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ライカ「エルンスト・ライツ・ミュージアム」で、パウル・ヴォルフ回顧展が開催中

"写真と写真技術の博物館" 歴代製品が眠る資料室にも潜入

ライカカメラ本社が所在するライツパーク(ドイツ・ヘッセン州ウェッツラー)内に、「エルンスト・ライツ・ミュージアム」(Ernst Leitz Museum)がオープン。最初の展示として「パウル・ヴォルフとトリッシュラー」(Dr. Paul Wolff & Tritschler)が開幕した。会期は6月28日から2020年1月26日まで。

2018年に新設された「LEICA WELT」(独Welt=英World)という建物内に、エルンスト・ライツ・ミュージアムがオープン。

エルンスト・ライツ・ミュージアムは、"写真と写真技術の博物館"として、既存の博物館や写真美術館とは異なる付加価値の展示を目指す施設。博物館のトップを20年以上務めていたスタッフなど少数精鋭を集め、ライカカメラ社の支援により運営されている。

左から、本展のキュレーターであるハンス・コエッツル氏、ライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏、同館ディレクターのライナー・パケイザー氏。
展示スペースは約1,000平方m。営業時間内は自由に入場可能で、見学料は9ユーロ。

1887年に生まれたパウル・ヴォルフは暗室技師として働きながら、1926年に写真コンテストの賞品としてライカ(A型。1925年に発売されたライカ最初の市販モデル)を手にしたところから写真に目覚めた。

当初ヴォルフはライカの利点に懐疑的だったと言われているが、のちに「たっぷり露光、あっさり現像」と言われる微粒子現像法を発見。その経験と技術をエルンスト・ライツ社に持ち込み、ライカで撮影した全紙のプリントを通じて35mmカメラのポテンシャルを世界に知らしめた。

世界を巡回した200点ほどのうち、唯一残っている作品。
「この小さなフィルムから、ここまで大きく伸ばせる」という意味で、ネガと同じサイズの写真を右下に貼り付けている。

そうした功績もあり、製造番号200000番のライカをエルンスト・ライツ社から贈られたという記録が残っている。ライカのおかげで身を立てたという意識を持っていたヴォルフは、「私のライカ体験」(Meine Erfahrungen mit der Leica)に代表される著書を通じ、"ライカだからできること"について多く書き残した。本展のキュレーターであるハンス・コエッツル氏いわく、ヴォルフの1930年代の著書はすでに"ライカの集大成"といえるほどの内容だったという。

著書は300点に上るという。
日本で出版されたもの。
写真のあとに、撮影データが載っている。
本展図録に寄稿した写真史家の打林俊氏(左)と、キュレーターのハンス・コエッツル氏。手にしている図録には約1,000点の作品が掲載されている。

また、ヴォルフは日本とも繋がりが深かった。自身が日本の地を踏むことは生涯なかったが、1934年にアサヒカメラの表紙を飾り、1935年に行われた同誌主催の写真展は盛況だったという。1940年東京オリンピック(返上により開催されず)が開催されると決まった時には、1936年のベルリンオリンピックを撮った写真集が発売されるなど、戦前には高い知名度と評価を得ていた。やがて第二次世界大戦を経て「戦前のものは忘れられていく流れがあり、ヴォルフもそうして忘れられていった」(打林氏)という。

「ライカによる第十一回伯林オリムピック写真集」。日本人を写している。
こちらも巻末に撮影データを記載。いわゆるバルナックライカにミラーボックスを取り付け、200mmの望遠レンズで撮っていた。
ライカで大伸ばしをするためには「露出は長く現像は短く」が大事と記載。

ヴォルフのビジネスパートナーであり、"20世紀前半のドイツ人写真家では最も著名な両名"と並び称されるアルフレッド・トリッシュラーは1905年に生まれ、写真技術を履修したのち映写技師としての訓練も受けた。1927年にヴォルフの事務所の従業員となり、ヴォルフとともに50万カットもの35mmネガを残した。

とにかく多くの作品を残したヴォルフ。ライカ以外で撮影した乾板も合わせると生涯で70万枚と言われる中には、植物、街並み、産業など、ありとあらゆるシーンが写されている。今回の展示は個人所蔵品が多いため巡回は難しそうとの話だったが、ライカカメラジャパンでは、何らかの形で日本でもパウル・ヴォルフ展が開催できないか可能性を探っているという。

車やタイプライターなどの工場も撮影した。これらは販売用ではなく、それぞれの会社で配布するためのものだったという。
飛行船ツェッペリン号に関するシリーズ。
ヴォルフが最後に使っていたライカ機材。このセットをどこにでも持ち歩いたという。

エルンスト・ライツ・ミュージアムの今後の展開についてライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏に聞くと、同館でもライカのカメラに関する歴史をテーマとする可能性があるそうだ。現在は単にアイデアのレベルだというが、ドイツにあったライカの生産がカナダに移った歴史を軸に、それが何故、どのようにしてなくなっていったのかという歴史を掘り起こすような切り口で、製品も交えて展示できたら面白そうだという。

「まだ発信されていないことを発掘していくミュージアムという色合いを強く出していきたい」との思いに加え、何よりライカこそが"写真とカメラに紐付いた歴史を語るに相応しい会社である"との考えを強調していた。

アンドレアス・カウフマン氏。ライツパークを見渡す執務室にて。

一般非公開の資料室を撮影

歴代ライカ製品を収蔵する資料室の様子を紹介する。ライカのカメラおよび関連機材はもちろん、顕微鏡や引き伸ばし機なども収蔵されている。あと1年ほどで収蔵品のデータベース化が完了する見込みで、現時点では一般非公開。前回訪問時には写真撮影が許されなかった部屋だ。

たっぷりとした空間の資料室。
お揃いのケースに収まっている。
収蔵品の一部。
エルカン(ELCAN。元エルンスト・ライツ・カナダ)製品もあった。Fernoptik=双眼鏡。
顕微鏡がずらり。
引き伸ばし機もずらり。
「このキャップ、ひと山でいくらになるか」などと考えてはいけない。
ライカM3の巨大模型を持たせてくれた。これがほんとの"ビッグM3"。
底蓋のツマミや三脚ネジ穴がちゃんと作られていたのに感心。
図面などを管理するアパーチュアカード。
引き出しにズラリと収納されている。
これまでに出荷したライカの台帳が残っている。
参考:ライカ出荷台帳の中身(2018年の訪問時に撮影)。それぞれの個体がいつ誰の注文により製造され、検品し、出荷されたかの記録だという。
デザインスケッチなども収蔵されている。
マンフレッド・マインツァー氏によるデザイン案。肩に「AF」とある。
機械式のライカRに近いイメージのデザイン画もあった。

社主カウフマン氏によると、現在は写真家のニック・ウット氏が"ナパームガール"を写したカメラを収蔵できないか交渉しているところだという。2012年のフォトキナではニック・ウット氏がLeica Hall of Fame Awardに殿堂入りし、ナパームガールことキム・フックさんと揃って授賞式に登壇したことがあった。

フォトキナ2012のLeica Hall of Fame Award授賞式にて、ニック・ウット氏(右端)とキム・フック氏(右から2番目)。

最も新しく加わった収蔵品として披露されたのは、どちらも2015年登場の新しい機種である、ライカSLとライカQだった。シリアで対戦車グレネードにより重傷を負ったイタリア人写真家が持っていたもので、"ライカに命を守られた"として海外のニュース記事がSNSを通じて話題になっていたもの。液晶モニターなどに破損は見られるが、撮影データは守られたようだ。これもアーカイブ入りに相応しい品だろう。

シリアで被弾したデジタルライカ2台。
表示部分がダメージを受けている。
バヨネット部は歪みもなく機能していた。

本誌:鈴木誠