イベントレポート

ライカの本拠地「ライツパーク」が拡張。現地写真レポート

ウェッツラーで、ライカ誕生の経緯を振り返る

6月15日から6月16日にかけ、ライカカメラ本社が所在するドイツ・ウェッツラーの「ライツパーク」拡張の記念式典が行われた。本稿では新しいライツパークに関する概要をお届けする。今回のイベントには、41か国から1,200人が集まったという。

式典に世界各国からの招待客とプレス関係者が出席した。
2018年の「Leica Hall of Fame Award」に選ばれた写真家のブルース・デビッドソン氏が式典に参加した。アメリカの公民権運動を題材とした1960年代の作品群で知られる。
ライカカメラ本社内のロビーでも作品展示が始まった。

既報の通り、カメラ新製品としては1型センサーの高倍率コンパクト「ライカC-LUX」のほか、特別限定モデル「ライカM10 Edition Zagato」が登場。ライツパークの敷地内にオープンした「エルンスト・ライツ・ホテル」や、ライカの新しい取り組みとして製作される機械式腕時計「ライカWatch」についても、別記事でレポートしている。

ライツパークって何? どんな場所?

ウェッツラーに「ライツパーク」(ライカカメラ社の前身、エルンスト・ライツ社に由来)が作られたのは2008年。当初はライカカメラ社そのものではなく関連会社が所在しており、ライカカメラ社が新社屋を建てて移転してきたのは2014年のこと。今回のエリア拡張はライツパーク発展の第3フェーズと言えるもので、現地では「Leitzpark III」と呼んでいた。

ライツパークIIIのイメージ図。ホテルやミュージアムの中心に広場がある。

ライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏によると、ライカカメラ社が移転した第2フェーズは"ライカのウェッツラーへの帰還"をイメージしており、現在のライカカメラ社の社屋はレンズや双眼鏡といった光学機器をモチーフにしている。いっぽう第3フェーズはそれと異なるコンセプトで、イタリアの市場のように「広場の中央に象徴的な建物があって、そこに人が行き交う様子をイメージした」という。

ライツパークIIIの中心に置かれたオブジェ。「光学」をイメージしたもので、鏡の部分はステンレススチール製。一番上にレンズを配置した。
ライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏。
ライツパークIIIオープニングのテープカットも行われた。
式典後の土曜日は、初めての一般開放日。地元在住と思しき方々で賑わっていた。

ちなみに現在のライツパークは、かつてエルンスト・ライツ社がライカを作っていた場所とは異なる。しかしウェッツラーの旧市街のほうへ足を延ばせば、現在でも「最初期のライカを作っていた工場」「オスカー・バルナックがライカ試作機で移した町並み」「ゾルムス以前のエルンスト・ライツ社が入っていた建物」など、いろいろと面影が残っている。エルンスト・ライツ社で始まったカメラ事業が1980年代に独立・移転したゾルムスの工場も、ウェッツラーから車で10分程度の距離だ。

100年前にライカの試作機で写された、ウェッツラー旧市街のアイゼンマルクト。正面の建物が当時のまま。
ライカA型の時代は、エルンスト・ライツ社のハウザートー工場と呼ばれる場所で作られていた。ウェッツラー駅から徒歩圏内。
ハウザートー工場の後に建てられた旧エルンスト・ライツ社。現在は関連会社のライカマイクロシステムズ社が入っている。向かいのバス停「Leitzplatz」にはオスカー・バルナックの石碑がある。

関連記事:ライカの歴史を辿る、ドイツ・ウェッツラー探訪記(2014/6/13)

ライツパークIIIはどこが新しくなった?

今回拡張されたエリアには、ライカカメラ社のミュージアムとライカアカデミーに使用する新棟、ライカWatchを製造・販売するErnst Leitz Werkstättenほかテナントが入るビル、宿泊施設の「arcona LIVING ERNST LEITZ HOTEL」、シネマ用レンズを製造している「Leitz Cine Wetzlar」の4つ。ライカWatchとエルンスト・ライツ・ホテルについては別記事でお伝えした通り。

関連記事:ライカが作った「腕時計」と「ホテル」。その心は? Leica Watchとエルンスト・ライツ・ホテルを見てきた(2018/6/22)

Leitz Cine Wetzlarは、10年前からシネレンズを製造していたライカの関連会社「CW Sonderoptic」の新体系。このたび設立された新会社「Ernst Leitz Wetzlar GmbH」(旧ライカ社はErnst Leitz GmbH)のブランドとなる。

新しい社名のアンベールが行われた。赤丸ロゴの中には、かつてのライカ製品のように「Leitz」と書かれている。

シネレンズは高価で個人所有するような製品ではなく、大口径の「ズミルックスC」シリーズが過去10年間で約3,000本、小型の「ズミクロンC」シリーズが5年間で3,000本強、M型ライカ用レンズをベースとした「M 0.8」シリーズが直近1年で300本……といったオーダーで生産されている。販売先はほぼドイツ以外だという。建物は最新だが、生産設備には「信頼して使えるから」という理由で古い機器を使い続けているのが興味深かった。

ウェッツラーってどんな街? ライカが誕生したのはいつ?

"ライカの聖地"ことウェッツラー(Wetzlar)は、ドイツ・ヘッセン州の中部に位置。光学産業および「ゲーテが訪れた街」として広く知られる。光学産業との関わりから、長野県の諏訪に似ていると言われることもある。

ドイツ語でWは「ヴェー」なので、空港の入国審査で目的地を聞かれたら「エッセン、ヴェツラー」と答えれば通じやすいはず。過去数回の訪問で、ヴェツラーとだけ答えても通じないことがあった。世界のライカのお膝元とはいえ、田舎町だからかもしれない。「ウェッツラー」は昔からライカ関連書籍で多く目にする表記で、ライカ側も日本語表記は「ウェッツラー」を正としている。

さて、ライカカメラ社の原点は、1849年にウェッツラーで創設されたカール・ケルナー光学研究所まで遡ることができる。こちらは顕微鏡を主に製造しており、エルンスト・ライツ社となっても主力は顕微鏡だった。

1924年、当時の社長だったエルンスト・ライツ二世は、技師オスカー・バルナックが1914年頃に試作した「リリパット」(ドイツ語で小人=こびと)を原点とする、映画用35mmフィルムを用いる小型カメラの製品化を決めた。このリリパットが、後年「ウル・ライカ」(Ur-Leica。ドイツ語でUr=原型)と呼ばれるライカの原点だ。

Ur-Leica(ライカカメラ社所蔵)

ライカのフィルムは、長尺の映画フィルムから両手を伸ばした程度の長さ(=およそ36枚撮りになる)を専用マガジンに詰めて使った。のちに感材メーカーが「ライカ用」として最初からパトローネに入れた状態の35mmフィルムを販売したものを起源として、現在まで135フィルムとして続いている。

35mmフィルムを使うライカのメリットとして初期に謳われていたのは、大判カメラに比べて被写界深度が深いため近距離のポートレートなどでも背景情報が適度に残ることや、手持ち撮影できるほどの速いシャッターを切れた点(バルナックはボートの上から洪水の様子を撮った)。また、映画用フィルムを使うため経済的という触れ込みもあった。とはいえ、フィルムの撮像面が小さいと聞いてオモチャのように決めつける向きもあったそうだ。現在の"フルサイズデジカメ信仰"にも似ているだろうか。

ライカI型(ライカカメラ本社内で撮影)

さて、ウル・ライカの試作に続き、製品化の検討用として20台程度の工場試作機(0-serie=ヌルゼリエ。いわゆるヌル・ライカ)が1923年頃に作られた。その1台が2018年3月のオークションで3億円超で落札されたことは、ご存じの方も多いかもしれない。

関連記事:1923年製のライカ試作機が3億円超で落札(2018/3/12)

その後のライカの発展を知っていると驚くが、この"ヌル・ライカ"を試した当時の専門家からは「(このカメラの製品化は)やめたほうがいい」という声も聞かれたそうだ。それほどのリスクを負ってまで顕微鏡メーカーのライツが小型カメラの製造に乗り出した背景には、第一次大戦後の不況に襲われたドイツにおいて、社員の雇用を守ろうとするエルンスト・ライツ二世の考えが強かったとも言われている。

そして1925年、現在の"35mmフルサイズ"の原点である24×36mmフォーマットの小型カメラ「ライカ」(現在でいうI型/A型)が発売された。事実、当時の市場には35mmフィルムを使うスチルカメラがすでに複数存在したが、それらの名前を現在どれほどの人が知っているだろうか。ライカA型は90年以上前のカメラだが、今なお"ライカマニアの終着点"として親しまれる。

ライカが登場した1925年の広告。発明者の名を取って"バルナック・カメラ"と書かれているものもある。日本ではM型以前のスクリューマウントライカを総称して「バルナックライカ」と呼ぶことが多い。
今回は、まだオスカー・バルナックが存命だった1934年製のライカDIIIを持参。ウェッツラーへの里帰りとした。恥ずかしげもなく、右のバルナックと同じポーズの写真も撮ってきた。

今回のライツパークIII拡張により、ライカカメラ本社の見学スペースは更に充実した。詳しくは後日掲載するが、すでにライツパークの新社屋を訪れたことがあるライカファンも、エルンスト・ライツ・ホテルに泊まりつつ再訪したくなるような楽しい空間になっている。

本誌:鈴木誠