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東日本大震災の被災地を巡る「安田菜津紀と行く東北スタディツアー」同行記

被災当時を知り、復興の今を学ぶ

8月5日〜8月8日の4日間、「第5回 フォトジャーナリスト安田菜津紀と行く東北スタディツアー」が行われた。

このツアーは、東日本大震災からの復興と次世代を担う高校生の若いチカラを応援するために、株式会社スタディオアフタモードとオリンパス株式会社が開催しているもの。2014年から毎年夏に行われており、今年で5回目になる。

安田菜津紀さんは、世界各国の難民、貧困問題や、HIVなどの取材を続けるフォトジャーナリスト。ラジオやテレビなどにも多数出演し、積極的に情報を発信している。また、岩手県陸前高田市広田半島を舞台にしたノンフィクションの写真絵本『それでも、海へ 陸前高田に生きる』を出版するなど、東北地方の被災地も精力的に取材。そういった背景からこのツアーが実現した。

集まった高校生は、全国各地の10名。今回の訪問場所にも含まれる福島県出身もの参加者もいれば、遠くは愛媛県や広島県からの参加者もいた。生徒も含めて全員が初対面という中で、現地の人や行事に触れながら、被災の状況、復興に向けた取組みなどについて考えていく。

スタディツアーがスタート

移動中に本ツアーの趣旨を説明する安田菜津紀さん。

8月5日午前、仙台駅に全員が集合し、バスに乗って福島県南相馬市へ向かう。車内でまず行われたのは「他己紹介」。2人1組のペアを組み、相手のことをみんなに紹介する。単なる自己紹介にはせず、一番最初のコミュニケーションでメンバーの緊張をほぐす工夫で、生徒同士はすぐさま打ち解け会った。

そして安田さんからもユーモアを交えた自己紹介があり、ひとしきりコミュニケーションを取った後、生徒たちにカメラが手渡された。今回使用するカメラはオリンパスの「OM-D E-M5 Mark II」。レンズ交換式のカメラを使用するのが初めてという参加者もいて、メーカーのオリエンテーションを熱心に聞いていた。

カメラの説明が終わると、次は安田さんがマイクを持ち、今ツアーにあたって取材の心得を説いた。

安田さんが一例として挙げたのは、岩手県の陸前高田でたった1本だけ残った「奇跡の一本松」についての考え方。希望の象徴として語られた『奇跡の一本松』だが、地元在住の安田さんの義父にしてみると、「7万本もあったはずなのにたった1本しか残らなかった」という、津波の威力を物語る何者でもなかったという。そこから安田さんは、「希望とは誰にとっての希望だろうか」と考えるようになったそうだ。

「取材をするということは、相手から時間をいただいたり、その姿を撮らせていただいたりするものです。その『いただく気持ち』を忘れずに、今回のツアーで取材をしていってください。メモをとったり質問をしたりすることは、その気持ちを相手に見せるリスペクトの形です」

参加者の表情も引き締まり、東北スタディツアーが始まった。

震災当時の話を聞く

慰霊碑に手を合わせる参加者たち。

南相馬市の北泉海水浴場に立ち寄った後、最初に訪れたのは上野敬幸さんのご自宅。上野さんは津波によって長女永吏可(えりか)ちゃん、長男倖太郎くんを亡くしており、ご息女が生きていれば、このツアーに参加している高校生たちと同年代になっていた。ご息女の遺体は確認されたが、ご子息の消息は未だ不明。現在は震災後に生まれた次女とともに暮らし、地元の人たちを中心に「福興浜団」という支援団体を立ち上げ、夏には追悼の花火をあげるなどの活動をしている。しかし、亡くなった2人を思わない日はなく、次女に長女を重ねることもあるという。

あの日、大きな津波が押し寄せ、学校に行っていた家族と離れ離れになったこと、ご子息の消息が不明なまま原発事故が起こり、捜索すらできなかったこと、新しい生活に進もうと思ってもなかなか踏み出せなかったこと……。参加者たちはさまざまな話を聞き、リアルな実体験に涙を流す人もいた。質疑応答の時間になると「上野さんにとって海とは? 復興とは?」といった質問も飛び交い、約1時間半の話の中で多くの学びを得た。

話を聞き終えた後は、上野さんの自宅の周辺で思い思いに撮影を開始。作業中の復興浜団のメンバーに話しかける人もいれば、上野さんを写真に収める人もおり、彼らなりの取材を重ねていた。

それぞれの初日を振り返って

初日夜、振り返りミーティングに合流した写真家の清水哲朗さん。

本日取材を終えた一行は、山奥に建つ秘境のような温泉宿「追分温泉」へ向かった。

夕食と温泉で体を癒した後は、1室に集まってこの日の振り返りミーティング。震災以前からこの場所に通い、撮影を続けている写真家の清水哲朗さんも同じ宿に居合わせた。清水さんはミーティングの冒頭に同席し、高校生たちに自身の作品を紹介してくれた。

作品から、モンゴルをメインフィールドにしていると思われている清水さんだが、20年ほど前から継続的に東北を訪問しているという。被災地には震災後1ヶ月経って、知人に問い合わせて邪魔にならないかどうか、必要な物資は何かと入念な確認をしてから訪問。震災前と後の様子の違い、現地での体験、そして写真家としてできること、写真ができることなどを、高校生たちに説いていた。

中にはピントを合わせて撮ることが辛くなった時期に、あえてどこにもピントを合わせず撮った作品も見られた。一切撮らない選択肢もある中で、写真家としてできるギリギリの使命を果たしていたという。

清水さんの話を聞いた後は、参加者たちの振り返りに戻った。さまざまな物事を見聞きした初日を思い返し、各々が印象に残った出来事を発表する。ニュースではわからなかった福島の現状、それを見て受け取ったこと、感じたことは、それぞれが違う。中には気持ちをうまく表現できなかったり、言葉に詰まってしまった人もいたが、安田さんがすべての発表に対して丁寧なフィードバックを送っていた。

この日のプログラムはこれで終了。宿でゆっくり体を休めた。

残る爪痕と復興の様子

被災の跡が残る南三陸町防災対策庁舎

2日目は8時に宿を出発。宮城県石巻市北上町の釣石神社へ向かう。「落ちそうで落ちない石」が大学受験を控える、受験生にはうってつけのスポットだ。

この神社も津波に襲われ、石段には津波の浸水深が記載されていた。何気ないさまざまな場所で津波の威力を知ることになる。

釣石神社を後にし、「南三陸さんさん商店街」へ。震災後の2017年、宮城県南三陸町に本設された商店街だ。飲食店や鮮魚店、理容室など、計28店舗で構成され、多くの観光客で賑わっている。

この商店街は、地面をかさ上げした場所に作られたもの。「かさ上げ」とは、周囲の山などから土を掘り起こし、積み上げることで、地面の高さを高くすること。

ここから見えるのが南三陸町防災対策庁舎だ。当初は津波の高さが6mと予想されていたため、庁舎の職員は屋上に避難。しかし到達直前に庁舎よりも高い10m以上の波と発覚し、屋上に避難していた職員たちは40名以上が犠牲になった。予想高さの変更後も職員は町内アナウンスで避難を呼びかけ、多くの命を救ったという。

一昨年までは庁舎跡の目の前まで入れたようだが、工事のために立ち入り禁止に。また、この2年間で復興工事が進み、周辺の景色もかなり変わったことに、安田さんも驚いている様子だった。

震災から得た教訓を伝えたい

震災を伝えるために防災士になった佐藤一男さん。

バスは次の目的地、陸前高田グローバルキャンパスへ向かう。ここで防災士の佐藤一男さんと、そのご息女あかりさんに、震災当時の話を聞いた。

震災当時、グローバルキャンパスにほど近い港の目の前に住んでいた佐藤さんは、この地域に大きな地震がいつ来てもおかしくないという情報を早くから入手しており、あの日の揺れは「それ」がきたと感じたという。揺れが収まると、すぐに船を港に固定し、港の従業員と家族に高い場所へ避難するように警告した。しかし、海にほど近い場所に建てていた自宅にいた奥さんは、佐藤さんと会うなり「4時の皮膚科予約してるんだけどどうしよう」と聞き、現実味のない様子だったという。実際に、津波はグローバルキャンパスのすぐ下まで押し寄せ、佐藤さんの自宅は流された。

あかりさんは避難所の現実を話してくれた。はしゃぎたい盛りの子どもが遊んでいると、まわりから咎められること、体育館の中に多くの人が身を寄せ合って生活するため、プライバシーがないこと……。佐藤さんからは、避難所での要支援者は避難者の8割以上にも及んだこと、電波が遮断されたため情報が何も入ってこないことについても触れられた。

佐藤あかりさん(左)、あかりさんの友人・菅原彩花さん(右)。

当時は小さい子たちのお姉さん役として面倒を見て、この日も努めて明るく振る舞っていたあかりさんだったが、当時を思い出しながら話をするうちに、思わず涙ぐむ一幕もあった。中学生に生と死を考えさせ、背負わせる。この震災が残した爪痕の大きさを物語るような場面に、参加者たちは言葉を失っていた。

前日に訪れた上野さんにも、この日語ってくれた佐藤さんにも共通していたのは、「この震災で得た教訓を次に生かして、同じような犠牲者を出さないでほしい」という思いだった。参加者から「今すぐにできる防災対策は?」と聞かれると、「家具を固定するのは今すぐやってほしい」と答えた。自衛隊や行政が救助できるのは、家具の倒壊や津波から逃れ、避難場所まで逃げられた人のみで、そこまでは自力でたどり着かないといけないという。

こうした教訓を知り、伝え、実践していくことが、震災でなくなった人たちへの弔いのひとつとなるのだろう。参加者たちは熱心にメモを取り、自宅のどの家具をどのように固定するか、イメージしているようだった。

グローバルキャンパスでの話を聞き終えると、この日の宿泊は一般家庭への「民泊」。コミュニティセンターで「民泊はまって会(対面式)」を開いてもらったのち、いくつかのグループに分かれ、同行した大人も含めて全員が各家庭にお世話になった。どのグループも暖かく迎えられ、楽しいひと時を過ごしたようだ。こうして2日目の夜は更けていった。

漁港での復興施策

陸前高田の漁師・佐々木学さん。

翌朝、「ほんでまんず会(お別れ会)」でお見送りをしてもらった後、バスは脇ノ沢漁港へ向かった。この場所ももちろん甚大な津波被害に見舞われたが、今ではウニ漁やカキの養殖などを再開。今回は特別に漁船に乗せてもらい、カキの養殖場を見学させてもらった。

船上では、漁師の佐々木学さんが震災以降の海の影響について話してくれた。曰く、陸地に津波が押し寄せたことで、群生していた木に海水が被り、枯らせてしまった。小島のようになった陸地の端や妙に高い位置に枯れ木があるのはそのせいだという。一見すると日常を取り戻したように見えた漁港でも、震災の爪痕ははっきりと残っていた。

船から上がると、震災以降の漁港の取り組みについて佐々木さんが説明してくれた。一度海と港が荒れてしまったために、たとえ漁を再開したとしても、その収穫が市場で売れるとはとは限らないし、そもそも市場に出回っていなかった間に陸前高田の魚介が忘れられている可能性もあった。そこで必要になるのは、高品質な品物はもちろんのこと、それを市場に届けるマーケティングだった。カキを入れるパッケージは通常の白ではなく緑やピンク色にして、他の漁師と差別化。競りの際にはその色が目印になり、今では脇ノ沢漁港のブランドである「マルキチの緑ください」と言われるほどまでになったという。

また、佐々木さんは2016年3月に設立された三陸の漁師団体「フィッシャーマンズ・リーグ」の活動事例を紹介してくれた。今までのような養殖と収穫をするだけの漁師ではなく、食材や食育情報の積極的な発信、実際の漁の現場に触れるツアーを企画するなど、新しい取り組みを続けている。最初は周囲からの反発も大きかったものの、それでも漁師たちを地道に説得し続け、粘り強く活動を続けることで、地域に認められていった。

そんな前向きな姿を見た参加者たちも、これまでとは少し違う学びを得たようだった。「今後の目標は?」と聞かれた佐々木さんは、「飲食店をやりたい。それもただの飲食店ではなく、加工をお客さんの前でやる飲食店」と、具体的かつ現実的な目標を話してくれた。

語り部のはなしを聞く

震災当時と復興について教えていただいた釘子明さん。

カキ漁の見学を終えると、バスは1人の男性を迎える。語り部の活動を行っている釘子明さんだ。毎年このツアーでお世話になり、陸前高田の震災前後の様子を教えてくれている。釘子さん本人も津波で自宅を流されている。かつては商店街で栄えた陸前高田も、津波で何もなくなってしまったと、パネルを使いながら説明。

また、同時に釘子さんが自ら作成したスライドショーも再生し、その脅威を語った。バスが高台に着き街を見下すと、震災前との景色の違いになんとも言えない感情が渦巻き、参加者たちも神妙な表情に。釘子さんは、それでも前向きに復興へ向かう様子も話し、決してネガティブなことだけではないことも強調していた。翌年には復興工事が進み、この景色もまた違ったものになるのだろう。

復興への力強い歩み

大迫力で回転する七夕祭りの山車。

ツアーはいよいよ最後のプログラムに。陸前高田市で毎年8月7日に開催されている「うごく七夕まつり」だ。8月7日は旧暦の七夕にあたり、亡くなった人たちの迎え火を炊く日。12台の山車が街の中を練り歩き、大きな音で太鼓を叩いて目印にすることで、亡くなった人たちが道に迷わないよう、道案内をするのだという。

震災によって、12台ある山車のうち9台は津波に流され、1台は大きく損傷した。それでも700年以上続く伝統を絶やさず、2011年も2台の山車でまつりを実施。今年は11台の山車が参加し、陸前高田に新設されたショッピングモール「アバッセ」の周辺を練り歩いた。

山車の曳き手には、県外からこの訪れた人々の姿もあった。全身の力をこめて大きな山車を曳くうちに、皆がひとつになっていくようだった。特に本体の太い部分を回転させる役は、お祭りのしきたりで男性のみが勤められるのだが、例年人数が不足しがち。参加者の男子高校生や引率の男性も参加した。

山車の中は太鼓と笛の囃子が乗り込み、大きく美しい音色で亡くなられた方々の魂を誘う。山車が向きを変える際には、男衆が力一杯山車を引いてぐるりと回転させる。重く大きな山車が回転する様は大迫力だった。

そんなまつりの様子を参加者たちは熱心に撮影。まつり自体の魅力ももちろんだが、この日までに体感してきた東北の現実とそれに対する思いが、参加者たちにシャッターを切らせたのだろう。安田さんもまつりの様子を追う。

最後は山車のまわりに人が集まり、「よーいやさー」の掛け声で山車を大きく揺らす。太鼓の音もより力強くなり、まつりはクライマックスに向かっていった。

参加者たちはこの祭りを、撮影に励む者、山車の曳き手と達成感を分かち合う者など、それぞれの立場で楽しんでいた様子。これまでの3日間で聞いてきた話を思いながら見るまつりは、単なる催し物ではない感動を彼らに与えたのだろう。一様に充実した表情を浮かべていた。

スタディツアーが終了、4日間で得たものは

最終日に行われた振り返りミーティングの様子。

最終日は朝食後に、このツアーの振り返りミーティングを実施。今回の旅で撮影してきた写真の中から、参加者がもっとも印象に残った1枚を選出して発表する場だ。

振り返りでは三者三様の写真が表示され、それぞれに異なった声が上がった。参加者全員が当事者意識を持って、主体的にこのツアーに参加した証拠だろう。10名が撮影した写真にはそれぞれの想いを訴える力があり、強いメッセージ性を感じられた。

「これからの人生が変わる。この話を自分の中に留めるだけでなく、教えてもらったことが無駄にならないようにしたい」

「このツアーで特に印象的だったのは、人の温かさ。自分より悲惨な経験をしたはずなのに、未来へ向けて前向きに進んでいるし、自分にも優しく接してくれた」

「今まで何度か東北に来たことがあるけれど、『自分にできることはなんだろう』と考えても漠然としていた。今回のツアーで、ツイッターを使うこと、大事な人の命を大事にすること、自分が住んでる地域の過去の災害を調べるなど、より具体的になった」

「4日間で一番印象に残ったのは、海。今日はすごくきれいだけど、そうじゃない日もある。でも海がないと人は生活できない。自然に抗えないことをわかりながらも、共存していかなければいけない。海とどうやって向き合うか考えさせられた」

このように、それぞれがこのツアーで感じたことを発表していった。

取材を終えて

これにて本ツアーの全行程が終了。参加した高校生だけでなく、引率の大人たちにとっても得るものの多い4日間となった。

ツアーに参加した高校生たちは、自主的に応募をして東北に足を運んでいることからも、東北の被災地に対して高い当事者意識を持っていることがうかがえる。その彼らに対して、安田さんが与える情報や経験、語り部となってくれる人の人選が素晴らしく、何かを訴え、考えさせる機会の数や重さが適切だと感じた。

安田さんもツアー中に繰り返していたように、復興や防災に正解はない。それは今回のツアーで、わずか10人の参加者たちが感じたこと、印象に残ったことが違っていたことが象徴しているように思う。ボランティアに行って炊き出しなどでお手伝いをすることも役立つし、土地勘のわからない人があえて行かない選択をすることで「邪魔をしない」という復興支援をしていることにもなる。

それでもひとつ言えるのは、被災した人たちの声を聞き、それを後世に伝え、教訓を生かしていくべき、ということだろうか。語り部となってくれた人たちは、どの人も必ず「同じ思いをしてほしくない」と言っていた。幸運にも被災を免れた私たちが、彼らの思いを無駄にしてはいけないのだ。

その意味で、震災当時まだ小学生で、これからの社会を担っていく現高校生たちがこのツアーを体験できたことは、非常に意味のあることだと思う。彼らはこの体験をレポートにまとめる。さらに11月には東京、大阪のオリンパスプラザで、安田さんと高校生たちによる写真展、ギャラリートーク(東京のみ)も開催される予定だ。ぜひ彼らの考えに触れて見てほしい。

制作協力:オリンパス株式会社

中村僚

編集者・ライター。編集プロダクション勤務後、2017年に独立。在職時代にはじめてカメラ書籍を担当し、以来写真にのめり込む。『フォトコンライフ』元編集長、東京カメラ部写真集『人生を変えた1枚。人生を変える1枚。』などを担当。