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ライカ、“誕生の地”ウェッツラーで100周年イベントを開催

記念モデル、コラボ腕時計、レアライカのオークションなど

 独ライカカメラ社は5月22日(現地時間)、ウェッツラーの新社屋「ライツパーク」内でプレスカンファレンスを開催した。同日開催のライカ100周年記念オークション、5月23日に行なわれた「100 years of Leica photography」の模様も含めてレポートをお届けする。

ライツパーク(ドイツ・ウェッツラー)

 ライツパークのオープニングセレモニー前日に行なわれたプレスカンファレンスでは、社主のアンドレアス・カウフマン氏をはじめ、CEO、プロダクトマネージャー、ライカギャラリーの代表者などが登壇。ライツパークの概要および100周年記念に関わる事項を紹介した。

プレスカンファレンスと翌日のオープニングセレモニーが行なわれた黒いテント。この日は最高気温28度という見事な好天
ライカカメラ社主のアンドレアス・カウフマン氏
ライツパークのライカギャラリーで9月30日まで行なう100周年記念展示「10x10 EXHIBITION」を紹介
ライカギャラリーの責任者であるカリン・レン-カウフマン氏
プロダクトマネージャーのステファン・ダニエル氏
ライカMエディション100を披露。限定101セットのうち、エディション1番が直後のオークションに出品。約1,600万円で落札されたそうだ
同セットに含まれる、ステンレススチール製のライカM-A(手前)とライカMモノクローム(奥)
ライカMエディション100のライカM-A。現行のライカMPがベースだが露出計を省略しており、前面に電池室がない。トップカバーには「LEICA CAMERA WETZLAR GERMANY」の文字
新しい「マクロ・エルマーM 90mm F4」を装着したライカM。ライブビュー用の接写アダプターで併用41cmまで寄れる
シルバーの「ライカMモノクローム」。日本では6月6日に発売する

 後半の質疑応答において、2013年にライカが買収したジナーに関する質問があった。製品に関する具体的な回答こそなかったが、プロダクトマネージャーのステファン・ダニエル氏は「ハイエンドとなる、新しい大判ソリューションに期待していてほしい」とコメントした。

ライツパーク内のストアにはジナー製品の展示もあった

 ここで披露されたカメラ新製品については、既報のライカ、「ライカMエディション100」をウェッツラーで披露も併せてご覧頂きたい。

ライカ愛好家のブランドから、100周年記念の腕時計

 プレスカンファレンスでは、スイスのValbray(ヴァルブレイ)によるライカ100周年を記念した腕時計「EL1 Chrono」も披露された。2014年7月から一部のライカストアやValbrayのブティックのみで取り扱う。

ライカカメラ社CEOのアルフレッド・ショプフ氏がEL1 Chronoを紹介
カンファレンス当日にようやくスイスから届いたというEL1 Chrono。傍らでカウフマン氏も感触を確かめる
EL1 Chrono

 特徴は、腕時計のベゼル部分を回すとレンズの絞り羽根のように文字盤を覆い隠す「Oculus」機構。2009年にValbrayを立ち上げた創設者はフィルムライカの愛用者で、同機構のパテントを取得。今回の記念モデルにも搭載された。まさにレンズの絞り羽根をイメージした機構だといい、羽根は16枚で見事な円形。その眺めにオールドライカレンズを連想した。

絞りを開いた状態
ベゼルを回すと絞り羽根が閉じていく
時針、分針、クロノグラフの秒針だけが残る
チタンカラーのほかに、ブラックバージョンも用意。各50本

 「EL」は、ライカブランド創設者の一人であるエルンスト・ライツ(Ernst Leitz)へのオマージュという。3時位置のデイト表示はフィルムカウンターのようなデザインであり、クロノグラフの積算計には感度ダイヤルを連想させられた。

 EL1 Chronoはチタンケースを採用。ケース径は46mm。限定100本のうち50本はチタンカラーで、もう50本はブラックのDLC加工だという。ムーブメントはスイス製のバルジュー自動巻きクロノグラフで、裏側からムーブメントが覗くスケルトンバックになっている。価格は1万7,990ユーロ。

エリオット・アーウィット氏。プレスカンファレンスの最中、おもむろにライカを取り出して撮影する場面も。現行MPにフード内蔵のズミクロン50mmという組み合わせ

 会場にはエリオット・アーウィット氏の姿もあった。アーウィット氏は「私は60年ライカを使っている。特に替える理由もないからだ」、「まだフィルムを使っている。替える理由がないからだ」と前置き、ライツパーク、ライカカメラ社の人々、ライカのカメラを賞賛。プレスカンファレンスを締めくくった。

誕生の地に戻るライカカメラ社を祝福

 ライツパークの正式オープン日である5月23日の昼(現地時間)には、招待客向けのセレモニーを開催。ヘッセン州財務大臣、ウェッツラーを含むギーセン行政管区の長、ウェッツラー市長などが挨拶し、ライカカメラ社がライカ発祥の地であるウェッツラーに戻ってきたことを祝福した。

会場の様子
セレモニーの最後に鍵を授与した。「2014年春、ライツパークにやってくるライカカメラ社に対し、幸運と成功を祈って」といったメッセージが刻まれているようだ
変わらず本社をウェッツラーに置いていたライカマイクロシステムズも、ライカの誕生100年を祝した。記念の顕微鏡を受け取ったショプフCEOとカウフマン氏

ライカ100周年の記念オークション

 セレモニー終了後、ライツパーク内のレストランでオークションが始まった。会場には関係者しか入れず、セレモニーが行なわれたテントやライツパークのエントランスでパブリックビューイングが行なわれていた。

セレモニー終了後、そのままオークションの中継を視聴
配布された出品カタログを片手に、筆者も他人事ながら盛り上がった

 出品アイテムの一覧は、ヴェストリヒトオークションのWebサイトで見られる。以下にいくつかを写真で紹介する。

ライフルストックとビゾフレックスが付いたバルナックライカ(1956年)
ライカII改、D LUXUS(1932年)
ライカ72ミッドランド。ハーフサイズで72枚撮れる稀少モデル(1955年)
ケース付きのステレオタンデム(1950年)
ライカIIIfとステマー3.5cm F3.3のセット。アクセサリーも付属(1956年)
ヘクトール7.3cm F1.9。アグファカラーフィルター付き(1934年)
ズマレックス8.5cm F1.5のブラックペイント(1943年)
タンバール9cm F2.2。ソフトフィルターなど付属品も付いている(1937年)
デッケル社のコンパーシャッターを搭載したエルマー7.5cm F4.5(1932年)
エルカン90mm F1(1970年)。スタート価格は4万ユーロ
カール・ツァイスのホロゴン15mm F8。ファインダーとフィルターも付属(1976年)
ライカM5の木製模型(1965年)。本物より大きい
ライカIIIcプロトタイプ(1934年)
M型ライカ用ステレオバーのプロトタイプ(1960年)
フィルター径39mmのズミルックス35mmプロトタイプ2本(1987年)
ライカM6エレクトロニック(1979年)
ヘクトール7.3cmの4本セット(1932〜1938年)
ズマール5cm F2の3本セット(1933年)
ライカのカットモデル4台セット
シュナイダー スーパーアンギュロン21mmのプロトタイプ6本セット(1957〜1977年)
ライキナスーパー8のプロトタイプ9台セット(1970〜1972年)
ライツファインダーのセット(1930〜1940年)
初期ライカのフードセット(1925〜1940年)

ライカ100周年の記念式典。オスカー・バルナック賞の表彰も

 同日夜はウェッツラー市内のRITTAL ARENAに場所を移し、セレモニー「100 years of Leica photography」に出席した。

招待客向けのメインイベントと見られる100周年記念セレモニー
会場前。セレモニー終了後も写真撮影などで盛り上がっていた。
セレモニー開始直前、初期ライカの製造工程と思われる映像が流れた
完成したライカA型。1930年前後の映像と見られる

 アンドレアス・カウフマン氏がライカの歴史を振り返り、続けて現在の写真や音楽などに関する文化的取り組みについて紹介した。

ライカ誕生100周年、M型ライカ誕生60年を祝した
セレモニーのパートごとにシモン・ボリバル弦楽四重奏団が演奏した。背景には音楽に関係するモノクロ写真が流れていた
フォトキナ2012でLeica Hall of Fame Awardを受賞したニック・ウット氏が、ロサンゼルス市の理事会メンバーによって署名された100 years of Leica photographyの認定書を手渡した

 続けて、ライカギャラリーのディレクターであるカリン・レン-カウフマン氏が登壇。100周年記念の10x10 EXHIBITIONに参加したフォトグラファー10名のうち、8名がステージに上がった。また、2014年のオスカー・バルナック賞の表彰もあった。

カリン・レン-カウフマン氏が10x10 EXHIBITIONを紹介。10名のうち8名のフォトグラファーが登場した
「The Other Side of the Tower of David」で受賞したAlejandro Cegarra氏
「Field Trip」で受賞したMartin Kollar氏
セレモニー終了後、ホール外でフードとドリンクが提供され、夜遅くまで盛り上がっていた

(本誌:鈴木誠)