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【インタビュー】
写真家 藤原新也氏に聞く、デジタル時代の表現と「渋谷」


 写真家の藤原新也氏が先般、新著「渋谷」を発表した。2人の少女と1人の元少女との関わりを通して、『今的日本、つまりシブヤ的なるもの』を解き明かそうとする試みだ。氏の作品には、つねに写真家の視点、感性と、作家(小説家)のそれが混在しているが、この本では写真家・藤原新也の存在が大きく占めている。そういう点では、写真を志す人間にとっては、より興味深い内容といえる。

 また藤原氏は、デジタルカメラによる新しい表現の可能性を積極的に追究する写真家のひとりでもある。本書に掲載された写真は、多くがデジタルカメラで撮影されたものであり、「作者のたくらみ」が仕掛けられている。本書について、デジタル表現のいまとこれからについて、本書の舞台にもなった東京・渋谷でインタビューした。


写真家は基本的に追っかけ

藤原新也氏
 前回、藤原氏にインタビューしたとき、「写真を撮ることで自分の精神のバランスを立て直しているんだ。写真を撮っていなかったら、続けていられなかったね」と話していたのを印象深く思いだす。作家として現実に対峙することで、神経が一方向に張りつめてしまう。それを元に戻すために写真を撮るというのだ。

 インド、アジア、アメリカ、東京と『漂流』してきた写真家は、故郷、門司にたどりつくことになる。その故郷の撮影の途中で、出会った少女が「中学二年のとき思いを寄せていたTの視線を」作者に思い起こさせ、少女という「もうひとつの郷里のイメージ」をつかんだのだ(カギカッコ内「渋谷」より引用)。

 「現実のどろどろした世界を歩き回って、『東京漂流』と『乳の海』を書いた。少し先の世の中を透視したようなこともあったけど、最後はあきらめに近かったね。それから美しいものを撮ることで、現実と関わろうと思った。それがバリであり、少女だったんだ。

 木食(もくじき・密教の修行僧の呼称のひとつ)が木を彫って仏像を作るように、少女という素材で仏像を作りたかった。美化したい気持ちがあったんだよね。それが地方の美しい少女でさえ、シブヤ的なるものの例外ではなかった。家族の崩壊だったり、母親とのいびつな関係性だったりを抱えているんだ。

 相手が生身の人間だから、逃げるわけにはいかなくなって、知らないうちにまたドロ沼にはまり込んでいたというわけ。ただ『東京漂流』は世の中という大状況が相手だったけど、今回はピンポイントの小状況だから、流れを変えられる可能性もあると思った」。

 最初は門司区役所から依頼された門司開港百周年を記念した写真展の企画だった。そこで門司に住む少女を公募し撮影することを決め、そこに応募してきたひとりが、「渋谷」の登場人物であるエミだ。過干渉な母親のもとで、自分の存在が自分のなかで感じられなくなってしまった少女だ。その少女が、撮影に応募した動機について、「渋谷」では、藤原さんがエミの言葉をもう一人の少女に伝えるシチュエーションで、こう説明している。

 「募集のパンフレットに載っていた花の写真を見ていたら、そこに花の本当の心が写ってるような気がしたと。アタシもこんな風に写真を撮られると自分の本当の心が写るんじゃないかって。その心を見てみたいって」。


人物撮影の教書として

 「この本を撮影の教書に読む人もいるんだ。こういう風に人物を撮影するのかってね。若いカメラマンは人をモノとして見て撮る人が増えた。相手の内面に入ろうとしないんだ。だから写真が浅い。それは被写体の目が浅いからなんだよね。人物は目を隠すと、その人のことが何も分からない。それが目を出すと、その人が考えていることまで伝わってくる。

 僕は相手に深入りしてしまう。もちろん立ち入りながらも一定の距離は保つけどね。(「渋谷」の登場人物、ユリカは渋谷駅前の交差点で母親と口論後、そこに母親を残したまま、風俗店に入っていく。藤原さんも後刻、その店に入店して、ユリカに出会う。そのエピソードが事実かをたずねると)本当のことだよ。物書きだったら、それは二の足を踏むだろう。けれど写真家は基本的に追っかけだから。僕はあるときは写真家的な行動を起こすし、あるときは物書き的な行動を起こすんだ。

 実際の撮影で、僕はある意味、強引だよ。相手の嘘の表情は見破るし、それを指摘する。ポーズや表情を要求して、そこにいくまで許さない。いい加減なところで、シャッターは切らないんだ。ただこちらが何を要求しているかは、相手に伝わるものだよ。

 今回の撮影で、形が心を変えていくことがよく分かった。たとえていうと木の剪定は、傲慢なことだよね。人間が勝手に枝を切り、そろえていくことだから。けれどいい形に整えると、木に光が満遍なく注がれるようになり、木は元気になる。

 写真家は美しい姿を自分の中に持っている。いろいろな美しいものを経験してきたから。その感性のなかで、目の前にいる少女を正す場所はどこがふさわしいか、どういう服装が似合うか。型にどんどんはめていくことで、その子の居場所が見える。そうしたことをしていくうちに、相手の身体から無駄な力が抜けていくのがわかる。

 心の時代といわれ、心を過大視するけど、心は弱いし、揺れやすい。こちらに委ねてもいいという気分にさせること。それには話をして、こちらは十分聞き耳を持つことが大事なんだ。

 それで何人かの子の軌道を変えることはできた。それで僕自身、救われた部分も大きい。ミキという子は、いつも携帯電話をいじっていた子で、月に4~5万円は使っているといっていた。撮影が終わると、目の色が変わっていて、携帯電話もあまりいじらなくなっていた。そのあと、聞いてみると、撮影後は通話料が4,000~5,000円に落ち着いたままだといっていたよ」。


暗部がどれだけ再現できるかが、写真の豊かさ

 「渋谷」には、本の中央に藤原氏が渋谷を撮影した作品が掲載されている。そのすべてが薄い紫色がかったモノクロームで彩られている。藤原さんがご自身のウェブサイトで種明かしをしているので、ここでも解答を示してしまうが、この映像はそのあとの章に登場するアサノサヤカが見ていたであろう視覚を、藤原さんが想像して作り上げたものだ。

 「色も感じないように何か自分の神経を麻痺させるというか、そういうのが癖になって、一年くらいすると、そのときばかりじゃなく、普通の自分の生活の中で見えるものも焦点が合わなくなり、色もなくなってきたんです」(「渋谷」から引用)。


 「門司で少女を撮影したのは4年ほど前だったから、カメラはハッセルブラッドがほとんどだった。その後、デジタルカメラが急激に進化してきた。新しい製品はすべてテストしているよ。ただ色がいやらしかったり、暗部がつぶれることが多かったので、実際に使えるカメラは少ないけれど。暗部がどれだけ再現できるかが、写真の豊かさだし、プロカメラマンとしては、ナチュラルな発色をするカメラが必要なんだ。

 ただカメラメーカーはいま、アマチュアに向いた開発をしているから、どうしても色を強調してしまったり、アマチュアが目を引きそうな機能をつけてしまう。フィルムカメラでは、その一方で、プロ向けのカメラを開発してきた。デジタルでも、その方向がないとね。

 デジタルカメラはエプソンの「R-D1」と、部分的にニコンのクールピクスを使っている。「R-D1」がいいのは、無理のない考えでシステムが開発されているところだ。たとえばCCDの周りに、アルミ合金を配置して、熱を逃がす工夫をしている。それによって暗部の描写に強くなる。

 マミヤのZDもテストしてみた。ファインダーをのぞいた感じはいいのだけど、撮影した画像が硬いんだよね。拡大していくと、ジャギーが角ばっているんだ。高画素で、大きなCCDを使っているのになぜなんだろう?(笑)」。


頭角を現していくものは、最初は気持ち悪い

 「エプソンカラーイメージングコンテスト2004」で永津広空さんが「サクラチル公団」でグランプリを受賞したとき、講評で藤原さんは絶賛していた。古びた公団を銀塩写真のように表現した作品で、その後、一層、デジタルカメラの表現の方向が銀塩ライクにシフトしていったように思える。その点について質問してみた。

 「デジタルだけど、アナログ以上にアナログな作品だった。その点で高く評価したけど、それがデジタルの本道ではない。物真似タレントがあるタレントの物真似をしたときに、本人以上にデフォルメして表現する。コロッケのちあきなおみが、本人より大きな黒子をつけているように。

 デジタルにはデジタルの持ち味がある。昨年のカラーイメージングコンテストでグランプリを撮った西村美智子さんの『Wonderland』がまさにデジタルならではの表現だと思う。彼氏を撮ったり、小物を取ったり、被写体が支離滅裂で、それをシャッフルして作品として並べてしまう。デジタルだとそれが違和感なくつながってしまう。フィルムカメラだとそうはならない。

 デジタルカメラは被写体を均質化させていく。僕らはそれを意識してしまい、逆手にとって表現しようと思ってしまうが、デジタル世代の人たちは無意識でそれをやれてしまうんだよね。だからおおらかでいいんだ」。

 「デジタル時代の表現はどういうものなのか。その問題の解答はカラーイメージングコンテストの応募作品のなかにあると思う。だからエプソンのコンテストでは、すべての応募作品に目を通しているんだ。40,000点を超す応募があるけど、全部、見る。座って見ると集中できないから、1日立ちっぱなしで見ていく。

 自分では携帯電話のカメラで写真を撮って、文庫の表紙に使ったことがある。「空から恥が降る」の表紙だよ。そのとき撮った写真は、そのままだとまだ写真っぽいから、1/4ぐらいをトリミングして使った。携帯電話の写真は、トリミングしてもトリミング感がないんだ。解像度、世界観がないというのか。単細胞生物のように、切ったものがそのまま再生してしまうみたいな、気持ちの悪さがある。けれど、何でも頭角を現していくものは、最初は気持ち悪い印象を与えるものだからね」。

 「人間はアナログに戻りたいという意識がある。僕の中にもある。だが保守化してしまうと、表現はつまらなくなる。僕自身、60年代、古いものを壊すことを一生懸命やってきたからね」と藤原氏は語り、これからは「渋谷」で入り込んだ泥沼を歩いてみようと思うという。そしてデジタルできちんとしたものを作りたいと語ってくれた。

 いまも、藤原新也は新しい表現の希求者であり続けようとしている。今後、発表される作品で僕らにどんな衝撃を与えてくれるのか、実に楽しみだ。その前に、未読の方はぜひ「渋谷」を読んでみてほしい



URL
  藤原新也氏のホームページ
  http://www.fujiwarashinya.com/main.html

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藤原新也とR-D1による写真展「フェルナンド・ペソアの午後」開催中(2005/01/07)


( 市井 康延 )
2006/07/19 01:12
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