赤城耕一の「アカギカメラ」
第20回:私は如何にして心配するのを止めて35mmを愛するようになったか
〜「ライカ アポ・ズミクロンM F2/35mm ASPH.」降臨
2021年4月20日 07:00
いろんなところで書き散らかしているので、筆者の好みのレンズをご存知の読者も多いと思うのですが、筆者の最も好きなレンズは35mmレンズです。正しく言えば、これは筆者が好きな視角を得ることのできるレンズの“画角”であり、センサーが35mmフルサイズフォーマットの交換レンズとしてみた場合、35mmレンズの焦点距離の場合の画角ということになります。
35mm判換算画角という考え方をして、フォーマットごとにレンズの焦点距離をみてゆくと、APS-Cなら24mm、マイクロフォーサーズなら17mmのレンズになり、44×33mmフォーマットの中判デジタルカメラのレンズでは45mmくらいの焦点距離のレンズになります。
これらのレンズでは画角が同じでも焦点距離が違うので、被写界深度が異なりますから、空間構成を加味しますと、すべて同じ感覚で使えるとは言いかねます。けれど、この画角が好きなので、フォーマットが異なっても、実際には大きな違和感はなく撮影することができるわけです。
土門拳の『写真作法』(ダヴィッド社)に収録されている「35ミリのワイドーその戦後的な意義」の一文もこれまでずいぶん引用してきました。読まれた本誌読者の方も多いと思うのですが、たまにはいつもと異なる箇所を拾ってみましょうか。でもどこを拾っても同じようなことを土門は述べています。
「35ミリのワイドは、大ざっぱにいって視角がちょうどいい -中略- ちょうどいいというのはモチーフに直結する」こう述べています。本書を読んで、35mmレンズの魅力を簡単に読み解くのは難しいのですが、土門が「ちょうどいい」というのですから「ちょうどいいのです」。写真の神様が言うのですから間違いありません。神様ですから自分たちで考えろという本当に大ざっぱなところがあるのでしょう。少し安心しました(笑)。
面白いのは、35mmレンズを入手しやすくするためでしょう。カメラを購入した時についてくる(昔はキットレンズという言い方はなく、レンズ交換式カメラは50mm標準レンズと一緒に購入するのが普通でした)50mmレンズは新品のうちに売り飛ばして、35mmに買い替えなさいとも述べています。説得力があります。このため当時は中古カメラ屋さんでは50mm標準レンズの在庫が溢れ、35mmレンズにはプレミアがついたとありますが、すでにウラのとりようがないので都市伝説かもしれません。
土門拳は「絶対非演出の絶対スナップ」を目標としていました。スナップ撮影に広角レンズを使うのはマストです。若かった私は土門拳のいうことをそのまま真に受け、35mmの画角が好きになり、このことをきっかけとして、今日に至るまでの筆者の「35mmへの旅」が始まるわけです。それから入手可能な世界の35mmレンズを全て使うという壮大な、けれど達成不可能な目標が掲げられたわけです。私の青春を返してください。
それがいったい何になるのか、と怒られてしまいそうですが、筆者は35mmレンズならもう廉価なものでも高価なものでもなんでもいいんです。本当のことをいうと、優劣とか描写の評価とかもそれほど重要視していないんですね。まじめだけど、どこか優柔不断な私なので「描写がカラダに合う」35mmを探しているわけです。
本誌の編集部は筆者の性癖をどこかで聞きつけたのでしょうか、「へへ、ダンナ好みの生きのいい35mmが試せますぜ、いかがですかい?」と誘いをかけてきたのです。もちろんこういうお誘いには乗っかります。歴代のズミクロン35mmはおおむね使用経験があるということもご指名いただいた理由でしょうか。
と、いうことで、毎度のことながら本題に到達するまでがかなり長くて周りくどい話を書いておりますが、今回のお話は「ライカ アポ・ズミクロンM F2/35mm ASPH.」についてです。ベンチマークテストとかはしてませんが、それは優秀なレポーターさんがそのうちやるでしょう。限られた時間内ですが、撮影することができたので軽く作例写真を見ていただいて話をしようというのが今回の趣旨です。
到着したアポ・ズミクロンM F2/35mm ASPH.の第一印象は、ルックスにうるさい私でも81点はいきましたね。極端に小さいわけではないですが、昨今のミラーレス機用の色気がなくて肥満した35mmレンズと比べると素晴らしくキレイですね。フィルター径なんか、E39(39mm)です。おお!ライカレンズの基本フィルター径じゃないですか!これだけでも評価はプラス5点にします。
小型ですがズシッと重たいです。ガラスの自重なのか詰まり具合なのかわかりませんが充実感があります。アポ・ズミクロンM F2/50mm ASPH.を最初に手にした時、手のひらに感じた「おっ」という感覚に似ています。デザインでまた特徴的なのは、フードがフジツボタイプで開口部が四角なことです。デザインは7枚構成のズミクロンM F2/35mm(3代目)のフードと少しだけ似ていますが、こちらは金属製、ねじ込みタイプです。この装着方式はズマリットM F2.4/35mm ASPH.に似ています。
フードの開口部は四角ですから、フードをねじ込んだ時、最後に定位置に止まらないと開口部が傾いてしまい、前から見た時の姿が美しくないし、下手をすると画面のケラれが生じたりして悲惨になることがあります。けれど、そこはライカレンズですから寸分違わぬ位置で、ぴたりと平行位置で止まります。すげー。こんなところにコストをかけてどーするんだよって感じは正直しますが、ライカの場合それはありですね。
鏡胴を見てみます。フォーカスリングを回すと見慣れた距離目盛りに加えて、0.7m以下の表記、薄いグレーの文字入れで0.5とか0.3の数字が見えます。おおっ、なんと最短撮影距離が0.3mになっているのです。
やりました!Mシリーズライカがデジタル化して、ライブビューやEVFでフォーカシングできるのならば、最短撮影距離が距離計の測距連動範囲である0.7mよりも短くなったとしても、問題なくフォーカシングできるではないかと前から申し上げておりましたが、これが実現したわけです。レンジファインダーカメラの最大のウィークポイントはマクロ撮影に弱いことでしたが、ライブビューを使えばこの欠点は克服されます。
過去にはMマウントのデュアルレンジズミクロン50mm F2のようにアタッチメントとの併用で0.48mまで寄ることのできるレンズや、最近ではマクロ・エルマーM F4/90mmのように、アダプターとの併用で1/2倍までの撮影ができるレンズがありますが、それでも単体での最短撮影距離は0.8mとなっています。また高性能で独特な写りに定評のあるスーパーアンギュロン21mm F4やF3.4の最短撮影距離は距離計連動範囲を超えた0.4mまで設定することが可能でしたが、これは超広角ですし、設計はシュナイダー・クロイツナッハだし、特例とみるべきでしょう。
Mシリーズライカは2006年にデジタル化したのち、2012年発表のライカM(Typ240)からは光学ファインダーとライブビュー(背面モニターもしくは“ビゾフレックス”と呼ばれる着脱式EVFを使用)のいわばハイブリッドカメラになったわけですね。フィルム時代のライカではなしえなかった壁をここで突破したわけです。デジタルの恩恵がレンジファインダーライカを変えたのです。
とはいえフォーカシングはあくまでMFで行うことになりますし、その利便性は最新のミラーレス機と比較すればささやかな進化ではありますが、40年以上ライカと戯れ……じゃなかった、戦力として使用している筆者としては、35mmレンズの最短撮影距離の短縮は大事件に近いものがあります。
ちなみに、距離計連動範囲の0.7mよりも至近位置にフォーカスリングを回す場合は、境界点でクルマ止めを少し乗り上げてゆくようなわずかな抵抗感がありますが、これは触感でも注意を促そうという意図的な機能でしょう。フォーカスリングの回転角は大きく、ほぼ一周しそうですが300度ということです。
レンズ後部を見てみると、なんとボディ本体の距離計のコロに当たる距離計連動カムは、ヘリコイドの回転に連動した動きではなく、直進カムとも言いましょうか、小さなカムがフォーカスリングの動きに合わせて前後し、ボディ側のコロを押すことで距離位置を伝える方式になっています。
これは初期型のズミクロン90mm F2にも見られた方式ですが、最短撮影距離が距離計連動範囲外になったことで回転カムの採用をやめたのかもしれませんが、カムの動きや構造を見てみると、それなりのコストがかかっているように感じます。
さて、実際の写りに関わるレンズ構成などをみてみましょうか。本レンズはいわゆるアポクロマートによる収差補正を特徴としたアポ・ズミクロンMシリーズであり、90mm、75mm、50mmに続く4本めとなります。
レンズ構成は5群10枚。非球面レンズ3枚(うち1枚は両面非球面)、異常部分分散ガラス6枚を採用しています。至近距離でも性能変化がないようにフローティング機構が採用されています。
アポクロマートは、フィルムカメラ時代には主に望遠系レンズで採用された色収差補正のことですが、デジタルカメラになってからはより広角のレンズでも採用されるようになりました。とくに軸上色収差の補正に有効とされています。ちなみに35mm F2のスペックを持つアポ・ズミクロンはライカSL用のLマウントレンズですでに存在していますが、同スペックのレンズにおいて最高峰の性能という評判があります。
本レンズに限らず、レンズの写りを言葉で表現するのはなかなか難しいのですが、ひとことで言えば鋭利な刃物でしょうか。厚みのある肉や野菜を切り、その素材の切り口の方でも手を斬りそうです。開放から線が細すぎるくらい繊細な描写で、コントラストが驚くほど高く、絞りは光量と被写界深度を調整するためにあるものという感覚です。被写体はピシッと存在感あるように写ります。ボケ味は大口径ではないから重たさが出ることもありますが、巻き込むようなクセはなし。開口効率も前玉は大きくありませんので過度には期待してませんでしたが、周辺光量の落ち方はなだらかです。
今回の使用カメラはライカM10-R(約4,000万画素)とライカM10-P(約2,400万画素)です。デジタル時代の高性能レンズはフィルムカメラで使っても意味がないという話も聞きますけれど、フィルムのライカM7でも撮影してみることにみました。ちなみにミラーレス機専用マウントの最新交換レンズで、フィルムカメラに使用できるものは存在しません。
高画素機のライカM10-Rでは、撮影した写真がどこまでも大きく伸びてゆく感覚が得られました。細部まで緻密すぎるくらいで、フォーマットサイズの大きなカメラで撮影したように錯覚するほど。ライカM7にフジクロームプロビア100プロを詰めて撮影したものはエッジ効果が際立つという印象を持ちました。もちろん細部の再現などはデジタルにはかないませんが、フィルム再現には像に厚みがあります。高性能レンズで撮影すると通常の35mmレンズよりも被写界深度がさらに浅く感じるのが不思議です。フォーカスの頂点がピーキーすぎるのでしょうか。
フィルムカメラ時代の超望遠レンズではアポクロマートと通常仕様のレンズを2本用意したメーカーは少なくありませんでした。同じ焦点距離とスペックでも価格の差が驚くほど大きいのですが、これはみな納得しているようなところがあり、カメラメーカーとしても自社の技術を誇示するために重要なものとして用意したのでしょう。本レンズが登場しても、もちろんズミクロンM F2/35mm ASPH.は併売されています。あたりまえです。
ただ、理屈で納得はしていても、本レンズと同じ焦点距離の大口径レンズ、ズミルックスM F1.4/35mm ASPH.よりも高価なことに驚いてしまいます。もっとも、高い描写能力によって超高価であることを最初に納得させたのがアポ・ズミクロンM F2/50mm ASPH.ではないかと思いますが、このレンズもズミルックスM F1.4/50mm ASPH.よりも高額です。開放F値はF2と平凡でも、突出した描写性能を持つことで50mmレンズのひとつの基準、いや、原器になりました。
したがって本レンズは、ライカだけではなく35mmレンズとしての原器的な存在となりそうです。光学設計者は、人によっては無収差になる目標をたててそれを目指しているようなところがありますが、ライカのアポ・ズミクロンシリーズはその象徴という印象さえ感じます。
ちなみにこうした高性能レンズが登場しても、クラシックな設計の中古ライカレンズの人気は衰えることはなく、中古市場ではさらに人気が高くなっているような印象も受けています。本レンズのような超高性能レンズをライカが用意し、描写の基準を設けたことで、逆にクラシックレンズには個性を感じる機会が増えてきました。写真を制作する側にとって、レンズに求める描写が必ずしもすべて一律ではないことを示しています。
こうした話は、本レンズを購入することなど夢のまた夢という貧しい経済状態の筆者の嫌味にしか受け取られないかもしれませんが、それもまた仕方ありません。"税別96万円"という本レンズの価格をみた瞬間、筆者は遠い宇宙の彼方に存在する星のように感じ、自分でもわかるほど遠い目をしてしまいました。近視で老眼ということもあるのですが。ライカM10-Rと組み合わせた時には総計200万円コースとなります。うちのクルマよりもはるかに高額です。この組み合わせで、飼い猫や路地裏の汚い塀を撮るのは法律で禁止されていますので念のため。
前回のアポランターの話にも書きましたが、フォクトレンダーのアポランター35mm F2 VMと本レンズは、製品のコンセプトとしては同等の存在になります。アポランターも異常部分分散ガラスや両面非球面レンズなどを採用し、フォクトレンダー史上最高性能の35mmとして登場しています。どちらがどうということはここでは言いませんが、本レンズはアポランターの実勢価格の10倍になるということだけは申し添えておきます。それでも欲しいですけどね。
今回はスケジュールの関係もあって撮影したのは天気やスケジュールで正味3日に満たないくらい。ほんのさわりといった程度です。できればモノクロフィルムでも試したかったので、このアポ・ズミクロンM F2/35mm ASPH.が買えるように、もっと筆者に仕事をください(笑)。