Photographer's File

 #15:小林幹幸

取材・撮影・文  HARUKI

小林幹幸(こばやし もとゆき)
プロフィール:1963年埼玉県生まれ。東京工芸短大、広告制作会社をへて独立。21歳、ヨーロッパ、ジャマイカ、世界放浪の旅に出る。1992年Parco Promising Photographersに選出。2000年コマーシャルフォト誌 小林基行特集号。2002年スクールガールプロジェクトを始める。同プロジェクト作品“innocent youth”にて、NYのエージェンシーART+COMMERCEより、PEEK2007に選出される。2008年 本名の小林幹幸にクレジットを変更。写真作家活動と平行し、ファッション、カタログ、雑誌等で活動している。朝日広告賞、読売新聞奨励賞、毎日広告デザイン賞など、受賞多数。2011年 代表作品スクールガールが日本を代表するアイドルユニットAKB48の写真で渋谷をジャックするという広告を手がける。“インフィニティ”という写真家の企画展を継続中。



『彼の、バイクとカメラと片岡義男』

 「最初は小学生の時に父親からPENの初期型を譲ってもらって、最初はクワガタムシを撮っていましたが、中学の時にバスケット部をやめて写真部に入り、自分の意志で選んだカメラとして最初はオリンパスOM-1を買って部活などを撮っていました。レンズは50㎜ 1.4とケンコーのテレプラスです。当時はやっぱりテレプラスでしょう。高校になってキヤノンA-1が登場したので、買い換えました。この時は50㎜と一緒に直進式の100-200㎜ F5.6のズームでした。その後は高校2年生くらいになると結構時給が高い印刷会社の写植のドラム板を洗浄するアルバイトとかでお金を貯めてたので、コレにモータードライブを付けて、更にF-1ボディを2台と24、28、35、85㎜やズームで35-105㎜、70-150㎜とかも買ってました。そのカメラで友だちのガールフレンドとかを頼まれて撮ってあげて、それをパネルにしてあげていましたね(笑)」


 彼女たちは普段は学校があるので午後からアイドルとしての活動があるこの日、日曜日の早朝からスクールガールの撮影が原宿にある小林事務所で「usa☆usa少女倶楽部」の撮影が行なわれていた。途中から取材に伺ったので、ドアを開けたら10数人の女の子達の黄色い声の挨拶におじさんは眠気が飛んでしまった(笑)社長の渡辺さんたちが見守る中、ひとりひとり次々とポーズを変えながら撮られていく姿は、将来の成長が楽しみなアイドルたちだった。


(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸

 その後、東京工芸短大へ入るということはその頃からカメラマンを目指していたわけ?

 「高校生の時に月刊カメラマンという雑誌の“我ら写真部”というコーナーで取り上げられたんですが、雑誌で取材されたことによって自分の中での将来像がなんとなく育っていったんでしょうねえ。カメラメーカーの主催する写真の夏期講習へ通ったりもしていました。当時の自分を振り返ると、高校生の頃はまさに“バイクとカメラと片岡義男”という非常にわかりやすい絵に描いたような青春でした。学校帰りにバイクにまたがり、埼玉から湘南の海を目指して走る。そしてヘルメットの中にはウォークマン。といってもソニーじゃなくって他社でしたが(笑)。イヤホンに繋いだ音楽を聴きながらバイクを走らせる。もちろん音楽はサザンオールスターズ」

 1980年前後に爆発的に流行していた片岡義男の小説を読んだ少年が、海のない埼玉県から、潮風を受けた眩いアスファルトの国道を青い空と白い雲を求め湘南を目指してバイクで走る。愛しのエリーやチャコが待っているかもしれない海岸通りを、スローなブギを夢見て走っていたわけだ。すばらしくわかりやすい話で、素敵ですねえ(笑)写真の短大を卒業してすぐに就職したのですか? 卒業後のヤング・モトユキの話しをきかせてください。

 「卒業と同時にHARUKIさんも縁がある銀座にある某老舗広告制作会社へ入ったのですが、本体ではなく関連会社のスタジオへ配属されたんです。そこで働いていたんですが、しばらくして今度は愛知県の豊田へ赴任になったんです。そこで、自分が想い描いていた写真の世界とは何か違うなって。で結局、会社を辞めてしまい某カメラマンのアシスタントについたりしましたが、そこも長くは続かなかったですね。その後、二十代半ばまではいろんな職を転々としましたが、マネキンを長くやっていました。マネキンというのは登録制の商品の専門販売員のことで、主にデパートや家電量販店で働いていました。マネキンの仕事をする事になったわけですが、カメラ関係の販売もやっていました。ある程度お金が溜まったら海外へ写真を撮りに旅に出て、数カ月経って帰ってくるということの繰り返しの時期が長かったですね。自分の撮った写真が認められないのなら写真の道を諦めようって覚悟を決めて、旅先で撮ってきた写真を持って出版社などをまわって売り込みをしていました。その中で日本カメラで掲載してもらったり、創刊したばかりのDAYS JAPANで写真を掲載してもらったりしていったんです。講談社系列の出版社ではよく使ってもらったりしていましたね。音楽関係での活動を始めたらバンドブームに乗ってだんだんと使ってもらえて、この道でやっていくようになりました。ラッキーのCP30とかでカラープリントも始めましたが、時期的には割と早いほうだったと思います。そこからはマネキン仕事を辞めて写真だけでやっていけるようにはなったものの、雀の涙のようなギャラだったり、写真を無断使用されたりとかも多くて……」

 『とにかく暗黒の日々でした、あの頃は。撮影を終えて六本木から、広尾のアパートまで歩いて帰るんですけど泣きながら帰ったり……』モトユキくんは語る。

 「1990年、湾岸戦争が起こっていた。僕はモデルをスカウトしに、六本木の街に繰り出した。当時、六本木の夜は賑やかだった。外人はモデルのコンポジットがあればただで飲食できる。僕は雑誌のモデル探しと並行して、モデルのコンポジット撮りを始めた。そのときのあだ名は“ヘッドショットモト”! カメラとなけなしのお金で買った大型ストロボで、友人のメイクさんに頼み、ファッション紙にも負けないヘッドショット(顔写真の意)を撮った。そんな僕に、外人たちが口コミで撮ってくれと殺到するようになった。何人もの外人モデルが住む狭い部屋が僕のスタジオだった。知り合ったイラクから還って来た帰還兵たちのポートレートやドキュメントを撮った」


(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸

 この時の写真をまとめたものが“ROPPONGI DAYS”というシリーズで、パルコの“Parco Promising Photographers”に選ばれたことによって、彼の人生はそれまでと一瞬にして変わってしまったという。彼の受賞する前年に同じく受賞しているが、ボクの場合はさほど変わらなかったからとても悔しい!(笑)。

 「この賞の受賞で一瞬にして、自分を取り巻く世界は変わりましたね。1週間前に売り込みに行ってあまりよい返事をもらえなかった雑誌社から、受賞後はむこうから仕事の依頼が来るなんて事も多かったです。やりたかったファッションの仕事も雑誌、カタログと沢山できたし、“ROPPONGI DAYS” の日本人モデル版とも言える“トーキョーポートフォリオ”も新潮社から出版、以降“TOKYO MODELS”と日本人モデルの写真集を作った。Parco Promising Photographersで声をかけて来たもうひとつの出版社がありました。“IN NATURAL”という雑誌だった。編集長の牛久龍巳さんという天才編集者がいて、海外のシステムと同じ、ギャラの出ない雑誌ではあったけど隔月で4年間、表紙と巻頭25Pから40Pを担当しました。とんでもない分量のページを任された撮影仕事。これが僕にとってはすごい写真の訓練になったんです。この雑誌からは本当に良いフォトグラファーを輩出している。レスリー・キーさん、蜷川実花さん、中村和孝さん、みんな牛久さんという編集者が見出して、IN NATURALという雑誌で大きくなっていったフォトグラファーたち。当時はサブカルチャーの全盛時代だった。永瀬正敏さん、三上博史さん、本木雅弘さん、江口洋介さん、福山雅治さん、松たかこさん、中谷美紀さん、梨花さん、浅野忠信さん、現在でも活躍する人々と数十ページのセッションをしたのはまるで夢のようでした」

 男性タレントの撮影は、自分がこうありたいと夢を描くように思って撮っていたと満面の笑顔で語る(笑)。その後の彼は売れっ子カメラマンとしての“小林基行”だった。ボクには文藝春秋社の雑誌の仕事を多くやっていた時代があるのだが、ちょうどその頃のモトユキくんも文春でたくさん仕事をやっていたので“週刊文春”や“Number”など同じ雑誌で活躍している彼の名前をよく見かけていた。21世紀に入ってからの2~3年間、彼は海外と日本を行き来するようになる。モトユキくん40歳になろうとしていた時だった。


 玄光社、フォトテクニックデジタルから7月に出るムック「Voice Artists」のためのグラビア撮影。この日のモデルは声優で歌手でもある後藤沙緒里さん。清楚な少女っぽさのある方だ。フォトテクニックデジタルの藤井貴城さんは名物編集長と知られるが、幹幸くんとの仕事は息もぴったりでテキパキ、アイディア満載でなごやかに撮影は進行していった。出たがりのクセに照れ屋なのでサングラス着用で写っている。ボクが云うのもナンだが、お茶目なオジサンだ(笑)。この日のロケ場所は都内にある和風の庭付き一軒家。5月の終わりの初夏らしい緑が美しい環境だけに、蚊もよく育つので蚊取り線香と虫除けスプレーを使いながらの撮影だった(笑)。


(c)小林幹幸(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸

 小林幹幸さんのカメラ機材たち

今回のスクールガール撮影はもちろん、現在の一番メインになっているペンタックスの645Dセット。レンズ類は銀塩645時代からのものもたくさん揃っている。多用するので失くした時のためにアングルファインダーはたくさん持っている(笑)。右は新しく導入されたニコンD800のセット。
キヤノンEOSシリーズのセット(左)は動画撮影に向いている。EOS 5D Mark II、EOS 7D,EOS 60DとEOSファミリーが揃っている。右はリコーGXRとFUJIFILM X100。スナップなどに最適だ。
モノブロックが6灯入ったストロボセットのバッグ。コメットとトキスターを使っている。トキスターは充電式でAC電源がとれない場所でも重宝する優れもの。右写真はSDやCFなどのメモリーカード類。最新のエクストリームを多用しているが、足りない時のために少し前のタイプも持ち歩く。すべてサンディスク社製品だ。
バルナック時代からM型、最新のデジタルカメラまでライカセット(左)。今回の取材でも少しだけ使っているシーンが見られた。右は二眼レフカメラのコレクション。ローライフレックスやローライコードを中心に、中国製のシーガルや戦後の我が国 太陽堂光機という会社で製造されていたビューティーフレックスまである。
70~80年代に流行った懐かしいジュラルミンケースにギッシリ詰まっているのはこれまた懐かしい往年のニコン、オリンパス、ペンタックス等の銀塩35㎜一眼レフカメラたち(左)。フジPETなどもあり、これまた懐かしい。右写真、幹幸くんが抱きかかえているのはぬいぐるみではなく、まぎれもなくホンモノのカメラである。GOWLANDFLEXというアメリカ製の4×5の手持ち撮影用巨大カメラ。これらの他にもクラシックカメラがもっとあるらしく見せたがっていたが、誌面(サイト?)の都合上これ以上は丁寧に遠慮させていただきました(笑)。

 『スクールガールへ』

 「その頃から雑誌、カタログとファッションの仕事を多くしてきましたが、時が経つに連れて知り合いの編集者がみんな偉くなっていき、現場でキャスティングされる事が少なくなり、2002年911テロの後、90年代からよくファッションの撮影で行き来していたニューヨークに活路を見出したんです。完全にニューヨークに住むんじゃなく、日本で数カ月仕事をしてはまた向こうへ行って暮らし東京とニューヨークを行き来するという状態。向こうへ行ってみて思ったのは、日本で受ける写真と海外で受ける写真の違い、感覚の違いに付いて行けなかった。どうしても若い頃の夢、ニューヨークで写真家として認められたかった。

 ところが、あるディレクターに云われた一言が決め手となったんです。

 “ニューヨークで失われつつあるものを遺したいという思いはわかるけど、日本もテロの対象になってもおかしくないんだよ。モトは日本で撮り逃した物はないの?”って。その時、僕の頭の中に自分が仕事をするきっかけになった高校時代、写真部で卒業アルバムを制作した事とかが瞼に浮かんできました。そうだ“スクールガール”を撮ってみよう!初心に帰って、レフ板もストロボもいらない、写真を撮るという事の基本に戻ってみようと。2000年には北アイルランドで市民同士が宗教観の違いで争っているのをルポした。自分自身も犠牲者になるのではないかという覚悟で、最後に僕が撮りたいと思ったのは少年少女の笑顔だった。今にして思えば、ニューヨークやアイルランドでのこういった出来事を経験したのもひとつの要因だったと思います」

 「当時は少女向けのファッション雑誌の撮影をやっていたので、オーディションで制服姿のモデルさんが多く事務所に来ていたのが追い風になりました。20~30人程撮った頃、ある尊敬するアートディレクターの所にプリントを持って行ったんです。そしたら“まやかしだね! ただのファッションフォトグラファーの戯れですよ、悔しいと思ったら100人撮って持って来なさい。100人撮ったら認めてあげるよ”って云われてショックでした。2003年くらいだろうか、世間では忌まわしい事件がいくつかあり、当時少女を制服姿で出すというのは出版界のタブーだったんです。制服図鑑のような出版物はあったけど、それらは写真じゃなくイラストだったりでした。100人の少女を撮った頃には写真集の話しも決まっていました。その話しを持って、以前にきついアドバイスをくれたアートディレクターの事務所へ再び写真を持って行きました。そしたら、“やったじゃないか!”って。壁一面に張り出された100人分の制服姿のコピー用紙。青春トーキョースクールガールのページ割を見てふたりで笑いあいました。写真集スクールガールの売れ行きは良かった。青春トーキョースクールガール、スクールガール、エバーグリーン、スクールガール6X7、スマイルカメラと次々に関連の写真集が出版されていきました。そして何気なく応募していた海外のコンペで驚きの賞を受賞した。“PEEK2007”、ニューヨークのエージェンシーART+COMMERCEが開催してる世界の優秀写真家を選ぶコンペ。ニューヨークにいた時、こんな賞がとれたら良いなあと淡い思いを抱いていた賞だったんです。それがニューヨークで認められたいと思っていた時には叶わず、こうして日本に帰って来てからスクールガールの写真で受賞したのは何とも不思議な気持ちがしましたね(笑)」

 「しかし海外でもらった賞はこちらでは何の影響もなく、相変わらず日本は出版不況。スクールガールの写真集の続編企画を出版社に持ち込むと、どこへ行ってもきまって“もう少しエロく撮ってくれないか”と言われる。売れなければ自分の身さえあぶない現在の出版状況ではもっともだとも思うのですが、そんな話はずっと断り続けました。だって、モデルになってくれた少女たちの純真な気持を思うとそれはできないじゃないですか。結局そういう時期が長く続き、写真集を制作してはいなかったのです。スクールガールの撮影も芸能事務所とタッグを組み続けていましたが、そんな時に311の東日本大震災が起こりました。そして震災後にはじめてやった大きな仕事は日本を代表する人気アイドルグループのスクールガールの撮影。グループの何人かとは黙祷をしてから撮影を始めた。その広告は渋谷を埋め尽くした。スクールガールの広告がアイドルによって渋谷の町を席巻するなんて、以前には考えても見なかったことです」

 「写真家としての仕事も2000年DAYS OF HEAVEN(ハワイの風景)、2004年ONE LONE(アイルランドのドキュメント)、2008年NATURALIES(自然の要素をアニミズム万物崇拝思想とあわせたもの)。ブリッツギャラリー とオリジナルプリントを売って行く事を始めました。2008年には、それまで使っていた“基行”から本名の“幹幸”に戻したんです。その理由はここへきて自分本来の生き方がしたいと思ったから。本当に撮りたいと心から思うような写真が撮れる自分でいたかったからです。そこからはじまり、今はINFINITYという数人の写真家を集めた企画展を企画している。日本でもっとオリジナルプリントというものの価値がメジャーになってくれればと。震災後、有名ブランド等の作られたものではなく、本当に人の手で心血注いだ物に興味が移ってきたのが幸いしました。実際に自分でも写真も買ってコレクションもしている写真家たちに声をかけました。これは商業的にも大成功しました。震災で写真に対する思いが変わったという気配を感じました。もっともっとオリジナルプリントに対する、日本のみんなの意識が変わってくれればいいなと心から願っています」

 「スクールガール等の他に、実はホテルやウェディング関係のファッション広告の仕事も多くやっているのです。今年になってからだけでも、グアム、ロンドン、ニューヨーク等でロケ撮影してきたカタログが出ます。いまでもファッションの仕事は好きでやっています。僕はウエディングドレスこそ女性の美しさを出す究極のファッションだと思っているからです。スクールガールとウエディングドレス。どれも女性に対する理想は同じです。清純で古き良き時代を感じさせるものが好きです」


 同じクライアントさんの仕事の続きだが、前日の六本木のコンクリートで出来たホリゾントスタジオから一転して、この日は東京都下にある郊外型ハウススタジオでの撮影。ものすごいカット数をこの日はこなさなければいけないので皆真剣だが、気心知れた熟練したプロばかりのスタッフなので問題もなく淡々と、そして和気藹々と進んでいった。日没と同時に撤収終了。CD:ワキリエ(SMILE DC)、メイク:YUKA WASHIZU(SIGNO)、ヘア:GO UTSUGI、ロケバス:MIKUNI (GRACE)、そしてクライアントのJUNOのスタッフの皆さんに感謝。お邪魔しました!


 『思考のコレクション』

 「本当はココはあんまり見せたくないんですよ」と言いながら渋々と書棚の撮影に応じてくれた。事務所内の別室にも、とにかくたくさんの写真集を持っている。多くはファッション系の写真集なのだが、彼が興味を持った写真であればノンジャンルだ。バウハウスの横には石田えりが並んでいたりもするところが、なんだか好感が持てる。数百冊、もしかしたら1,000冊近いんじゃないかな。なんでこんなにたくさん持ってるの?

原宿にある彼の事務所は有名な老舗マンションの一室。かなり広いスペースを撮影&打合せ、PCデータやプリント作業、写真集や過去のネガやプリントなどの書庫、機材室といった感じで区切られている。うらやましいくらいの素敵な空間だ。


 「好きな写真家をあげればキリがないですね。しいて言えばブルース・ウエーバーとリチャード・アベドン。ブルース・ウエーバーがカウボーイを撮るように僕はスクールガールを撮ったり、アベドンがベトナム戦争以降のアメリカの西部を撮った写真集、In the American Westを見て、僕がアベドンだったら何を撮るだろうって考えるんです。アベドンが原宿に事務所を構えていたら絶対女子学生を撮るだろうな……なんていうのが発想になるんです。写真集は考え方の宝庫なんです。僕はオリジナルプリントや写真集のコレクターでもあります。写真中毒ですよね。写真から貰えるパワーが好きなんです.僕の生活は全て写真漬けです。家族と一緒に居てもリー・フリードランダーのファミリースナップは……なんて考えてしまいます。いつでもどこでも写真とライティングのアイデアがわいてきてしまいます。人生は時間が限られているので全部を撮影できないのが悔しくも思います」

 「サム・ハスキンス、デビッド・ハミルトンには高校時代から憧れていました。休日には東上線で池袋まで行き、PARCOに入り浸って写真集を漁ってる高校生でした。ロバート・フランクのアメリカンズとか、ダイアン・アーバスの写真集見て感動してました。高校生の頃からやってる事、変わってないですね」

 「自称写真集マイスターとして、読者の方に僕のおすすめを言いましょうか?(笑)メジャーなところだと、アレック・ソス、スティーブン・ギル、アリ・マルコポロス、ロバート・アダムス。最近やはり興味は日本の方に戻っていくのを感じます。午腸茂雄さんでしょうか。でも日本の現代の写真家も負けていないと思いますよ。インフィニティのメンバーは僕が好きな写真家の方に声をかけています。僕にとっての写真の善し悪しは、その写真家の写真が買いたいかどうかなんですよね。評論家の評価はまったく関係ない。全て自分が世界各国で見てきた写真展が評価基準なのです」

 書棚に溢れてきたらまとめてごっそりと手放したりもするっていうけど、それでもどんどん増えてるんじゃない。今はどのくらいのペースで買ったりしてるんですか?

 「1カ月って30日じゃないですか。一応その数字を越えないようにはしています」

 そんなの当たり前じゃないか! いったいどんだけ買ってるんだよ(笑)。


(c)小林幹幸(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸(c)小林幹幸
(c)小林幹幸(c)小林幹幸

 「震災以降は元気のよい表現も積極的に撮るようになりました。生命力こそ美の根源だと思うから。それは、東北地方で出会ったスクールガールたちのおかげかもしれません。芸術的なカッコ良さも好きですが、最近は躍動する動きや自然な表情にも興味が移ってきました。これからも僕は、スクールガールたちにいろんな事を教わりながら写真を撮っていくんだと思いますよ」

 設営中の展覧会場で一足お先に今回の新作の展示を見せていただいた。淡いブルーが優しく包み込む、透明な少女達から発せられる感情の揺れは、祈りにも似た心境を物語っているプリントだと思った。それらの写真群には、まるでFRAGILE(コワレモノ注意)と書いてあるみたいだ。幹幸くん自身による美しい新作コレクションがまた増えたんじゃないの?





小林幹幸写真展「スクールガールジャパン」

  • 会場:ペンタックスフォーラム
  • 住所:東京都新宿区西新宿1-25-1 新宿センタービルMB(中地下1階)
  • 会期:2012年6月27日〜2012年7月9日
  • 時間:10時30分〜18時30分(最終日は16時まで)
  • 休館:火曜

※ギャラリートーク「小林幹幸×テクプリ 撮影秘話」を6月30日の11時30分からペンタックスフォーラムで開催する。


取材協力:
玄光社JUNOスマイルdcエアリーズエンタテインメントサンディスク

今回の取材撮影使用機材:
  • ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL、SMC Pentax 67 90mm F2.8
  • ニコンD7000、AF-S DX NIKKOR 10-24mm F3.5-4.5 G ED、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR、AF-S NIKKOR 16-35mm F4 G ED VR
  • オリンパスE-P3、M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II R、M.ZUIKO DIGITAL ED 12mm F2、M.ZUIKO DIGITAL 45mm F1.8
  • パナソニックLUMIX G VARIO HD 7-14mm F4 ASPH、LUMIX G 20mm F1.7 ASPH
  • サンディスクExtreme Pro SDHC、Extreme Pro CF


(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
http://www.facebook.com/HARUKIphoto
http://twitter.com/HARUKIxxxPhoto

2012/6/29 00:00