インタビュー

キヤノンEOSの交換レンズ「累計生産1.5億本」の歩み——アウトフォーカス領域への挑戦。DSコーティング編

キヤノンがEOS用RF/EFレンズシリーズの累計生産本数1億5,000万本を達成したことをうけて、同社レンズ技術の開発秘話にせまる本企画。本稿では「DSコーティング」技術を取り上げる。

DSコーティングが採用されているのは、RFマウントの中望遠単焦点レンズ「RF85mm F1.2 L USM DS」(2019年発売)。DSとは“Defocus Smoothing”のことで、キヤノン独自のコーティング技術だ。同じく85mm F1.2のスペックを持つ「RF85mm F1.2 L USM」と比較して、より輪郭の滑らかなボケ描写が得られることを特徴としている。

RF85mm F1.2 L USM DS
RF85mm F1.2 L USM

様々な光学技術の開発により、キヤノンは諸収差や反射を抑制することでレンズの高性能・高画質化を実現してきた。しかし、この「DSコーティング」については、そうしたこれまでの歩みとは少し趣の違う意図があるようだ。

本稿では、キヤノンの“アウトフォーカス領域”への挑戦と、その想いに迫っていく。

光学技術統括開発センター 石橋 友彦 主任研究員

“好みのボケ”を選択する

キヤノンがレンズ交換式カメラの画質において、重要な項目として捉えている2つの要素があるという。一つは、優れた光学性能を実現すること。もう一つが、今回のテーマとなるアウトフォーカス領域の描写だ。

「ピントが合っていないところがボケる」「ボケたところを表現として利用する」というのは、レンズ交換式カメラで撮影を楽しむうえでの大きな魅力だとキヤノンは考えているという。その“ボケ描写”の表現にバリエーションがあれば、さらに撮影に面白い選択肢が生まれるのではないか。

レンズの光学性能を高めようとすればするほど、ボケの輪郭ははっきりする傾向がある。例えば、木漏れ日の木の葉の間をぼかして撮影しようとしたとき、輪郭のはっきりとしたボケが重なり合うと「うるさい」と表現されることがある。そういった描写が好まれる場合もあるが、ユーザーの好みに応じてそのボケ表現に新しい選択肢を提供できないか。そうした発想のもと、キヤノンはDSコーティングの開発は進めていったのだという。

木漏れ日の撮影例
DSコーティングあり
DSコーティングなし

光の“吸収”作用を使った技術

アウトフォーカス領域の表現に変化を加える技術として、2021年に発売した「RF100mm F2.8 L MACRO IS USM」では、ボケ描写を変化させられる「SAコントロールリング」を搭載。また、古くは1987年に発売した「EF135mm F2.8 ソフトフォーカス」で、球面収差をコントロールしてソフトフォーカスの描写を切り替える機構を搭載していた。

RF100mm F2.8 L MACRO IS USM

キヤノンはRFマウントの85mm F1.2という大口径中望遠レンズを開発するにあたり、「新しいボケ表現」を実現することを目標として、DSコーティングの開発を進めた。そのコンセプトとしては、「ユーザーの好みに合わせて、通常のレンズ(RF85mm F1.2 L USM)とは異なるボケ描写の選択肢を提供する」というものだった。

例えば、85mm F1.2というスペックの活用シーンとして多くなると想定されるポートレート撮影の場合、ピントを合わせる人物の部分については高い結像性能が求められる。一方でアウトフォーカス領域においては、ボケ描写をより柔らかくすることで、ユーザーに新しい価値を提供していきたいとキヤノンは考えたのだという。

DSコーティングを利用した作例

本企画でも取り上げてきたように、これまでキヤノンは様々な光の物理現象を利用した技術を開発してきた。回折という現象を利用した「DOレンズ」、干渉作用を用いた反射抑制技術「SWC・ASC」、異常分散特性を用いて色収差を補正する「BRレンズ」。そして「DSコーティング」では、“光を吸収する”という、今まで開発した技術とは異なる物理現象を利用しているというのだ。

DSコーティングの仕組み

光を吸収するとは? 具体的なDSコーティングの仕組みについて話を聞いていった。

DSコーティングは、レンズの中心から周辺に向かって徐々に光の透過率が下がるように、光を吸収する材料を蒸着する(透過率を分布する)技術。中心部は材料がコーティングされておらず通常の透過率を維持しており、周辺部に向かうにつれて、材料を厚くコーティングすることで(段々と黒くなっていく)周辺部の透過率を下げている。これにより、ボケの輪郭が柔らかく、滑らかで美しいボケを表現できるのだという。

DSコーティングを施したレンズを手にする石橋氏。レンズの周辺部が黒くコーティングされている様子がわかる
「透過率分布あり」(右側)の図では、レンズの周辺部にコーティングが施されている(黒く塗られている部分)。これにより、ボケの輪郭が滑らかになるという

下の画像が、光を吸収する性質をもつ材料。これに真空中で高温エネルギーを与えてレンズに蒸着していく。材料そのものは黒い色をしているが、蒸着時にコーティングの厚みをコントロールして濃度を調整している。

光を吸収する材料
開発時は、様々な厚さのコーティングを試作した

開発を進める中で課題となったのはレンズのサイズだったと話す石橋氏。“DSコーティング無し”の通常モデル「RF85mm F1.2 L USM」と同じサイズに収めながら、画面の中心から周辺まで、柔らかいボケ表現を実現するためにはどうしたらよいか。それが技術開発の肝となっていった。

レンズの小型化に“口径食“を利用?

特徴1:レンズ構成

まずポイントとなるのは、コーティングを施したレンズをどこに配置するか。レンズ配置の考え方として、以下の3パターンを比較して見ていく。

パターン1:DSコーティング付きレンズを絞り付近に1枚配置(口径食なしで設計)

パターン2:DSコーティング付きレンズを絞り付近に1枚配置(口径食ありで設計)

パターン3:DSコーティング付きレンズを絞り前後に1枚ずつ配置(口径食ありで設計)

まずは、画面周辺部まで丸ボケとなるよう、口径食なしで構成していく場合を考える。パターン1は絞り付近にDSコーティング付きレンズを1枚配置するという考え方。

パターン1。透過率分布は赤いほど光を透過していることを示す

画面中心(センサーの中心)に向かう光束(赤色)と、周辺に向かっていく光束(青色)は同じくらいの太さ。いずれの光束も、絞り付近に配置したコーティング付きレンズの全域を同じように通過。そのため、画面中心部~周辺部の光束に同等の透過率分布をつけることができる。画面全域で均一になだらかなボケ描写が得られるということだ。

しかし、85mm F1.2というスペックで、口径食なしで構成するとレンズの大型化は免れない。さすがにこのスペックで口径食なしという構成は厳しいという判断となった。

レンズを小型化するために、“口径食を少しつける”というのは、設計のうえでの一般的な手段なのだという。それを想定したのがパターン2。

パターン2。パターン1よりも絞り前後のレンズが小型化した。画面周辺部の透過率分布のバランスが良くない

大口径のレンズを小型化して配置。DSコーティング付きレンズはパターン1と同様に絞り付近に1枚配置している。画面中心に向かう光束(赤色)はコーティング付きレンズの端まで通っているが、周辺に向かう光束(青色)はコーティングがかかっていない中心部しか通らない。これでは、画面中心はなだらかなボケになるが、画面周辺では同様な透過率分布がつけられていないことになる。

そこで採用したのが、絞りの前後にDSコーティング付きレンズを1枚ずつ配置するというパターン3。画面中心に向かう光束(赤色)はパターン1・2と同様だが、画面周辺に向かう光束(青色)を見るとその特徴に違いがある。

パターン3

画面周辺部に向かう光束が、絞りの前側にあるレンズを通ったとき、光束の下側の透過率が落ちる。反対に、絞りの後ろ側にあるレンズを通ったときに上側の透過率が落ちる。これらの光束は掛け算となってセンサー上に到達するため、センサー上では全周でなだらかな透過率分布ができるという仕組みになっている。

シミュレーション画像
コーティングなし
絞り前側のみコーティング
絞り後ろ側のみコーティング
絞り前後にコーティング

特徴2:“コーティング”を採用したメリット

先述したように、DSコーティング技術はレンズの上に光を吸収する材料を蒸着するという方法を採用している。こうしたコーティング技術には大きく分けて2つのメリットがあると石橋氏は言う。

一つ目のメリットは、レンズを小さく設計できるという点だ。開発当初、コーティング以外の手段として、同じように画面周辺部に向かって光の透過率が下がるように加工を施した平板フィルターをレンズ内に入れる案もあったという。しかしその場合、レンズ本体内にフィルター部材を追加で設置するスペースが必要となる。特に、曲率の付いたレンズの間にそうした部材を挟もうとすると相応な間隔を開ける必要性が生じるため、レンズの大型化は避けられない。

レンズに直接コーティングすることにより光の透過率を下げることができれば、そうした追加の部材を使うことなくレンズを構成でき、ひいてはレンズの小型化に寄与することができるというのだ。

メリットの二つ目は、曲面に対してもコーティングを施せるという点。どのような曲率の面に対してもコーティングできる技術があれば、「最後にどこにコーティングを入れるか」を考慮すればよいので、レンズの設計自由度が上がるのだという。

もともとDSコーティングを想定せずに設計したモデルに、あとからコーティングを施すことも可能で、「RF85mm F1.2 L USM DS」と「RF85mm F1.2 L USM」の関係のように、コーティング有無の両モデルを併売できるというメリットにもつながるのだそうだ。

コーティングは厚みを変えることで、様々なタイプの透過率分布を形成できるのだそうだ。同時に開発を進めたシミュレーション技術を用いながら、「どういう透過率分布だと綺麗なボケになるか」を検討していくことができるという。キヤノンが培ってきた高い成膜技術もあり、非常に設計自由度の高いコーティング技術を確立できたと石橋氏は語る。

DSコーティング有りor無し。どっちがいいの?

DSコーティングを採用した「RF85mm F1.2 L USM DS」と、通常モデルの「RF85mm F1.2 L USM」。この2本に関しては、レンズ配置も使っている硝材も同じ。外観上にも大きな違いはなく、先端部に“DS”、マウント付近に“DEFOCUS SMOOTHING”の表記があるかないかだけとなっている。ちなみに石橋氏によると、前からレンズをのぞいた際に、目が慣れてくると3枚目のレンズにコーティングが施されている様子が見えてくるようになるのだという。

RF85mm F1.2 L USM DS

撮影面では、「RF85mm F1.2 L USM DS」は光の透過率を下げるためのコーティングを施している関係で、絞り開放でシャッタースピード約1・1/3段分通常モデルよりも光量が落ちるという。しかしそれ以外では、AFやAEはもちろん通常モデルと同様に動作するため、ユーザーにとっても普通のレンズと同じように使用できるとしている。

キヤノンはDSコーティング有り・無しの2本を併売。その意図を石橋氏は以下のように話す。

「どちらが良い、悪いではない。ユーザーによってどういうボケ表現をしたいか。それはあくまでも好みの問題であり、それを選択できるようなラインアップを用意するのがメーカーとしての使命だと考えている」。

 ◇
良いレンズの条件とは何だろうか。レンズ技術の進化により、近年の交換レンズにおいて“良く写る“ことはもはや当たり前になっている。しかしキヤノンがDSコーティングの開発を振り返って語るように、レンズの描写には人それぞれの好みがあり、正解はない。最新の交換レンズ開発には、そうした更に高いステージでの顧客ニーズを研究し、様々な選択肢を提供しようという心意気が感じられる。

(次回は駆動系を取り上げます。)

本誌:宮本義朗