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ライカを支えて50年。ポルトガルの第二工場で話を聞いてきた

ライカカメラ社の企業プロフィールに以下の記述がある。以前からのライカ愛好家にとって“ポルトガル”とは馴染みのある地名だが、実際にどのような役割を果たしているかは具体的に知られていなかったように思う。

ライカカメラ社は、ドイツ・ヘッセン州のウェッツラーに本社を置き、ポルトガルのヴィラ・ノヴァ・デ・ファマリカンに第二工場を有しています。

そんな折にポルトガルの工場が設立50周年を迎え、記念イベントの合間に取材ができることになった。フランクフルト空港に降り立ち、ライカ本社=ウェッツラーであればアウトバーンで小一時間だが、今回はここからポルト行きの飛行機に乗り継ぐ。ヨーロッパ便が北回りとなっている現在、片道合計20時間にもなる長旅だ。

さすがに距離があるせいか、観光スポットでもアジア人の姿はほとんど見なかった

ライカの第二工場はポルトガルのポルト近郊、ヴィラ・ノヴァ・デ・ファマリカンという場所にある。空港から20分ほどのポルト中心部に宿泊し、そこから工場までは車で40〜50分という距離だった。ファマリカンには他にも工場施設が多いものの、黒を基調とした外観のライカ第二工場は、各国のライカストアとも繋がっているような佇まいに見えた。ゲート部分にあるカメラの形をした係員室にテンションが高まる。

ドイツとポルトガルの役割

今回の取材テーマはこれに尽きる。2つの国にある工場は、製品ごとに生産拠点を使い分けるのではなく「分業」と考えるとわかりやすい。写真製品については、機械部品、光学部品、電子部品、組み立て部品がポルトガルで製造され、ドイツ・ウェッツラーにある本社工場に出荷される。

ドイツの本社工場では、これらに本社工場やドイツのパートナーから供給された部品などとともに、更なる生産工程、最終組立、調整、品質検査を経て完成する。そのためライカ製品に刻まれた“MADE IN GERMANY”には、ライカ=ドイツ基準の精度・品質で最終製品として完成させ、出荷しているという意味合いが込められている。

50周年記念セレモニーの会場に展示されていたオブジェ。ポルトガルで加工する部品を示している

ポルトガル工場の歴史をおさらいすると、稼働は1973年。顕微鏡の組み立てから始まり、最初に手がけたカメラは1974年の「ライカフレックスSL2」だという。第二工場を作ったきっかけはライカ製品の生産力強化で、1950〜60年台に世界を席巻しはじめた日本のカメラに対抗すべく、コストを抑えるため。

さて、ファマリカンという場所が選ばれたのは、勤勉で職人として高い技術を持っていたエリアとしてライツ家が魅力を感じたのも大きな理由だという。ライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏は「現在のライカはファマリカンの工場なくして成しえない」と話す。また、工場長のペドロ・オリビエイラ氏は「従業員約800名のうち、300名は20年選手、60名は勤続40年以上。図面では表現しきれない経験と知識を持ちあわせている工場」と話す。従業員は5年ごとに雇用を継続するか見直すそうで、その制度が会社にも従業員にも良い影響を与えているという。工場内の壁には、勤続25年以上の従業員を称える掲示物もあった。勤続50年、つまりポルトガル工場の最初から働いている従業員もいるそうだ。

ファマリカンの工場敷地内で、セレモニーを開催
ポルト市内では、ポルトガル工場50周年を記念した写真展を開催。従業員の家にあるアルバムなどから集めた5,000枚から厳選した
従業員の写真が並ぶコーナーも

ライカカメラCEOのマティアス・ハーシュ氏によれば、この第二工場では年間1万個以上の部品を製造し、過去50年では約50万個のカメラ筐体や部品を製造したという。具体的な機種名を挙げていくと、1976年にミノルタとの共同開発で生まれた一眼レフカメラ「ライカR3」は、1977年に100%ポルトガル製となり、底面に“PORTUGAL”の刻印がある。双眼鏡の組み立てもこの頃に始まった。現在、双眼鏡などのスポーツオプティクス製品はほぼ全ての製品を完成・出荷までをポルトガルで行っているため、“MADE IN PORTUGAL”のラベルがある。

双眼鏡はすべてポルトガル工場から直接出荷される

1977年以降にはレンジファインダーカメラ「ライカM4-2」「ライカM4-P」が登場するが、これらはカナダ製。ウェッツラーのライツ経営陣がM型ライカの終了を決定した後、カナダがその生産設備を引き取って生まれた機種となる。そちらの詳しい背景は、下記のインタビュー記事を参照いただきたい。

そうしてカナダでM型ライカが息を吹き返し1984年に登場したのが「ライカM6」。2010年代にフィルムライカ市場で一番人気となり、2022年に再発売されたことも記憶に新しい。

Leica M6 - Write your story

その頃のライカのタイムラインとしては、1986年に社名が“ライカ”になり、ウェッツラーから車で10分ほどのゾルムスに工場を移転。オリジナルのライカM6も、赤バッジがLeitzからLeicaに切り替わったことで知られる。1992年からポルトガルでもRシステム(旧製品。一眼レフ)とMシステムのレンズ生産が始まる。余談になるが、Rマウントいえば初のライカ製デジタルカメラとして知られるスキャナータイプの「ライカS1」もポルトガル工場が携わっており、工場内に実機が展示されていた。

ライカR8
ライカS1

今回、工場の内部を撮影することは(メモ用途も含め)許されなかったため、内部の写真はライカカメラ社から提供されたものを掲載している。代わりに、作業工程を想像するヒントになりそうな公式動画のほか、ドイツの本社やミュージアムで撮影した参考写真なども含めた。

工場は平屋で、作業スペースは床も壁も白を基調としており明るく、ウェッツラーの本社内にある工場と通じている。旧ポルトガル工場は同じファマリカンの中でも7km離れた位置にあり、中は暗く、作業効率的にもあまり優れていなかったとのことだが、これもドイツの本社に通じる。ゾルムス時代は家具工場の建物を流用していたため、クリーンさや作業効率的に厳しい部分があったと聞く。

シャーシやメカ部分を作る「機構部門」

天井が高く明るい広大なスペースに、コンピューターの指示通りに加工を行うマシニングセンターがそびえ立ち、棚には回転工具のビットが並ぶ。プロトタイピングに3Dプリンターも使う傍ら、昔ながらの加工機も活躍しているのは本社工場と同様。作業スペースのラックには、1m前後あるアルミの棒材が立てかけられていたのが目に入った。円筒形のパーツは棒材から、カメラボディのようなパーツはブロック状の材料から機械で加工する。プロトタイピングには3Dプリンターも使用するという。

参考:ウェッツラーの本社工場にある試作コーナー
金属パーツの例。巻き上げレバー、ベースプレートのキーなど、見慣れた形状も

ライカ製品の外装は金属削り出しのものが多いが、これを機械で形にした後は、人の手が欠かせない。手に持った電動工具で形を整えたあと、隣のセクションに移動し、さらに手作業で仕上げていく工程が見えた。カメラのカバー部分は、表面仕上げに40分を要するという。

ライカが2014年に公開した「ライカT」(旧製品)の外装を45分かけて仕上げている動画に、この雰囲気が伺える。また、ライカ・ポルトガルのWebサイトで紹介されているYouTubeチャンネルに、工場内の様子を紹介する動画があった。

ライカTのユニボディができるまでの過程(ドイツ本社にて撮影)
The Most Boring Ad Ever Made?
Leica Portugal — Departamento de Mecânica

ここで扱う素材はアルミニウム、真鍮、マグネシウム、スチール、チタンとのことで、つまり限定品の“チタンモデル”も加工できる。直近の製品でいうと「ライカ ノクティルックス M f0.95/50mm ASPH. チタン」がそうだという。

加工と磨きが済んだパーツは、塗装やアルマイトといった表面処理に進む。数十個のパーツをハンガーにセットし、水槽に浸して処理を行う。水槽への出し入れは、人間の目で処理の進行具合を見ながら行われる。Webで“アルマイト”と検索してヒットするような設備・工程とほぼ同じに見えた。真鍮素材へのクロームメッキ加工もこの工場内で行っており、ライカ・ポルトガルのWebサイトによると、2002年の「ライカM7」と同時にクロームメッキの設備を導入したと書かれている。

外付けEVF「ビゾフレックス」の表面処理(ポルトガル工場の公式画像)
削り出したM型のトップカバーと、表面処理のイメージ(ライツミュージアムにて)

2023年現在、ライカの製品ラインナップにはM型のフィルムカメラが3機種ある。準備組み立てだけでなく、一部パーツの製造もポルトガルが担当している。どんなパーツかというと、特に“昔ながらの部品”だそうで、ストックの棚にわずかに見えたのは、フィルムライカのシャッター速度ダイヤルと同軸にある、つまり約100年前から変わらないライカの基本機構を構成するようなパーツだった。

2022年にライカM6が再登場した際、「ライカは一度もフィルムカメラの生産を止めていない」というプレゼンテーションがあったが、確かに、決して大規模ではないが、ポルトガルとウェッツラーのどちらにもフィルムカメラを生産するための専用セクションが用意されていることが確認できた。

ポルトガル工場の公式画像。ライカM6のシャッター幕とドラム、距離計、スローガバナー、プリズム
M型ライカの距離計ファインダーを構成するパーツ(ドイツ本社にて)
ウェッツラーで見たこと……Mデジタルの最終仕上げ

ドイツ・ウェッツラーの本社にある見学コースでは、デジタルのM型ライカが組み上げられ、調整・完成までの様子を誰でも自由に眺められる。

具体的な工程としては、イメージセンサーを1つ1つメイン基板とペアリングして、撮像面が平行になるようシムを挟みながらシャーシへ載せ、距離計を調整し、トップカバーをかぶせ……最後に距離計調整用の穴を塞ぐようにLeicaの赤丸バッジを貼り付けて梱包する。以下の動画が参考になるだろう。

A masterpiece in the making – your Leica M10.

レンズやプリズムを手がける「光学部門」

レンズの加工は、主に球面レンズがポルトガル、非球面レンズがウェッツラー、という分担になっているそうだ。球面レンズを形作る工程は、原材料から大まかな形に加工し、表面を磨きながら目的の厚さやカーブに仕上げていく一般的なもの。そこからセンタリング(芯取り)、張り合わせ、コバの墨塗り(反射防止)と進む。反射防止コーティングを施す設備も見えた。

「アポ・ズミクロンM f2/50mm ASPH.」と、ライカレンズを構成するパーツ。ポルトのライカストアに展示されていた

そして、ライカ製品に使われるプリズム(例えばM型ライカでも、距離計にプリズムは使われている)は全てポルトガルで加工している。1つの面を磨き上げるのに4時間かかるそうで、表と裏の2面しかないレンズに比べ、1つのプリズムにいくつの面があるのかと考えたら気が遠くなった。

プリズムの研磨工程。大きな丸い研磨パッドが上から降りてきて、それが回転する
検査工程

さて、晴れてポルトガル工場での担当部分が仕上がった半完成状態の製品は、ドイツの本社に送られる。ファマリカンの第二工場を金曜に出たトラックは、翌火曜日にウェッツラーに着くのだという。

ミニインタビュー

セレモニーの合間、わずかな時間ながらライカカメラ社上級副社長のステファン・ダニエル氏と、ポルトガル工場のマネージング・ダイレクターのペドロ・オリビエイラ氏に話を聞けた。

ライカカメラ上級副社長ステファン・ダニエル氏

——これまで50年間、ポルトガルで生産を続けてきた理由は何でしょう?

コストと地理的なメリットが大きいです。北ポルトガルには工業地帯としての伝統があります。1974年に革命が起こり、政治的に不安定な時代となって他の企業はポルトガルを離れましたが、当時の管理者であったウォルフガング・コッホの決断により、ライツはここに残りました。それはよい判断でした。

ここファマリカンはテキスタイルなどの製法について技術が高く、時計を作っているところもありました。現在の従業員数は約800名で、塗装やアノダイジング(アルマイト)など、ここでしかできない製造工程があります。

——ライカレンズといえばカナダライツも思い出されます。またアメリカでは、“MADE IN PORTUGAL”と記されたMレンズも販売されています。どのような事情からでしょう?

どちらも米国との関係によるものです。戦前はアメリカでもライツのレンズを入手できましたが、戦後はウォーレンサック(アメリカの光学メーカー)に頼んでライカ用レンズをアメリカから供給していました。その役割は1952年に設立されたエルンスト・ライツ・カナダ(オンタリオ州ミッドランド)に移りました。

カナダの工場は、あくまでその時代に必要だったから存在したという点で、ここポルトガルの工場とは異なります。カナダの工場は1990年に売却しました(編注:“ELCAN”という会社で現存)。現在アメリカで販売している“MADE IN PORTUGAL”のレンズは、アメリカの関税対策(Tariff)です。

ポルトガル工場長ペドロ・オリビエイラ氏

——ポルトガル工場ではライカ製品のどんな部分を担当していますか?

ドイツとは製造工程を分業しており、1984年にカナダから製造機械を取り寄せてパーツ製造を始めたのが「ライカM6」です。2002年登場の「ライカM7」では、部品製造とサブアセンブリを担当しており、ドイツからパーツを取り寄せてポルトガルで組み立てて、ドイツに戻すということもやっていました。2009年の「ライカS2」や続く「ライカS(Typ 007)」もサブアセンブリとして、背面モニターを取り付けてドイツに戻すといったことを担当していました。Mレンズは、1990年代には研磨なども含めポルトガルで行っていました。

——新型コロナは生産にどのように影響しましたか? 従業員は休みからすぐに復帰できましたか?

自動車業界ほどの影響はなく、予定にそこまで狂いは生じませんでした。扱うパーツ自体を自前で生産していることもありますし、パーツの種類など規模がそこまで大きくないからでしょう。

工場は7週間に渡って閉鎖しました。従業員を守るという観点からです。パンデミックが始まり、何が起こっているかも分からない世の中で、「人間が先」とするカウフマン氏(ライカカメラ社主)の考えでした。

生産再開時も全員一斉に出勤するのではなく、グループごとにコミュニケーションを取りつつ、安心を確立しながら進めました。マネージメント的に最適なやり方だったと思っています。

——ポルトガル工場は何度か新しくなっていますが、どのように変化してきましたか?

工場が拡大するきっかけとしては、スポーツオプティクス(双眼鏡)の生産技術確立や、プリズム生産の開始などがありました。この工場はもともと削ることについて技術が高く、それで拡大してきた部分があります。例えば、双眼鏡にマグネシウム素材を使うのも初でした。

また、カスタマーケアの部署を導入したことで、今まで蓄積してきたノウハウが更に発展しました。通常は10年かかりそうな発展を5年や3年で成し遂げられたのは、双眼鏡で培ったノウハウを他の製品の加工にも応用する自信がついたためで、そのおかげで今があります。この工場の発展において、双眼鏡は大事な製品です。

ポルトガルの50年が照らす、ライカの次の“100年”

いま“ライカ100年”と聞いて思い出すアニバーサリー・イヤーは2014年だ。ライカの聖地ウェッツラーに新社屋が完成し、オスカー・バルナックによる小型精密カメラの始祖“ウル・ライカ”の発案から100年を記念した。

次のアニバーサリー・イヤーは2025年が有力だ。バルナックが考案した小型カメラが初めて「ライカ」の名前で世に送り出されたのが1925年。今回の一連のイベントを見学していると、社主のアンドレアス・カウフマン氏のコメントの中に、いくつか今後のヒントになりそうな言葉があった。

「ライカにとって、ファマリカン工場の存在、そして2006年より直営店(編注:日本のライカ銀座店が世界初)の経営展開を推進したことが現在の基盤を作っている。現在、世界に70以上の直営店と28のギャラリーがある」

「誰でも写真を撮れる今の時代は素晴らしいが、これには良し悪しがある。写真の“質”は保証されないからだ。“よい写真”を提示することが、ライカギャラリーに力を入れる理由だ」

「2年後(2025年)に向けた“Project Century”を準備している」

50 Years of Leica in Portugal
本誌:鈴木誠