インタビュー
キヤノンEOSの交換レンズ「累計生産1.5億本」の歩み——色収差と戦うDO・BRレンズ編
2021年9月16日 09:00
キヤノンがEOS用RF/EFレンズシリーズの累計生産本数1億5,000万本を達成したことをうけて、同社レンズ技術の開発秘話にせまる本企画。本稿では、色収差補正を特徴とする「DOレンズ」と「BRレンズ」についてお届けする。キヤノンがこうした特殊素材を積極的に開発し、レンズに搭載してきたその“歩み”にせまった。
まずはDOレンズとBRレンズの特徴について確認していく。
DOレンズとは
光には、障害物の端を通過する際に裏側へ回り込む「回折」という性質がある。この現象を利用して光の進路をコントロールするというのがDOレンズの考え方となっている。DOとはDiffractive Opticsの略で、回折光学素子を指す。
DOレンズは、球面ガラスと特殊な樹脂製の回折格子によって構成されている。この回折格子というのがDO(回折光学素子)にあたる部分だ。レンズを正面から見ると、同心円状に格子が形成されている。
回折格子の厚みは数ミクロン、格子は数十ミクロンから数mmの周期で構成されている。格子の間隔を部分的に変えることで、非球面レンズと同等の作用を得ることも可能としており、球面収差や諸収差の補正効果も得られるという。
光は色によって屈折率が異なるため、レンズを通ると色ごとにそれぞれ別々の場所に焦点をつくってしまう。この焦点のずれが色収差となる。DOレンズは、通常のガラスレンズとは逆の色収差を生じさせるため、この両者を組み合わせることで色収差の補正を実現している。
交換レンズを小型化するために各レンズ同士の間隔を狭めようとすると、色収差は増大しやすくなる。そこにDOレンズの特性を組み合わせてバランスを取るというわけだ。
DOレンズには2積層型、3積層型、密着2層型の3種類があり、いずれも回折格子を重ね合わせて成形している。最初に登場したのが「EF400mm F4 DO IS USM」(2001年)に搭載された2積層型のDOレンズ。超望遠レンズの小型・軽量化を実現したものの、暗所において明るい光源の周りにフレアが発生しやすいという問題を抱えていた。
現行製品の「EF400mm F4 DO IS II USM」(2014年)に採用された密着2層型DOレンズでは、2つの回折格子を密着させることで、従来のDOレンズに生じていた回折格子間の空気層による回折効率の低下を排除。回折フレアの発生を大幅に低減している。
“毒をもって毒を制す”BRレンズ。蛍石との違いは?
BRレンズのBRは「Blue Spectrum Refractive Optics」の略で、波長の短い青色の光を特に大きく屈折させる効果を有している。有機光学材料を原料とした光学素子(BR光学素子)を成型して、凹レンズと凸レンズの間に挟み込んでいる。
たとえばノイズキャンセリングのイヤホンでは、音を出すことで雑音を消している。BRレンズでも同じように、色収差を打ち消すような色を出すことによって、色収差を補正している。
色収差の出にくい、蛍石の様な低分散材料を多く使うことで、そもそも色収差の発生自体を小さくすることもできる。しかしBRレンズにおいては、他のレンズ群で青色光の収差が大きく出るようにしておき、青色の光を大きく屈折させるBRレンズでそれを打ち消すことで、最終的な色収差をなくすという考え方だ。これにより設計の自由度を上げることができるとしており、キヤノンはBRレンズの特徴について“毒をもって毒を制す”と表現している。
蛍石と同等の異常分散特性を持つというBR光学素子だが、それぞれを交換レンズに使用する場合には性格の違いがあるという。
青色の光を大きく屈折させるBRレンズに対して、蛍石はそもそも色収差の発生量が少ないため、単独でも使いやすい。しかし、F値の明るい大口径レンズに使おうとすると、屈折率が比較的低いため蛍石を複数枚に分けて、光を緩やかに屈折させていく必要がある。そのため製品が大きく重くなり、使いづらくなるのだという。
蛍石は単独で優れた特性を持つ一方、BRレンズは他のレンズや硝材と組み合わせることで生きてくる。自らの特徴を発揮しつつ、他のレンズの特性を引き出すことができるのだ。そのため、より小型・高性能化が求められる交換レンズの設計において、他のレンズとの組み合わせで特徴を発揮するBRレンズがとても大きな役割を果たしているという。BRレンズは、蛍石を使用するのが難しかった大口径レンズにも生かせるレンズとなっている。
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ここまではDOレンズとBRレンズの特徴を紹介してきた。ここからは、キヤノンがこれまでどのように色収差と向き合ってきたのか、その軌跡について聞いた。
色収差との戦いの歴史
キヤノンにおける色収差との戦いは、1995年に大きな転機を迎えていた。当時、キヤノンでは事務機の4色カラープリンターの色ズレをいかにして抑えるかという課題があった。一方でカメラ用交換レンズにおいても、望遠レンズの色収差をいかに低減するかという課題と向き合っており、それぞれが抱える色ズレへの課題にどうアプローチするか検討する中で浮かび上がったのが「DOレンズ」だった。DOレンズの開発プロジェクトは、複写機やレンズ、生産技術部門など、キヤノン全体を巻き込んで進めていったという。
1995年と言えば、Windows 95が出た時期。キヤノンでは、カメラのデジタル化が進むことによって、広く一般のユーザーでもデジタルの写真を扱う時代が到来すると先読みしていたのだという。デジタル化によって写真を見る環境がプリントから画面に変わっていく中で、色収差を抑えるためにさらにワンランク上の技術が必要になるのではないか、これが議論のスタートだったのだそうだ。
単層の苦悩
いわゆる“回折レンズ”が高い色収差補正能力を持つことは、1960年頃から知られていたという。しかし、加工技術の問題などで世の中に広くは使われておらず、DVDプレーヤーのピックアップレンズなどに使用されていた。そこでは“光を波長で分ける“という役割を担っており、当時はまだ広い波長域で色収差を補正するという使い方ではなかったそうだ。
先にお伝えしたように、キヤノンの特徴といえば積層型DOと呼ばれるものだが、開発がスタートした時点では、ピックアップレンズに使われているような単層から検討を開始した。まだレンズ自体も白っぽく透明度の低いもので、まずは「回折レンズを使うとどのように撮影できるのか」を確認するところから始めていったという。
上の写真は、単層DOレンズを搭載した試作レンズで撮影したもの。光源の周りに大きなフレアが発生し、キヤノンの画質としては許容できないものだった。回折レンズのメリットは学会などでも語られていたが、実際に試してみると「こんなレベルだったのか」と愕然としたという。
結果として単層のDOレンズ開発は、画質のある一面においてはとても良い性能が出て、なおかつレンズもコンパクトになった。しかしこの試写から半年くらいの間は、“お先真っ暗”な状態だと感じていたという。
積層への閃き
横軸に光の波長を、縦軸に回折効率を示すグラフがある。そこに単層型DOレンズで計測した数値を並べて曲線を引いたときに、あることに気が付いたという。それはその曲線が、単層の反射防止膜(ARコーティング)の計測結果で示した曲線と似ていたということだ。
単層の反射防止膜に対して、その性能を上回るのが多層膜(マルチコーティング)。「複数の層を重ねる考え方は、回折レンズにも応用できるのではないか」。レンズコーティングの設計も手がけていた中井氏ならではの閃きだった。
しかしアイデアは思いついたものの、それを実現できる材料が見つけられずにいた。積層にするというアイデアについて周りは半信半疑だったため、すぐに入手できる材料で性能向上を検証する必要があった。そこで苦労して探した材料が“オイル”だったという。
そのオイルを漏れ出ないように封入し、やっとの思いで狙った特性を引き出すことに成功した。
当然、オイルのままでは量産は無理なので、実際の製品に使える材料探しは生産部門のメンバーと一緒に足を棒にして探し回ったという。(ここで探し回った材料のリストが、後に説明するBRレンズの開発に役立つことになるのだが、それは数年後の話である)。
ここまで辿り着き、ようやく「どのような加工プロセスで量産していくか」、「超望遠レンズと組み合わせてみようか」といった、最終製品を見据えた具体的な検討が始まっていく。
回折レンズのメリット自体は1960年に知られていたことを踏まえると、このひとつの技術が製品に結実するまで約40年。ようやく答えが出た瞬間だった。
しかし、その後も課題はあった。先に述べた通りDOレンズは回折格子の“ブラインド”越しに被写体を見る状態になるため、10ミクロンほどという大きさの格子であっても、広角側での撮影にはその格子の影響が出るという。DOレンズが超望遠寄りのレンズに主に使われているのは、そうした理由からだ。
技術開発の時点では数ミクロンの格子であれば問題はないだろうと考えていたそうだが、やはり広角側でも色収差を補正したいという課題が残ったため、ここで次の技術にバトンタッチとなる。「BRレンズ」の登場だ。
BRレンズの登場
DOレンズに残った課題を解決すべく、新しい色収差補正素子を作ることを目的としてBRレンズの開発は始まった。開発を担当したのはDOレンズを取り扱っていた部署で、あらゆる材料に対する知見を持っていた。それらの材料を使って、DOレンズのように格子を付けるのではなく、光学素子をそのままレンズとして使ったらどうなるか、という検討がスタート地点だったという。
BRレンズの開発は行き詰っていた。開発担当の前瀧氏は当時入社2年目。DOレンズの開発時にリスト化していた材料からBRレンズに使えるものがあるのではないかと、先に登場した中井氏から情報を得ており、ある材料を試したらとても性能が良くなったのだが、その“理屈”がわからず材料開発へ進めずにいた。
ターニングポイントとなったのは2004年9月23日の朝。前瀧氏がその理屈を示す数式を発見した。当時、これを証明できる数式は世間に公表されているものがなく、それを発見できたことが非常に嬉しかったと前瀧氏は振り返る。“理屈がわかると説得力が増す”。こうしてBRレンズの材料開発にゴーサインが出た。
最終的に出来上がったのが有機材料を合成して作った白い粉。これをレンズの形に成型することでBRレンズの特性を出すことができる。実際にはこの白い粉を溶かして液体にして固めるイメージ。樹脂なので、溶かすと接着剤のようにねばっとしているそうだ。こうして成型したBR光学素子を凹凸のガラスレンズで挟み合わせたものが「BRレンズ」となる。
BR光学素子の理屈を証明する数式を発見したのが2004年9月23日。BRレンズを初めて搭載した交換レンズ「EF35mm F1.4L II USM」の登場が2015年10月。開発が始まってから製品化まで、じつに11年間という時間を要しており、材料開発の足の長さがうかがえるストーリーだ。
前瀧氏は「このBRレンズ開発はあくまでも一つの光学素子の開発に過ぎないが、ここで得られた知見がその後の様々な光学材料の進化に結びついている」として、こうした開発の積み重ねがEF/RFレンズの生産本数1.5億本に繋がっているのだと話す。
技術開発にかかる時間は、短いものもあれば長いものもある。いつゴールできるかわからないし、10年かかってもモノにならない場合もあるという。とくに材料が絡むものは足が長く、5年から10年、もっと時間がかかる場合もあるのだそうだ。
「技術開発の哲学編」でもお届けしたように、早い時期から仕込みを始めないと、本当に必要とされるタイミングに間に合わない。“世の中がこう変わっていくだろう”という先読みが命運を分ける。“数年先には実用化できそうだ”という技術を早くから検討し、かつ“キヤノンだったらできる”という強みも見極められた時点が開発のスタートラインになるのだという。
(次回のテーマは非球面レンズです)