赤城耕一の「アカギカメラ」
第56回:おうち時間のメディカルニッコール
ニコンDf+メディカルニッコール200mm F5.6
2022年10月20日 09:00
「メディカル」という名前を聞くと、背筋が伸びる感じがします。医療世界への憧れが筆者にはあるようです。
筆者の元には、オリンパス ペンFのメディカル仕様とか、SMCペンタックスA 100mm F4 デンタルマクロなる医療用の特別仕様のレンズがありますが、これらの特殊なカメラやレンズを使用すると、より高精度な写真が撮れそうな気がしてきます。
もちろん、気のせいです。
じつは長いこと所有はしていたけど、これまでろくに使用したことのない医療用の特別なレンズが筆者の手元にあります。「そんなもの、お前のとこにはたくさんあるだろ!」と、そんなにはっきり本当のことを言わないでください。ええ、そうですとも。開き直りますよ。
でもね、さらにこれらの中でも所有していることそれ自体が恥ずかしい、人に言えないレンズを掘り起こしたのです。今回はこれを読者の皆さまに特別に告白し、懺悔し、明日への前向きな写真制作の糧といたします。
このレンズ名はメディカルニッコール200mm F5.6と申します。本レンズの初代モデルが登場したのは1962年ということですので、本年で発売から半世紀を経ています。素晴らしい。おめでとうございます。
もうね、「メディカル」+「ニッコール」ですから、何かそれだけでもステージは最上級、しかもアカデミックですね。もちろんユーザーはみなさん高学歴な方々に違いありません。低学歴、低偏差値教育を受けてきたコンプレックスのある筆者の場合は名称だけでココロを揺さぶられてしまいます。畏れ多い機材でありますが、これを使うことで自分を少しでも賢く見せようというわけです。
でもね、これを所有することを下手に明かしてしまうと、世間からは「メディカルニッコールまで手を出す変態ジジイ」という称号が与えられてしまいそうで、怖くて黙っていたのです。
メディカルニッコール200mm F5.6はマクロ撮影に特化した特殊な専用レンズで、焦点距離を200mmとすることでワーキングディスタンスをとり、外科手術や口腔内の撮影を容易にした、基本的にはマクロ専用の望遠レンズです。
レンズ前面外周にはスピードライトが組み込まれています。言い換えればリングストロボが内蔵されているため、無影撮影が可能になるわけです。もちろん無影といえども、背景までの距離によっては被写体の輪郭に沿って、薄く影ができることがあり、これを独自の効果として表現に応用することがあります。写真家の沢渡朔さんのポートレートなどでは時おり見かけることがあります。
レンズは固定焦点となっており、レンズ単体では、先端から335mmにフォーカスが合っています。そこに6種あるアタッチメント(クローズアップレンズ)を組み合わせて撮影倍率を変えてゆく仕組みです。ヘリコイドが存在していないので、フォーカシングは、カメラごと体を前後することで合焦させるというきわめてストイックな方法がとられており、フォーカスの位置の取り方、フォーカシングスクリーン上のフォーカスの頂点の見極めなどそれなりに経験が必要になります。フォーカスエイドも使用できなくはありませんが、基本は位相差での測距ですし、手持ちとなれば使用するのは難しいと思います。
撮影倍率は1/15倍から3倍までを選択することができますが、興味深いのは、フィルム(撮像)感度と撮影倍率を鏡胴にあるリングでセットすると、スピードライト使用時の適正絞り値が自動的にセットされる仕組みになっていることです。
TTL自動調光方式など夢もまた夢のような時代に、フラッシュメーターを使用することなくマクロ領域撮影で適正露出を得ることができるというのは驚くべき仕様だったのではないでしょうか。オリンパスOM-2よりすげーぜ。
内蔵スピードライトの閃光時間は1/1,000秒。自動調光のスピードライトよりも長いですが、通常の撮影状況で手ブレの心配はないでしょう。
写真の右下に撮影倍率や任意の数値を写し込むことができるので、今回はこれも使用してみました。
電源はACとDCの2種から選択できますが、筆者の購入した個体はAC電源のユニット「LA-1」しか付属しておらず、屋外ではスピードライトが使用できないため、今回の作例は日常の身の回りのあれこれを相手にしてみました。
コロナ時代の究極の「引きこもりレンズ」というわけです。スピードライトを使用せずに撮影するのも不可能ではありませんが、これは筆者の性格には合わない撮影方法なので今回は取り入れていません。ここんとこ天気悪かったし。
メディカルニッコールに関しては、写真家の三木淳さんの面白いエピソードがあります。三木さんが日芸写真学科の教授だった頃、自分の“脳みそ”の写真を、自分のゼミの学生に見せていたというのです。これは、ご自身が罹患した脳腫瘍の手術中に主治医が撮影したものだそうですが、脳みそを学生に見せるのは、新ゼミ生への恒例行事だったらしく。
「どんな天才写真家でも自分の脳みそは見たことはないだろう」ということで話題になったといいます。この天才の脳みそを撮影したのがメディカルニッコール200mm F5.6だったとご本人が書いていたのをどこかで読んだ記憶があります。
このメディカルニッコール、筆者の手元お越しいただくことになった経緯とか、どこで購入したかは、さっぱり思い出すことができませんが、唯一無二のレンズなのに超絶な激安価格だったことが理由になったことは間違いありません。おそらく安居酒屋一回分くらいのお値段だったように思います。
前述した通り、フォーカシング機構のないレンズのため、あまりにも使いづらく、不人気だったこともありましょうが、その立ち位置があまりにも特殊だったということも理由でしょう。
とはいえ「何に使う」のか「何を撮る」のかは決まらないまま時が過ぎてしまったことに、いまも深く反省する筆者でありますが、製品写真にあるとおり、シンクロターミナルとか電源に繋がれたケーブルのありようがなんともメカ的にそそられませんか。
そそられない? 大丈夫。あなたは正常です。
鏡胴の仕上げやクリック感などは心地よく、それなりに高級感のあるレンズであります。鏡胴は太いのですが、マウント部分が細くなったくびれもなかなかセクシーです。手術撮影担当の医師が、本レンズの鏡胴をさすりながら恍惚となっているという図はさすがに思い浮かびませんけれども。
4群4枚のシンプルなレンズ構成のため、700gと見かけよりも軽量で取り回しがしやすいことも特徴です。三脚座は当然ありません。
内蔵スピードライトの光量は1/4に下げられるので、とくに至近距離撮影の時には役立つと思います。ところが今回、本気で使用してわかったのですが、筆者の元にある個体は、光量を下げる切り替えスイッチが故障しているらしく、光量が落ちませんでした。どなたか使わないLA-1をください。
幸いにもデジタルカメラはISO感度設定が自由自在ですから、今回本レンズに使用したニコンDfの感度拡張も使用して対処しましたが、光量は落としきれませんでした。でもフィルム時代には考えられない利便的な使用ができましたし、失敗もすぐにわかり、便利なことこの上ありませんでした。
結果は作例の通りなんですが、最大倍率に近づくほどシャープネスやコントラストがいまひとつという結果になり。
画質低下の原因はクローズアップレンズの重ね付けによる性能の劣化とか、小絞りによる回折の影響が強く出たものと思われますが、実用にならないということではありませんし、画像処理である程度は体裁を整えることができるでしょう。フィルム使用では回折の影響はさほど気にしていなかったのですが、これもデジタルの特性によるものなのかもしれませんね。
本レンズのポテンシャルを出し切るにはNDフィルターを用意するとか、発光部の一部を覆うとかディフューザーを使うなどして、それなりに工夫を考えねばならないようです。
最新のリング型ストロボの多くはTTL自動調光が可能ですから、撮影距離や撮影倍率が変わってもそのまま対処できますし、撮影の自由度は飛躍的に高まりました。
しかし、被写体の反射率、色などが露出に与える影響は、距離情報が自動的に露出に加味されたとしても、依然としてそれなりにあるかと思います。本レンズが被写体の状態によらず、適正露出を導き出してくれるのは良いところです。
本レンズは1972年に改良版が出て1974年にマルチコート化されます。1981年に本レンズの後継であるメディカルニッコール120mm F4が登場します。一家に一本というレンズではないのに、ロングセラーは素晴らしいことですが、他にかわりになるレンズがなかったという証でもあります。もっとも「メディカルニッコール」というネーミング、その響きに独自性があることもロングセラーの理由のひとつになったように思います。
先に述べたように、低倍率にセットすればポートレート撮影にも使えるかもしれませんが、筆者は、このメディカルニッコールで女性の目玉のアップを撮影して「どうだ!マン・レイだぜ!」と叫んでしまいそうです。