写真業界 温故知新

第1回:後藤哲朗さん(ニコンフェロー)

後藤哲朗さん

新連載「写真業界 温故知新」では、写真業界において一時代を作った方々を訪問し、当時を振り返るインタビューをお届けします。聞き手は1970年に写真工業出版社へ入社し、月刊写真工業/ビデオαの編集長を兼任後、2009年から日本カメラ博物館の運営委員を務める市川泰憲さんです。

本連載のトップバッターは、1973年に日本光学工業(現:ニコン)へ入社し、F3の電気回路設計、F4の電気系リーダー、F5のプロダクトリーダーを務め、D3シリーズまでの一眼レフカメラや交換レンズの開発を指揮してきた後藤哲朗さん。2009年に設立した「後藤研究室」でニコンDfを企画したことでも知られています。2019年6月25日をもってニコンを退職することが発表され、直後にニコンミュージアムが企画した講演会は、わずか数時間で定員100名が満席となりました。(状況写真・文:豊田慶記)

2人の出会い

市川:さて、私が後藤さんと初めてお会いしたのはF4の発表会の後。個別にお話をお伺いに行くということでお会いしましたね。

後藤:F4の際の写真は残っていませんが、これはF5を特集して下さったムックに出ていた写真ですね、懐かしいです。

撮影:市川泰憲

市川:ふたりとも若かったですね。

後藤:最初は1988年ですから30年以上も前の話です。

市川:私はつい最近まで後藤さんのことをずっとメカ屋さん(機械・機構設計者)だと思っていました。というのも、F4の時もF5の時もミラーのバランサーなどのいわゆる機械的な事を一生懸命に説明してくれていた、という記憶が強くて勘違いしていたのです。

市川泰憲さん(日本カメラ博物館運営委員。ブログ:写真にこだわる

後藤:僕は電気屋(電気系の設計・開発者)でございまして(笑)。当時はあまり電気のことを話してもウケる時代ではありませんでしたから、メカ屋と思われてもしかたありません。

市川:今はどうですか?

後藤:今はデジタルカメラですから電気のことを言わないと駄目ですよね? でも当時は電気は裏方の仕事、やはりニコンとしてはメカの宣伝をしないと駄目でした。

メカ屋的な仕事をするのはF4の後からです。F5の開発が順調に進まなかったので裏方として散々注文を付けましたら、「じゃお前が課長をやれ」ということになって、メカ屋の課長になりました。でもメカ系の用語が分からないので、慌ててお茶の水に分厚いメカの専門書を買いに行きました。今でもまだ持っていますよ。

市川:私の勝手なイメージですが、後藤さんにお会いする前までのニコンというのは非常に厳格というか恐い会社だと思っていましたが、後藤さんの時代になってからは非常にフレンドリーな会社という印象に変わりました。

後藤:物は言いようですね(笑)

市川:長い間にいろいろありましたね(笑)

後藤:いや〜、本当にいろいろとありがとうございました(笑)

最初はサーマルカメラ

市川:私は、後藤さんと言えばF4から表舞台に立ったというイメージがあるのですけれど、後藤さん自身では思い出に残ると言いますか、開発を頑張った製品はどのようなものがありましたか?

後藤:最初からカメラ部門ではなかったのです。最初の所属は機器事業部と言う部門で、横浜製作所(大船駅近く)に赴任しました。サーマルカメラ、つまり赤外線による映像装置です。とても楽しい時間を過ごしました。

1973年

市川:サーマルカメラは1970年代に流行りましたよね。

後藤:おっしゃる通りです。ニコン以外にも富士通さんやキヤノンさん、日本電気(NEC)さんにスウェーデンの会社など、各社が取り組んでいました。

当時は身体の表面温度を計る赤外線映像装置と超音波で内部診断を行う2つの方法が競い合っていたようです。結局現在では超音波の方が主流のようですね。サーマルカメラが最初にいろいろと教わって頑張った製品です。結構な無茶もあって面白かったですね。2年半やりました。

市川:それは入社してから2年半、ということですか?

後藤:そのとおりです。入社してからの2年半携わりました。

市川:サーマルカメラの後にカメラ事業部に配置転換された、ということですか?

後藤:はい。その後のオイルショックや、サーマルカメラが高価過ぎたことも影響して、事業から撤退することになり、カメラ設計部への異動が発令されました。

サーマルカメラの事業は、実は米国のベンチャー企業とニコンの研究所とのジョイントから生まれたビジネスでした。そこには将来社長になる木村(真琴氏。現ニコン相談役)も在籍していました。結局、撤退してしまったので、木村ら多くのメンバーがカメラ事業部などに拾われた訳です。

市川:拾われた、というのは?

後藤:当時もカメラ事業部がニコンの屋台骨を背負っていましたから、自然と異動先はそういう羽振りの良いところになりますね。私としてはもともとカメラがやりたかったので「しめしめ」という思いでした。

カメラが好きで入ったニコン

2018年、北海道の個人カメラ博物館「IMAI collection 横道の館」にて収蔵品の「ルクルト コンパス」を手に。

市川:カメラが好きでニコンに入社したのですよね?

後藤:ええ、カメラが好きでニコンに入りました。

1953年

市川:子どものころからカメラが好きだったと耳にしましたが?

後藤:元々名古屋に居たのですが、小学生時代、東京に引っ越す際にフジペットを買ってもらいました。それから中学生にかけ、東京中野の鍋屋横丁にあるカメラ屋に通っていました。

市川:名古屋にいらしたんですか?

後藤:ええ、名古屋です。"きしめん"と"ういろう"で育っています。

市川:以前、中野でご一緒した時に懐かしそうに「このあたりに通っていた写真屋があった」と仰っていたものですから、名古屋生まれとは思いもしませんでした。

後藤:フジペットは良く使いましたね。鍋横のそのお店は何時の間にか道路の反対側に移転してしまいましたが、まだ現在も続けられています。

市川:後藤さんが子どものころ写真を楽しんでいた時に、暗室に籠もったことがありますか?

後藤:はい、中学時代は写真部に入り、暗室に籠って現像をしていました。

市川:暗室にも写真の楽しみがかなりあったかと思います。

後藤:そうですね。停止液のあの匂いは我慢できませんでしたけど。

市川:でも、ある時期から現像はラボに任せなさいという風になった。中には「プロラボじゃなきゃいけない」といった風潮もあったかと思います。でもデジタルの時代になって私は、写真の楽しさが自分たちの手の中に戻ってきたと感じました。例えばプリントや現像は自分の家で簡単にできますので、写真を飾るといったことも以前より手軽にできるようになりました。

後藤:確かに。

市川:そのカメラ少年がニコンに入ったというのは感慨深いですね。では話を戻しまして、最初にフィルムカメラに携わったのはF4から、ということになりますか?

後藤:いえ、F3の試作品からです。正確に言いますとF2を使って自動露出(AE)をしようという試作品があって、そこに携わりました。それを指導してくれたのが市川さんもご存知のあの豊田(堅二)氏です。その豊田氏の下について一緒に試作の後半に関わりました。それがカメラ開発の最初ですね。

その試作品の見た目はF2そっくりそのままで、フォトミックファインダーもついていました。この試作品は、ニコンミュージアムのカメラ試作機展でもお見せしていました。

ニコンミュージアム「カメラ試作機展」より、F3開発初期の試作機。
ニコンミュージアム「カメラ試作機展」よりF3の試作品。貼られている「F2」の文字は飾り。

市川:AEが入って実際に製品化されたカメラ、というとF3ですか?

ニコンF3

後藤:私が担当したAE機という意味ではF3です。ニコン最初の自動露出カメラはご存知のニコマートELです。当時、豊田氏はELの開発を終えるタイミングでF2を母体にした自動露出のカメラを担当していたようです。後継機種はもっと近代的なカメラにしなくてはならないと言うことになり、F3のチームが編成されたと言う話です。

1980年。F3発売直後、電気系修理の講習のために欧州8か国を行脚した。

市川:そのころは「電気屋さん」という形でニコンに入社される方もいらっしゃったのですか?

後藤:たくさんいました。ですが、カメラ本体に関わる者はそんなに多くはなく、スピードライトやモータードライブ、8mmカメラに多少いた程度です。そして、F3をスタートする時に電気屋が多く配属された、ということになります。

市川:いろいろなカメラメーカーに話を聞いていると、「ある時期はメカ屋が威張っていたけれど、またある時期になると今度は電気屋が威張っていた」、「電気屋が威張っている時にはメカ屋は下を向いて歩いていることがあった」なんて話がありましたが、ニコンではどうでしたか?

後藤:いえいえ、現在でもカメラの基本的なレイアウトをスタートするのはメカ屋ですし、今ではどちらかがそんなに威張っているというのはありません。しかしF3の時はまだメカが主体のカメラですので、メカ屋が電気回路の体積を仮検討し、入るだろうと言う隙間を作った図面を作成して「この隙間に回路を入れろ」と指示をする。すると電気屋から「そんなところには回路は入りません」とクレームを出す。これに対してメカ屋は「入りません、じゃなくて、入れるんだ!」などと繰り返すわけです。あ、威張っていましたね(笑)

後藤さんとFシリーズ

市川:F3は我々ユーザーとしては劇的なカメラでしたね。

後藤:最近手に入れたF3/T(チタン)なのですけどね、見て下さい。未使用なんです。

(一同歓声)

市川:JCIIのパス(検査合格証。金色のシール)がついているということは輸出モノですか?

後藤:輸出モノです。そろそろフィルムを入れようかな? と思っています。でもここまで使わずに来たのだから、使うのが勿体無くて。使わずに、という気持ちも否めません。

市川:使ってこそのカメラじゃないですか?

後藤:もちろんです、そのために世に生まれて来たのですからね。このカメラは40年近く前なのですが、ファインダー内の液晶もしっかり表示されています。でも自分が老眼になってしまって、視度が合わなくてぼやけて見えるんですよ。

市川:後藤さんがどれだけ関わっているか分かりませんが、ニコンのFA(編注:ニコン初のマルチパターン測光搭載)はすごく感心しました。それ以降のニコンは測光がピカイチだと思いました。他社とは比較にならないほど良くて、ストロボの入ったピカイチ(ピカイチL35A)の名前と同じようにピカイチでした。

ピカイチL35A

後藤:FAは主流の担当ではないのですけれど、F3でうまく行ったと評価されたため、カメラの中に回路を入れ込む「実装設計」は私ともう1人で担当しました。FAの回路にはニコンで初めてのマイコンが入っていて他の回路も巨大でした。カメラが決して大きくはないのでスペースがキツくて大変苦労しました。いろいろな基板メーカーや実装メーカーに足を運び、新しい高密度基板を作ってもらったのが思い出です。

市川:カメラをいろいろ見ていますと、AFが搭載されたF-501やF-401辺りの世代が面白く思います。ニコンさんと言えばプロが使うカメラでもありますし、そういう人達がMF派とAF派で競争していたという時期でしたから。

後藤:ニコンのAFは最近まで世の中を凌駕できずにいました。担当者は長いこと苦労してくれました。

市川:そうですね。「そうですね」というのも良くないですが。

後藤:いえ、仰る通りです。例えば「偶数型番で上手く行かずに奇数型番で挽回する」と世間で言われていましたし。

市川:カメラを個々のカメラではなく時系列で捉えてみると違ったものが見えてくるので面白いですね。F5の時にはプロがF100に流れたという事がありました。単純に「F5は値段が高い、F100が安い」ということではなくて、”小さい・軽い”という扱いやすさが関係していたように思います。その後コンパクトなF6が登場しましたが、時は既にデジタルの時代が到来していた。

後藤:F5では機能性能を達成するためにバッテリーを一体化して基本形状を大きくしました。当然一般の方にはF5は大きく重すぎて評価が分かれるだろうと予想していました。F100はF5より少し遅れて開発をスタートし、F5から2年後に発売しました。

市川:F100は個人的にも納得できる、すごくいいカメラでした。

ニコンF100

後藤:プロにもいろいろなジャンルの方が居ますから、秒8コマが必要な人はF5を選んで、そうでない方はF100、と言う風に棲み分けができました。

市川:カメラ開発の悩むところだと思いますが、フラッグシップというとF5などの様に最高を目指さざるを得ないのですか?

後藤:フラッグシップは元来そういうものですね。なので、昔から最高を目指しています。Fの責任者であった更田(正彦氏)の言葉に、色んな人の意見を聞いて、全部を達成するのがフラッグシップ機だというコンセプトがありました。誰にも使える、プロはもちろん、実はアマチュアでも使える。そういったコンセプトです。最近のフラッグシップは、ある程度プロに限定したコンセプトのカメラ作りになっています。

時代はデジタルへ

市川:1998年のCOOLPIX900、1999年のD1でデジタルの時代に劇的に変遷しました。デジタルが仕事に使えると感じたのはこの頃からです。

後藤:懐かしいですね。今年はD1から20年、COOLPIXから21年、Fから60年です。私がデジタルカメラを本格的に担当したのはD1XとD1Hからです。

市川:デジタルになって認識が変わったと思うのは、フィルム時代は如何にトリミングしないで使うか? ということを考えて撮影していましたが、デジタルでは気がつけばトリミング前提で撮るようになっていました。

後藤:画素数競争を余り考えなかった時代のD2Hでは、暗所画質、AF性能だけでなく、トリミング耐性が少し足りませんでしたね。

市川:これ以後デジタルカメラはドンドンと画素数が増えて、最終的にD800シリーズのように3,000万画素を超える世界に到達しています。やはり画素を増やすということは大事なことなのでしょうか?

後藤:100万画素を超える時、400万画素、800万画素などその都度大台を超える時に「画素数はもう増えなくて良い」と発言する人が必ず現れました。その度に「ああ、そうなのかな?」と疑問を感じていました。3,630万画素のD800も「これほどの画素数は必要ない」と予想していましたが、ピクセルが小さくなっても画質低下は解決できるし、画素が多ければモアレが出にくいだろうと考えて発売したところ、やはり市場に受け入れられました。D850についても「良いね」と仰る方はたくさんいらっしゃるので、画素数が増えるのはまだ暫くは続くと思います。

市川:高画素化の流れは一旦止まったように思いますが?

後藤:そろそろもう十分だろうとは言われますが、そのたびに高画素を使いこなすお客様は必ずおられます。現にライバルメーカーは超高画素センサーの技術発表をしていますでしょう?

市川:フォーマットが違いますね。

後藤:たとえフォーマットが違っていても、お客さんが見た時のインパクトがやはり大きいですよ。

市川:フォーマット抜きにして数字だけで見てしまうという向きはありますか?

後藤:必ずあると思います。

市川:3,000万画素もあれば十分なのでは?という認識が一般ユーザーにはあるように感じていますが。

後藤:先にも申しましたように、高画素機を出すたびに、その恩恵を見事に見出して下さる方が大勢いらっしゃいます。一方で安い買い物ではありませんから、心理的に同じ値段で3,000万画素と4,000万画素が選べるなら4,000万画素を選ぶのは必然でしょう。これまでずっとそういう歴史を辿って来ているのが証明しているのではないでしょうか。

市川:近年のカメラで後藤さんが一番力を入れていたのはDfなのでは?と勝手に想像しているのですが。

ニコンDf

後藤:現役メンバーのルーチン組織で開発している他のカメラにも一生懸命力を入れているんですよ(笑)

市川:もちろんですね(笑)

後藤:「力を入れる」という意味には自分でやるか、あるいは他の人に発破をかけてやるか、があると思います。実際に自分で考えて、自分の足であちこちに出向いて聞いて、部下を使って……という意味ではDfが最後、当然力は入っていました。他の機種に対しては、自らの手足は使えませんので、あれこれうるさいことを言って社内に発破をかけて……、という違う力の入れ方になっています。

市川:Dfは一部ユーザーのハートを掴みましたね。

後藤:お陰様で。しかし、一部ではなく、そういう人がもっと大勢居てくれたら、利益面で会社も幸せだったのでしょうね。評判とは裏腹ですが、皆さんが思っておられるよりも売上は少ないのですよ。国内やアジアより欧米での反応が鈍いですね。例えばD750とレンズ2本を買うのと同じくらいの価格なので、そうなると理性的な人の多い欧米ではD750が選ばれます。

後藤さんが考える"ニコンのカメラ"とは

市川:今後もニコンはカメラ作りを続けていくと思いますが、後藤さんにとって「ニコンのカメラはこのようにあって欲しい」というイメージはありますか?

後藤:そうですね、電機メーカーと違って、ライカと同じようにカメラやレンズがニコンと言う会社を背負っています。ほとんど電機メーカーであるライバルと同じ事をやっていてはなかなか勝ち筋は見えませんね。彼らには撮像センサーなどのデバイスがあったり、高密度実装など小型化の技術もありますから。

しかもミラーレスになると、ニコンがもともと得意であったメカニズムのエッセンスの重要性が低くなっています。そうなると、同じ土俵で戦っては分が悪い。その時にニコンには何が必要なのか? ということをよく話しています。しかも昔と同じように、ニコンファンにはあまり"電気モノ"では喜んでいただけません。電気メーカーと真っ向勝負の機材も必要ですし、「所有する楽しみ」を提供するカメラも必要ではないか、と思います。極端な喩えですが、カメラを買ったら嬉しくて枕元に置いて寝る、そういうニコンファンが居てくれますから。

市川:これから先、カメラ作りというのはユーザーの声を大事にしていかないと駄目な時代になりましたね。

後藤:スマホで十分となっている状況では、かつて以上に重要です。過去にユーザーの声を聞かないで、辛酸を嘗めてきた歴史がありますから。

市川:大昔のニコンはユーザーの声を聞いてカメラを作っていたような気がしますが、そうでもなかったのですか?

後藤:いえいえ、大昔で言えば、Fの時はユーザーの声を聴くよりも、自分達で頭を絞って……というか、声を聴く仕組みもなかった時代です。レンジファインダー機での成功と失敗の体験を発展させ、半ば自分達で市場を作ってきたんです。その後F2で成功し、F3でも成功しました。しかしその辺りで天狗になって、使う現場、売る現場を見なくなってしまったようです。そうしたら虎視眈々と狙っていたライバルが出てきた。それがたまたま偶数(F4)だったと言うわけです。

市川:確かに1970年代中程までは全くの独走でしたね。

後藤:完璧にそのとおりです。ライバルはいろいろな場面で出てくるニコンの独走が面白くなかったんでしょうね。

市川:現在ではライバル社がたくさん出てきましたね。

後藤:ライバルどころか大変なシェアを持っています。先にも言いましたが、真っ向から挑む機材の他に、ニコンしか考えない、ニコンでしか出来ない機材も必須なのです。

市川:これまで業界をリードしてきたわけですし、これからも頑張って欲しいですね。

後藤:退社する私としても、ニコンに対して頑張って欲しいなと思っています。

市川:FM3A(2001年発売)というのは、もう少しフィルムを長く使って欲しいという想いを込めて作られたカメラなのかな?と僕は記憶しているのですが。

ニコンFM3A

後藤:さあ、最初の想いはどうだったのでしょう(笑)。FMシリーズとFEシリーズはずっと2系統でしたが、それでは少し効率が悪いため一緒にまとめようと一念発起で企画開発がスタートしたように記憶しています。

市川:メカニカルなマニュアルとAEの良いところが融合したカメラだと思いますが、思いのほか短命に終わってしまった。

後藤:これはタイミングが悪くて、当時スタートした環境規制に対応するパーツの供給の目処が立たなくなってしまったのです。やり直すには途方もない費用が掛かりますがペイできる販売数量は見込めないと判断し、涙を飲んで断念しました。それさえなければ、今でもまだ作り続けていたかもしれません。

市川:ニコンミュージアムには、あれだけ古いカメラが並んでいてすごいですね。

後藤:確かに大量にあります。でも実は、ミュージアムにはある時代の試作品が展示できていません。残っている時代のものもありますが、ある時代で税制が変わり、試作が終わったものは廃棄しなければならなくなった時代からの試作品は存在しないのです。現在は、時代を乗り越えて「残しておかなければいけない」と意識を変え、費用を掛けてでも残すようになっています。

市川:そういった時代背景があるのですね。

後藤:はい。デジタル黎明期の試作品はありませんが、その後の時代のものから残すようにしました。

懐かしい写真を振り返る

市川:後藤さんが一番ニッコリ笑っている写真を見つけてきました。2004年のカメラグランプリの時ですね。何のカメラか分かりますか?

撮影:市川泰憲

後藤:えーとね、D70! この女性と花束贈呈の時に、私が初めて握手したんです。そうしたら後に出てきた他の受賞者も、「握手しなきゃいけないんだ!」って勘違いしちゃって、おずおずと握手しあうようになりました。

市川:かれこれ15年前ですね。こんなにニッコリ笑っている。

後藤:実はそれまでの授賞式にはなかった、なにか面白い事をしてやろうと思っていましたね。

市川:写真といえば、F5のムックの時に開発スタッフ全員で記念写真を撮りましたね。

後藤:あ!写真工業の! そうそうこの写真ですね。一生懸命頑張って世に出してくれたメンバーが大勢参加してくれました。

写真工業別冊「ニコンF5テクニカルマニュアル」1997年より

市川:こういった事って、後藤さんからなんですよ。それまでの本はカメラや中の機械の話だけだったんですけど、最後になって後藤さんが集合写真を持ってきて、コレを載せろと。

後藤:いやいや、載せたら如何ですか? と提案させていただいただけです(笑)

市川:だけど、ああいったことは現場に関わった若い人たちのやる気がでると思いますよ。

後藤:実はふと思いついて、大井町の工場の横に大きな公園がありますので、取りあえず居るメンバーに声を掛けました。実際に関係したメンバーの他に、F5には直接関係しなかったけれど、心の中で応援してくれていたメンバーも来てくれ、暇なら勝手に集まれと。

(一同笑)

市川:あの写真を見て、カメラってこれだけの人数が関わってできているんだなって思いましたよ。

後藤:実際にはもっと多いですよ。最後の最後になって編集にねじ込み…いや提案しましたねぇ、懐かしいなぁ。実はここに私は居ないのですよ。発表会か何かで海外出張する予定がありましたので、段取りだけ整えて飛行機に乗りました。

編集部:後藤さんがカメラ開発を指揮する時は、どのように皆をまとめていたのでしょうか?

後藤:僕はどちらかと言えばトップダウン的ですね。でもそんなに威張りくさったトップダウンじゃないですよ。F5スタートの時、D3スタート時には、皆を集め、これまでの自分の反省を説明し、「これから頑張ろう」みたいな催しをやりました。

市川:トップダウンとは言いながらも、スタッフに対する配慮はしっかりされていたんだなと感じられます。

後藤:最近はうるさいことばかり言う冷たいオッサンだと思われているらしいですよ(笑)

市川:仕方ないですよね、社内的なポジションから考えれば。

後藤:どのメーカーにもアイデンティティは必要です。もちろん、他社さんに言うつもりはなくて、多少くどくてもここ(ニコン内部)に言わなければね。

ニコンのDNAとは?

市川:今までのデジタルカメラはフィルムカメラの延長にあったように思いますが、ミラーレスになった時に、カメラそのものの操作系が変わってきました。モニターのタッチ操作と従来の操作系をどのように組み合わせていくのか? これまでにないユーザーインターフェイスをニコンはどうやっていくのかな?と。

後藤:もちろんニコン内部でいろいろ考えて工夫してはいるのですが、操作性については昔から最優秀なメーカーではないと私は思います。

編集部:後藤さんの現在のプロフィールに「ニコンのDNAの研究と維持向上に向けての活動」という言葉がありました。"ニコンのDNA"とは具体的に何でしょうか?

後藤:すべて歴史から来ているものです。ニコンは元々は軍需用光学機器を手がけていましたから、例えばFなんかは非常に丈夫にできていて今でも十分使える個体が多いですよね。まずこれが基本です。必ず第一のコンセプトは、丈夫さも含めたニコンの品質。それから誰でも使えること。そして自動化。この3つが昔からつながっているDNAです。僕もF5の発表の時に言葉を変えて説明していたと思います。

市川:F5の時に、ニコンのDNAについて仰ってましたね。

編集部:"ニコンのDNA"が指すものは、その時代から変わっていないということですか?

後藤:はい、変わっておりません。60年も前のフィルムカメラでさえ「自動化」が理念に入っていたのです。それに加えてやはりニコンの品質、丈夫であるとか、悪い環境でも酷使に堪える、そういったものは変わっていません。同じ価格帯であればどこと比較しても勝らなくてはなりません。

しかし現在の市場では、それに加えて使った時の喜びとか嬉しさについて、ニコンはもっと考えなくてはいけないと考えています。カメラは趣味嗜好品ですから「買って嬉しい」、「持って嬉しい」という、お金に見合った価値がカメラに表現されていないといけない。ニコンファンにとっては「モノ」が嬉しくなくてはいけません。それがニコンにとっての「コト」の一つなのですから。

編集部:その考え方を今後も継続していくための啓蒙活動ということでしょうか。

後藤:そうですね。社外で言えないこと、言ってはならないことがたくさんありますが、社内では「こうではいけない」という話をよくしています。単純に「こうあるべき」と言うのではなくて「こういう失敗例がある」という温故知新です。他社製品についても時々引用します。ライバルメーカーが良いことをやっていて、ウチは真似をしそこなったとか、真似をしたけど結局その上を行かなかった、とかね。今後のための題材は過去にいっぱいあるのです。

製品改良のヒントは会社の外から

市川:F3でしたか? 緊急シャッターがついたのは。

後藤:そうです。試作品のある段階から搭載されました。試作品は3回くらい大きく変わっていますが、ジウジアーロデザインが搭載された最終試作の時に緊急シャッターが追加されたと記憶しています。

結局21年以上のロングランだったわけですが、当初プロからは「変なことしやがって。AEなんて要らない。しかもグリップに赤い線なんか入れやがって」などと言われました。当時は「ああ、そうか。プロには、良くなかったのかな」と思いましたけれどね。頑健なF2と比べると、デザインや電気が入ったことによる"ナヨナヨさ加減"が、プロにとってはひと目見ただけで「なんか嫌だな」と思われる原因だったようです。

編集部:現代の目で見ると、F3は……なんて言えば良いでしょうか?

後藤:今では"質実剛健"というやつですよね。しかも、防滴などの環境耐性をはるかに高めたF3Pを提供してそんなプロの心も掴みました。そのF3Pで実施したことは他のすべてのF3シリーズにも反映させていました。それが21年もった理由の一つでしょう。

2001年。ニコンF3は21年の長きにわたり生産された。

編集部:そういった改善・改良のヒントはどのように見つけていましたか?

後藤:自分達で気付くときもありますし、外からもあります。当時で言えば報道機材部門から上がってくる話を踏まえて、実際にお会いして「じゃあ改造しましょう」とか「全部直しましょう」などとずいぶん細かな改造品も提供していました。

長く続けてこられた原動力は?

編集部:後藤さんは小さな頃からカメラがずっとお好きだったという話を伺いましたが、その後ニコンに入社されて、開発リーダーをされて、現在もニコンのDNAを伝えていく活動をされていて、その中でカメラ好きの度合いに変化はありましたか?

後藤:「趣味を仕事にするもんじゃねぇ」というのが僕の信条です。なので、ニコンに入ったことは人生最大の失敗だと思う時もありました。今でこそ達観できていますが、F4からF5、それとD2からD3の間は、日曜日にカメラを触りたくないという時期が結構ありました。仕事が上手くいっていれば良かったのですが。でも思い出して見れば、上手くいっていない時間の方が長いんですよ。そんなときはどちらかと言えば嫌な気分でした。

市川:そりゃ悩みますよね。そう言えば、ニコンだけというワケではなくて、いろんな会社のスタッフをみていますと、1970年代後半くらいから1980年代は、カメラ好きの人達はカメラの部隊に配属されなかった。

後藤:そうそう、ニコンも同じです。あえてそうやっていたと実際に大先輩から聞きましたから。いわゆるカメラオタクにやらせると、どうしても客観的にならず、自分の趣味に走ってしまうから、と。でも私は、今はそれでは駄目だと思っています。オタクが居なかったら趣味嗜好品のカメラにアイデンティティは生まれません。もちろん"ただのオタク"じゃ駄目ですよ。 色んな人の意見を聞いて、正しく咀嚼してくれるというオタクじゃなければ。エゴだけでは駄目なんです。

お客様からすれば、ニコンは写真を撮っていて、カメラ好きな人達が作っているんだろうと思っているかも知れませんが、そうではない時期もありました。僕は最初に配属されたビジネスから撤退し、当初の希望通りにカメラ設計に配属されて「よしよし」と思ったくちです。早速F2を20回の月賦で買いましてね。

編集部:その時代を乗り越えてこられた背景には、何があったんですか? やはりカメラが好きだったからですか?

後藤:仕事だからです(笑)

(一同笑)

後藤:仕事って言っちゃ駄目か。でも、時々褒めてもらえるのが良かったですね。失敗作があったとしても次に良いのを出せば皆さんに喜んで頂ける、それがやる気を起こさせる要因だったと思い出しています。でもうまくいかないときは本当に困りました。例えばニコノスRS。一番強烈だったのは、一般のお客さまから「こんなカメラは要らないから、金返せ」と言われまして。

編集部:辛いですね。

後藤:辛かったですよ。もう忘れもしない(笑)。ニコノスは、設計者や品質担当者にちゃんとダイビングや潜水士の免許を取らせて開発していたのですけれど。細かな点までお客様の声を聞いていなかったためもあるし、自分達で問題を発見できなかったと言うことがありました。

市川:最後に、後藤さんは6月でニコンを退社予定なわけですが、これからはどうするんですか? なんて野暮な事を聞いても良いですか?

後藤:それは世の中の要求次第でございます(笑)

デジカメ Watch編集部