インタビュー

キヤノンEOSの交換レンズ「累計生産1.5億本」の歩み——ナノサイズの技術で反射を抑える、SWC・ASC編

水と砂糖水を利用した反射実験の様子(記事中)

キヤノンがEOS用RF/EFレンズシリーズの累計生産本数1億5,000万本を達成したことをうけて、同社レンズ技術の開発秘話にせまる本企画。本稿では「SWC」と「ASC」の両コーティング技術の肝に迫る。

スペック表などでこの名を目にしても、実際のところは「なんとなく良さそう……」とか「ナノ系ってやつでしょ。うん」ぐらいの大まかなイメージだけを持っている人も(※筆者含む)少なくないかもしれない。今回は、両技術が開発された経緯や、その特徴の違いを詳しく伺っていった。

キヤノン株式会社イメージコミュニケーション本部 光学技術統括開発センター 奥野丈晴主幹(左)
キヤノン株式会社イメージコミュニケーション本部 光学技術統括開発センター 内田和枝氏(中)
キヤノン株式会社イメージコミュニケーション本部 光学技術統括開発センター 中井武彦部長(右)

なぜ高性能な反射防止膜が必要?

昨今、カメラの交換レンズは、ズーム倍率や明るさなど高性能を追求していく中で、レンズの枚数が増加したり、曲率の大きなレンズを使う傾向にある。ひと昔前は、レンズ形状の工夫などによりゴーストやフレアといった現象の発生を抑えていたというが、現在では、高画質の実現のためには諸収差を極限まで抑えるということを最優先することが多いという。その結果、ゴーストの抑制を目的としたレンズの形状自由度は極めて低くなるのだそうだ。

カメラがデジタル化されてからは、CCDやCMOSといった固体撮像素子がカメラに搭載されているが、それらはフィルムよりも反射率が高く、そもそもゴーストが出やすいという特徴があるという。また、フィルムカメラと比較してユーザーが撮影をためらう機会が少なくなり、それによって以前よりもゴーストやフレアといった有害光が写真に写る機会が増えていった。

交換レンズの高スペック化、カメラのデジタル化を経て、カメラユーザーは“反射”と向き合う機会が否が応でも増えることとなった。キヤノンにおいても、従来からマルチコーティングや、特に色再現を強く意識したスーパースペクトラコーティングも開発されてきたが、これらでもゴーストの発生を防ぎきれないことがあり、より高性能な反射防止膜が求められるようになっていった。

反射防止膜とは

そもそもなぜ反射が起きるのか。

反射という物理現象は、屈折率が異なる界面(物質と物質の境界)に光が入射したときにおこる現象をいう。屈折率が1.0の空気中から、屈折率1.55のガラスに入射した際、光はガラスの中を屈折しながら通過する“屈折光”と、ガラスを通過せずに反対側に跳ね返る“反射光”に分かれる。その両物質の屈折率の差が大きければ大きいほど、大きな反射光が発生する。また、理論上は屈折率が同じであれば反射は発生しない。

また、光は波の性質(波長)をもっており、さらには同じ形・上下逆向きの波が重なると、それらは互いに打ち消し合うという特徴もある。従来の一般的なコーティング技術は、そうした性質を利用しているという。

単層膜による反射防止の模式図

例えば単層膜(モノコート。シングルコートとも)による反射防止の場合。レンズのガラスの上に一層の膜が張られており、そこに入射する光は“膜の入り口”と“ガラスの入り口(膜の出口)”でそれぞれ反射光が生じる。単層の場合は2つの反射光が発生するわけだが、そこで先ほどの性質を利用し、2つの光の波を干渉させることで、反射を抑制するという。

重なり合う波の数を増やして、反射光をより打ち消そうというのが多層膜(マルチコート)の考え方。例えば6層のコーティングを施した場合、それぞれの界面で起こる反射光の合計は7つになり、単層によるコーティングよりも反射防止膜としての性能は高まるという。しかし、どうしても大きな反射が生まれてしまったり、光の入射角度の問題などで、必ずしも反射を抑えることができない場合もあるのだそうだ。

6層の膜に対して7つの反射光が発生する
各反射光が干渉して打ち消し合う

また、これらの一般的な反射防止膜は“蒸着”という技法によってレンズにコーティングされる。“蒸着”とは、膜物質を下方から蒸発させ、上方に配置したレンズに降り積もらせる方法。蒸発した物質は垂直方向に上昇するため、曲率の大きなレンズの場合、レンズの中心部と周辺部で膜の厚さに差が出てしまう。これによりレンズの周辺部では中心部に比べて反射防止効果が低くなり、これが大きな反射を発生させてしまう原因のひとつとなっている。蒸着という技術の課題だった。

蒸着ではないコーティング——SWCへの道

“蛾の目”の反射防止手段

キヤノンは、蒸着とは異なるコーティング技術の開発と向き合うことになる。そこで着目したのが“モスアイ”と呼ばれる、蛾の目の構造を利用した原理だった。

蛾の目は、光の波長よりも小さな凸凹の構造が表面に形成されており、それらが光の反射防止効果を持つことは1960年代から知られていたという。

光はみずからの波長より小さな構造を明確に認識することができず、それらを“平均値”として認識する性質があるという。例えばレンズの表面に、光の波長よりも小さな矩形形状の微細な凸凹を並べた場合、それらの凸凹は平均値として認識される。レンズ表面に単層膜(低屈折率膜)をコーティングしたものと同様の状態になるというわけだ。

さらにその凸凹を尖らせたらどうなるだろうか。凸部の頂点から根本(レンズ表面)までの屈折率を連続的に変化させることができ、“屈折率が連続的に変化する膜”を作ることができる。空気(屈折率1.0)からガラス(屈折率1.55)への屈折率の変化を和らげることができるのだそうだ。

光の波長よりも小さな凸凹は平均値として認識される。凸凹を尖らせれば(下)、屈折率がグラデーションのように連続的に変化していく層ができる

結果としてキヤノンは、可視光の波長(約400~700nm)よりも小さな“くさび”状の構造物を、レンズにコーティングするという技術にたどりつく。これがSWC(Subwavelength Structure Coating)の原理だ。

SWCの模式図。光が吸い込まれるように入射するという

SWCレンズ量産の壁——「“拭けないレンズ”は組み立てられない」

モスアイが発見された1960年代は、この構造が反射防止効果を持つことがわかっていても実際にそれを作ることができなかった。キヤノンとしては、曲率が大きなレンズや、いろんな屈折率のガラスにも使えるモスアイ構造はないのか探索していたという。

その中で見つかった技術がアルミナ(酸化アルミニウム)をお湯につけると、光の波長よりも小さな凸凹の構造ができるというもの。ガラスの面につけると非常に高性能な反射防止効果が得られるということが分かった。当初はこの凸凹構造から金型を作れないかを試行錯誤していたという。材料を工夫し、レンズ面に欠陥なく作る技術、曲率の大きなレンズでも不備なく作れるような技術を検討し、なんとかその技術に目途が経ってきたという時期に、商品企画側からある要請が入った。

最初にSWCが採用されたEF24mm F1.4 II USM。このレンズの開発途上で、強いゴーストが出てしまうという課題に直面していた。ここにSWCを適用できないか、という要請をうけて、SWC開発はさらに急ピッチで進められることとなった。

最初にSWCが採用されたEF24mm F1.4 II USM(2008年12月発売)

窓ガラスなどの平面に使うことは容易だったのだが、広角レンズの前玉は曲率が大きく、屈折率の高いガラスが使われるので、そこに適用するということで苦労があった。EFレンズの、特に高性能な“Lレンズ”については高い品質を求められる。過酷な環境で長期間使用しても高い性能を維持する必要があり、短い開発期間の中で加工技術を確立することに苦労したという。

SWCは、光の波長よりも小さな凸凹構造のため強度がなく、一般的なマルチコートのようにコーティングの表面を拭くことができない。通常、組立の現場では、埃や汚れなどがつくたびにレンズを拭きながら作業をする。しかしSWCはそれができないため当初は、“拭けないレンズを組み立てられるわけがない”という声もあったという。それでも、新しい技術に積極的に取り組もうという、工場側の熱い想いもあり、量産化の実現につなげることができたのだそうだ。

非常に高い性能をもったSWCの開発により、「EF8-15mm F4L」(左)「EF11-24mm F4L USM」(右)などの高性能なレンズが製品化につなげられたという
「SWC」(左)と「マルチコート」(右)を施したレンズ。照明の反射具合に差がある様子がうかがえる。SWCは指で触るとざらざらしており、そーっと触っだだけでも構造が壊れてしまうため、極力ミスがないように組み立てているそうだ

SWCはナノサイズの構造により、反射防止効果を得ている。光の波長よりも小さな構造物は製造工程が複雑で、構造物自体にも強度がなく取り扱いが難しい。そのため、製法がシンプルでどんなレンズでも形成でき、かつ製造取り扱いが容易な反射防止膜が求められた。これが「ASC」開発のキッカケだった。

レンズ組み立ての難しさを克服。ASCの登場

ASCは“Air Sphere Coating”の略。蒸着した多層膜の最上層に、「光の波長よりも小さな空気を無数に含ませた、二酸化ケイ素の膜」を形成するという技術だ。

もしかしたらこの時点でピンとくる人もいるかもしれないが、この技術の肝を確認していきたい。

ASCの模式図

先述したように、光はみずからの波長よりも小さな構造物を平均値として認識する性質がある。ASCの場合は二酸化ケイ素の膜内に光の波長よりも小さい穴をあけた状態(空気を混ぜて)で膜を形成。実際に二酸化ケイ素の中に空気の穴が無数に空いた状態となるが、光はそれらを平均化した一様な膜として認識することになる。

光の波長よりも小さな空気の穴を含んだ膜(左)は、光から一様の膜(右)として認識される

もうひとつ思い出したいのは、“反射”が起こる原因だ。反射は異なる屈折率を持つ物質と物質の界面を通るときに発生する。空気が屈折率1.0で、ガラスが1.55だ。一般的な膜材料による反射防止膜は屈折率が1.37だという。ASCは、屈折率1.0の空気と、1.46の二酸化ケイ素を混ぜることで、一般的な膜材料の1.37よりも小さく抑えている。空気と接する最上層(ASCのこと)の屈折率をできる限り空気に近づけることで、反射を小さくするということだ。

コーティングの屈折率を空気の1.0に近づければ近づけるほど、反射光は小さく抑えられる

あとは、光の波長が同じ形・上下逆向きの波が重なると打ち消し合うという性質を利用する。最上層のASCの反射が小さくなったことで、下層の多層膜で発生した反射光との干渉により、残った光をさらに打ち消しやすくなり、高性能な反射防止性能を実現している。

従来のコーティングの場合は、最上層での反射が大きく、下層膜で完全に打ち消せないという課題があったという。一方、ASCは最上層のコーティングの表面で反射した光がそもそも大幅に削減されているので、下層膜で反射した光で打ち消し合うことができるのだという。

従来のコーティング(左)の場合、上層で発生した反射光が大きく、下層の反射光との干渉でも打ち消すことができない
ちょっと実験コーナー

水と砂糖水、それぞれが入った皿に、小さな丸い石英ガラスを入れてみる。水の屈折率は1.33。石英ガラスは1.46。砂糖水は石英ガラスの屈折率にあわせて≒1.46に調整した。

水に入れた石英ガラスは、お互いの屈折率に差があるため、石英ガラスにあたった光が反射して視認できる。砂糖水と石英ガラスは屈折率が同じなので、石英ガラスにあたった光が反射せず、視認しにくくなる。

砂糖水に入れた石英ガラス(右)は光の反射が抑えられており、視認しにくくなる

屈折率が同じだと光の反射が発生せずに見えにくくなる。ASCの場合は、空気と接する位置にあるコーティングの最上層の屈折率を空気により近づけることで、空気とASC界面の反射を大幅に削減している。

空気を混ぜるって難しそう

ASC最大の特徴はなんといっても、膜中に空気を均一に混ぜている点。膜内の空気の分布が不均一であったりサイズが大きかったりすると、その部分で乱反射などが起きてしまい、白く曇ってしまったり透過が悪くなってしまうという。材料や加工工程を工夫することで、そうしたバランスを制御しているのだそうだ。

空気の量もポイント。空気が多いと低屈折率になって反射性能が向上するが、強度が弱くなる。一方で空気の量が少ないと、反射防止性能を上げることができない。空気の量を、性能と取り扱いのバランスなどを考慮して決めているという。

ASCはマルチコートに比べると強度が劣るが、組み立て現場の熟練工であれば拭くことができるという。ゆえに、ユーザーが触る部分には使用されない。繊細な取り扱いが求められる材料を、ナノメートル単位で制御された技術により成膜しているのだそうだ。

10枚のプロテクトフィルターを重ねた従来の多層膜(左)と、中8枚にASCをコーティングしたもの(右)。ASCを採用している方が白っぽさが少なく、反射が抑えられているのがわかる

開発当初から空気を含む材料を使用するというのが決まっていたという。どんな技術を使って実現するかを、さまざまな製法や材料の調査を経ながら検討していった。候補の中から、硬くて安定した二酸化ケイ素の中に空気を含むという技術が一番適していると判断したのだという。

二酸化ケイ素はガラスの材料にも使用されおり、材料として入手も容易。硬度もあり安定した材料なので、内部に空気の穴が開いていてもある程度の強度が保てる。もともとの屈折率が1.47と低いので、さらに低屈折率化がしやすそうだとの判断もあったのだそうだ。

SWCとの画質面の差について。SWCはどのような角度で光が入射しても反射防止効果を持つという。対してASCは、特定の光に高い反射効果を持つため、曲率の大きくないレンズに使われることが多いという。ASCが初採用されたレンズは望遠ズームレンズのEF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM。16年ぶりにリニューアルした“EF 100-400mm”として、2014年12月に発売されたモデルだ。

ASCが初採用された「EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM」

 ◇

SWCやASCについて、“触れることさえできない”非常に繊細な技術によって反射という現象と戦っていたことがわかった。自分たちの思い描く理想に向かって、常に新しい技術に挑戦していく姿がそこにはある。キヤノンが描く次なる“理想”とは、今後も目が離せない。

(次回はDSコーティングについてお届けします)

本誌:宮本義朗