特別企画
キヤノンLレンズの「人工蛍石結晶」ができるまで
高性能望遠レンズを支えるキーパーツ その製造工程を追う
2020年6月3日 16:24
交換レンズに使われる材料のひとつに「蛍石」がある。高温で熱すると光を放って飛び散る様子から名付けられた鉱物だが、名前は聞いたことがあれど、果たしてどんな石なのか。写真用レンズに使われる「人工蛍石結晶」を製造しているキヤノンオプトロン株式会社の本社工場(茨城県結城市)で勉強してきた。
蛍石は、フッ化カルシウム(CaF2)を主成分とする鉱物。カメラ用途においては、その色収差補正効果と比重の軽さで、特に高級な望遠レンズに採用されることが多い。現在のキヤノンでいえば"Lレンズ"の一部に使われている。
人工蛍石結晶を製造するキヤノンオプトロンのルーツは、1966年にキヤノン取手工場内で人工蛍石の開発が始まったところに遡る。"キヤノンF計画"と呼ばれた人工蛍石結晶の開発プロジェクトは1968年に量産化に成功。この量産技術を事業化すべく、1974年に株式会社オプトロンが設立される。
現在の茨城県結城市に本社工場を移転・集結したのは2001年のこと。2004年に現在のキヤノンオプトロン株式会社に社名変更し、2019年に創立45周年を迎えた。現在の社員数は約200名。蛍石の販売数量は7割以上がカメラレンズ用で、蛍石は顕微鏡・望遠鏡メーカーなどキヤノン以外にも出荷しているそうだ。
蛍石と写真レンズ
人工の蛍石結晶が求められた理由は、天然の蛍石では写真用レンズに使うには大きさが足りなかったから。蛍石の光学的な長所は古くから知られており、例えば顕微鏡の対物レンズであれば天然の蛍石でも大きさが足りるため、19世紀から使われていた。
人工蛍石結晶は、天然の蛍石原石を粉砕した原料と、不純物を取り除くスカベンジャーという材料を混ぜ、高温のルツボ内で結晶化する。この結晶化の手法自体は1950年代に発明されたもので、人工蛍石結晶における最大のハードルは「不純物を取り除くノウハウ」だったそうだ。製造方法は1960年代当時から"秘中の秘"とされており、本稿の現場写真もキヤノン提供のものを交えてお届けしている。
結晶製造:企業秘密のノウハウ満載
人工蛍石の結晶製造は「ブリッジマン・ストックバーガー法」(ルツボ降下法)で行われる。上部にヒーターが備わった装置の中にカーボン製のルツボを入れ、1,400度に熱して原料が融液になったところから、1時間に2〜3mmというペースで温度の低い装置下方にルツボを下降させていく。その過程で結晶化が起こるというわけだ。装置に入れてから取り出すまでには7日〜11日を要する。
結晶ができあがると、外観および内部を検査し、内部の歪みを取るアニールを行う。アニールは"焼きなまし"とも言い、内部温度をふたたび1,000度まで高めて歪みを取ってから、徐々に冷ましていく。最長9日かけてアニールの工程を終えると、検査に移る。
蛍石では、内部にバウンダリと呼ぶ境界ができてしまうと単結晶ではなくなるため、その部分は不良となる。製造の歩留まりを高めるノウハウは今もなお研究が進んでいるそうだ。
光学ガラスの気泡のような脈理と比べて、このバウンダリは目視で見つけるのがなかなか難しそうだった。現在は偏光板を持つ歪み計を使っているが、かつては目視検査でOKとなったものの、後工程でバウンダリが見つかって不良になることもあったという。
無事、不良なく単結晶であることがわかった人工蛍石結晶は、丸い板状に加工される。ここまでが結晶製造の工程。続けて、レンズの形に仕上げる「加工研磨」の工程に移る。
加工研磨:ガラスと似て非なる加工特性
蛍石レンズの製造は、工程だけを見ると一般的な光学ガラスのレンズ製造によく似ている。しかし、鉱石の中でも比較的柔らかいため加工や研磨が難しく、加工機械の速度はどれも光学ガラスのそれよりゆっくりとしていた。
また、急激な温度変化にもシビアで、手で触れる程度の熱さのお湯に浸しておいた蛍石レンズに水道水をかけると、それだけの熱衝撃で割れてしまうほどだった。
検査を経て、晴れて人工蛍石は交換レンズの組み立て工場に出荷されていく。
Q&A
工場見学の最後に、蛍石に関する素朴な疑問に答えていただいた。
"合成蛍石"とは何が違う?
一時期、蛍石レンズの低コスト化に期待がかかった合成の蛍石。人工蛍石結晶が天然の原石をもとにしているのに対し、合成のものは炭酸カルシウムや石灰岩を高純度のフッ酸で処理している。
当初の見込みは天然蛍石の2倍のコストから始まり、やがて天然を下回ると見込まれていた。しかし現在のところコスト問題は解決しておらず、合成蛍石は天然の原石をもとにしている人工蛍石結晶の10倍弱のコストが掛かるため、引き続き人工蛍石結晶が主流となっている。
なお、キヤノンオプトロンでもUV(紫外線)撮影用として合成の蛍石を製品化しているのだという。天然の蛍石で作った人工蛍石結晶は紫外線などの短波長を吸収してしまう性質があるため、コストと扱う波長によっては合成も使い分けているのだそうだ。
特殊ガラスとの使い分けは?
各社レンズの新製品情報を読んだり、硝材メーカーのガラスマップを見ると、蛍石と同等の性質を持つガラスが存在することがわかる。本稿で見てきたように蛍石は製造が難しいのだから、光学ガラスで同等性能が実現できるのならガラスでいいのでは?……と考えるのは気が早かった。
同等性能が実現できたとしても、こうした特殊なガラスは蛍石以上に加工が難しい傾向にあり、その点で蛍石が選ばれるケースが多いのだという。また、蛍石は同様の性質を持つガラスより比重が軽く、大口径望遠レンズの軽量化には不可欠だ。レンズの設計では、材料特性やコストなど判断すべき要素は多い。
"BRレンズ"との違いは?
キヤノンレンズの色収差補正では、2015年に初採用製品が登場した「BRレンズ」(BR=Blue Spectrum Refractive)も有名だ。ガラスレンズでBR光学素子を挟むように貼り合わせたもので、青色光を大きく屈折させて大口径レンズの色収差を抑えることを目的としている。
これに含まれるBR光学素子が樹脂でできているため、厚く大きくはできないなど、BRレンズを採用できる箇所に条件があるのだという。そのため、今のところ望遠レンズには蛍石が適しているそうだ。蛍石もBRレンズも、色収差を抑えるための技術であることは共通している。
おまけ:キヤノン本社で見た、蛍石関連のあれこれ
今回の取材にあたり、キヤノン所蔵の蛍石採用レンズをずらりと並べてもらった。貴重な光景だ。
もともとキヤノンのLレンズは、蛍石にはじまり、UDレンズや大口径の高精度非球面レンズなど、各時代で特殊硝材による高性能を取り入れた"プロ用レンズ"の証だったという。それ以前は蛍石が緑リング、非球面が金リングで、やがて"赤リングのLレンズ"が定着した。
以下は、かつてキヤノンLレンズのカタログに用いられた製品写真の一部。"そのレンズが活躍する場面に置く"という、珍しいアプローチだ。
キヤノンの蛍石採用レンズ一覧(2020年6月現在)
以上でお伝えしたように、開発・製造の苦労がたっぷり詰まった蛍石レンズ。それが採用されたレンズ名の一覧(1963年〜2018年)を、キヤノンの歴代カメラ・レンズ製品を紹介するWebサイト「キヤノンカメラミュージアム」のリンクとともに紹介する。自分が所有するレンズのうち、どの製品、どの部分に蛍石が使われているかを調べてみると、愛着も一層深まることだろう。
・FL-F300mm F5.6
・FL-F500mm F5.6
・FL300mm F2.8 S.S.C. フローライト
・FD300mm F2.8 S.S.C. フローライト
・FD500mm F4.5L
・New FD300mm F2.8L
・New FD500mm F4.5L
・New FD100-300mm F5.6L
・New FD80-200mm F4L
・EF100-300mm F5.6L
・EF300mm F2.8L USM
・EF50-200mm F3.5-4.5L
・EF600mm F4L USM
・EF500mm F4.5L USM
・EF1200mm F5.6L USM
・EF400mm F2.8L II USM
・EF100-400mm F4.5-5.6L IS USM
・EF300mm F2.8L IS USM
・EF500mm F4L IS USM
・EF400mm F2.8L IS USM
・EF600mm F4L IS USM
・EF70-200mm F4L USM
・EF400mm F4 DO IS USM
・EF70-200mm F4L IS USM
・EF200mm F2L IS USM
・EF800mm F5.6L IS USM
・EF70-200mm F2.8L IS II USM
・EF300mm F2.8L IS II USM
・EF400mm F2.8L IS II USM
・EF500mm F4L IS II USM
・EF600mm F4L IS II USM
・EF200-400mm F4L IS USM エクステンダー 1.4X
・EF100-400mm F4.5-5.6L IS II USM
・EF70-200mm F4L IS II USM
・EF70-200mm F2.8L IS III USM
・EF400mm F2.8L IS III USM
・EF600mm F4L IS III USM