写真業界 温故知新

第2回:内田亮さん(元シグマ常務取締役)

今回は、カメラ・交換レンズメーカーであるシグマの常務取締役であった内田亮さんです。内田さんは、シグマの創業者の山木道広氏に請われて1961年にシグマに入社。以来、山木会長(当時の社長)の片腕としてシグマの技術的な部門をサポートするかたわら、多くの写真家や業界人と知己があり、シグマの内田さん、シグマの内田亮ちゃんなどと親しまれてきた方です。もともとは山と写真をこよなく愛する人で、2003年に退任した後も、いまでも登山をし、業界関係者の写真展には初日朝一番に見に行くなど、お元気です。今日シグマは、山木和人社長のもとに世界的な写真レンズメーカーに育ったことは誰もが認めるところですが、シグマ初期の交換レンズ、製造に苦労したレンズ、会津工場の立ち上げの頃など、お話を伺ってみました。(聞き手:市川泰憲・日本カメラ博物館)

入社当時を振り返る

市川:内田さんがシグマに入ったのは、いつ頃でしたか?

内田:1961年ではないでしょうか。

市川:山木道広会長(当時社長)が入院されて、そのお見舞いに行ったところ「会社を手伝え」と言われたとか。

内田:そうです。見舞いに行ったら「今すぐ会社に入って手伝え」と言われまして。僕は「今すぐは嫌だ」と返事したのですが、4日くらい経ってから電話が掛かってきまして。

内田亮さん

市川:今で言うヘッドハントですね。4日で移ったんですか?

内田:ええ。会長の奥様が仕事のお手伝いをされていたそうなのですが、「代わりにお前がやれ」ということを言われまして、分かりましたと引き受けました。どうやらその時にシグマに入社したという形になっています。

市川:その時に内田さんはヌクイカメララボ(かつて平河町に所在。主宰は貫井提吉氏)に在籍していたのでしょうか?

内田:ヌクイカメララボはちょうど辞めていました。

市川:そのフリーの時期に会長からシグマに誘われたと。てっきり僕は、ヌクイカメララボから直接シグマに転職されたのかと思っていました。

内田:フリーになってから4日程度なので実際は直接移ったような感じですが、もともと貫井さんのところにも毎日出社するという形ではありませんでした。私は山登りが大好きですから、「行きたい時に山に行く」という事を貫井さんに了承してもらっていました。利尻岳の西に岩壁があるのですが、以前からどうしてもそれに登りたくて、当時4月だったかな? 1ヶ月間休みを貰って登りに行きました。

内田さんと山岳写真

市川:山がお好きということで、山岳や山岳写真についてお話を伺ってもいいでしょうか?

内田:1952年に高校へ入学したのですが、当時から山が好きだった佐久間氏(カメラザックで知られるラムダの佐久間博社長)と同じ教室で隣の席になったのがきっかけで、僕の山登りがスタートしました。強く印象に残っているのが1956年の日本隊マナスル初登頂で、これに刺激されて社会人山岳会に入会しました。

1960年。八海山より下山時

そのあと10年は登山に夢中になりましたね。先程お話しました通り1961年にシグマに入りましたので仕事もしなければなりません(笑)。ということで、1967年からは登山を忘れて仕事に打ち込みました。でも1989年に糖尿病になってしまいまして、運動療法の為に登山を再開した時に山岳写真をはじめました。

市川:普通、糖尿病の教育入院は1週間ですが、内田さんは2週間入院されたのを憶えています。以後30年、私とお会いした時はいつもコーヒーだけで、内田さんの意志の強さには感服しています(笑)

1999年。南アルプス赤石岳
2006年。鳳凰三山観音岳

市川:山がお好きというのは分かりました。それで貫井さんのところに居たからカメラにも詳しいと。しかもご自身で写真も撮られるわけですよね。当時、この三拍子が揃うのはなかなか珍しいことだったのではないですか?

内田:写真を撮ることについては、父が写真家だったので、家に暗室がありました。僕の祖父は白木屋(東京日本橋にあった百貨店)の写真技師をやっていたのです。

市川:そうなんですか!親子3代目。凄いですね。

内田:そうです、実は3代目なのです(笑)。

市川:写真家のお父様のお話が出たところで……実はこの度、内田さんのお父様(内田耕作氏)の写真展をJCIIで企画しましたのでご報告しておきます。2020年に開催予定です。

話を戻しまして、とても恵まれた写真の環境で育ったのですね。

内田:写真に関してはとても恵まれた環境で育ったんですけれど、当時は反発ばかりしていましたので、じつのところは写真については何もやらなかったのです。その後も社会人山岳会に居た時は登る事に夢中で、写真には力が入っていませんでした。

それが写真を意識するようになったのは、シグマに入社した1961年に礼文島のストコン岬へ行った時です。何か感じるものがあってそこで生活する人たちをたくさん撮影したのですが、なかなか思うような写真は作れなかった。でもそこから、写真を意識するようにはなりました。

その後は仕事人間でしたからあまり撮りませんでしたが、また山に登り始めた1990年くらいから写真に力を入れるようになりました。リハビリで歩けるようになって、散歩やハイキングにカメラを持ち出したり、スナップ撮影なども楽しむようになりました。2012年に山で事故を起こしてしまって、山の写真はそれで諦めました。

初期のシグマ製品

市川:内田さんがシグマに入った当時、会社は狛江市でしたっけ?

内田:いえ、明大前です。

市川:え? シグマが世田谷区の明大前にあったのですか?それは知りませんでした。

シグマ広報 桑山:「シグマ研究所」は1961年に明大前に設立しました。

市川:その当時のシグマというが作った製品にはどんなものがあったのですか?

内田:製品として最初に発売したのは、Spiratoneブランド(スピラトーン社/アメリカの写真用品メーカー)のリアコンバーターだったと記憶しています。

市川:私が初めてシグマの製品を使った記憶があるのは500mmのミラーレンズでした。僕が学生を終わるか終わったかくらいの時に、井の頭公園で使ったのが初めてです。

内田:初期のミラーの500mm(SIGMAミラーテレ XQ 500mm F8)ですね。

SIGMAミラーテレ XQ 500mm F8

会津工場との関係

シグマ会津工場

市川:会津工場についてお伺いします。シグマの会津工場というのは、内田さんは最初からずっと関わっていらっしゃったんでしょうか?

内田:猪苗代に工場があったころからずっと関係しています。

市川:最初に会津の工場を見学に行った時に、犬小屋のような物置で内田さんがずっと寝泊まりしていた、という所を見せてもらいました。

内田:そうです(笑)。さきほどお話したように当時は仕事に熱中していたので、そこでずっと寝泊まりしていました。

市川:会津工場についての思い出はありますか?

内田:工場が動き始めた当初は、工場の事務所から東京の本社へ直接電話が掛けられませんでしたし、冬は大雪になるとドアが開けられなくなってしまいました。僕は生まれも育ちも東京でしたから、まさか大雪でドアが開かなくなるとは想像もしていませんでした。

市川:お仕事の面では如何でしたか?

内田:当時は手探りなことも多かったですから、何か新しい仕事の指示があれば、小さな問題事はそれこそたくさん起こりました。でも問題解決の方向が正しいと分かった時は担当者と分かち合った喜びも大きかったです。今でもOB会などで顔を合わせると当時の話をします。

市川:僕にも内田さんと会津工場の思い出がありまして、あれは翌年にカメラグランプリがはじまる、というタイミングだったので1983年だったと思います。媒体の各誌担当者が会津工場の中を見学させてもらって、夜は東山温泉に泊まり、カメラグランプリ開催の是非を露天風呂の中で熱く議論したのが懐かしいです。

すると宿への道すがらにある人が「シグマに1000mmなんて作れるわけがない」と暴言を吐かれまして。それを聞いた内田さんはカチンと来て、すでに夜なのに会社へ戻ってレンズを組み上げて、翌朝に宿を発とうとするバスに向かって「1000mmだ。お前にやる」と渡して行かれました。今でもよく覚えています。

内田:面白かったですねぇ。1000mmは既にラインナップにあったので、その方は「そんなに簡単には作れない」という意図で言ったのだと思います。部品ひとつを検査するだけでも本当に大変ですからね。例えば「1000mmのレンズを100本作ってほしい」と注文が入って、準備が何も出来ていなくてイチから生産するとなると、部品の元となる材料が揃っていてもおそらく3ヶ月以上は優にかかりますね。1000mmのレンズというのはそれぐらい難しいです。

SIGMAミラーテレ 1000mm F13.5

編集部:そんなレンズを一晩で組み上げられたんですね。

内田:面精度などの検査が終わったレンズの部品が全て揃っていて、組むだけだというのが分かっていたから出来たことです。僕はレンズの組み立てなんてことは出来なかったから、組み立てられる人を電話で呼び出して「組め」って言って、2人がかりで組みましたよ。僕は見ているだけで何もやらなかったけど(笑)。

シグマレンズの個性的ラインナップ、発想の源は?

市川:当時のシグマの変わったレンズ、例えば反射望遠とかフィッシュアイとか、ああいうラインナップの発想というのはどこから来たのでしょう?

内田:全て当時の社長の発案です。

市川:当時の社長ということは……。

内田:先代の山木道広社長、だからその後の会長ですね。会長が「こういうレンズを考えてみたけど、どう思う?」っていうから、僕らは「作って使ってみるのが一番ですよ」って答えていました。それで作って使ってみると、ほとんどのアイデアが「これは面白い」と実感できるわけです。

おそらくですが、「こんなレンズを作ってくれないか?」と相談してくる人がイギリスかアメリカに居たんだと思います。両方の国に居たのかも知れません。凄いアイデアがポンポン出てくるわけですよ。でもいくらアイデアが出てきたといっても、実現させるとなるとこっちは出来るか出来ないか分かりませんから、とにかく大変でした。

市川:そうだったのですね。そういう経験を重ねて、シグマが一皮むけたような気がしたのはこの21-35mm(SIGMAズーム・ガンマ21-35mm F3.5-4)だと思いましたが、もっと困難なチャレンジはありましたか?

内田:難しかったのは80-200mmかな?

市川:F3.5-4のハイスピードズームですか?

内田:もっと古いものです。当時80-200mmのF3.5-4クラスのレンズはもう市場にありましたので、会長に言われたのは「これをF3.3にしろ」というものでした。設計してみて一番驚いたのが、前玉の口径がF3.5のスペックのままでは駄目なんですね。でもF3.3の口径にすると、当時使っていた研磨機では磨けなかったのです。

市川:前玉が大きくなるということですか? 50mm標準でも、F1.4とF1.2では前玉の大きさが全然変わってきますものね。

内田:そうそう、それと同じことが起こるわけです。だから研磨するのにすごく苦労したのです。と言っても研磨そのものに苦労したのではなくて、研磨したものが設計通りに正しく磨けているかどうかが分からなかった。

というのも、当時は検査するために使えるのが原器(測定の基準となる標準器)しかありませんでしたから。当時使っていた原器ではレンズの端の研磨精度がどうやっても測定出来なかった。だからどう工夫して検査しても、良いのか悪いのかがよく分からなかったのです。

それを見ていた会長が「F3.5でも良い、と言ったらどうなる?」と言うから、それなら楽に出来ますよ!と答えました。

市川:あの時代はズームでF3.5なら十分に明るかったのではないですか? 当時のズームと言えばF4とかF4.5が当たり前でしたよね。

内田:そうです。F4とかF4.5が普通ですから、F3.5は明るいですよ。

市川:凄いことをやっていたんですね。

SIGMAハイスピードズーム 80-200mm F3.5

内田:そういう苦労があったからインナーフォーカス(リアフォーカスを含む)の400mm F5.6が出来たのです。インナーフォーカスということは中玉や後玉が動く訳ですから、当然芯ブレ(可動部の影響で内部の光軸がずれること)もするのです。ここに響いてくるのがレンズの面精度なんですよ。

市川:内田さんが一番思い出深いレンズというのはどれでしょうか? やはり400mm F5.6でしょうか?

SIGMA 400mm F5.6

内田:そうですね。それまでは登山に持っていける望遠レンズがなかったのです。ペンタックスの300mm F4だったかな? 当時それを買ったのですが、登山に持って行ったのはたったの1回でした。あのレンズはこの400mm F5.6の3倍の重さがあったので、重くてバテてしまって動けなくなるのです。

市川:この400mm F5.6は軽いですもんね。そういえば、内田さんにはインナーフォーカスという機構についての解説もお願いしたことがありましたね。写真工業の「カメラ・レンズ百科」(1983年)という本でした。

内田:ああ、そういったこともありましたね。

マルチコートとノンコート

市川:もう一つ内田さんの思い出で興味深いお話がありまして。コーティングの重要性についてお話を伺った時に、内田さんがズーム・アルファIII 35-135mm F3.5-4.5で、コーティングありとコーティングなしの2本を作ってくれたんです。

コーティングのないレンズは、マルチコーティングしてあるレンズに比べると透過率はずっと低いんですよ。でもニュートラル感や透明感のある写りがあった。実際に比べることができたのは面白かったですし、そういったものをパッと作ってくれたというのがとても嬉しかったです。

SIGMAズーム・アルファIII 35-135mm F3.5-4.5

内田:いやぁ、工場の連中はカンカンになって怒ってましたよ(笑)。

市川:怒ってたんですか?

内田:怒ってましたよ(笑)。「何で硝材をそんな実験に使うんだ?」って、さんざん怒られました(笑)。

市川:今となっては楽しい思い出ですね。コーティングに実際どういった効果があるのかをしっかり見せてくれたというのは、本当に良い経験が出来たな、と思っています。

現在ではシングルコートからマルチコートになって、マルチと言っても3層4層といった数ではなくて10層を楽に超える時代ですし、特にズームレンズだと構成枚数も多くてコーティングの効果も大きいですから、コーティングなしというのは考えられません。

今でもレンズ1枚でコーティングのありとなしを見せてくれるところはありますが、レンズ丸ごと1本でコーティングのありとなしを作ってくれるというのは、なかなか有り得ないことだと思います。

内田:いやね、僕自身としても知りたかったというのがあります。

市川:それらのレンズでちゃんと写真を撮った結果、そういった違いが現れましたからね。クラシックカメラ界隈で"戦前玉"と言われるノンコートのレンズにも相通じる、純粋でクリアな写りというのがあると思いました。

寄れる超広角レンズに秘密あり

市川:21-35mmについてもお話を聞かせてもらえませんか?

内田:このレンズで苦労したのはレンズの中肉です。12枚構成になっています。最新のレンズだと17〜18枚構成のものはザラにありますが、当時はそういったものは考えられなく、加工出来るわけがありませんでした。

このレンズでは12枚のレンズの中肉をピッタリ合わせろと言われましたが、当時は加工が本当に難しくて、すごく大変でした。今は17枚でも精密に加工をやっているわけなので、本当に凄いことですね。

市川:このレンズの設計は中川治平さんですよね?

内田:そうです。この21-35mmですが、広角側は21mmまでどうしても欲しかったのです。シグマ スーパーワイド 24mm F2.8 (I型)の最短撮影距離が18cmだったのでこれは都合が良いと登山に持って行ったのですが、このレンズで手前に高山植物を配置して背景に山の頂上を写し込むような構図にすると、山の頂上までは被写界深度がちょっとだけ足りない。F22まで絞り込んでもちょっとだけ足りないんです。

ところが焦点距離を21mmにするとピッタリ深度内に来るのです。だから何としても広角側は21mmにしたかった。24mmと21mmの、この3mmの差っていうのが全然違うんです。これは誰にも言ってない話ですが(笑)。

SIGMA スーパーワイド 24mm F2.8。最短撮影距離は18cm

市川:自分の趣味でレンズを作っちゃった(笑)。

内田:当時の著名な山岳写真家で、24mmで18cmまで近づけることのありがたさを理解してくれる人は少なかったのです。「そんなに絞り込んで使うもんじゃない。そういう写真が撮りたいならシノゴ(4×5:大判カメラ)で撮れ」という考えなんですね。

でも個人が山にシノゴなんて持っていけるわけがないじゃないですか。彼らはお弟子さんを何人も抱えて、お弟子さんに機材を背負わせて撮影に行くけれど、僕らは写真家じゃなくて記録や実験で撮っているわけだから、最悪写らなくても良い。ということで、そもそもの目的も使い方も違うため、どう説明してもなかなか理解してくれなかったのです。だから24mmで18cmまで寄れると説明しても、山岳写真家には喜んでもらえませんでした。

だけど高山植物を撮ってる人達は、山は小さくても良いけど植物は大きく写したいという気持ちが強くあるんですよ。だからマクロレンズで花を大きく撮るんです。だけどマクロだと山が写らないから、縦位置で21mmを構えて、画面の一番端っこに花を配置して奥側に山を入れて、無限遠までピントが来るようにF22まで絞り込めば、花がでっかく写ってさらに山のてっぺんまで写るのです。

市川:確かにそういう写し方はありますね。

内田:その撮り方で上手くいくと、また撮りたくて仕方なくなるんです。

市川:レンズを作るのに、そういう"必要とされている"ところからヒントを得ていたのですか?

内田:いえ、会長が「こういうレンズを作ろう」と言った後に、どうやったらそのレンズを面白く使えるか? ということをいつも考えていました。それが僕の役目だと思っていましたから。

市川:どうやったらレンズを面白く使えるかを考えることが役目である、というお話はとても興味深いですね。そう考えるようになったきっかけは何でしょうか? 先程お話にもありましたが、山が大好きだった青年が仕事に熱中するようになったきっかけでもあるのでしょうか。

内田:1961年に会社に入ってからシグマ研究所に行った時、200mm F4の試作品を見せてもらいまして、ファインダーを覗くと被写体の見えた大きさに感動しました。すると感動している僕の姿を見た会長に、テスト撮影をやれと言われました。テスト撮影の報告をするのに会長と話していると、会長のものづくりに対する情熱と自分の山に対する情熱は同じだと思うようになったんですね。

市川:情熱にシンパシーのようなものを感じた、ということでしょうか。

内田:そうだと思います。だから会長が示す「こういうレンズを作ろう」という目標を一生懸命考えて実現することが楽しくなってきて、それが大好きな山登りよりも達成感があった。その結果が、工場の片隅で寝泊まりするようになったということです(笑)。

高性能の追求へ

市川:レンズに話を戻しまして、シグマと言えば"特徴のあるレンズ"が多かったですが、ある時期から"写りが良い"というイメージに変わってきたのはこのレンズ(SIGMA アポ ズーム イオタ50-200mm F3.5-4.5)の頃だと思うのですが、いかがでしょうか?

SIGMA アポ ズーム イオタ50-200mm F3.5-4.5

内田:そのとおりです。このレンズで苦労したのは、前玉に低分散ガラスを使ったことです。HOYAさんで低分散ガラスの試作を始めたというのを聞いて、レンズ設計部に設計してもらったのですが、この低分散ガラスは加工が出来ないんです。

市川:加工が出来ない、というのは?

内田:ガラスが丸く加工されて、プレスされて試作部品が出来て、30個だったかな? これを研磨しろと言われて研磨すると6個綺麗に研磨できたのです。それで「出来た!」ということでコーティングしたんです。それでコーティングの機械から取り出したら全部駄目になってしまいました。

市川:駄目になるというのは?

内田:低分散ガラスは温度差が40度あると割れてしまうんです。ひび割れてバラバラになるというのではないのですが、真っ直ぐ一本線が入ってしまう。コート材を蒸着する機械を開けると「パリパリパリパリ」と音がするのです。何だこの音は?ということでレンズを手に持ってみても肉眼ではちゃんと綺麗なままなんです。でも、置いたらパカっと割れちゃう。

市川:ではアニーリング(焼なまし)のようにゆっくり除冷していかないと駄目だった、と?

内田:そうそう、そうだったんです。それが分かってコーティングして、熱を飛ばして、機械を開けるのは明朝。だからその日の作業の最後にこのアポ ズーム 50-200mmF3.5-4.5の前玉をコーティングして帰宅しました。

それで翌朝出社すると、ドアがノックされて「これからコーティングの機械を開けます」っていうから「ちょっと待て、オレも立ち会う!」って言って、はじめての時はもうドキドキしましたね。それで機械を開けてみると、割れなかったんです。

だけど、コーティングが出来たレンズをすぐには試すことが出来ませんでした。というのもレンズを鏡筒に取り付けるには鏡筒の形状に合わせて芯取り加工をしなくてはいけません。でも芯取りするのにもレンズを削りますから、そこで熱が出るわけです。これをどうやって冷やせば良いか分かりませんでした。

結局もの凄く時間をかけて削りましたが、結果は芯が出ませんでした。だから1回目の部品は組付けが出来なくて試せなかったのです。なので2回目の部品をその日の最後にコーティングの機械に入れて、また翌朝です。今度は芯取りのやり方も分かったので上手く組み上げらました。それでファインダーを覗いてみてびっくりしました。あまりにも良かったから。色ズレが全然無いんですよ。それは見事でした。

市川:このレンズはすごく性能が良かったですよね。世間一般に認められたというか。

内田:ええ。たくさん買っていただきました。

市川:シグマは今でこそArtラインのような高級レンズが名を馳せている訳ですが、僕はこのレンズが登場した辺りからシグマは性能を追求するようになったのでは、と考えています。

内田:そうですね。ガラスの材料の性質と、研磨や芯取りでもの凄く苦労したということで思い出しましたが、会長から電話が掛かってきた時に、研磨や芯取りで苦労したというのを伝えたら、すぐに新しい研磨機を発注してもらったことがありました。

僕らはその事を知りませんでしたから、ある日突然新しい研磨機が届いた!と大騒ぎになりまして、それは今までの研磨機とは全く違うシステムだったんです。試してみたら一発で綺麗に加工出来たんです。そういう行動力が凄かったんですよね、会長は。

市川:会津工場に見学に行った時に、工場のほとんどの機械設備は山木会長が決めてると伺いました。

内田:そうです。全て会長が決めていました。その時代は会長が発注までしていましたからね。今はもう会長は亡くなってしまっていますが、新しい発想で、こんな機械が欲しいという声があがれば、発言者に「お前が要求するものがちゃんと作れるかどうか、その機械をしっかり確認してこい」ということで機械を作っている会社に見学に行かせて、見たあとは電話も掛けさせるのです。

そして「確認しました。大丈夫です」っていう返事があれば、電話を切ってすぐにその機械を作っているメーカーへ電話をかけて、そのまま発注してしまうんです。会長の名前で発注すると、何も文句なくメーカーはすぐに機械の製作を始めてくれるみたいでした。だから届くのが早いんですよ。

市川:偉大な方でしたね。

内田:そうですね。

市川:僕の会長の思い出というのは、1974か1975年だったかな? 狛江のシグマ本社に呼ばれて、当時スクリューマウントから各社が独自のバヨネットマウントに移行していてマウントが乱立していた時に「皆でマウントを共用・共通化しましょう」というお話をされていましたね。その他にも「これからは世界に目を向けていかなくちゃ駄目なんだ」という事を強く仰っていて、中国などに視察に行かれていた事が印象的でした。

内田さんの撮る写真

市川:それでは内田さんの撮った写真を見せていただきましょう。

内田:今はもうデジタルにどっぷり浸かってますよ。僕は今年になってフィルムを1本も使ってないんじゃないかと。

デジタルでの作品。接写リングやパートカラーといった効果を取り入れている
SDカードをプリンターに直接差し込んでプリントしているという
sd Quattro Hによる紫外写真と赤外写真

市川:内田さんも紫外線や赤外線写真をやっていたんですね!

内田:火をつけたのは市川さんじゃないですか(笑)。市川さんに先生を紹介してもらって、今じゃエライことになってますよ。デジタル一眼レフは撮像センサーのカバーガラスで紫外線をカットしているし、レンズも紫外線をカットした設計をしているから、撮影がすごく難しかったですね。最初は全く写りませんでした。

市川:レンズも紫外線専用のものが以前はありましたからね。ペンタックスで言えばクオーツタクマーのような人工水晶を使った特別なレンズがありました。

内田:そうそう!

市川:光学ローパスフィルターを除去すれば赤外写真や紫外写真が撮れると思っている人が多くいらっしゃいますが、センサーのカバーガラスでIRとUVがカットされていますから、実際には「疑似」であって正しくはないのです。

内田:僕は赤外写真はIR90フィルターで撮っています。カメラはsd Quattro Hですね。

SIGMA sd Quattro H(2016年)

市川:IR90というと900nmでカットするフィルターですね。sd Quattro Hはどうですか?

内田:すごく使い心地が良い。

市川:マウント部のダストプロテクターを外して撮影している?

内田:そう、あれを外しています。

編集部:あのダストプロテクターは割ってしまいやすいと聞いたことがあります。

シグマ広報 桑山:sd Quattroシリーズからダストプロテクターの装着の仕方が変わりましたので、以前のSDシリーズに慣れた人が同じつもりで装着しようとすると割れてしまうことがありました。取扱説明書には装着の仕方を記載しているのですが、慣れた人ほど失敗してしまいやすいです。このダストプロテクターを取り外すとホコリが入ってしまいますので取り扱いは慎重にお願いします。

内田:sd Quattro Hはすごく着脱がやりやすくて、僕はしょっちゅうやっていますよ。

シグマ広報 桑山:SD1は着脱を前提にしていませんでしたので、一度取り外してしまうと装着するのがやや難しい面がありましたが、sd Quattroでは着脱をすることを前提に設計しているので、説明書の通りにやればとても簡単に着脱できます。

市川:山の写真を見せてもらってもいいですか?

1999年。南アルプス赤石岳 先行する佐久間氏

市川:この写り込んでいる人は誰ですか?

内田:ラムダの佐久間氏です。

6×4.5と6×9とシノゴ(4×5in)を1枚ずつ持ってきました。

2005年。常念岳から槍・穂高を望む(6×4.5)
2005年。瑞牆山(6×9)
2000年。堂所山(4×5in)

編集部:やはり大きなフィルムは良いですね。扱いには緊張しますが。

市川:昔は印刷屋さんでフィルムを傷つけて大問題っていうことがよくありましたね。今はデジタル画像で控えが残るから大丈夫。

シグマ広報 桑山:もとのフィルムが傷ついていても、デジタル化してある程度は直せますからね。でも、全てデータ化するのは大変ですね。

市川:デジタルカメラで複写するのが楽ですよ。例えばシノゴなんてスキャナーで読み込むと時間がかかりますから。乳剤面を上にしてピントを合わせて、後から撮影データをひっくり返せば良い。コツは、フィルムの周りをマスクで覆っておくことです。覆ってないとフレアがすごく出てしまうので。

内田:それは試してみなければ!フィルムの周囲は覆わないと駄目ですよね。

シグマ広報 桑山:sd Quattro HのSFD(Super Fine Detail)モードで複写するととても良いですよ。このためにあるような機能だと個人的に思っています。ただ、1カットのために7枚撮影するためデータ量がもの凄く大きくて、約1カットで350MBを超えてしまいます。それでも、グラデーションが良く出るので、フィルムから直接プリントするよりもsd Quattro Hで複写してプリントした方がキレイです。これこそは!という1枚にオススメです。

シグマのカメラ

市川:内田さんがシグマに在籍していた当時から、シグマはカメラを作っていましたか?

内田:もちろん、SA-300がありましたよ。

SA-300

市川:あ、Merrillとかじゃなくて、フィルムカメラのSA-300ですね。それはそうですね(笑)。ついデジタルカメラのつもりで話をしてしまいました。でっかい「SIGMA」というロゴがデザインされた1号機(Mark-I。1975年)に携わってますもんね。

シグマ広報 桑山:お話が出てきたところで……。Mark-Iの実機があります。

内田:おお、Mark-Iだ。

市川:キレイですね、このMark-I。どこに仕舞い込んでいたのですか?(笑)。

シグマ広報 桑山:実は、弊社社員の私物です(笑)。

市川:ちゃんと動きますね、しかもすごく状態が良い。Mark-Iはスクリューマウントですが、SA-1でペンタックスのKマウントになりましたよね?

内田:そのとおりです。SA-300でシグマ独自のSAマウントが採用されました。

市川:Foveonセンサーを積んだデジタルカメラには携わっていますか?

内田:Foveonについては、僕は全く口出ししていません。開発の最初の頃にこのセンサーで写真を撮ってこいと言われましたが、どうしても写せなかった。

市川:「写せない」というのはどういう意味ですか? フィルムじゃないからピンと来なかったという感じですか?

内田:そうですね、おそらく"デジタル"だから駄目だったんでしょうね。フィルムの感覚で撮ろうとして駄目だった。ピンと来なかった、そういう感じでした。

シグマ広報 桑山:当社のデジタルカメラはSD9(2002年)からですね。当時のフィルムカメラのSA-9にデジタルデバイスを詰め込みました。残念ながらSA-9の大きさにはなりませんでしたが、SA-9をベースにしているのでSD9という名前になりました。

SIGMA SD9(2002年)

内田:当時はデジタルといっても外観はフィルムカメラそのもので、フィルムの代わりにデジタルセンサーが詰まっただけだろうと思っていました。なので僕もフィルムカメラのつもりで「撮影してきてやる!」って言ったんだけど、操作しても反応が悪かったりAFが合わなかったりして、撮れなくなっちゃった。

シグマ広報 桑山:それは……試作機だったからだと思います(苦笑)。製品版はちゃんと動作していました(笑)。当時のSD9とSD10はまだ電源が一次電池でした。つまり、電池切れになる度に新しい電池を買う必要がありました。

Lマウントアライアンス

市川:カメラの話になったところで、2018年のフォトキナで発表になったライカとパナソニックとシグマで協業する「Lマウントアライアンス」への参加についてはどうお考えですか?

2018年、Lマウントアライアンス記者発表で編集部撮影。左からシグマの山木和人氏、ライカカメラAGのアンドレアス・カウフマン氏、パナソニックの北川潤一郎氏

内田:僕はとても良いことだと思っています。って、僕がこんな事を喋っていいのですか?(笑)

若い人たちに「何も言うべきことはない」(内田さん)

市川:現社長の山木和人さんに思うことはありますか?

内田:シグマの次の目標であるLマウントのフルサイズミラーレス機、おそらく2020年に発売されると思いますが、これに大きく期待しています。現社長は若い開発者や人材の育成に成功していますし、大口径レンズを高性能に出来たことをとても頼もしく思っています。

明るいレンズは過去に開発に失敗していまして、1973年にやっていた135mm F1.8がありました。これを魅力ある製品にしてくれたことにはとても感激しました。

2018年。自社イベントでLマウント戦略について説明する山木和人社長

シグマ広報 桑山:新旧の135mm F1.8がここにありますよ。

内田:え、135mmあるの? ちょっと見せて!

左は現行品の「135mm F1.8 DG HSM | Art」

シグマ広報 桑山:どうぞどうぞ! 旧135mmと新型は全く設計思想が違いますから"新旧"というと少し語弊がありますが、新型の135mm F1.8 DG HSM | Artは全く新しい設計です。

市川:この旧135mmも綺麗な玉ですね。社内に残っていたやつですか?

シグマ広報 桑山:これも社員の私物です。今回の取材のために持ってきてもらいました。

内田:こんなにでっかいレンズを研磨しちゃうんだからねぇ。はぁ〜凄いね。

シグマ広報 桑山:加工技術も機械も進んでますから、今まで出来なかったことが出来るようになる可能性はありますね。

内田:新しい14mm F1.8は前玉を見たらビックリしますよ。レンズを横から見て、非球面の形状が目視できるのですから。

14mm F1.8 DG HSM | Art(2017年)

シグマ広報 桑山:80mm径の非球面レンズを作れるようになりましたので、高性能な14mm F1.8の製品化に漕ぎ着けました。仮に80mmの非球面が無くてもスペック上の実現は出来たと思いますが、好ましい周辺画質に達しないなど、性能的要求の面から製品化は出来なかったと思います。

市川:最後になりますが、現在のシグマの若い人たちに想うこと、言いたいことはありますか?

内田:僕の時は「やりたいことがあっても材料が無い」や「やりたい加工があっても加工できる機械がない」という時代でしたので、僕はそれをどうやって乗り越えるか?ということで苦労してきました。でも現在では何でも出来るしたくさんの材料がある。これは凄いことです。

2010年から2017年までの7年間で7本の大口径レンズを開発していますが、大口径非球面レンズの設計と会津工場の加工技術の連携には、若い力を感じました。だって高校を卒業して1年も経たない若い人たちが、平気な顔をしてトンデモナイ加工を当たり前のようにやっているんです。これには本当に感心します。だから僕は、若い人たちには何も言うべきことはありません。

インタビュー後日、7月11日のシグマ新製品発表会にて。開発発表機「SIGMA fp」を手にする内田さん。撮影:市川泰憲

今後Lマウントのフルサイズに移行するためには多くの開発が必要になると思いますが、いま僕はsd Quattro Hで楽しい思いをさせてもらっているので、フルサイズにも期待しています。

豊田慶記

1981年広島県生まれ。メカに興味があり内燃機関のエンジニアを目指していたが、植田正治・緑川洋一・メイプルソープの写真に感銘を受け写真家を志す。日本大学芸術学部写真学科卒業後スタジオマンを経てデジタル一眼レフ等の開発に携わり、その後フリーランスに。黒白写真が好き。