山岸伸の「写真のキモチ」
第18回:米米CLUBの出会いとKAO’S(後編)
“祝花お断りします”は「KAO’S」から?
2022年2月28日 07:00
1985年にレコードデビューした米米CLUB。双葉社の漫画雑誌『アクション』(1986年11月28日号)の表紙で同グループのジェームス小野田さんを撮影したことがキッカケとなり、山岸さんは「KAO'S」シリーズを制作します。各界の著名人との出会いが結実した「瞬間の顔」シリーズを経て、人物の「顔」を捉えることの意味と、それらをアートに昇華していった軌跡を語っていただきました。後編はこれまで6度開催された写真展とともに、「KAO'S」シリーズの歩みを振り返ります。(聞き手・文:武石修)
大盛況の第1回写真展
前回、米米CLUBとの出会いから作品作りまでについて紹介しましたが、今回は彼らとの写真展の歴史を話したいと思います。
米米CLUBとの最初の写真展は1988年。銀座のコダックフォトサロンでした。双方無くなってしまいましたが、プランタン銀座の近くにありました。この時はシンプルに、加工せずに撮ったものだけを並べました。米米CLUBが売れてきていたので、コダックもすぐに写真展を開催させてくれました。オープニングパーティに米米CLUBが来るということで、人が入りきれず警察が来たほどでした。
祝花も会場に入りきれないくらい頂きましたね。今の写真展では祝花を遠慮するところが多いですが、そうなったのはこの写真展でお達しが出たのが始まりなんです。そんなこんなで最初の写真展は大成功に終わりました。
この時の写真展から石井さんが考えてくれた「KAO'S」という名称を入れています。これは複数の顔である「顔’s」と「カオス」を掛けているんだと思いますが、その後ずっと続く良い名前になったと思います。
1988年と言えば米米CLUBの4枚目のアルバム『GO FUNK』のビジュアルをニューヨークで撮影したのが想い出に残っています。数多くのメンバーみんなをニューヨークの色々な場所を移動しながら撮影するので、本当に大変な現場でした。
でも僕は1つのものをじっくり撮るよりも、現場現場でサッとイメージを作って「レンズはこれ」「ライティングはこう」と即決して撮るのが得意なので、満足いく撮影ができました。なかでも自由の女神の前で撮影したこの一枚は特に気に入っています。揺れる船の上で良く撮ったと自分でも思います(笑)。
大きな成果があったニューヨーク展
そして第2回が、1992年のニューヨークなんですね。きっかけが面白くて、日本で行きつけのレストランで食事をしていたら、偶然レコード会社の社長がいらっしゃったんです。その頃僕は有頂天で、いつも米米CLUBを撮った作品を持っていました。よく知っている人だったので挨拶をして写真を見てもらったら、社長が一緒に居た外国人を紹介してくれました。その人はニューヨークでお店をやっている人で、同じく写真を見せたら「私の店がニューヨークにあるので、そこで展示しないか?」となった。THE KNITTING FACTORYといって、ジャズの演奏が聴けるレストランとギャラリーが一緒になった、ソーホーのど真ん中のお店です。
僕も「ぜひやりましょう!」となって写真展が決まりました。英語もちんぷんかんぷんだったけれど、CBSソニーもサポートしてくれました。さらには、当時のキヤノンの重役が面倒を見てくれるとなって、プリントとその空輸をしてもらえました。ありがたかったですね。会期は1週間くらいで、ニューヨークにひとりぼっちでいました(笑)。朝、ギャラリーが開く前に作品のプリントを持ってニューヨークの街中に置いて、景色と一緒に撮ったりしていました。ワールドトレードセンターと一緒に写したものもありますが、今思えばよく撮っていたと感じますね。
ニューヨークでの展示に際して、ソニーCBSがThe Village Voiceというタブロイド紙に広告を出してくれました。当時、この新聞はアメリカのカルチャー界ではとても知名度のあった新聞なんです。これに日本の写真家の広告を出すのはかなり大きな事だったと思います。そうそう、JALの客室乗務員はフライヤーをお客さんに配ってくれましたね。本人達も足を運んでくれたし、日本から日帰りのようにして来てくれてきた人もいました。それから藤井秀樹さんも来てくれましたね。藤井さんと言えば当時日本でトップの広告写真家ですから、感激しました。その時が初対面でしたが、藤井さんにはニューヨークの出版社を紹介してもらったりしました。
また写真家の武藤清次さんもふらりといらしてくれて、私の写真を撮ってくれました。六本木アートセンターの社長をなさった方ですが、ありがたい宝です。何せひとりで会場にいたもので、自撮りなどできませんでした。
ニューヨーク展の縁で日本に帰ってきてから藤井秀樹さん、秋山庄太郎さん、小松健一さんと一緒に写真展もしましたね。僕は米米CLUBの写真を出品しました。こうした巨匠の方々とに写真展をすることに繋がっただけでも、ニューヨークで展示をやった甲斐がありましたね。
自分が撮りたいものを素直に撮る
3回目は銀座のキヤノンサロンでした。これが1994年で、王道の企画展という形です。このころから作品はコンピューターも使って加工して作り込むようになりました。
同じ頃には、キヤノン販売の幕張本社でもKAO'Sの写真展をさせてもらいました。こちらは同社ロビーでの展示とあって、一般の方を呼ぶわけではなく告知はしていませんが、大変好評だったと聞いています。
同じ年には京都国際デザイン展のチラシにもKAO'Sが採用されました。コンピューターを使って幾つも顔を繋げた作品です。京都国際デザイン展では、写真家の立木義浩さんと併せて講演したのも思い出されます。
続く4回目は1995年、三越本店の1階中央でやらせてもらいました。大きなオブジェのある凄い空間ですね。一度コンピューターを味わってしまうと、良い意味でもエスカレートしてしまいます。素材を持っていればプロに頼むとそれなりのことをしてくれるのが面白かったんです。「こういうこともできるのか」と。
当時はまだ若くて、写真展を仕事に繋げるためのプロモーションはほとんどしなかった様に思います。友達の川合麻紀さんが三越に来てくれて「凄いですねー!」なんて言って、僕も「おお、凄いだろ?」みたいな(笑)。それにしても、最初の写真展から見たらだいぶ大きくなってきたなと感じた頃でした。
5回目は2009年。規模は少し小さくなりますが、知人のつてで実現した六本木のホテルアイビスです。エントランスの両サイドがギャラリーになっていて、そこに作品を並べて見てもらいました。この展示をもってKAO'Sの写真展は一区切り付きました。
やはり、最初に“黒バックで撮る”というアイデアが良かったし、自分が撮りたいと思ったものを素直に撮ってきたらこうなった、ということですね。
読めないデータの代わりにカメラで複写
写真展をこれだけやると情もあるもので、ビジュアルが消えていってほしくないものですから、作品を全部MO(光磁気ディスク)に保存してあったんですね。そして、2017年に品川のキヤノンオープンギャラリーでKAO'Sの新しい写真展をすることが決まりました。新生ということで名前も「KAO'S2」になりました。
ところが、探せども探せどもMOを読み出す機械がどこにも無いことがわかって焦りました。さて「作品データをどうしよう?」と。仕方が無いので、CBSソニーが昔作った写真集をEOS 5Dsで複写してデータ化しました。
画素数が多いので、スキャナーでスキャンするよりうまくいった。それで写真を再現できました。MOも当時は最新技術でしたが、デジタルメディアはこういうことがあるから怖いんですね。紙焼きのプリントのほうがいざとなったら後まで残ると思い知らされました。
この展示はキヤノンも力を入れてくれて、フライヤーがフルカラー12ページのブックになっていたり、トークショーも企画してくれました。トークショーは460人以上の方が来てくれて、会場のイスを全て出して対応したそうです。
キヤノン曰く、一番お客さんの入ったトークショーだったと。なぜかと言えば、石井さんと小野田さんも来てくれたからなんですね。それぐらい今でも米米CLUBの人気は凄いということなんです。
「僕にとってKAO'Sは永遠」
そうした売れっ子達を長きにわたって作品に収めることができた。だから、このKAO'Sシリーズは僕の写真の一つの柱であることは間違いないんですね。米米CLUBの時代と一緒に生きてきたということです。今でも落ち込んだりすると、KAO'Sがあるからまた一歩進めたということもありますから。
いま、石井さんに「また顔に描いて撮らせてください」と言っても、なかなか当時のようにはいかないでしょう(笑)。そういうわけでこのシリーズはほぼ打ち止めですが、僕の持ってる素材でまだまだ新しい作品を作ることはできます。米米CLUBとはとても良いタイミングで知り合うことができて、KAO'Sは僕にとって永遠であるという思いです。