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特別寄稿「ライツとミノルタ - 実り多きパートナーシップ」

技術提携を結んだキューン・ライツ博士の回想インタビュー

ドイツのライカ愛好家団体「Leica Historica」の会報111号(2016年6月発行)に、1970年代に行われたライツとミノルタの技術提携に関するドキュメンタリー記事が掲載されました。ここでは、そのドキュメンタリーに関するインタビュー記事「ライツとミノルタ - 実り多きパートナーシップ」の日本語版をお届けします。

クヌート・キューン・ライツ博士。ウェッツラーのフリートヴァルト館にて編集部撮影(2014年)

本稿は、インタビューを受けたキューン・ライツ博士の「この記事を日本のカメラ専門誌にも掲載したい」という意向について本誌編集部に打診があり、記事の資料性を踏まえて掲載するものです。以下の訳文および画像は全て、ドイツのライカカメラ社から提供されたものです。

45年前、著名なカメラメーカーである本社ウェッツラーのライツ(Leitz。現Leica Camera AG、ライカカメラ株式会社)と写真市場における大手競合メーカーのミノルタ(Minolta。本社大阪)の技術提携がスタートしました。先日発行されたライカ・ヒストリカ(Leica Historica)会会報には、そのライツとミノルタの実り多きパートナーシップに関する40ページの記事が掲載されました。

これは、1970年代初頭、ライツ・ヴェルケ(Leitz-Werke)経営陣の1人であり、ミノルタとの提携の道を開いたクヌート・キューン・ライツ博士(Dr. Knut Kühn-Leitz)が発案執筆し、共著者の協力を得て実現しました。本ドキュメンタリー記事に関し、技術顧問/技術ライターとして両社の提携活動を身近でフォローしてきたヨーゼフ・シャイベル(Josef Scheibel)がキューン・ライツ博士にインタビューしました。

——キューン・ライツ博士、あなたのご祖父様は90年以上前、35mmカメラのライカ(Leica)という全く新しい写真システムの導入に踏み切られ、世界的名声の礎石を築かれました。45年前、あなたご自身も当時、ライツの若き取締役としてご祖父様同様、リスクを覚悟で最大の日本の競合カメラメーカーの1社と継続的な技術提携への道を開き、構築することに踏み切られました。どのような経緯でこれを実現されたのですか?

1971年はドイツの写真技術産業にとり運命の年となりました。ドイツ国内の賃金が異常に高騰し、2分の1の生産コストで競合する日本メーカーに直面し、ウェッツラーでコストをカバーする価格でライカを生産することがもはや不可能となったのです。そのため、ライツ経営陣はこの年、2つの大きな決断を下しました。その1つは、開発と生産において、日本の写真技術産業の大手メーカーと対等な提携関係を結ぶこと、もう1つは、カメラボディの組み立て拠点を低賃金国に求め、自社工場を構築することでした。

1971年1月の経営会議で、私はミノルタと提携する可能性について検討する用意があると表明し、私の叔父であるエルンスト・ライツ三世(Ernst Leitz III)が低賃金国に自社工場を構築することを引き受けたのでした。

——ライツは、1970年代初頭の経済危機勃発時点で大量解雇を検討し、カメラ生産の一部を低賃金国ヘ移管することを考慮することはできなかったのですか?

ここではっきり申し上げたいことは、ライツにとり大量解雇は問題外だったということです。経営陣のシニアメンバー、エルンストおよびルードビッヒ・ライツ(Ernst & Ludwig Leitz)は、ドイツの経済危機まっただ中の1924年、高いリスクにもかかわらず解雇の事態を避けるため新しい写真システムの導入に踏み切った彼らの父親エルンスト・ライツ二世(Ernst Leitz II)の伝統を踏襲する義務感に満ちていたのです。

当時、ウェッツラーのライツでは、国外で生産することについて大きな危惧がありました。ライカブランドにとり、なにより大事な「Made in Germany」という品質保証シンボルが薄らぐのではないかという懸念が、多く聞かれた意見でした。レフレックスカメラの複雑な設計は、高度な技術を有する精密機械工がこれを組み立てることを前提に開発されたもので、低賃金国の半熟練労働者を対象にしたものではありませんでした。この理由から生産拠点の移管は、新たにカメラの設計をし直さねば不可能だったのです。

——ライツ/ミノルタ両社の提携に話を戻しましょう。当時、本当に単なる技術提携だけだったのか、それともミノルタサイドでライツへの資本参加が念頭におかれていたのではないか、という疑問がよく出ました。

ミノルタには、資本関係を変更してライツのビジネスポリシーに影響力を得ようという意図は一貫してありませんでした。

1971年4月撮影。ミノルタ田嶋一雄社長とライツのクヌート・キューン-ライツ取締役、両社提携契約署名後の写真。

ここで、当時ミノルタが当社にどのようなイメージを与えたか、ごく簡単にお話しします。ミノルタの田嶋一雄社長は同社のリーダーとして、会社を刻銘する立派な企業トップの人格者でした。1928年、田嶋氏はドイツ人の友人2人と日本で最初のカメラ企業を創立しました。最初は単純なファインダー付きカメラを製造しただけでしたが、その後、高級レフレックスカメラやシネカメラおよびその他の光学/電子機器を製造しています。1928年から1970年の間でミノルタは数百万台のカメラを生産し、レフレックスカメラ分野のトップポジションを確保するに至ったのです。

——当時、ライツ社幹部社員は、日本の大手競合と提携する道を開き、できれば長期的に拡大していくという経営陣の決定をどう受け止めましたか?

予想通り強い懸念がありました。特に、言語上の問題、文化の違い、そして遠距離であることがその理由でした。また、両社間で迅速なコミュニケーションができるのかという懸念もありました。当時、ファックスもメールもなく、穿孔テープを使う遅いテレックスしかなかったのです。エアメールは何日もかかりました。また、共同開発したものを特許法上、どのように扱うかについても経験ゼロだったのです。

——その後コミュニケーション技術が急速に発達したことはさておき、多くの懸念にかかわらず、この提携関係が25年以上、非常に良く機能したのはどうしてですか?

大きなプラスとなったのは、ミノルタがドイツ現地法人だけでなく、大阪本社でも一連のドイツ語に堪能な社員を擁していたことです。それゆえ、ライツ/ミノルタ間の提携協約は全てドイツ語で作成されました。その上ウェッツラーでは、ミノルタの社員が日々のコレスポンデンス(通信文)をテレックスで処理しました。緊密なコラボレーションを構築するため、ライツ開発/生産部門のリーダー数名は日本に数カ月の長期にわたり出張しました。

ここで言及しておきたい重要なことは、ドイツ人と日本人が、例えば規律秩序を重んじるといった一連の資質を共有するということです。日本人が「東洋のプロイセン人」といわれるのもうなずけます。大阪に出張したライツの社員は、日本側の同僚がドイツについてとても豊富な知識を持っていることにいつも驚かされました。例えば、年配の管理職の方々はドイツ歌曲や文学を高く評価されていました。

——それでは、最初の提携プロジェクトについてお伺いします。いくつかお話いただけますか?

最初のプロジェクトは、小型でコンパクトなレンジファインダーカメラ、ライカCL(CL=Compact Leica、コンパクトライカの略称)を日本で生産することでした。これはウェッツラーで、ライツのヴィリー・シュタイン(Willi Stein)設計主任の統括のもと、開発されたものです。このカメラはこれまでで最も軽量なライカで、MマウントとCdS受光素子測光を搭載していました。

レンズシステムはコンパクトな標準レンズ、ズミクロンC 40mm F2およびハンディな望遠レンズのエルマーC 90mm F4で構成されていました。1970年に小型ライカの開発が完了した当時、ライツは賃金の異常な高騰に直面し、これをドイツで低コスト生産する可能性はないと判断しました。それで私が、ライカCLのカメラボディをミノルタが生産する道を開く役目を担ったのです。ミノルタは生産を引き受ける用意があり、ライツがライカCLにレンズをつけてウェッツラーから世界中に販売することが取り決められました。ただ、日本国内では、このカメラに日本製のレンズをつけてミノルタが「ライツミノルタCL」(Leitz Minolta CL)の商品名で販売することになりました。

提携後最初のプロジェクトは、ライツが開発したライカCL(Compact Leica)で、1973年以降ミノルタで製造された。CLはこれまでで最も軽量でハンディなライカカメラであった。これに対応して40mm F2の標準レンズと90mm F4の望遠レンズが製造された。

——当初、ミノルタとの提携の重点はレフレックスカメラの共同開発および個々のユニットをライツのために日本で生産することに置かれました。この共同作業は、その後、どのような展開になりましたか?

1963年以来、ライツ社カメラ設計部門で働いていたペーター・ローゼリース(Peter Loseries)技師は、新世代のレフレックスカメラのために、テスト済みの事前設定した個別モジュールを迅速かつ簡単にカメラのレフレックスボディに装着できる金属羽根シャッターを開発する使命を担っていました。その上、このシャッターモジュールはコンパクトなレフレックスカメラに組み込み可能な小さいものでなくてはなりませんでした。これを開発し、量産で単価を抑え、カメラボディの組み立てコストを大幅に低下させることが目標でした。

当時35才のこのライツ社設計技師は、ライツセクターシャッター(Leitz Sector Shutter。LSV)という絶妙な技術を成功させました。独創的な着想による幾何学的形体により、先行金属羽根が回転/スライディング運動を組み合わせながらフィルムゲート上を動き、遮蔽羽根が回転しながらこれに続きます。さらにローゼリース技師は、露出用のスリットを形成する羽根の支点を実に巧妙な駆動の幾何学的形体で、バーチャルにシャッター本体からかなり外側にシフトさせることに成功したのです。これにより、かなり小さな角度を旋回するだけで済んだのです。このような形体/配置が特に小さく軽量のカメラシャッターを実現する鍵でした。それゆえ、1972年9月14日付ライツ社特許1904751号でこれが主請求範囲となっています。

ライツの設計者ペーター・ローゼリースが開発し、特許取得したライツセクターシャッターは絶妙な技術であった。試作品はコパル(Copal。本社東京)がライセンスを得て量産可能なレベルに開発し、「コパルライツシャッター」 (Copal Leitz Shutter、CLS)の名で独占的にミノルタとライツに供給された。

左はレンズ側から見た電子シャッター駆動サイド。フィルム側から見た写真右では、弓型のガイドがその幾何学的形体を活用し、羽根をわずかなスペースで必要に応じ動かせている。

——1971年、ミノルタがライツと最初の話し合いを持った際、この新式シャッターに大変興味を示したのはどうしてですか?

ミノルタも、レフレックスボディに内蔵する布幕シャッターから脱却し、 取り付けの簡単な低コストの金属羽根シャッターをコパルかセイコーから調達することを考えていたのです。長年オファーされてきた「コパルスクエア」(Copal Square)はもはや問題外でした。というのは、設計高が62mmあり、当時人気のあったコンパクトなレフレックスカメラの構造に適さなかったからです。また、この"オールドタイマー"は嵩張り、シャッター音が大きかったのです。そこにタイミングよくライツから、新式のシャッターを使って新世代のレフレックスカメラを共同で開発しようと提案があったのです。

ミノルタが鑑定したシャッターの試作品は、日本の有名なカメラシャッターメーカーであるコパルが、量産できるよう最適化することになりました。「コパルライツシャッター」と名付けられ、ライツとミノルタ専用に生産されました。

ミノルタは、1972年発売されたXMシリーズ用に電子シャッター制御をすでに開発していました。こうして比較的短期間で、姉妹機種であるミノルタXE-1とライカR3が誕生したのです。日本とドイツの写真技術大手企業間でこのような形でのコラボレーションはこれまでにないもので、世界のメディアで大きな反響を呼びました。

CLSシャッターは、当時このクラスで最も興味深く先進的なレフレックスカメラであったミノルタXE-1で初めて投入された。ミノルタXE-1は技術提携開始後のレフレックス機種第1号機となった。
ライカR3はライツとミノルタが共同で開発した一眼レフカメラの第1号機である。その最も重要な突出した特性は、スポット測光と中央重点平均測光の切り換え式測光システムであった。

——CLSシャッターにおける共同開発にとどまったのですか、それともライツが特許権を保持するライツセクターシャッター(LSV)の幾何学的形体も後日、別途活用されたのですか?

世界的に有名な時計メーカーであるセイコーは後に、ペーター・ローゼリースがライツで開発・特許取得した構造原則を活用し、さらに改善し、金属羽根シャッターMFC(Metal Focal-plane Compact)を実現しました。これは高さがわずか51mmと低く、重量も31gでCLSシャッターより軽量で、大手レフレックスカメラメーカーから引き合いが殺到しました。こうして、MFCシャッターは、ミノルタとライツ以外にペンタックスやニコンといった他のカメラメーカーが投入しています。生産個数は各メーカーのカメラ各機種の生産全期間合わせて数百万台に達しました。

——日本で低コストで量産すべく共同開発したユニットを組み立てるため、ライツとしては速やかに賃金の安い国に自社工場を設立することが必要でした。なぜ、将来の立地拠点としてポルトガルを選ばれたのですか?

立地条件を分析したところ、当時、ポルトガルでの生産コストは日本のそれとほぼ同じレベルであることが判明しました。ライツにとり特に重要だったのは立地予定地がポルト近郊で、飛行機で3時間しかかからないことでした。これにより、例えば技術的問題が発生しても、すぐにウェッツラーからエキスパートを派遣し、解決できました。高度な技術を要する見習い作業に就労する優秀な社員を得られる可能性も重要事項でした。

ポルトガルのポルト近郊に新築されたライツ自社工場では、1975年当初、175人が就労していた。従業員数は1994年まで徐々に増加し、500人に達した。本工場で、大阪とウェッツラーから調達した部品を投入し、ライカR3が組み立てられた。

ポルトガルの自社工場では1974年、すでに100名が就労していました。1975年末、社員数は175名に増え、それぞれプレファブ、球面/平面レンズおよび組み立て各工程で従事していました。1976年、 大阪とウェッツラーそれぞれから調達したユニットを投入して、ライカR3の組み立てがスタートしました。ヴィラ・ノヴァ・デ・ファマリカオで従事する社員数は1994年までで500人を超えました。このライツの自社工場は、高い失業率に苦しんでいた立地拠点とその周辺の市町村に大きな利益をもたらしました。

——ミノルタと共同で開発した一連のレフレックスカメラ・シリーズの機種について、いくつか詳しくお話し願えますか?

醒めた目で振り返ると、ライカ・レフレックスカメラが生き残れたのは、ミノルタとの信頼に裏付けられたコラボレーションのおかげです。ミノルタXE-1の姉妹機種であるライカR3は1976年のフォトキナで発表され、電子シャッター制御を搭載したライツ社のレフレックスカメラ新シリーズ第1号機でした。本機種の重要な突出した特長は、ライツで開発したスポット測光と中央重点平均測光の切り換えが可能な測光システムでした。

1980年、これに続いたコンパクトなライカR4はミノルタXD-7に相応する機種でした。ライツ最初の多機能自動機種で、絞り優先AE、シャッター優先AE、プログラムAEを装備していました。その後、1992年にライカRのクラシックデザインで登場したライカR7は電子系統に関しては全く新しいカメラで、マイクロプロセッサが主要機能を制御しました。

—ライツとミノルタ両社の提携は25年以上続きました。資本提携なしでどのようにしてこれが可能だったのですか?

ライツとミノルタのレフレックスカメラ数世代が各種、形を変えて市場化され大きな成果をおさめました。特に、広範なレンジを揃えた交換レンズの販売本数も考慮すると大きな成功でした。これに加え、ライツのコンパクトなレンジファインダーカメラであるライカCLおよび、ミノルタが独自に開発し特許を所有するシャッター布幕/フィルム・ダイレクト測光と当時最新の自動露出制御を装備したCLE(Compact Leica Electronic)があります。

1980年発売されたミノルタCLE(Compact Leica Electronic、コンパクトライカ・エレクトロニック)は、ミノルタがライカCLをベースに開発したコンパクトなレンジファインダーカメラで、交換レンズと、画期的な自動露出を装備していた。右はCLE用に別途設計されたミノルタMロッコール40mm F2、90mm F4、28mm F2.8。

ここで忘れてならないことは、新しい交換レンズの開発におけるコラボレーションが大きな成果を上げたことです。ここではライツとミノルタがそれぞれ最新世代のコンピュータを投入し、新しい光学ガラスを開発、研究成果を情報交換し、生産プロセスで新しく得たノウハウを活用し、相互にサポートしたのです。精密機器、工学、電子工学の他分野でも実り多き交流が多くあったことは疑いの余地がありません。例えば、カメラ技術面では、オートフォーカスがそうです。結果的には、両社の提携は双方サイドで常時ギブ・アンド・テイクで感銘深い成果を上げました。

コラボレーションが長く継続するにつれ、共通点が徐々に少なくなり、両社とも、それぞれ違った商品や販売戦略を追及することが増えていったことは自然の成り行きでした。そして、長年にわたる実り多きコラボレーションが徐々に終了していったのです。とはいえビジネスパートナーである両社は、長期にわたる提携の過程で友人となり、その後も友好的な人間関係が長く維持されました。

デジカメ Watch編集部