インタビュー

ライカ上級副社長に聞く、Mシリーズ復活の歴史&お仕事遍歴

ライカカメラAG 上級副社長のステファン・ダニエル氏。2023年1月、ライカカメラジャパンのオフィスにて

2023年1月、ライカカメラ社の上級副社長となったステファン・ダニエル氏が久しぶりに来日した。ライカカメラの商品企画とMシリーズのマネージメントを長年担当してきた人物で、昔を知る業界関係者にもお馴染みの存在だ。

そんなステファン・ダニエル氏に、今回は新製品の話ではなく、M型ライカの(輝かしいばかりではなかった)歴史と、16歳からライカ一筋、上級副社長になるまでのお仕事遍歴について聞いた。

——復刻した「ライカM6」への反響はどうですか?

全般的に良かったです。「ライカが新しくアナログのトレンドを作った」と受け取ってくれた人もいました。特にアナログコミュニティの人達は興奮していて、「よくぞやってくれた!」という反応でした。

——かつて、オリジナルのライカM6が登場する直前、M型ライカの存続が危ぶまれた時期があったと聞きました。

1960年代の終わりから1970年代の後半にかけて、市場では一眼レフカメラがポピュラーになっていきました。ライツは1971年にレンジファインダーカメラの「ライカM5」を発売し、これはTTL露出計を内蔵するなど技術的に優れ、実際に使った人には好まれたカメラでした。

ライカM5。TTL露出計は、CdS付きの腕木をレンズ後端とシャッター幕の間にセットして測光。レリーズに連動して画面外へ逃がす仕組み

しかし、タイミングが良くありませんでした。一眼レフを期待されていところに登場したのが“大型になったレンジファインダーカメラ”だったわけです。実際にセールスが伴わなかったこともあり、レンジファインダーカメラそのものが古くて時代遅れで、今後は発売しても意味がないと判断されかけました。

ついに1976年、一眼レフの「ライカR3」が発売された頃、ウェッツラーにいたライツの経営陣は、M型ライカを終わらせることを決定しました。ビジネス的な判断でした。

ライカR3。ライツとミノルタの共同開発による一眼レフの第1弾。絞り優先AEを搭載

しかしそれを聞いたエルンスト・ライツ・カナダの工場長、ヴァルター・クルックが黙っていませんでした。1970年代、ライツカナダ(オンタリオ州ミッドランド)はライカレンズのほとんどを生産しており、多くの熟練した従業員がいたからです。

彼はドイツのライツに対し、M型ライカを製造するための全ての治具や機械を、カナダに送ってもらうよう依頼しました。そうしてカナダに場所を移して誕生したのが「ライカM4-2」(1978年)や「ライカM4-P」(1980年)です。少ない生産数ながら、こうしてM型ライカは静かに生き延びました。

そしてライツは、一眼レフの「ライカR4」をベースにした「ライカM6エレクトロニック」を計画します。これはプロトタイプが数台残っていますが、ライカR4からミラーボックスとペンタプリズムを取り除いて、そこにレンジファインダーを搭載したようなカメラです。モーターもつきました。

ライカM6エレクトロニック(2014年のオークションに出た個体。編集部撮影)
ライカR4(写真はモータードライブ対応の“MOT”)

ただこれは、全体的にうまく作れましたが、ひとつ大きな問題がありました。シャッターの遮光です。一眼レフではフォーカルプレーンシャッターとともにクイックリターンミラーも遮光の役割を果たしますが、このカメラにはミラーボックスがないため、遮光がうまくいかなかったのです。これが致命的となり、商品化はされませんでした。

1980年代には電子技術の進化で露出計も十分に小さくなり、ライカM3の時代から存在した機械式セルフタイマーのスペースに収められるようになりました。これで、クラシックなM型のスタイルに露出計を備えたカメラ、「ライカM6」が作れるようになったのです。

ライカM6の模式図。正面から見て左下の電池室部分には、もともとセルフタイマーレバーがあった

ライカM6が登場した1984年は、プラスチックボディのハイテクなカメラが市場に多く登場しており、その中でライカM6は“モダンクラシック”という立ち位置になりました。それと共に、少しずつレンジファインダーカメラの機能性やスタイルが再発見され、セールスも安定し、よいボリュームで作れるようになっていきました。

——ダニエルさんはその1984年からライカに携わっていますが、なぜライツに入ったのか、その後どのような仕事を担当されてきたのか教えてください。

ドイツの教育には3通りあります。1つめは、10歳で初等教育を終えた後、もう9年間学校に通って就職し、クラフツマンなどになります。2つめは、もう10年学校に通いながら会社で働く。3つめは、もう13年、学校に通って大学に入ります。私は2つめを選び、もう少し学校にも通いながら、アプレンタシップ(職業見習い)としてライツに入りました。

ライツを選んだのは自然な流れでした。いとこの影響で12歳か13歳の頃から写真を撮っていたからです。そして、私のホームタウンであるヘルボルンは、ウェッツラーにとても近かったのです。ライツは高いレベルの職業訓練プログラムを有することで評判が高く、会社で技術を学びながら、学校では理論的なことを学ぶという、デュアルエデュケーションシステムになっていました。ライツではサービス部門で働くように言われ、3年間の訓練を受けました。

会社としては、自社の仕事に興味がある、若くて優秀な人材が欲しいので、アプレンタシップで来た学生を採用したいのは自然な流れです。そうして私もライツに就職しました。最初の仕事は修理部門で、「ライカR3」の修理を担当しました。途中、ドイツでは18歳で兵役か社会奉仕を選ばなければならないのですが、私は社会奉仕を選びました。

その後、修理部門に戻ったのですが、引き続きライカR3の修理ばかりで退屈になってしまいました。そのため大学に戻ろうと上長に相談したところ、「これからパリに行けるのに?」と言われ、魅力を感じたため、大学に戻るのはやめて、パリに3年間、新しいサービスマンの指導のために行きました。

振り返ると、これが現在の仕事に繋がる最も決定的なことでした。現地の販売会社と一緒にイベントなどに参加し、ユーザーと接するうちに、マーケティングも面白いなと感じたのです。その後も大学には戻らず、現在に至ります。

次はスライド投影に興味を持ち、スライドプロジェクターのプロダクトマネージャーになりました。2台のプロジェクターを使ってディゾルブ効果を得るためのユニットもありました。プロジェクターの工場はドイツ北部のブラウンシュバイク(編注:ローライ発祥の地としても知られる)にあり、私の仕事は、当時その工場にあった2つのプロジェクターのブランドをライカの「プラドビット」に統合することでした。1990年代の終わりにはプロジェクターの需要も減っていましたが、ライカは広いラインナップを持っていたため、シェアを伸ばすことができました。

そして1998年、ゾルムス(=当時のライカカメラ本社)から声がかかりました。「M型ライカのプロダクトマネージャーにならないか?」ということで、喜んで向かいました。その年のフォトキナで「ライカM6 TTL」が登場しましたが、私の最初のプロジェクトは「ライカM7」でした。お披露目は2002年2月24日、ラスベガスのPMAショーでした。

ライカM7。ライカのMマウント機として初めて、絞り優先AEを搭載

そして2022年まで、写真関連製品の商品企画と、M型ライカの製品担当をしていました。

——2022年10月に「ライカM6」復刻を発表した時、ライカの皆さんが2000年代初頭の苦しかった時代(経済的な面と、デジタルに出遅れていたこと)を振り返っていたのが印象的でした。それぐらい、今はよい状況になったということでしょうか?

あの時は、歴史あるライカM6に関する発表でしたから、少し過去を振り返りました。しかし会社としては、将来に向けての商品開発がテーマであることに変わりはありません。

——将来に向けての話では、ライカとパナソニックによる「L² Technology」(エルスクエア・テクノロジー)が気になります。例えばLUMIX S5IIの画像処理エンジンに関する説明で、L² Technologyへの言及がありました。具体的には、どのような効果があるのでしょう?

LUMIX S5IIにおいては、画像処理エンジンの開発に共同で投資しました。今後、これ以外の分野や、まだ見えていない部分においても、この協業によるアドバンテージを体験してもらえるような形で進めています。

関連情報:CP+2023について

2月23日(木)にパナソニックブースで、ライカおよびLマウントアライアンス関連のステージが行われます。参加はWebサイトからの事前予約制です。
https://panasonic.jp/dc/cpplus2023.html

13時10分〜13時20分は「Leica × LUMIX 協業によって生み出されるL² Technologyについての展望」。登壇者は、ライカカメラ社 商品企画部 グローバルダイレクターのイェスコ・フォン・オーエハウゼン氏と、パナソニック エンターテインメント&コミュニケーション株式会社 副社長執行役員の山根洋介氏。

続けて13時20分〜13時50分には「Lマウントアライアンス 開発責任者トークショー」として、ライカカメラ社 プロフェッショナルカメラシステム部門長のステファン・シュルツ氏、株式会社シグマ 商品企画統括の大曽根康裕氏、パナソニック エンターテインメント&コミュニケーション株式会社 イメージングビジネスユニット 事業統括の津村敏行氏、ライカカメラ社 首席日本代表窓口の杢中薫氏が登壇します。

本誌:鈴木誠