何ですが、小学生の頃には勉強のできる優秀な子供でしたね。元々勉強をするのが好きでしたから、知らないことがあると百科事典で調べて何でも知らなきゃ気が済まないような子供だったんです。それが高じて小学校6年生の時には地元、富山のクイズ番組に出てチャンピオン大会までいきました(笑)。中学の時は引っ越した学校でいきなり昼休みの放送部の番組でやはりクイズ番組に出て1年生で優勝しましたから、知識は豊富でした」

「実は身体は病弱で小児喘息だったんです。修学旅行とかでも薬を入れた水筒を持ってがんばって出掛けたんですが、目的地に着いた途端に帰り支度をしなければいけないくらい咳き込んだり……小学校では成績が良かったのに、中学くらいから病気がちで、しかも高校時代には交通事故で長期入院したりで、さらに学校を休みがちで授業についていけなくなりだんだん成績も落ちていき、その頃から小説とか詩とか文学の世界へのめり込んでいき、将来はそういう生き方をしたいなって思いましたね」

−−それは、作家になりたいとかっていうことでしょうか?

「まだ子供だったんで、作家とか詩人とかの職業っていうのはわからないんですが、家にあったおじいちゃんが買い揃えた世界文学全集みたいなのを読破してました。体育の授業に出るよりは本を読んでるのが楽しく感じられて、まわりの男子生徒とかが集まって騒いで遊んでるのを見てても、自分ひとりで本を読んでる方が楽しかったですね」

「あとは自転車に乗るのが好きだったんで、あの頃は8段とか12段変速ギアとかが流行っていたんですが、僕の持っていた5段のギアを自分なりに改造したりして走って楽しんでいました。人と群れるよりは、ひとりで過ごす時間が心地良かったんでしょうねえ」

「だけど、高校を卒業して東京へ行った頃から、“今の自分を変えてやろうっ!”って思い始めていたんです」

「大学は2つ受かったんですがちょっと事情があって、1974年に明治学院大学の社会学部ってところへ行ったんです。わかりやすくいうとモノや社会に対する考え方や関わり方、視点を研究する学問。それが自分にとってはすごく楽しくて、今の言い方ですと、“キター!”ってことですね(笑)。それまでの自分から新しい自分のスタートを切ったって感じでした」

「夜間だったので昼間は仕事をしてたんですけど、それも社会学に役に立つような知識を得るところを選んでいました。出版社でアルバイトしたり、愛宕山にあったNHKの放送世論調査研究所とかですね。ココには社会学の教科書になってる本の著者でもある藤竹暁さんとかが働いてらしゃいました」

「社用車に乗せてもらってNHKの放送局へ行ってドラマの撮影スタジオを見学したりとか、出版社のガイドブック編集部やスキー関係の雑誌のアルバイトなど、自分としては学生生活も謳歌しながら社会学の勉強もできて、好きな仕事をしながらお金ももらえるので一石二鳥で楽しい日々でしたね」

「出版社に就職が決まったとき、“オレはこれから赤ペン1本で食べて行くんだ!”って周りにいきまくほど自信があったのが大学生時代です(笑)」


4月初旬、テラウチさんの故郷、富山県の高岡市にあるミュゼふくおかカメラ館で開催された展覧会、テラウチマサト写真展「美しい風景」のオープニング&写真撮影会を兼ねてのツアーに同行取材してきました。

初日、お昼前までは晴天だった富山県だが、展覧会場へ到着した頃には前が見えないくらいの吹雪になっていた。

会場は美術館なのでかなり広いスペースだが、大きなパネルに貼られた「美しい風景」たちで埋め尽くされていた。雪が舞う中にも関わらず、関係者や一般客の皆さんも多くて大盛況だった。ゲストの中にはキヤノンマーケティングジャパンの渡辺本部長やテラウチさんが小学校の時の恩師の元先生もいらっしゃっていて、寺内少年の昔話がきけて、ファンの皆さんたちは大盛り上がりだった。テラウチさんご自身によるレクチャーで作品の解説があり、撮影時の状況などをみんな熱心に耳を傾けていた。

レセプションの後、富山の平野が見渡せる山の中腹までバスで登り、美しく光る夕暮れの平野にまた雪が舞うという4月の北陸を満喫。いったん宿に戻ってから、パーティー会場へ。なんとこの日は偶然なのかどうか、テラウチさんの58歳のバースデーでもあった。展覧会のオープニングと誕生日が重なるとはテラウチさんにとっては貴重でステキな1日だった。そして夜は楽しく更けていくのだが……続く(笑)

前夜は楽しいパーティーだったが、翌日は朝陽が出るところを撮影なので早朝4時半にはホテルを出発というまだ薄暗い中をプチ苦行に出掛けることに(笑)。だんだんと太陽が見えてきた雨晴海岸から見える日本海の朝陽は美しくて、寝不足もなんのそので目がシャキーンとなり、皆さんしきりにシャッターを切っていました。実はボクは2年前の冬に一度訪れていたんだけど季節も天気も違うので、自分なりの写真が撮れたような気がした。まあ、皆さんに負けたらヤバイので発表しませんが(笑)

再びバスに乗り込んで数カ所の撮影地を巡って、最終撮影地点は南砺市の井波地区へ。ここは伝統工芸の木彫で有名な町で、古いお寺や街並みも残っているエリアで皆さん思い思いのスナップなどして楽しんでいた様子。ボクはテラウチさんと写っているこの薬屋さんのおじいちゃんがお気に入りでしたあ〜。富山駅でバスを降りて解散。ボクは皆さんとは別のルートで帰京しました。2日間お世話になりました&お疲れさまでした!!

「ところが就職して社会へ出た瞬間から、また辛い人生が始まるんです。実は念願の出版社の雑誌編集部に就職が決まったんですが、就職したらいきなり大阪赴任になったんです。そこでは知ってる人も居なくて新人ですから朝も一番に出社して、新聞や資料を準備してその日の仕事が始まるという下働きからのスタートでした」

「ところが2年目になっても3年目になっても同じことの繰り返しで、このままではいかんと部署の移動願いを出すわけです、それが写真部でした。毎日、デスクワークで編集の資料集めや紙の発注などの準備にばかり追われて、いつまでたっても編集者としての仕事で外へ出られないんだったら、部署移動でカメラマンに転身して外で仕事をしたいっていう思いが強かったんです」

「だけど“無理無理。お前、大学も普通の学校だろ?”って上司にいわれ、写真の専門教育を受けてるわけじゃないし、それまで実績がないので受け入れてもらえない。そこで、向こうから“来い”といわせるようにはどうしたらいいかを考えて、まず外部の写真コンテストに片っ端から出して受賞すればいいのではないかと」

「海岸でクルマの上に自転車を乗せてる写真を逆光で撮って、“スタート”ってタイトルで応募したんですけど、どんな写真を撮ってもタイトルは“スタート”にしようってはじめから決めてたんです。コレが自分にとっての“スタート”になるからという決意を込めて。そしたらアサヒカメラの月例コンテストで2位になったんです。翌月も3位か4位になったんです、他にもいろんなコンテストに応募して、その年に三菱製紙賞やキヤノンとか、富士フイルムとかでも賞をもらったんです」

「その新聞記事や掲載された雑誌全部に付箋を付けて、ある朝、編集部長の机の上に積んで置いたんです。そしたらそれを見た部長から認められて“じゃあ、お前やってみるか?”って声を掛けてもらえたんです」

「やっと写真を認められて、さて頑張ろうって時に今度はまた社内の編集業務部と写真部との間で板挟みになり苛められたり干されたりして、会社へ行くのが辛いから、家を出る時に“新しい靴下を穿いてきたから何か楽しい事があるんじゃないか?”とか、“蒸し暑い部屋にいるより通勤電車はクーラーがきいてて涼しいぞ”とか、毎朝自分に言い聞かせるようにして会社へ向かっていました。自分が認められていないのに居なきゃいけないというのは辛い事でそんな時代が続きました。上司の顔色を見ながら毎日を過ごしていたので、自分自身を失いそうな日々でした。子供も生まれてたんで、家庭では良いマイホームパパでしたよ(笑)」

「平日は5時半に就業時間が終わったらすぐ、一直線に帰宅してましたし会社が休みの土日が中心の暮らしだったんです。土曜の夜になったら、あと1日経ったら月曜日が来るってことを想像しただけで憂鬱になっていました。その頃詩を書いていて“駈けてくかけてく、月曜日の朝、背広着た一群の中、子供たちがゴムマリみたいに駈けていく”で始まる内容の詩を書いたんですが、僕にとっては憂鬱な月曜日の朝なのに、子供たちは楽しそうにはしゃいでいる姿を見て羨ましかったんでしょうね」

「ただそんな辛い毎日の会社生活の中でも好きな写真を撮っている時だけ、遠くに空が見えているんです。そしてやっと9年目に井戸の底から見てる空に明るい光がさしてきたんです(笑)」


3月某日、京橋にあるテラウチさんの会社CMSにて「カメラの話しをしよう」なるイベント。この日のテーマはコンパクトカメラの今後ということで、オリンパスイメージング社長の小川治男さん、ニコンから後藤研究室の後藤哲朗さんのお2人を招き、元リコーでカメラ部門のプレジデントをしていらっしゃった湯浅一弘さん(現CMS取締役)とテラウチさんの4名で業界の仕組みや流れを話し合うという催しだった。細かい内容についてはここではことは書けませんがためになって楽しい集まりでした。

独立時に宣言した「10の約束」

「ある時、上司である編集部長が新しい人に変わったんですね、9年目のある日に。その瞬間からすべての流れが変わったんです。その編集部長になって2日目にいきなり呼ばれて“寺内くんはよく頑張ってるなあ。君にはもっとやって欲しい仕事があるんだよ”っていってもらえて、その一言でその瞬間に雲がひいてサーッと晴れるように井戸の中から抜け出ていましたね」

「まず、ビジュアルをデジタルでデータ化する責任者になって進めてくれといわれ、今までやってきたことを今度こそ認められたというのでバリバリ仕事をこなすようになり、その次には東京本社へ移動して新雑誌を作るのでそこの撮影の責任者になってくれと。念願の東京本社へ行けて、新しい部署ではいきなり僕が一番上の責任者になったわけですよ(笑)。デザイン写真課という部署でしたが毎日が充実してて、仕事が楽しくてしょうがないんです今度は部下ができたので、そっちの悩みをきいたりもしてました」

「Macに詳しくて写真が撮れるということでアスキーから指名されて仕事をしたりしてました。そのことは会社公認でしたので社長にも褒められたりしました」

「自社の雑誌で書店売りしている雑誌の撮影は表紙から中の写真まですべて自分がやっていました。雑誌の他に書籍の撮影まであるので毎日とても忙しかったんですけど、念願の自分の人生だったんで楽しかったです」



−−編集業務を経て会社員としてのカメラマンというポジションにいらっしゃったわけですが、その後独立していくキッカケとかは具体的には何だったんでしょうか?

「会社での仕事がどんどん忙しくなっていき、ついに外部に発注しなければ仕事がまわらなくなってきたんですね。そこでプロダクションの人に来てもらい打合せをした時に、それまで自分が撮ってきた写真を見せて“僕の写真の力って、どうでしょうねえ?”って訊いたんです」

「こっちは発注側だし、普通はお世辞でも褒めるかと思うじゃないですか。そしたら“あなたの写真は光が見えてませんね。光が見えないとプロとはいえませんよ”っていわれて本当に愕然ときたんです。頭に来たというか闘志が沸いてきたというか、みんなの前で恥をかかされたみたいなこともあり、スピリッツに火を注いでなんかこうメラメラメラ〜って燃えてくるような感情がでてきて。“そんな風に云われるんだったらフリーのプロカメラマンになって、お宅の会社の仕事を全部取ってやろう!!”くらいに思いました(笑)それがキッカケですね」

「それから1年かけて独立する準備を進めて行ったんです。家もクルマも買ったばかりだったし給料も充分なだけもらっていたんで、それまでは円満に定年退職をするのが夢だったんですが180度違う生き方を歩むことになるんです。キツいいい方でしたが僕を次の世界へ歩むキッカケになったんで、後になって思うとその人は僕にとってみれば神様の声みたいな存在ですよね(笑)」

「それで覚悟を決めて、すぐ辞めようと思ったんだけど、まてよカメラを持ってないぞと(笑)35mmは持ってたんですが4×5やブローニー、ライティングの設備も揃えないと仕事ができないし、急に辞めたんじゃ仕事の引き継ぎもあるしと冷静になって。結局、会社を辞めたのは1991年2月26日でした」

「会社を辞めるときの挨拶で“テラウチマサト、10の約束”というのをみんなの前で発表したんです。1つは10年以内に青山に事務所を作ります。2つ、アシスタントがいるような事務所にします、3つ、写真集を出します、4つ、先生と呼ばれるような写真家になります、etc そんなようなことをいったら皆からゲラゲラ笑われて、貰った色紙には“嘘つき!”とか“10年経った時に会いましょう。どっちが偉くなってるか競争です”とか半分ジョークだけど中には皮肉っぽいこともたくさん書いてあって」

「それから数週間後のある日、会社の近所の公園にクルマを停めて昼食を食べながらテープレコーダーに“遅い時間に食べる昼食だけど、闘っている気分があって最高だ”みたいなことを吹き込んでたんです。それを見た先輩が“そこの公園で寺内が情けない姿でパンをかじりながらブツブツいってたぞ”ってもといた会社内でいわれていたみたいです。自分ではスゲー頑張ってる今の自分がハッピーで本当に感動してたのに、同じ事実が人によってこうも違って受け取られるんだなって思いましたね」

「実際には辞めた後、すぐにいろんな経営者の方から仕事をもらっていたんで順調で、独立してから割と早い時期に、アシスタントと電話番の事務員を雇って青山に事務所を持ってたんです。ある経営者の方は自分の仲間の経営者にテラウチの写真は良いからと紹介をしてくれて、それがまた繋がって仕事がどんどん増えていき、マジで夜も眠れないくらい忙しくなっていたんです」


5月の連休に河口湖にある別荘にお邪魔してきた。本当はインタビューの他に夏に開く個展用の風景写真の撮影風景を取材したかったのだが、生憎の雨続きで本格的な撮影は断念せざるを得なかった。その代わりにお嬢さんのお誕生日とかいろんなことが重なって、ご家族はもちろん若い友人たちが大勢集まってパーティー開催中だったので、テラウチさんご本人以外からもいろんな話が聞けたのは収穫だった。一宿一飯の恩義に2階の廊下にあるプリント作品を展示するスペースに飾る写真の額縁制作をボクも微力ながら手伝ってきました(笑)。翌日、小降りになった時に少しだけ外を撮り歩きました。この日テラウチさんは発売間もない新機種キヤノンEOS 5D Mark IIIに24-105mmを装着して楽しそうに撮ってましたね(笑)。最後にバス停まで送っていただきました。お世話になりました☆

−−独立後の仕事は順調で多忙な毎日だったわけですが、たくさんの仕事をこなしているうちに失敗とかの経験はなかったんですか?

「独立して1年目のある時、化粧品のブツ撮りで集合のカット撮影があったんですが、全然上手くいかなかったんです。スタジオを借りて撮ってたんですが時間も長く掛かってしまい、経費もすごくオーバーした上に上がりも……。担当者に怒られましたね(笑)」

「これはヤバいぞもっと腕を磨かなきゃと思い、それで雑誌のレギュラー仕事はやってたんですけど、営業して新しい仕事をとるのはしばらくやめようと、アシスタントと一緒に来る日も来る日もライティングや撮影の練習を繰り返してました」

「その甲斐あって3カ月後くらいにアスキーからCGじゃなきゃ難しいような撮影依頼が来て、今度は一発で上手くこなせてその後は特別なライティングの仕事依頼が増えていきました。その後も仕事は増え続けて1日に5件くらいの撮影をしてました」

「おわかりだと思いますが、1日5件というのはものすごい忙しい状態でして、当時は所沢に住んで青山の事務所までクルマで通っていたんですが、朝の4時半頃に家を出て6時頃に事務所に着いて仕事をはじめて、夜まで撮影をして請求書とか書いたりの仕事が終わったら12時を過ぎてましたね、毎日。クルマで眠くなったりして運転してましたから、事故が起きないのが奇蹟みたいなもんでしたけど、これはもうヤバいと思いタクシーに変えました」

−−あのうー、それより通勤時間が短くてすむような、もっと近い場所に家を引っ越そうとか思わなかったんでしょうか?

「それが、今度もまたマンションを買ったばかりだったんです(笑)」

−−そうですか……テラウチさんって、ホンマ、運が良いのか、悪いのかわからない人ですねえ〜(笑)


テレビ東京で放映中の「ヴィーナスの秘密」という番組の中で紹介されるスチール撮影をテラウチさんがずっと担当されているので取材させていただいた。番組そのものもCMSにあるもう一つのスタジオで撮影されている。この日のゲストはファッションモデルで女優の佐田真由美さん。佐田さんと背景にもうひとつの影を作るというイメージらしく、助手の方でテストをしてからご本人登場でスタート。機材はニコンD3Sに主に24-70mmと70-200mmの2本のナノクリスタルズームで快調に進み、約15分で全カットを終了。佐田さん、はじめてお会いしましたが流石にカッコ良く、しかも堂々としたプロ魂の印象の方でした(この日の収録分は4月13日に放送終了いたしました)

(c) Masato Terauchi(c) Masato Terauchi
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(c) Masato Terauchi

写真教室、そして「PHaT PHOTO」の誕生

「その後、“癒しの島々”、“拝啓癒しの島にいます。”などの写真集を何冊も続けて出して結構売れていい気になってた頃に、尊敬するある方から“全体の繁栄なくして、個人の繁栄は長く続かないですよ”っていわれたんです。どういうことですか? って訊くと、写真業界って低迷してるでしょ、これからは業界全体を盛り上げる役目をやっていかねければいけないのでは?と。真剣に考えていった先に出した結論が、若い人たちが憧れる場所にしよう。その手段として新しい雑誌を作ることと、今までになかったタイプの写真教室を始めようと」

「で、まずは90年代後半に編集長は別の人にお願いしたんですけど、“夢写真”という名前の写真雑誌を創刊しました。残念ながら4号目で大赤字を残して終わってしまいました。そこからはまた、昼はポートレート、夜はブツ撮りとがむしゃらに働き、事務所も小さな場所に引っ越して、タクシーも使えなくなったので段ボールと新聞紙を敷いてカップ酒で暖をとっては事務所に寝泊まりする生活になっちゃいました。そのうちアシスタントまで辞めてしまって……。業界の繁栄どころか、オレの繁栄はどうなってるんだって(笑)」


当時の雑誌「夢写真」の表紙

「写真教室の方は、教室を始める前に記念講演にいったマサチューセッツ工科大学で高速ストロボのことなど教わってきたことや、過去に自分自身が写真を勉強してる時にあったら良かったなーって思うような実践的なカリキュラムを組んでスタートしました。つまりひと言で云うと20代のテラウチマサトに向けて作ったカリキュラムみたいなものです(笑)」

「最初は大学の中の社会人向けのセミナーでスタートしたんですが、それが場所や規模を変えながら組織化して大きくなっていきましたので、今は自分では教えていないのですが、生徒さんだった人の中から成長して優秀な先生が授業を担当しています。生徒数を増やしながら教室は大阪や名古屋も含めて盛り上がっています」

「そして雑誌休刊から暫く経った頃に “夢写真” みたいな雑誌をもう一度やりませんか? ってビクターエンターテイメントから声がかかり、前に一度失敗してるので散々悩んだ末に再度チャレンジしてみようということに。“一人でも多くの感性ある若者を写真好き人へと変化させ、育むこと”という創刊目的を考え、それに基づいて、ターゲットを若者に絞って今度は編集長として2000年に“PHaT PHOTO”を発行しました」



「売れ行きも良かったんです。けれど、何号か出した後の2003年に発売元のビクターエンターテイメントが出版事業から突然撤退することになり、そこからどうしようってことで急遽発売元を探してやっと現在の“ぴあ”に決まったんです。必死になって危機を乗り切ったんですが、その事を朝の会議で社員の前で発表した時には救われた思いでひとりで感動していましたね(笑)」

「PHaT PHOTOの名前の由来についてよく訊かれるんですが、PHaTは太っているという意味のFatと同じ発音なんですが意味は全く違って、PHaT= Pretty Hot and Temptingという西海岸のクラブ辺りでヒップホップの若者たちの間で使われていたスラングで、簡単にいうとCoolと近いようなニュアンスです」



−−そのPHaT PHOTOはそれこそ業界内では新しい雑誌ですが、創刊以来もう11年を越して若者の間には完全定着しています。それなのに今年になり、テラウチさんが編集長を降りられたのですが、理由などを教えてください。

「元々、創刊当時から10年経ったら編集長を変わるつもりだったんです。ところが、ある人に任せたいと思っていたけど辞めてしまったりとか、ある人がやりたいといってくるけど意思が伝わっているのだろうか? とか、なかなか自分の思いを受け継いでくれる適任者がいなかったので、ついに社員の中で募ったんです。ずっと会社では新人教育に時間とお金をかけてやってきてるので、社員の皆も編集者としてどんどん育ってきており、もう任せても大丈夫だろうと。それと、自分が編集業務から少し開放されて、僕自身が写真家テラウチマサトの原点に戻って活動してみようと」

−−それで、新しい編集長になってから第2世代というか、編集長交代からまだ数カ月ですが、客観的に見ていまのPHaT PHOTOはいかがですか?

「良い、すごく良いです。僕がやっていた時よりも数段良い雑誌になってると思う。積極的にやっててチームワークも良いしね。ちゃんと受け継いで何が大事なのかを理解してくれてる。“原点を継承し仕組みを革新せよ“っていったきり一切口出ししなかったんですが、ポーンと表紙も変わったしね。僕の時代では考えられなかったような革新的なアイディアでステキだと思いますよ」

「一応発行人なんで会議とかやってると時々覗きには行くんですが、あえてこちらからは提案しなくて任せています。僕が歳をとったせいなのかモチベーションが下がっていた部分があるんですが、若い人たちの自主性に任せたことによって本来の性質を再生しつつあるんです。僕自身も原点に戻って、写真家としての仕事1本に絞って戦えるようになりました」


テラウチマサトさんの作ったCMSという会社は若いスタッフと熟練したプロの両方のパワーと知恵で活気づいている。いつ行ってもみんなが元気なのが頼もしい。

もう一度、自分自身が写真家としてやってみる

−−今後のテラウチマサト、およびCMSという会社としての活動はどんな流れになる予定でしょうか?

「PHaT PHOTOや写真教室はもちろんこれまで通りの活動をしていきますが、NPOを目指す一般社団法人T.I.Pで、プロ、アマチュア問わずに撮影や展覧会、写真集出版ということに関してのバックアップを積極的に進めて行きたいと思っています」

「PHaT PHOTOを創刊して11年、若い写真家を育てることに時間を費やしてきましたが、もう一度自分自身が写真家としてやってみることによって、野球でいうと王・長嶋やエースピッチャーのような背番号一桁代の選手しか目立たなかったところへイチローが現れたことにより、ライトというポジションや51番のような背番号が日の目を見ることができたように、僕がどれだけがんばれるかで写真の世界にも活性化が起きて、ライトのポジションイメージを上げたイチローのように写真家イメージを変えられたら良いなとは思います。そのためにも写真展とかを精力的に開いていくつもりです」

(c) Masato Terauchi(c) Masato Terauchi
(c) Masato Terauchi(c) Masato Terauchi
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(c) Masato Terauchi(c) Masato Terauchi

−−その一環の動きとしてミュゼふくおかの大規模写真展に続き、この夏にいきなり3か所での写真展が開催されるわけですが、それぞれ違う内容ですので読者の皆さんに簡単に解説お願いします。

「今度の72ギャラリーで開催する写真展“REAL FLOWER SA-KURA 〜桜 神の座する風景〜“は、7月に写真展をやるのに何で桜なの? っていわれると思うんですが、2010年から3年間桜を撮ってきたんですけど、その中から綺麗な風景としての桜じゃなくって、タイトルにあるように神様が居られる場所に思える桜の写真を集めたものです」

「渋谷西武でやる”POWER FUJI 〜パワフル富士山〜“は、編集長の役を降りてから河口湖へ撮影拠点を移したことによって、テラウチは引退するんじゃないかって思われるのはイヤなので癒しの富士じゃなく、躍動的な見ていると元気が出るようなエネルギーを感じられる富士山の写真群です」

「渋谷ギャラリー、ルデコでの ”The woman of back paper 〜赤いバック紙の女〜“ というのは人間が本来動物として持っている感情を表現したかったので、赤いバック紙を背景に選んで女性モデルを撮りました。僕の作風としてはちょっとエロティックな写真になっているかも知れません。ご期待ください(笑)」


−−これまでいろんなアイディアを練って実践してこられてるテラウチさんですが、人と違う写真にするためにやってらしゃる方法論を、何かひとつ教えてもらえませんか?

「来日中の大物歌手や俳優さんのような、いわゆる大物タレントさんとかの撮影だとたくさんの雑誌の取材と撮影が入るので、ときには1社30秒とか1分という与えられた短い時間で勝負をしなければなりません。そのままだと、みんな同じような写真になっちゃうじゃないですか。そこで僕が考えたのは、前日とかに下町をまわって安い着物とかを買って準備しておくんです。当日、現場でその着物を羽織ってもらい撮影して終わったらプレゼントするんです。その時に“もしも良かったらあと10秒だけ撮影させてもらえない?”っていうんです。そしたら大抵の相手は“勿論いいわよ。どうぞ!”ってなるんです。そうすると絶対に人とは違う写真が撮れるんですよ。コレは手の内を明かしてしまうのであんまり云いたくなかったんだけど(笑)」

−−確かにそうですよね、ズルい方法ですよねー。大丈夫です、この話はボクだけの心にしまって内緒にしておきますから(笑)ずっと気になっていたことなんですがテラウチマサトさんのお名前をカタカナ表記にされているのは、なにか理由があるんでしょうか?

「会社員だった大阪時代に写真部へ移動した頃、地元の写真家でJPS会員のマツシマススムさんという方がいらっしゃって、一時期その方にお世話になっていたんで独立した時にはその方に敬意を表して写真家ネームを片仮名にしたんです」

−−えーと、最後になりましたが、恒例の「写真家、誰に影響を受けましたか?」のコーナーです。よろしくお願いいたします(笑)

「カナダの写真家で、多くの有名人のポートレート作品を残してるユーサフ・カーシュ。あの人の写真はものすごく研究しましたね。それと、あえてもう一人名前を挙げればハーブ・リッツですかねえ。他にもアーノルド・ニューマンとかいっぱい居てキリがないので難しいですね(笑)」

 3月から延べ10日間以上にわたる密着取材をさせていただいたボクが認識している中では、テラウチさんが食事したり、睡眠をとっていたのはごくわずかだ。もしかしたらテラウチマサトって人間は実はこの世の中に存在していないのかも知れない。みんなに見えてるのは本当はロボットで、ご飯も食べないし眠らない。年に一度の定期点検とバージョンアップによって成り立っている。だからこそ還暦を前にしてあの肉体を保てているんじゃないかと。

 結論から云うと、結局ボクには解明できなかった。おそらくご本人以外、誰にもわからない部分があるんだろうって思う。ただひとつ、絶対にいえることは、テラウチマサトの精神と肉体は、今後も写真界を盛り上げたいという熱い使命感で成り立っているってことは嘘じゃなかったってことだろう。

 今回のハダカはセミヌードだったけど、今度テラウチさんを撮影する機会があれば、次回はオールヌードで撮らせていただきます(笑)。



取材協力
サンディスク株式会社
http://www.sandisk.co.jp/
テレビ東京・ヴィーナスの秘密
http://www.tv-tokyo.co.jp/program/detail/21867_201207271953.html
テラウチマサト
http://www.terauchi.com/
PHaT PHOTO
http://www.phatphoto.jp/
株式会社CMS
http://www.cmsinc.jp/

取材撮影機材
  • ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL
  • キヤノンEOS 7D、EF-S 10-22mm F3.5-4.5 USM、EF 16-35mm F2.8 L II、SIGMA 85mmF1.4 EX DG HSM(EOS用)
  • ニコンD7000、AF-S NIKKOR 16-35mm F4 G ED VR、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR
  • オリンパスE-P3、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R、M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8
  • パナソニックLUMIX G VARIO HD 7-14mm F4 ASPH
  • サンディスクExtreme Pro SDHC、Extreme Pro CF
テラウチマサト写真展 「REAL FLOWER SA-KURA/桜-神の座する風景」
  • 会場:72Gallery
  • 住所:東京都中央区京橋3-6-6エクスアートビル1階
  • 会期:2012年7月18日〜2012年8月19日(最終日は17時まで)
  • 時間:12時〜20時(水曜〜金曜)、12時〜19時(土曜・日曜・祝日)
  • 休館:月曜・火曜、8月11日〜8月15日





(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
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2012/7/23 00:00