東京エッジ~首都辺境を巡る写真紀行

第9回:地元民からも“魔境”と呼ばれる場所——酉谷山

日原のシンボル「稲村岩」。威風堂々と聳え立つ。信仰の対象となるのも容易に想像できる。
X-Pro2 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/80秒・F9.0・±0EV) / ISO 200

発展著しい西東京の中心的ターミナルである立川駅を起点とするJR青梅線の終着駅で、東京都内でもっとも西に位置する奥多摩駅は、標高が343mと東京都内にあるJRの駅では一番高いところにある。東京タワーの高さが333mなのだから相当である。

ある山へ向かうために奥多摩へ

昨年の10月、山に登るため奥多摩に向かった際、立川駅から乗った電車があいにく奥多摩駅までの直通ではなく、一度青梅駅で向かいに停車している電車に乗り換えなければならないものだった。

朝早いこともあって眠ってしまい、それに乗り遅れて、結局予定の時間に奥多摩駅に到着できなかった。田舎では一度予定が狂うとズルズルと次にも影響してくる。リカバリーしにくい。なんせバスの本数が少なく、目的地に向かうバスが1時間に1本もないのだから。

ということで、タクシーに乗ることにした。山は“早出早着”が基本である。スタートが遅れると、それだけリスクも増していく。特に秋は日が暮れるのも早い。

目的地は奥多摩町日原

奥多摩駅前にはタクシーが1台しか常駐していない。乗ったタクシーの運ちゃん本人に聞いたのだから間違いない。運ちゃんは私より少し若い30代後半から40代前半といったところ。職業柄さまざま場所に取材に行くが、取材先でタクシーに乗った際は、できるだけ運転手と話すようにしている。現地の情報はタクシー運転手とスナックのママに聞くのが一番である。

タクシーの目的地は奥多摩町日原。正確に記すと、東京都西多摩郡奥多摩町日原となる。文字どおり四方を山に囲まれた谷あいの集落である。

稲村岩より見た日原の全貌。文字どおり四方を山に囲まれた谷あいの集落である。
X-H1 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/7,000秒・F1.4・±0EV) / ISO 200

初めて訪れた人は、ここが東京なのかと心底驚くに違いない。私もそうだった。私の暮らす高尾も十分山国だが、その比ではない。私は山に登るため、何度か訪れている。

地元でも魔境と呼ぶ山がある

日原までは奥多摩駅から日原街道(東京都道204号)を右に左にうねうねと進むこと約10km。時間にして20分程度。道は整備されているが、場所によっては対向車とのすれ違いに往生する幅しかない。日原は標高600m程度のところにある集落なので、奥多摩駅から向かう場合は基本上りである。

タクシー運転手との会話で興味深い言葉が出てきた。「お客さん、酉谷山(とりだにやま)って知ってます? いちばん奥まったところにある山で、地元でも魔境と言われているんですよ」

魔境?? 久しぶりに聞いたわ。そんな言葉。奥多摩で1台しかない地元タクシー運転手が言うのだから紛れもない。

この連載の第1回で書いた、東京都最高峰「雲取山」を北面に少し下ると、東に延びる長沢背稜と呼ばれる長大な尾根がある。そのちょうど真ん中あたりにある山が酉谷山である。

雲取山はもうかれこれ10回ぐらい登っていて、東西南北あらゆるアプローチから登っている中、唯一私が歩いていないのが長沢背稜である。

長沢背稜。右が東京都で左が埼玉県。境界線上を歩いていく。この先に酉谷山がある。
X-H1 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/480秒・F1.4・±0EV) / ISO 200

いずれ行こうと思っていた。事実この時も、日原から稲村岩を経て鷹ノ巣山に登り、石尾根を歩いて雲取山まで行って、そこで1泊し、翌日、条件が整えば長沢背稜も視野に入れていた。そこにきて“魔境”という言葉である。萌えないわけがない。

結局この日は、天候が芳しくなく石尾根を歩いて、七ツ石山までいったところで、下山した。天気予報では明日はもっと天候が崩れるとのことだったので尚更。

しかし魔境「酉谷山」という言葉は内に残った。

3度目のトライで

12月、再び雲取山を訪れた。山頂直下にある雲取山荘に1泊し、長沢背稜を目指すも、夜から降り出した雨は、翌朝には暴風雨となり、一度も歩いたことのない道をこの状況で往くのは危険と判断し、あえなく長沢背稜は諦め、違う道で下山。なかなか天候に恵まれない。

雲取山荘。造りが堅牢で冬でも快適に過ごせる。好きな山小屋のひとつ。
X-H1 / XF16-55mmF2.8 R LM WR / 16mm(24mm相当) / 絞り優先AE(1/12秒・F2.8・±0EV) / ISO 3200

仕事の都合もあり、どうしても2日連続で晴れ予報の日に山に来れない。また街ではそれほどではなくても、山に入ると、思った以上に荒れているというのもある。山あるあるである。なかなか休みが取れないから、とりあえず行ってみようと出かけたものの、10月、12月と2連敗だった。

年が明けて、2019年1月。3度目の正直で酉谷山を目指した。今回も山頂直下の雲取山荘に宿泊した。何度か利用しているが、造りがしっかりとしていて快適な山小屋である。

1泊2食8,000円。冬は利用者も少ないのでのんびりとできる。寒い中歩いてきた冷えた体には、こたつが沁みる。こたつに入って飲むビールは格別である。

翌朝は晴れ。ようやく最後まで歩けそうな気配。1月の2,000m級の尾根道だというのに、今年は雪がほとんどない。東京都と埼玉県の県境の道、長沢背稜を進む。久しぶりに本当のエッジを歩いている。これぞ東京エッジ。タイトルに偽りなし!

長沢背稜を進む

予想以上に歩きやすい。綺麗に整備されている。これだと、昨年の4月に歩いた日原から雲取山への道、野陣尾根の方がよほど野趣に富んでいる(その野陣尾根も今回再び歩くと、綺麗に整備されていた。以前は倒木がひどくて先まで見通せず、知らぬ間に獣道に入っていて道迷いを起こした)。少し拍子抜けした(笑)。

日原から雲取山に向かう道、野陣尾根。登山者が少ないので、鹿などの野生動物に出会える野趣に富んだ静かな道である。
X-H1 / XF16-55mmF2.8 R LM WR / 55mm(83mm相当) / 絞り優先AE(1/600秒・F2.8・±0EV) / ISO 200

天気も良いし、雪もなく快調に進み、意外にあっけなく酉谷山(1,718m)に着いた。山頂からの景色は良い。

酉谷山(1718m)山頂。南面は見晴らしがよい。
X-H1 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/6,400秒・F2.0・±0EV) / ISO 200
酉谷山からの景色。見えている山々はすべて東京都に属する。人家はひとつもない。
X-H1 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/400秒・F9.0・-0.3EV) / ISO 200

幾重にも重なった東京の山々が見える。危なげなくスムーズに着いて、魔境と呼ぶにはいささか物足りない感もあるが、確かに奥まった感じは魔境である。

事実ここに辿り着くのに3回もこの山域に来ているわけだし。山頂から見えているこの景色すべてが東京なのだと思うと尚更である。

日原の集落もてんで見えない。いくつか山を越えたはるか向こうである。人間の足ってすごい。自分の足のみで移動しているので、山に来ると、人ひとりが1日で移動できる距離というのが如実に実感できる。人間も捨てたもんじゃない。ほんの100年前ではみなそうだった。歩いていたのだ。

やはり来た甲斐があった。改めて日本は山国、東京も例外ではないを痛切に感じた。

酉谷山から約4時間歩いて、日原に下りた。

日原の人々・生活とは?

それにしても日原の集落がすごい。今でこそ道路が整備され、楽に車で移動できる時代になったからいいが、こんな四方を山で囲まれた、谷あいの場所になぜ人は住み始めるのか。

日原、朝の光景。通学に使用するバスを待つ孫と、見送る祖父だろうか。目の前まで山が迫っている。
X-Pro2 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/1,800秒・F9.0・±0EV) / ISO 6400

日原川があるから水には困らないが、平野がないので米が作れない。もっと住みやすいところに住めばいいではないかと思ってしまう。

日原集落。平野がないので段々状に広がっている。
X-Pro2 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/1,000秒・F14.0・±0EV) / ISO 6400

山を歩いていると、日本各地でこういう辺鄙な里に出合うが、日原はその中でも相当なレベル。日原はそうではないが、通常こういった場所で平家の落人伝説が生まれるのも無理はないと思える。

日原のシンボル、稲村岩(920m)山頂。農耕神稲村山神社が祀られている。
X-H1 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/1,100秒・F1.4・±0EV) / ISO 200

時に何時間もの渋滞を生む観光名所

日原集落から約2kmほどさらに進んだところに、日原鍾乳洞と呼ばれる洞窟がある。

日原鍾乳洞内部。かつての修験道場も今はライトアップされて観光地化している。
X-H1 / XF35mmF1.4 R / 35mm(52.5mm相当) / 絞り優先AE(1/50秒・F1.4・±0EV) / ISO 6400

日原で唯一といってもいい観光スポットである。ゴールデンウィークとお盆の時期には、涼を求めて日原の狭い道路が車でいっぱいになり身動きが取れないほどだとか。にわかに信じ難いが、こんな山奥で渋滞で2時間、3時間待ちになるというのだから驚きである。

その鍾乳洞を発見したのは山岳修行者、いわゆる修験者や山伏と呼ばれる者達で、鍾乳洞に籠って修行をしたようである。少なくとも江戸時代からは確実なようであり、それにともなって人の往来はあったはずである。

参考までに、日原鍾乳洞入口に記してある「鍾乳洞由来」の看板の一部を記載する。

鍾乳洞とは明治以降の呼称で、それまでは「一石山」又は、「一石山の御岩屋」といわれていた。この開基は役行者の草創弘法大師の中興、慈覚大師の再興とみえ、その真偽は別として江戸時代は東叡山・輪王寺宮法新王の支配下であり、江戸時代の初期から山岳宗教の修験者を中心として参詣者が陸続し、この案内に松明を使っていた。

奥多摩区役所に問い合わせてみても、日原に関する文献はほとんどなく、いつから人が定住し始めたかは正確には分からないとのことだった。ちなみに奥多摩駅近くには、縄文時代から人が暮らしていた痕跡(住居跡)があるとのこと。

ただし私が知りたいのは、そこからさらにずっと奥に入った日原についてである。

盛期には2,000人以上の人が暮らした

そんな日原にも、石灰の採掘で賑わった高度経済成長時(主に1960年代)には最大で2,000人が暮らしていたそうである。日原の人口は、平成31年度4月1日現在、世帯数は55で94名。その内訳は男性が51名、女性が43名。年代別にみると、0〜14歳が3名、15〜64歳が31名、65〜74歳は24名、75歳以上が36名で、出生数より亡くなる方のほうが多いことから緩やかに減少傾向にあるとのこと。

日原集落。いちばん家が密集している辺り。真ん中を走っているのが日原街道(東京都道204号)である。
X-H1 / XF16-55mmF2.8 R LM WR / 33.2mm(50mm相当) / 絞り優先AE(1/50秒・F9.0・±0EV) / ISO 1250

豊かな緑と森林の持つ公益性などをアピールする目的で設立された奥多摩町立日原森林館の職員の方に話を聞くと、日原は今でこそ東京都だが、埼玉県の川越あたりの風習が残っており、昔は山を越えて、埼玉県(秩父)に抜けたのだとか。

だから江戸よりも秩父のほうが繋がりが強かった。それは理解できる。確かに山越えはきついが、物理的には江戸よりも秩父のほうがよっぽど近い。電車も車もなかった時代には尚更だ。

長沢背稜より日原に下る道にあった両替場と呼ばれるところでは、秩父と日原で物々交換もなされていたという。今回下山時にその場所を通ったはずなのだが、それがどこにあたるのか気づかなかった。残念。

長沢背稜から日原に下りてくると最初に現れる家屋。人が住んでいる模様。日原集落の最も上部に位置する。
X-H1 / XF16-55mmF2.8 R LM WR / 18.7mm(28mm相当) / 絞り優先AE(1/25秒・F14.0・±0EV) / ISO 800

日原の歴史を探る

日原、実に魅惑的な里だ。日原について益々知りたくなった私は、図書館で調べることにした。向かった先は、永田町にある国立国会図書館と八王子市中央図書館。知りたかった情報が書かれた本と出合う。

『新編武蔵風土記稿』。江戸時代後期の文化文政時代である1804年から1829年に編まれた武蔵國の地誌。そこには以下のように記されてあった。

かかる所に家居をなせし初をいかにと尋るに、村内原島氏の先祖は北条氏に仕え、原島丹次郎友一といひしが、天正(1573〜1593)年中の乱を避けてここに来たりしより、やうやく民居いてきしと言い伝えたり、されど下にのする如く文安(1444〜1449)二年の鰐口ある薬師堂もあれば、古くより人家も多かりしことおもひしらる。

この辺山上の雑木を伐り倒し、ややかわきたるをりをうかがひて焼払ひ、その跡へ稗、粟、大豆、蕎麦の類をうえれば、外に糞培の功を待たずして成熟す。これを焼畑といへり。

農業のいとまには男子は山へ入て木を伐り炭をやけり、もとよりこの辺牛馬のかよひなければ、山にて焼きたる炭を二俵或は一俵背負ひ、氷川村まで負ふて出、是を女子の業となせり。

要するに、江戸時代前の戦国時代に、原島氏という一族が、争いを避けてこの地にやって来たということである。

現在の埼玉県熊谷市辺りから。ただ、村内に既にあった薬師堂には文安2年と記された鰐口(仏堂や神殿の前に掛ける、吊るした綱で打ち鳴らす道具。銅や鉄でできている円形の鋳物)があったことから、原島氏が来る以前から人がいたようであると記してある。

それより先のことは分からないようだ。となるとやはり、日原鍾乳洞で修行していた修験者が始まりなのではなかろうか。それが役行者なのか、弘法大師なのか、慈覚大師なのかは分からないが。あるいはその弟子や信者、支援者達が定住したと。

また山に入って木を切り倒し、その地を焼き払い、そこに稗(ひえ)、粟(あわ)、大豆、蕎麦などを植え、切り出した木を炭にして、現在の奥多摩駅周辺である氷川村まで運んで、生計を立てたと記してあるのも興味深い。山の暮らしが伺える。

魔境の山域が、だいぶ具体的にイメージできた。

『新編武蔵風土記稿』にはこうも書いてある。

四方けわしく牛馬の往来もかよはず、他村より此村へ入れる所はただ一方の道にて、いとも辺境なれば自ら盗賊の患もなく、旧くより戸さしも忘れぬ。

東西南北とも険しく、牛と馬の往来も大変なほどで、他所の村からこの村に入れる道はただの1本しかない、すごい辺境の地だから盗賊の心配もなく、古くから家の戸締めもしないほどであると。

まだ日本の大部分が山野に覆われていた約200年前に編まれた書物においてさえ、はっきりと盗賊ですら寄りつかない辺境の地と表記されてあるのだから、日原の奥座敷、魔境「酉谷山」に偽りなし!

東京エッジ連載9回目にして、今回は本当にガチのエッジ(辺境)になりましたとさ。

井賀孝

1970年和歌山生まれ。写真家。ブラジリアン柔術黒帯。主な著書に富士山写真集『不二之山』(亜紀書房)、修験道の世界に身を投じて描いた『山をはしる』(亜紀書房)などがある。最新作は『VALE TUDO』格闘大国ブラジル写真紀行(竹書房)。