写真業界 温故知新

第3回:藤森幹二さん・野口智弘さん(元リコー商品企画)

左から野口智弘さん、市川泰憲さん、藤森幹二さん

2019年3月に発売された「RICOH GR III」は話題の人気カメラです。かつてリコーというと、二眼レフやサンキュッパのXR 500などお買い得な普及価格カメラ、さらには事務機で名を知られていましたが、1996年に発売されたGR1以来、フィルムからデジタルの時代を通して高級コンパクトカメラを製造する企業としての名声を築き上げました。そこにはカメラを作る側にどのような意識の変革があったのでしょうか。GRシリーズの商品企画を最初からされた藤森幹二さんと、引き継いで最新のGR IIIまでをつくり上げ、7月に引退されたばかりの野口智弘さんにお話をお聞きしました。(市川泰憲・日本カメラ博物館)

カメラの商品企画とは

市川:おふたりのリコーでの業務に共通していたのは「商品企画」ですが、まずは商品企画というお仕事についてお聞かせください。

藤森:私が在籍していた当時のリコーの商品企画ということでお話します。一般的に、会社には経営のビジョンがありますので、そのビジョンの先にある"あるべき会社の姿"を達成・実現させるために、

・新商品はどうあるべきなのか?
・どんな方向に進むのか?
・どんな戦略で市場を勝ち抜いていくのか?

ということを議論し、個々の商品について考えていくというのが本来あるべき商品企画の姿です。

しかし私が入社した時のリコーはそうではなくて、

・会社がどっちを向いているのか?
・どこを目指しているのか?
・どんな会社になりたいのか?

こういった会社のビジョンが希薄でした。

例えば会議で「現在の売上を〇〇億円まで引き上げたいね」という話になれば、「じゃあ商品計画を出しなさい」という単純な指令があるだけの体制でした。

僕が入社したのは1970年なのですが、その当時リコーのカメラ事業は会社全体の売上の5%あるかどうかの、乱暴な言い方をすれば「お荷物」というか「お遊び」なのか、そういった規模感でした。基本的な教育などもなく、上役は「次の商品計画を出せ」と繰り返す有様で、また指令が出ても、私達としては「そもそも今の商品計画って何?」という状態でした。

市川:私は部外者の立場からですが、藤森さんと同じ1970年に写真の業界にかかわり、当時のリコーをずっと横で見ていたので、藤森さんのお話はとてもよく分かります。藤森さんは1970年入社で、それからずっとカメラ一筋ですよね?

藤森:そうです。一筋なので潰しがきかない。

市川:それはご謙遜だと思いますよ。先ほどの「商品企画とは何か?」ということについて、今の「リコーらしさ」のようなものが出てきたのは、やはり1996年に発売された初代のGR1あたりからかと僕は思っています。

リコーGR1(1996年)

藤森:そうですね。でも実はGR1のひとつ前のR1から変化しはじめていたのです。私が入社した頃、リコーの国内向けカメラはオートハーフとハイカラー35という、ぜんまいバネによる自動巻き上げの機能を持った、初心者でも使えて「一家に1台あれば家族みんなが撮影を楽しめるカメラ」というのをユニークなデザインで発売していました。

リコーオートハーフ(1962年)

いっぽう当時の海外市場で要求されたことは、「日本製のカメラで、お手軽で、お買い得なこと」でした。

私たちとしては「日本と海外のどちらの方針をメインでやるのか」「一本化しないのか」「もっと別な経営戦略があるのでは」などの思いがありました。先ほどもお話しましたが当時のリコーには明確なビジョンが無く、"お買い得路線を進みつつ、時々ファミリー向けや面白いものを織り交ぜつつ"、というやり方でした。

でも1980年くらいだったでしょうか、その頃から価格帯ごとのセグメントで攻めていこうという気風になり、だんだん商品ラインナップの整理が進んでいきました。それでもお買い得路線はずっと継続していました。お買い得路線とはデジタルカメラで言えば、同じ値段だけどライバルより画素数が多かったり、オマケのスペックや機能があったりという、競合よりも「お買い得である」ことです。

1990年代のカメラにおける勝負ネタはズームレンジの広さで、特に望遠側の焦点距離の長さを競っていました。例えば35-70mmというレンズがあったとします。これを次は35-80mmにします。その次は90mm、また次は105mmにしよう、110mmにしよう、という風にです。しかし毎回レンズ設計をやっていたら大変ですから、初めに35-110mmのレンズを作っておいて、例えば今年は80mmまでで止めておこう、という感じで発売していきました。

市川:それは知りませんでした。でもそのような作り方は聞いたことがあります。その頂点は1988年発売の「MIRAI」(ミライ)ではありませんか?

リコーMIRAI(1988年)

藤森:MIRAIもそうですが、その前に……レンズの話ではありませんが、他のカメラメーカーさんでシャッター速度の1/1000秒がどうしても出せなかったから、まずは1/500秒が切れる一眼レフを安い価格で出したという例がありましたよね。

市川:リコーでいえば、XR 500とXR-2、XR-1のようなカメラでしょうか?

リコーXR-2(1977年)

藤森:はい。それは他社にもありました。この目的は生産の歩留まりを良くするということと、コストを下げること、そして開発効率を上げることが目的で、「ズルい」ともいえますが、共通化とか効率化といったことをやっていたわけです。

ユーノス・ロードスターみたいなカメラ

市川:そこから脱皮して、高級路線のGRシリーズが生まれた経緯についてお話いただけますか?

藤森:1994年か1995年に「このままではリコーのブランドイメージは上がらないし、皆が面白くない」ということでカメラ事業の見極めに来た縄手隆夫さんという専務取締役がいました。でも縄手さん自身は温情派で、ミイラ取りがミイラになったようなところもあり、「カメラは面白い。もう少しやりようがあるのではないか?」と言い始めました。

それで「君らはこんなお買い得路線のカメラばかりやっていて面白いのか、いったい何を実現しようとしているのか」と色々な人たちに投げかけて、意見を求めてくれました。でも彼の部屋に呼ばれるともれなく長時間の説教も付いてくるので、みな恐れていました。

市川:1995年だったかな? おもしろい人を紹介するからと、僕も縄手専務の部屋に連れていかれて、2時間半捕まりましたよ。

藤森:我々が呼び出しを食らったらとても2時間半では済まないから、まだマシですよ(笑)。

それで、「そうだよな、こういうお買い得路線がやりたくてカメラを開発しているのじゃないよね」と色々な人たちが考えるようになると、1人の設計屋さんが「うちではビッグミニを作れないよね?」と問題提起してくれました。

コニカビッグミニ(A4)、1989年

これはどういうことかというと、ビッグミニは単焦点レンズでカメラをとても小さくまとめて、可愛らしいデザインで、それでいてちょっと高品位な質感を持っています。だけどカメラの機能を絞って、スペック的には派手なところがない。お値段的にはズームが付いたカメラと同じくらいなコンパクトカメラでした。

その設計者は「こんなカメラをリコーでも作ってみよう」と提案してくれたのです。確かに、お買い得路線でオマケのスペックを足すことばかり考えていたから、こういったカメラを作る発想は無かったよね、と皆が話し合うようになりました。

当時の僕はさらにヒントを探るために異業種の方々と交流していて、そこでたまたま自動車業界の人たちと親しくなりました。すると彼らは「マツダのユーノス・ロードスターみたいな車を作りたいけれど、あんな車はなかなかできないよね」と話してくれました。それがきっかけで、僕は「ロードスターみたいなカメラはどうだろうか?」と考えるようになりました。

当時はどんどんカメラが大きくなっていましたので、究極に小さなカメラを作ったらどうだろうかと思いつきました。そこで「36枚撮りのフィルムで、たとえ20枚しか撮れなくても良いから、フィルムの巻き取りスプールの上限を20mmに設定してカメラを作りたい」と発案したところ、設計屋さんが乗ってくれたのです。

「フィルムパトローネの直径は25.5mmあるので、そこはグリップとして持ちやすくなるようにボディを膨らませば良いけれど、それ以外は厚さ20mmのボディに収められるかもしれない」と、名刺の空箱に部品を詰めて、設計と試作を繰り返してくれました。そして「20mmは難しいけど、22mmなら大丈夫かも」と大いに盛り上がりました。

そして、こういうカメラを作りたいとメンバー内で動いていると、営業から「20枚しか撮れないカメラが売れるかよ」「ズームじゃないカメラが売れるかよ」とさんざん怒られました。でも当時の事業部長だった縄手さんに話を持っていったら「面白いから、やれ」と言ってくれまして。

通常では営業が新商品に対する販売計画を出さないと開発が認められないのですが、縄手さんは「そんなものはいらない、お前らが作りたいものを考えて持ってこい。そうしたらその案で、自分たちで販売計画を作ればいい」「売れるか売れないかは出してみなければ分からないし、売れるように工夫することを"計画"と言う」と後押ししてくれまして、これがスタートになりました。

そうしてリコーが初めてお買い得路線ではないカメラを出したのが、1994年発売の「リコーR1」です。

リコーR1(1994年)

R1の開発にあたっては、一眼レフユーザーにも使ってもらえるように配慮した点があります。フォーカスの状況、パララックス補正などをファインダーで確認できるような液晶表示にしました。

市川:いろんなカラーリングもありましたよね。

リコーR1モスグリーン

藤森:派手な色では、金色が2つありました。R1は金ピカで、その後に出したR1sはマットなゴールド。2度も出してしまいました。

リコーR1ゴールド
R1(上)とAPS-Cセンサー搭載のGR(下)

当時のリコーにいらしたマーケティングの顧問から、「お客さんがどんなものを写しているのか調べてごらん」という宿題が出ました。どうすれば良いか分からなかったので、愛用者カードに「謝礼を出しますので、もし良ければ撮影した写真のネガを借りてもいいですか?」とアンケートを付けたのです。社内では「ネガ借り調査」と呼んでいました。

すると、チャートを撮って解像力をチェックしたり、絞りによる画像の変化ですとか、そういった写りのチェックをやっている方が非常に多くいました。アンケートを見てみると「コンタックスのT2よりも〇〇だ」といったようなことも書かれていて、10万円のカメラと比較されていることがわかりました。

R1は定価4万円でしたから「実売ニーキュッパのカメラが10万円のカメラと勝負できる可能性があるんだから、現状では損をしている。ウチも高いカメラで勝負すれば売れるのではないか?」という話で盛り上がりました。

この話を詰めて縄手さんのところに持っていったら「やれ。どうせフィルムカメラはあと数年の命だから、今からブランドとレンズの技術を高めていくことは絶対に必要だ。さっさと計画を詰めろ」と言われ、その結果として考えついたのがGRでした。GRは、R1をベースに価格を上げるのではなくて、R1をベースにより良い究極のコンパクトカメラを作ろうということを目標に作られました。

といっても、当時ブランドイメージのないリコーがいきなり10万円のカメラを作っても上手くいくはずがありませんから、これを発売するための作戦を野口くんが中心になって考えてくれました。オピニオンリーダーの意見を聞いてくれたり、他業種でニッチな商品を取り扱っているところに話を聞きに行ってくれたり、ここ数年間でブランドイメージが上がった企業のやり方を学んだりして「何故いまGRなのか?」というストーリーを考えてくれました。

野口:リコーはコストパフォーマンスで戦ってきた時代が長かったのです。3万9,800円のXR 500などは露骨な価格訴求でヒット商品になりましたが、その成功体験を引きずってしまっていたのかもしれません。

リコーXR 500のカタログ(1978年)

カメラに限らず、3番手以降のメーカーは"コスパ"で戦おうとする傾向があります。しかし生産、物流、商流など何らかのビジネスモデルでの差別化や強みを持たずに、高機能な商品を割安に、競合より少ない販売数量で売り続けていたら、継続的な事業になるわけがありません。

ところがブランド力が弱くてシェアが低いメーカーに限って、それをカバーしようとコスパに走るのですね。まさにリコーがそうでした。これでもその市場が急成長のステージにあれば何とかなりますが……リコーがそんな負のスパイラルを抜け出すきっかけを作ったのがGRだったと思います。

また、商品ラインナップについては1万円、2万円、3万円の3つの商品ではなく、2万5,000円の商品を3つ揃える方法もある、ということにGR DIGITALを出す少し前に気付きました。リコーには9,800円から5,000円刻みでラインナップを揃えていた時代もありましたが、これは完全にフォロワーのやり方です。

MIRAI(1988年)というブリッジカメラはAF一眼レフを断念したストレスとか反動が作らせたものと思いますし、高倍率ズームコンパクトもマイポート330 SUPER(1995年)を出すまではキワモノばかりでした。これはアイデア勝負の前に、まず"リコーが考えるカメラの普遍的な価値"を定義するという部分が甘かったのだと思います。

マイポート330 SUPER(1995年)

こうしたいろんな失敗を経てGRが誕生し、GRによってまた新しい学びがあった、ということです。

市川:1990年代後半の高級コンパクトカメラというと、コンタックスT2やミノルタTC-1などがありましたね。

藤森:T2がトップを走っていて、TC-1とかニコンの28Tiとか35Tiとかが参戦してきました。でもやはりT2が王様だった。T2が外装にチタンなどの豪華な材料を使っていましたね。

市川:他に京セラらしく、シャッターレリーズボタンが赤い人工サファイアで、ファインダーがサファイアガラスで、フィルム圧板はセラミックでした。

藤森:そう、それに対して「うちは"道具"で行こうぜ」と。消し炭みたいなザラザラの外装で、素材はマグネシウムを使おうということを縄手さんが考えました。でもマグネシウムは仕上げが綺麗にいかなくて相談したら、「綺麗じゃなくて良いだろう。ザラザラするには理由があるから、それをきちんと伝えれば良いし、それが使い勝手が良いとなればそれでいいじゃないか」と。

市川:僕が2時間半捕まった時は、縄手さんはピストルマニアだから「カメラはピストルみたいな金属の質感が大切だ。それがGRだ」ということを延々と話されました(笑)

藤森:たった2時間半で済んだのですから、それは幸せなことですよ。こうしてオピニオンリーダーの意見を聞いたり、縄手さんの思いを聞いたりしてGRをまとめ上げました。

リコーGR10。「今となっては、グリップが加水分解でネバネバするのが悩みですね。でもレンズは良いですよ。GR10が使い勝手は一番良かった。お買い得品なんです」(藤森)
ライカ互換のスクリューマウントで発売されたGRレンズ28mmF2.8L(1997年)
GR1の高画質を訴えるために限定生産されたライカスクリューマウント交換レンズ

デジタル化への挑戦と"アナログGRシリーズの頑張り"

野口:1995年に発売したDC-1が、リコーのデジタルカメラ初号機です。

DC-1(1995年)

藤森:当時、デジタルカメラは社内で"ICD"(Image Capturing Device)と呼ばれていて、「デジタルはカメラではないという扱いにしてしまおう」という考え方を会社から強制されていました。

市川:確かにその当時は他社もそうでしたね。ニコンのCOOLPIX 100と300のデザインを見ても分かりますし、キヤノンもPCカード型とか、いかに既存の銀塩カメラに寄らないスタイルで画像をキャプチャするデバイスにするかを考えていましたね。

藤森:リコーDC-1のデザインが横型になっているのも、撮影はあくまでも一瞬であるという考えに基づいています。撮影後に画像を取り込んだり編集したりする時には横長の方がボタン操作しやすいだろうということです。でも僕はこれが嫌で嫌で仕方ありませんでした。

カメラ事業ではなく、ビジネス機器のコピー機と接続できるような画像入力デバイスとして求められていたImage Capturing Device事業部では、銀塩カメラは「もうすぐ消えゆく、沈みゆくもの」と認識されていました。なので「銀塩カメラの赤字は悪い赤字、デジカメの赤字はこれから成長するために必要な赤字」と捉えられていました。

市川:それは1995年頃の全社内的な共通見解だったのでしょうか?

藤森:そうせざるを得なかった、というのが正しいでしょうね。

私は色々な部署を行ったり来たりしていて、最終的には銀塩カメラという"沈む係"をやっていました。でも、沈む係をやっていてもDC-1などを見ては「あんなモノが売れるわけないんだから、俺達が支えなきゃ!」という気概がありました。銀塩カメラの部隊は"見捨てられたアナログ人間たち"という側面もありましたので、そんなアナログ人間たちに対して会社からは「そんなに頑張らなくて良いから」というオーダーがありました。ですが、そういう気概でGRシリーズは粘ったのです。そうしたら頑張って売ってくれた人達のおかげでことのほか評判が良くて、大漁旗を掲げることができました。

ノリで作ったGR21

藤森:こちらのGR21は、大道さんモデルです。

市川:サイン入りじゃないですか。凄い! あれ?銀塩のGRにシンクロ接点なんてありましたっけ?

藤森:これは改造して付けたんです。GR21は森山大道さんをはじめ、当時の名だたるスナップシューターに使っていただきましたが、ビジネス的には本当に全然売れなかったし、私たちも売れるとは思っていませんでした。

市川:GR1をやりだした時の勢いでGR21が誕生したのですか?

藤森:そう。勢いと、頑張って銀塩カメラのほうで少しでも長生きしようという心意気です。悪ふざけというか、悪ノリでしょうか。GR21でもライカスクリューマウント互換の交換レンズを作りました。

GRレンズ21mmF3.5L(1999年)

市川:GR1から始まって、フィルム時代に「GR」は確固たるブランドを築いていったという記憶があります。

本日同席のリコーイメージング広報 川内さんは元々ペンタックスに在籍していたので、私が当時ペンタックスの忘年会に参加した時の思い出ですが、そこに呼ばれていたフリーのカメラマンの10人中7人がGR1を持っていたことがあり驚きました。

藤森:僕も当時ペンタックスに結構顔を出していまして、企画担当者や開発部長が「実はGRを使っているよ」と話してくれた思い出があります。

リコーイメージング広報 川内:GRは当時のペンタックスで商品化したくても簡単には商品化できないカメラでした。あの当時に高級コンパクトカメラというジャンルに後から参入して、ペンタックスに勝ち目があるのか?という意見や、一眼レフへ注力すべきという声もあり、参入には至らなかったようです。だから個人的にGRを買った人が多かったのだと思います。

市川:そういう事情があったのですね。ちなみに、GR21が短命に終わったのは時代的にRoHS対応(環境対応)などの事情があったと聞きましたが。

藤森:いや、これは恥ずかしながら販売が芳しくなかったから短命だったのです。

GR21(2001年)

GRもデジタルに

市川:そうした時代を経て、GR DIGITALがやってきます。GRシリーズがフィルムからデジタル化するのに空白期間がありましたよね。何年くらい掛かったのでしょうか?

GR DIGITAL(2005年)

野口:GR1の登場が1996年、GR1vが出たのは2001年で、GR DIGITALが2005年。フィルム最後のGRからGR DIGITALへ、という意味では4年ですね。

市川:なるほど理解しました。GRシリーズの商品の流れとして穴が空いたのは、野口さんの仰る通り3〜4年ほどありましたよね。

藤森:「GRのデジタル版を、今出すべきなのか?」という議論がありました。僕たちはOB的な物言いで「今発売したってどうせ画素競争に負けちゃうし、ライバル機の価格動向が良くないから、今このタイミングでは話題にならない。中途半端なモノを出すのも良くない」みたいな事を言っていました。それが2002年頃だったと思います。当時、コンタックスのデジタルカメラ、何でしたっけ?

市川:2003年発売のTVS Digitalですね。2005年にGR DIGITALが登場した時、TVS Digitalは圧倒的な人気がありました。

CONTAX TVS DIGITAL(2003年)

藤森:そう。だから未熟な状態でGR DIGITALを発売してはいけないと考えました。銀塩時代とはメンバーも変わっていたので、「GRとは何ぞや?」というのを銀塩を経験したことがない設計屋さんや事業部長、営業の人とも、皆で共通認識を持つために十分な時間を掛けて話し合いました。

市川:そうやって誕生したのですね。当時の僕の思い出といえば、細江英公さんがご自身でGR DIGITALを購入されていまして、ある日「思い通りに写らない」と相談を受けました。どうしたのだろうと思ってカメラを見せてもらうと、細江先生はフィルムカメラの感覚で露出を絞り優先にして、露出補正をしたりピントを操作したりと、あれこれ設定を変更していました。なので「先生、カメラモードはPにしてください」とアドバイスさせていただいたら解決したのです。細江先生のデジタルカメラはGR DIGITALが最初でした。

藤森:そうでしたね。細江英公さんは「いっぱい撮りたいから」と、JPEG Sのような小さな記録サイズを選んでいました。

市川:その後、パリの7区にあるロダン美術館でオーギュスト・ロダンの彫刻を中心に撮影した作品の個展をやるということで、パリに渡られていました。僕もそのタイミングで、友人知人を集めてGR勝手連として「The Independent GR」という写真展を開催しました。あの時は、ワインの差し入れありがとうございました。デジカメWatchに写真展のレポートが載っていますね。

関連記事:写真展リアルタイムレポート:リコーGR/GXで撮影した「The Independent GR」展(2009/2/5)

Independent GR写真展でGRデジタルを手に作品解説する細江英公さん。左奥には後藤哲朗さんもいます。2009年2月2日(撮影:市川泰憲)

野口:ありましたね。東京工芸大学の内藤明先生や細江先生といった、そうそうたるメンバーでした。

その後、銀座のRING CUBE(現:リコーイメージングスクエア銀座)でも2010年に「細江英公・人間ロダン」という写真展をやりました。

GRデジタルの記念イベント

藤森:このほか、GR DIGITAL 5周年は、野口くんがいろんな人達を集めてイベントを企画しましたね。

野口:そうです。サプライヤーさんとか皆を集めて、懐かしいですね。僕があまり準備に熱中するので、藤森さんから「そういうのは部下に任せて、もっと他にやることあるんじゃないの?」と叱られました。ご本人は覚えてないかもしれませんけど(笑)。でも、このイベントは自分がプロデュースからディレクションまでをやる、と決めて取り組みました。

カスタムされたGR DIGITAL III

関連記事:リコー開催の「GR PARTY」に、ニコン後藤哲朗氏がサプライズ登場 〜GR DIGITAL発売5周年を記念。会場限定グッズやファームウェアも

市川:不思議なのは、リコーのイベントなのに後藤哲朗さん(当時ニコンフェロー。本連載の第1回に登場)がGRをみんなにアピールしている。

藤森:後藤さんは早くからGRを評価してくれていましたね。よく「GRはニコンのものだ。GRのGは後藤のGだ」と仰っていました。

野口:昨年、GR IIIの発表後に後藤さんからお祝いのメールを頂きました。ずっと、そして今も憧れの人なので、すごく嬉しかったです。

市川:ところで、野口さんが一番格好良く写っている写真を持ってきました。森山大道さんと一緒に写っています。

2013年「GR」発表会で森山大道さんと対談する野口智弘さん(撮影:市川泰憲)

野口:よくこの写真をお持ちでしたね。今考えると、森山大道さんはよく出席してくれたと思います。こうしてご自身が登壇するイベントはお好きじゃないと聞いていたので。特にメーカー絡みのものとかは。

藤森:そうですね、優しくて凄く面白い人だけど、人前で喋るのが苦手というシャイな人ですから。

市川:GRは、細江英公や森山大道という偉大な写真家も前のめりになるカメラだったのですね。先日の門司でやったファンイベント(GR meet 門司)には藤原新也さんが登場してましたね。GRならではのキャスティングの妙に感心します。

野口:いつも、ご好意に甘えてばかりで……。

2015年のGR10周年ミーティングでトークするハービー・山口さん(撮影:市川泰憲)

ユニット交換式カメラ「GXR」について

市川:デジタル化したGRが現在たどり着いたのはAPS-Cセンサーですが、過去にもAPS-Cサイズのセンサーを積んだ、GRの系譜に連なるデジタルカメラがありましたね。それがGXRです。

レンズとセンサーを一体化した"カメラユニット"がいくつか用意され、液晶モニターを持つグリップと組み合わせて使うという独創的なアイデアでした。

GXR+GR LENS A12 50mm F2.5 Macro(2009年)

僕はデジタルカメラには、大きなフォーマットの良さもあれば小さなフォーマットの良さもあると考えています。例えば1/1.7型センサーと24-72mm相当のレンズをもつS10ユニットにもやはり良さがあったと思います。いわゆるより小さなコンパクトデジタルカメラ用のフォーマットである1/2.3型センサーのP10(28-300mm相当レンズ+1/2.3型1,000万画素)などでは、レンズ先端から1cmまで寄れる「1cmマクロ」のような特徴的な機能がありました。こういった様々な使い方ができるのがデジタルの良さだと思っています。

藤森:実は、それで失敗したのがGXRでした。失敗と言うと語弊がありますが、確かなこととして、途中で諦めてしまったのは失敗でした。それには理由が3つあります。

1つ目は、小さな撮像素子の魅力を我々がお客様に伝えきれなかった。そしてユーザーの嗜好に合わなかったこと。この当時のユーザーはもっと大きなセンサーで高画質であることを求めていましたが、そこを読み切れていなかった。

2つ目は、リコーのカメラ事業の規模に対してハードルが高い製品だったこと。もっとやればもっと面白いカメラになったはずでした。でもそのためには、かなりの開発人員と資金を注ぎ込まなければ達成できなかった。

3つ目は、協業できるパートナーが見つからなかったことです。

野口:やはり開発費の問題は大きいですよね。商品そのものというよりも、カメラユニットを1つ作るのにコンパクトカメラを1台作るのと同じだけの開発費が掛かってしまう。液晶モニターとバッテリーを格納するグリップが無いだけで、レンズとイメージセンサーを持つカメラユニットそのものがカメラ本体みたいなものですから。レンズだけを売るわけではないし、カメラユニットも販売数が稼げるものではなかった。

GXRを企画するときには「これはレンズ交換式カメラの理想的なシステムだ!」と、背中を押してくれていた写真家さんがいたのですが、いざ発売されるとその方は一言もGXRの話題に触れなくなりました。ヒットしていれば自慢のネタにもなったと思うんですけど(笑)、あぁこれは苦戦するな、と思いました。

藤森:「カメラユニットによっては既存のコンパクトデジタルカメラなどのレンズとセンサーが活かせるんだから、開発効率が良いはずだ」と考えてスタートしましたが、実際にはそれほど開発効率が良いものではなかった。その辺りも読み違えていました。

「ユニット交換式デジタルカメラ」GXR(2009年)

GXRはもともと"レンズ交換のできるGR"を作りたかったのです。というのも、これからはレンズ交換ができないと上級機としては通用せず、レンズ交換なしでは戦っていく上で厳しいと考えていたからです。

技術の発展によって、1つのボディで同時に3つのレンズを使いこなせたり、レンズとボディを切り離しても撮影できるとか、もっと色々な可能性があるのではないか? と関係者に問いかけていました。最初に思い描いた理想のGXRはもっとスマートな"レンズ交換ができるGR"というものでした。その言い出しっぺが僕なので、GXR失敗の戦犯は僕なのです。

市川:しかし今でもGXR、特にMマウント互換でAPS-Cセンサーを持つGXRマウントA12は多くのユーザーが使っていますし、APS-Cフォーマットは現在でも主力のセンサーサイズですから、画像を見ても違和感はありません。少し腰を据えて撮影したいときはGXRにP10(1/2.3型センサー+28-300mm相当レンズ)を組み合わせていました。高倍率コンパクトのCXシリーズとスペックは同じなのですが、こちらのほうがより気持ちよく撮れました。ただGXRマウントA12がでたときに、ライカMマウントでレンズ交換ができるようになったのでGXRも終わったなと、当時考えました。

藤森:まだ使ってくださっている方はたくさんいらっしゃいますね。しかしAFやEVFの見えというのは厳しいものがあります。あぁ、当時のEVFはこんなに小さかったんだ、と。

市川:それは仕方のないことですね。私がフォトキナやCES(国際家電見本市。アメリカ・ラスベガスで毎年開催)の取材に行くときはいつもGXRとP10ユニットの組み合わせでした。日本以外では珍しいのか、このカメラを取り出すといつも「見せてくれ」と声を掛けられたものです。

野口:いまGXRを取り出すと「新型か?」って言われるかもしれませんね(笑)

藤森:FlashAir(Wi-Fi対応SDカード)を組み合わせれば今でも快適に使えますからね。

市川:そうですね、EVFでなく背面の液晶モニターを見て撮影すれば、全然問題なく使えますし、むしろそういう撮影スタイルの方が現在主流になりました。今でも僕の周りにはGXRの現役ユーザーは多いのです。

GXRマウントA12にライカMマウントのスーパーアンギュロン21mmF4を取り付けた市川さんのGXR。手前に置かれているのは、手持ちのレンズが物理的に問題なく装着できるか事前に確認できる「チェッカー」

作品紹介

藤森幹二さん

GR
GXR

野口智弘さん(GR III)

10年続いた「GR BLOG」

市川:ところで野口さん、ブログという媒体で商品をアピールするようになったのはGR DIGITALからですよね? これは戦略的なものだったのでしょうか。

野口:戦略と言えるほどのシナリオはありませんでした。ただ、当時も商戦ごとのマスメディアを使ったキャンペーン合戦というパワーゲームへの疑問を持っていたので、それに対する批判的な挑戦ではありました。当時はファンベースという言葉もなかった時代です。まあ、予算がなくて自社メディア作るしか選択肢がなかった、とも言えるんですけど。

ブログを立ち上げる前には、当時注目されていたレガシィブログを運営している富士重工の人に話を聞きに行ったりもして、いろいろなことを教えていただきました。

結果として愛用者カードを見ると、商品を知ったきっかけは製品ページではなくブログがトップになりましたが、いろいろと勉強や失敗もありました。公式発表の前にブログで書きすぎてしまって、ある時「そこまでブログで書くなら、記事にする意味がないね」とメディアの方から皮肉を言われたことも。そういうことも、やりながら学んできました。

GR BLOG最後の記事(2015年)。現在はGR officialに継承されている

市川:経験してみなければ、役割というのは分からないですものね。

野口:昔から言われているステレオタイプな意見ですが、アメリカ人は合理的でスペックの数字が優れているものには反応するけれど、日本人が好むような「小さくてモノが良い」ものの価値は受け入れない、と言われていました。しかしイベントなどで話を聞いてみると、アメリカ人の中にもコンパクトで品質が良いものが大好きな人がたくさんいるのです。

市川:SNSの進化でそういったことが分かりやすくなりましたね。「欧米人には写真に"ボケ"という概念がない」というようなことも、実は嘘だったと気付けるようになりました。

野口:GR1を出したときも「ズームが無いカメラなんて」と言われていましたね。現場に近い人ほど、その現場の利益代表みたいに「日本で良くても、ここでは通用しない」というようなことを言いがちです。でも、本質的に良いものは良いんです。もちろん、日頃から審美眼を養っておく必要はありますけど。

そして「GR III」へ

RICOH GR III(2019年)

市川:GR IIIはGRやGR IIと同じAPS-Cのセンサーサイズですが、GR IIIになってからはこれ1台でスナップや風景写真からブツ撮りまでこなせるようになりました。僕は今までブツ撮りにはセンサーが小さく被写界深度の深いリコーのCX5を使っていましたが、GR IIIを試したところ、ブツ撮りもCXに取って代わりました。

市川さんのGR III

野口:2,400万画素になって、35mmのクロップや50mmのクロップ撮影が実用的になった、というのが関係しているかもしれません。あとは手ぶれ補正とか。

市川:最近はやりのUSB端子による充電は、 Type-Cでは、モバイルバッテリーによって充電できるものとできないものがありますね。GR IIIはモバイルバッテリーから充電でき、繋いだ状態でバッテリーパックのようにして撮影できるので、大変助かります。

リコーイメージング広報 川内:できます。ただしUSB Power Deliveryに対応した一部の機種を除くと、その状態は「給電」なので、「充電」はされません。撮影が終わってカメラの電源をオフにすれば「充電」が開始されます。

編集部:モバイルバッテリーから給電しながら撮影できるのは、以前のGR DIGITALシリーズで緊急時に単4電池を使えた感覚を思い出します。

野口:あぁ、その感覚はありますね。専用のバッテリーだけで運用するというのではないので、何かあっても汎用品で対応できるというのは良いところだと思います。

市川:それに加えて、GR IIIからはペンタックスらしい機構も組み込まれた印象があります。

野口:リコーとペンタックスのチームが完全に一緒になっているので、どこからどこまでペンタックスの考えが組み込まれているとは言えません。でもSR(手ぶれ補正機構)などはペンタックスの技術がなければ実現できなかったでしょうね。いずれにしても、皆が一丸となって、ファンの顔を思い浮かべながら開発をしてきました。

インターフェースや操作性は今までのリコーやペンタックスのカメラと変わっている部分もありますが、それは2つのブランドの操作性を統一していこうというプロジェクトの第1弾がGR IIIだったということも関係しています。もちろんカメラの性格やポジションによって多少は異なってくるとは思いますが、今後はこの方向になっていくはずです。

リコーイメージング広報 川内:アクセラレータユニットなどは最初に採用したペンタックスの一眼レフで熟成され、さらに性能が向上したものがGR IIIに採用されています。ですが、これはどちらが上というものではなくて、開発時期がより新しい方により良いデバイスが採用されたという結果です。

市川:チームが一体化して作り上げた最初のカメラだったのですね。SRを利用した「自動水平補正」は非常に良い機能ですよね。

野口:画像処理ではないのでトリミングされないのも良いですね。

リコーイメージング広報 川内:はい。正確に言えば、カメラの水平が保たれていなくてもSR機構によりセンサー自体が水平を保っている、ということになります。GR IIIの場合、補正効果は最大で1.5度です。

編集部:GRなどリコーのデジタルカメラは、クイックな操作性や撮影を邪魔しないUIなどが抜きんでて素晴らしいと感じます。この使い心地も、意識して取り組んでこられたことなのでしょうか?

野口:はい、その通りです。「誰もが、どんなシーンでも、使いやすいもの」ではなく、「写真を撮るのが好きな人が、毎日の生活の中で、撮りたい時にさっと撮れる」ものにするという、明確な狙いを定めてますので。

藤森:「リコーのカメラを使うと他に移れない」というのはよく言われました。会社を退職して他社の高級コンパクトカメラを買ったのですが、とても使いにくくて「何だこれは!」と思いました。

市川:GR IIIでは動画の操作ボタンも隠れたようなところに目立たずひっそりと搭載されていて、これはスチルにこだわった作りのカメラであると感じられて好ましいですね。

野口:ただ一方で、操作性変更については批判の声もあるのは事実です。一番はダイレクトに露出補正できるボタンが無くなってしまったこと。それからメニューに中階層を作ったことで、操作ステップが増えて従来のGRらしい操作レスポンスから後退した、などです。そういう声を真摯に聞いて、ファームアップで応えていってほしいなと思っています。

市川:GR IIIではタッチパネルが採用され、背面モニターに「見る」こと以外の機能性が持たされました。この点については各社ともまだこなれていないような気がします。

野口:そうですね。でもほんの少し前までは「カメラのモニターを指で触るのは邪道だ」とおっしゃる方もいたぐらいですから、少しずつ進歩してはいます。ゆっくりですけど。

藤森:野口くんは銀塩のころから「カメラの裏蓋にモニターがあって、それがファインダーになれば良い」とずっと提唱していました。僕らはそれを聞いて「手ブレするんじゃない?」って返すのですが、彼は「そういうアナログな人が居るからこそやりたいのです」って勝ち誇ったような顔をして笑ってました。

市川:フォトキナやCP+などのイベントに行くと、現在のリコーイメージングにはペンタックスがあって、360度カメラのTHETAがあって、さらにGRと、3本のブランドがありますね。

野口:THETAやペンタックスはファミリーブランドですが、GRは単一商品ブランドなので、本来は並べるものではなかったのですけど、知らないうちに育ってしまった感じです。

特徴的なのは、GRに並んでいるほとんどのお客さんは、自分のタッチ&トライの順番が来ると無言で触って「うんうん」と言って、無言で帰っていく人が多いことです。

藤森:それが良いことなのか、悪いことなのか。やっぱり質問してもらいたいって気持ちはありますよね。

リコーイメージング広報 川内:従来機と比べて質問してくださる方は少しいらっしゃいましたが、確かに自己完結のお客様が圧倒的に多かったですね。少し驚いたのは、GR IIIが日本だけではなく海外の若い世代や女性層にも歓迎されていることです。

市川:それは高級でしっかりしたコンパクトデジタルカメラが少なくなったからですね。

一眼レフXR-Pについて

藤森:せっかくですから、持ってきたカメラを披露しますね。

市川:XR-P! これは藤森さんも大好きなカメラですか?

藤森:だって僕がこだわって作ったんだから。世界で初めてプログラムAEを導入するということで、キヤノンのT70(1984年4月発売)と競っていました。

XR-P(1984年7月発売)

野口:僕も一眼レフはXR-Pが一番好きでした。美しいフォルム、バランスとメカニカルな操作性。でも、僕のはミラーが落ちて駄目になっちゃいました。藤森さんのコレ、赤いのは何か特別なモデルだったんですか?

藤森:そう、特別なモデル。あるところの依頼で作ったんだけど、ワニ革の問題でワシントン条約に抵触して売り出せなくなったから、「じゃ、僕が貰っとく」となったのですが、世界に1台か2台しかない。

XR-Pはある時期本当によく売れました。通算という意味ではXR500ですが、月間販売台数でいうとXR-Pでした。特にアメリカへの輸出で売れに売れました。長続きはしませんでしたが、成功したカメラです。

実はXR-Pにはゴールドカラーもあります。でも"金カメ"は失敗でした。金メッキで接点が変に導通していて電気がダダ漏れだから売れないということになって、処分されるっていうときに貰ってきました。結婚式には華やかでめでたいということでピッタリでした。

リコーイメージング広報 川内:私も学生時代に結婚式を撮影するアルバイトで、某社の金カメを渡されて使っていました。当時は関西に住んでいたので「金色が好きだった太閤さん(豊臣秀吉)のお膝元やし、金ピカでめでたいから」という大阪のノリでした。お客さんからのウケは良かったのを覚えています。

野口:バブリーな時代ですね。

これからのリコーのカメラに思うこと

市川:最後に、藤森さんがリコーをご卒業されてから10年以上が経ちましたが、リコーの若い人たちに対して何かコメントはありますでしょうか?

藤森:コメントというよりも、ペンタックス部門が大変だな、という気持ちがあります。もちろんGRも大変だけど、ペンタックスはこれからどうするのだろう、とかです。

リコーイメージング広報 川内:基礎研究は、一眼レフやミラーレス、フルサイズやAPS-Cといったことに拘らずに進めています。

藤森:でも大変ですよね?

リコーイメージング広報 川内:はい。今年のCP+の海外メディアのインタビューでも答えていましたが、どの分野でどう自社の強みを出していけるのかの見極めが重要だと思います。

例えばGRについても"安易にトレンドを追わない"というポリシーがあります。いまリコーとして注力していくことは、ペンタックスの強みを活かした商品を出して、お客様にその強みを理解していただくことだという認識があります。弊社の規模も考えた上で、戦略を練っているところです。

藤森:ペンタックスは銀塩時代から既存ユーザーを大切にする気質があると思っています。それは良いことですが、ある意味ではそのユーザーを裏切っていかないと、会社としては成長がない。現状維持のまま進んでしまうと先細ってしまう。だから「良い意味で裏切る」ということについても考えなければならないのではと思います。

難しいことだけれど、個人的にはコンパクトカメラをやってほしいですね。コンパクトカメラというのは皆がまだやりきれてないジャンルです。他社の製品だけど、例えばコシナ・フォクトレンダーのベッサにフォーカスエイドが付いて、もっとコンパクトでスマートになって、デジタルになれば良いなと想像しています。それが例えばミノルタCLEのデジタル版というスタイル。つまり、ライカMマウントのデジタル機というジャンルはまだやりきれていないと思います。

市川:GXRとA12マウントをフルサイズにする、ということですか?

藤森:フルサイズ云々という話もあるけれど、Mマウントレンズという遺産を使っている人たちがいるのだから、それをもっとコンパクトで軽快に使えるカメラには市場があるのではないか? 美味しい市場があるではないか?と考えています。

今さらスマートフォンに勝てるコンパクトカメラを考えたところで、答えなんてそうそう出てこないし、皆が「ボディが30万円でレンズが20万円」というピラミッドの頂点みたいな商品を欲しいわけではないし、各社が同じことをやりあっても仕方がない。後追いではなく「虚を突く」というか、これがあったのか!ということを探してほしいです。

市川:ライカ自身もシグマやパナソニックと協業しミラーレスのLマウントに注力していていますが、まだ未知数ですね。

藤森:そうそう。なぜ小型のMマウント機をやり残すのか。いまこのタイミングでやれば良いのにと思います。

市川:野口さんはいかがでしょうか?

野口:戦略に美学のようなものが必要だと思います。ロジカルに積み重ねた戦略は、結局どこも同じ結論になります。まさにブルーオーシャンのジレンマです。失敗した時の言い訳はしやすいですけどね。あの時はこれしか選択肢がなかったんだ、と言えますから。でもこれからは、自分たちの夢を描いて語れなければ、存在価値はなくなるでしょう。フォロワー体質から抜け出ないと。車で言えば、多機能なクラウンとか、廉価なクラウンを作っても意味がないのです。そういう問題意識を持っている若い人はたくさんいるので、応援したいです。

市川:若い世代も頑張っていますよね。

野口:頑張っていますが、いつの時代もオジサンたちが邪魔してしまいますからね。経験と理屈では敵わないですから(笑)

藤森:邪魔してすいませんね(笑)

野口:藤森さんは憧れの存在だったんです。僕は入社時は営業に配属されましたが、メーカーに入ったからにはいつか商品企画をやりたいと思っていましたので。

市川:野口さんの最初の仕事は営業だったのですか?

野口:はい。複写機のセールスでした。それからカメラ部門に異動すると、藤森さんが商品企画部門のリーダーでした。僕が一番行きたかったところの責任者で、聞き慣れないカタカナ言葉を話していて、神様みたいな人なわけです。

市川:藤森さんが引退されるときに「今後は誰が僕の面倒を見てくれるの?」と聞いたら、野口さんだと明言してくれたことが思い出されました。今回おふたりにインタビューのお願いをして良かったなと、スッキリしました。

あっそうだ。野口さんの後は誰が僕の面倒を見てくれるか、あとで教えてくださいね(笑)。

豊田慶記

1981年広島県生まれ。メカに興味があり内燃機関のエンジニアを目指していたが、植田正治・緑川洋一・メイプルソープの写真に感銘を受け写真家を志す。日本大学芸術学部写真学科卒業後スタジオマンを経てデジタル一眼レフ等の開発に携わり、その後フリーランスに。黒白写真が好き。