ニュース

ニコン大井製作所「101号館」の見納めに行ってきた

世界的名機を産んだ中心施設 まもなく解体

ニコン大井製作所(東京都品川区西大井)「101号館」の解体が決定したと聞き、ニコンフェロー 後藤哲朗氏の引率でその内部を見学してきた。同社の許可を得て、可能な範囲の写真をお届けする。(撮影:武石修/鈴木誠)

101号館の外観

101号館(旧:大井工場 1号館)とは、1933年4月に竣工した同社最初の工場。かつての中心的役割にあった建物で、製品開発の中心として数々のカメラや産業機器が生み出されてきた。

歴代フラッグシップ機F3〜D3を手がけたニコンフェローの後藤哲朗氏に案内していただいた

日本光学工業が元来の光学技術をカメラに注ぎ込むと決め、当初は二眼レフカメラの生産も検討されたというのは知られた話。1947年のニコンカメラ(ニコンI型)試作に始まる35mm判レンジファインダーカメラの時代を経て、一眼レフカメラ「ニコンF3」(1980年〜2000年まで生産)の途中までは、実際にこの101号館の中に生産ラインが存在していた。

その後、カメラの生産拠点は水戸、仙台、タイへと拡大するが、製品開発や試作は引き続き大井で行われていた。2015年には映像の開発部門も品川へ移り、一般開放の資料館「ニコンミュージアム」を併設するなど、新たな動きにも注目が集まっている。

今ではありがたいことに、カメラの代表機種たちは誰でもニコンミュージアムで見られるようになった。とはいえ、心からのニコンファン、ニコン党、“ニコ爺”、“ニコ姐”を自認するならば、やはりこの大井の地を踏んでおかねばなるまい。例えば日本のライカファンがドイツのウェッツラーを目指すのと同様に、ニコンの大井町もまた、世界のカメラ産業史において重要な場所である。

耐震補強と思しき構造が外から見える。改修・補強を重ねた歴史だ

その象徴たる101号館の解体は、2016年4月1日から1年半をかけて行われるという。外部の人間が内部を見学する機会は、おそらくこれが最後になるだろう。

101号館の歴史

101号館(旧:1号館)の建設が始まったのは1932年3月。翌年4月に地上4階・地下1階が完成し、1935年6月に5階のフロア部分が増築された。建物は上空から見ると「E」の形をしている。

製品の歴史と照らし合わせると、1959年3月には同社初の一眼レフカメラ「ニコンF」が発表され、1971年2月まで101号館で組み立てが行われていた。その後は1971年8月に「ニコンF2」、1980年3月に「ニコンF3」が発表される。そして1988年12月に、カメラ生産は子会社への移管が完了する。

また、1978年3月には半導体露光装置ステッパーの試作1号機が出荷。1981年1月には、ニコンステッパー「NSR」シリーズの量産1号機が出荷されている。このどちらも最終調整は101号館の地下で行われたそうだ。

101号館の中に、ニコン同光会写真部の作品展示ボードがあった。現在は、大井工場の歴史的な写真(左から2枚目のみイラスト)を掲示している
「ニコン同光会」とは、ニコン社内のクラブ活動のこと。写真部のほかにも様々な運動部・文化部が存在する
101号館1階の廊下
フロアマップのアイコンにも時代を感じた

耐候試験室が残る屋上

1階から、まずエレベーターで屋上に出た。エレベーターは46名乗り・積載3,000kgで、かつてはモートラがそのまま乗っていたという。

「立入禁止」の書体に時代を感じる

屋上には「耐候試験室」という小さな部屋が残っている。人工的な設備がない時代は、この窓際にカメラを置き、直射日光にさらすなどして動作の信頼性をテストした。後述するが、地下にはマイナス20度以下で耐寒性能を試す部屋もあった。“信頼のニコン”を鍛え上げた設備が、ここ101号館にはいくつも残っているのだ。

屋上の耐候試験室。外から鍵のかかった小さな部屋だ
この窓際の棚にカメラを置いた

カメラ生産ラインがあったフロア

階段を下り、まさに引っ越し完了後のオフィスといった雰囲気のフロアに移動した。2015年まで使われており、かつてはカメラの生産ラインが敷かれていた場所だ。

屋上から階段で下る。古い学校が思い出された
まっすぐにカメラの生産ラインが存在したフロア。オフィスとして最近まで使用していたため、ネットワーク設備も整っていた
残されたカレンダーが、つい最近まで使われていた場所である証明
かつての様子を写真で振り返る後藤氏
扉に、スペースニコンと思しきステッカー。グッズ化してほしい

かつてニコンFを組み立てていたというフロアも、今では照明が新しくなり、LANケーブルも通っている。だが、ひとたび廊下や階段に出ると「歩行禁煙」と書かれたプレートなどが目に入り、当時にタイムスリップしたような錯覚に陥る。1966年の映像「科学の眼−ニコン−」で見られる世界がここに広がっていたかと思うと、なんとも感慨深い。

ケーブルが這い回り、時代に応じて設備を追加していたことが伺い知れる

昔の面影残す1階部分

ふたたび1階に下り、時代を遡るような場所を巡った。以下の写真のほかにも、大きな暗室スペースがあり、遮光のためのカーテンや流し台が残っていた。

昔のままの色を残す柱
廃棄される机の引き出しから、様々な銘柄のフィルムが出てきた

後藤氏とともに我々を案内してくださったニコンミュージアムの岩田浩満氏は、暗室スペースにかかっていた遮光暗幕の質のよさに感心する見学者に対し「こういうところにお金をかけているのも、ニコンらしいですね」と語った。

岩田浩満氏。精機設計部出身で、ニコンの「100周年プロジェクト室」とニコンミュージアムのメンバー
品質保証課の降雨試験室。主な設備は運び出された後だった
水中カメラ「ニコノス」の耐圧テストを行っていたという試験機
防水試験に用いられたウェイト(おもり)
年季の入ったカラーチャート、資料のファイル、レンズ銘板が無造作に残っていた
出口のふさがれた階段。つい最近発見されたというから、まさに遺構だ
マイナス20度の環境を作ることができ、必ず2人で入るよう義務づけられていた試験室。後藤氏いわく“ウエムラスペシャル”のテストもここで行ったという
ドアノブひとつも歴史の証人だ

大型望遠鏡のために作られた118号館

101号館の屋上から気になったのが、ひとつだけ整列していない建屋の存在だ。これは大型天体望遠鏡の組立・調整のために建設された「118号館」で、1953年に当時日本初となる大きさの望遠鏡を受注し、それを実現するための投資として作られた。

101号館の屋上から。中央に見える118号館のみ四辺が東西南北に向いており、ほかの建屋と揃っていない

この建物が天体望遠鏡の調整に使われていたのは1970年代までだというが、東西南北が記された壁、屋根が開く構造、望遠鏡を運ぶレールなど、当時の決意と覚悟の大きさを今に伝えている。

118号館の内部。望遠鏡のテストのため、屋根が開く構造
当時の写真があった
床には大型望遠鏡を運んだレールの跡

大井の町とニコン。解体を前にした人々の思い

大井製作所の周りを歩いてみると、周りが開けた田舎でもなく、システマチックな工業地帯でもなく、いわゆる住宅街であることに驚くかもしれない。そこに建つ大井製作所は規模こそ大きいものの、建物の古さゆえか、どこか「町の工場」という雰囲気が感じられる。“世界のニコン”は、地元住民にとって身近で親しみのある存在なのだろうなと想像した。

住宅街の中に立つ101号館。光学通りの裏にある道路(今は暗渠となった立会川)から撮影

ふと、建物の外ですれ違った従業員の方が「いっぱい撮ってってね。なくなっちゃうから」と声を掛けてくださった。カメラを提げてあちこち歩き回る筆者の姿を見てのことだ。残念ですねと思わず声にすると、微笑みながら「古いからね」との言葉。あっさりとしていながらも、この場所に対する愛着と寂寥の気持ちがあったように思う。

従業員向けのコンビニ「Lショップ」と食堂の建物。かつては昼の12時になると賑わっていた

当時を振り返った後藤氏の話によると、大井製作所が東海道新幹線の車窓から見えるため、大阪出張に出かける社員に対し、屋上でフラッシュをチカチカと発光させて見送ったこともあったという。また、今回の見学で行動を共にしたある愛好家の方は、「101号館にたなびく旗が新幹線から見えると、東京に帰ってきたなあと思った」と思い出を語ってくれた。

先行して品川に移っていたニコン設計部隊のある方も、「キィートスさん(ニコンOBによる修理に定評がある「フォト工房キィートス」)が遠くなっちゃう」と、やはり大井への思いを口にしていた。

101号館から、大井ウエストビル(中央)を眺める。かつては後藤氏を含む設計部隊の場所であった102号館などが手前に建っており、この眺めはなかった

2017年、ニコンは日本光学工業の設立から100周年を迎える。その象徴たる101号館はついに役目を終えたが、ここで生まれた数々の歴史に光を当てることで、きっとニコンが新たな100年に行くべき道をも照らし出してくれることだろう。

光学通りからの眺めも、近く見納めだ

「デジカメ Watch TV」でもレポートしました(4/21追記)

編集部に続き、デジカメ Watch TVの動画班が改めて大井製作所を取材しました。こちらも併せてお楽しみください。