山岸伸の「写真のキモチ」
第17回:米米CLUBの出会いとKAO’S(前編)
表紙撮影からコンサート撮影、そしてアートへ
2022年2月14日 07:00
1985年にレコードデビューした米米CLUB。双葉社の漫画雑誌『アクション』(1986年11月28日号)の表紙で同グループのジェームス小野田さんを撮影したことがキッカケとなり、山岸さんは「KAO'S」シリーズを制作します。各界の著名人との出会いが結実した「瞬間の顔」シリーズを経て、人物の「顔」を捉えることの意味と、それらをアートに昇華していった軌跡を語っていただきました。前編は、米米CLUBとの出会いと衝撃についてです。(聞き手・文:武石修)
米米CLUBとの出会い
米米CLUBといえば、レコード大賞なんかが全盛期の頃の「君がいるだけで」や「浪漫飛行」が有名です。僕はビジュアルロックバンドだと思っていて、日本の歌謡史でも一番のものを持っているでしょう。今でも、歌の歴史を振り返る番組では必ず登場しますし、メンバーは一緒に活動しているみたいで、それって凄いことですよね。
一番最初の彼らとの出会いがこの写真なんです。1986年、僕が『漫画アクション』という雑誌の表紙を撮ることになりました。キャスティングも僕がしていて、誰か良いタレントがいないかと思ってCBSソニーの宣伝担当に聞いたら、「最近、米米CLUBというのがデビューして凄くいいから」と言われたんです。あらかじめ表紙のイメージをソニー側に伝えてあったので、それに合う米米CLUBを推薦してくれました。
表紙はジェームス小野田さんを六本木のスタジオで撮る事になりました。僕は最初、ジェームス小野田さんが米米CLUBの中心人物で、一番人気のある方だと思っていたんです。今思えば、メイクルームで小野田さんのメイクをしていたのが石井竜也さん(カールスモーキー石井)だったんですね。僕はてっきり、石井さんをメイクさんだと思っていました。
メイクの時間が確か1時間半くらいあって、その間にライトのセッティングなんかをしました。いつものように、助手がポラを切ってセッティング完了となって、小野田さんが入ってきた。その時に初めて、メイクしていたのはメンバーの石井さんだったとわかったんですね。「この人がボーカルだったんだ」と。
言い方はあれですが、妙にいい男だったんですよ。メイクさんでカッコイイ人は珍しくないので、そういう人かなと思ってメイクルームでわざわざ挨拶をしなかったんです。それで、メイクルームから出てきたところで初めて、石井さんを紹介されたわけです。その時は小野田さんのみの撮影でしたが、自分でも石井さんを撮らなくて良かったのかなと思ったほどです。
その時はみんなノリが良くて、撮影は早く終わりました。それで、メイクを落とすでしょうから小野田さんに「お湯が出るようにしてありますから」と言ってバスタオルを渡したんです。そうしたら小野田さんが、「いやいや、てっぺいちゃんが作ってくれたやつだから、今日一日これでいるんですよ」と。当時、小野田さん達は石井さんの事を「てっぺいちゃん」と呼んでいたんですが、まあびっくりしましたね。そのまま六本木の街に消えて行きましたから。
KAO'Sシリーズの始まり
そのあと米米CLUBマネージャーに連絡したんです。「とっても楽しかったから、また小野田さんの顔を撮らせてほしい」と。そしたら、「いやー嬉しいです。是非!」となりました。当時僕は、何かの機会でテレビに出ていて、それで「有名な人」として知られていたようです。その頃はそんなに有名でも無かったんですがね。そのあと、マネージャーがすぐにコンサートのスケジュールをくれました。つまり、コンサートの空き時間に撮ってくれと言うことです。
当時はコンサートの半分以上は学園祭でしたが、「よし、撮ろう」と気合いが入りました。撮影にあたって、自分なりに撮りたいイメージがあったんですね。黒バックで、理髪店のように布を被せて顔だけ出して撮るという。すると完全に黒バックで顔だけが撮れるわけです。影やテカリが出ないようにライティングは1灯で右45度からバーン!みたいなノリです。アンブレラの前にトレペを張った傘トレを使いました。今みたいな小型のストロボが無かったので、ゼネを持って行ったんです。
現場に行くと、彼らが僕を呼び込んでくれているという気遣いが感じられて感動しました。というのは、僕がライブ会場に着くとマネージャーがインカムで「先生いらっしゃいましたー!」と楽屋に連絡してくれて、楽屋に行くともう撮影の準備ができていたんですね。
当然、コンサートの直前だからバタバタしていて結構大変ですよね。それに米米CLUBは大人数で、当時石井さんが全員のメイクをしていましたから、かなり楽屋はバタついていたんです。その当時コンサートの演出は石井さんが当日、「こうする、ああする」と監督のようになってミーティングしていました。石井さんはエンターテイナーで、みんなをいかに楽しませようかと一生懸命考えていましたからね。そんななかで僕が行くと、皆さん廊下で待っててくれて、すぐに石井さんが小野田さんのメイクを直してくれました。
僕は黒バックを廊下に用意してセッティングしました。カメラはメインが富士の6×8(GX680)、それとハッセルの6×6を使っていました。その時、正面だけではなくて左右の横顔も撮っておこうとふと思ったんです。小野田さんに右と左を向いてもらってね。実はこれが後で写真集になるときに左右を繋げた作品に繋がるわけです。撮りが進んでいくと、石井さんから「今度は大きなコンサートで撮りましょう」とか「オフの時に一度スタジオで撮りましょう」といわれるようになってきました。
撮影の帰りもマネージャーが家まで送ってくれたりして、心地よい撮影をさせてもらえました。そのあとも次々にコンサートのスケジュールをもらって撮影しましたね。後にジャケットに採用された作品もありましたが、撮影当時は作品を何に使うかまではぜんぜん考えていなかったんです。
コンピューターを使いこなした石井竜也
あるときはCBSソニーの保養所が芦ノ湖にあって、温泉もあるから行こうとなりました。泊まりがけだとまとまったカットを撮れるわけですね。とは言え、小野田さんの負担もあるから、石井さんが頑張っても1日に4つくらいしか描けないわけです。ほとんどのペインティングは3時間くらいは掛かりますからね。それで大変なのが顔料の色素沈着の問題で、小野田さんの顔に残ってしまうとまずいので、描いたら5、6分で撮影してすぐに顔を洗う、の繰り返しでした。
それから1年くらい経った時でしょうか。その頃はお互い忙しくなって、彼らと会う機会も少なくなってきました。まだ僕も貧乏だったので暗室にこもって、二重焼したり、反転させたりいろいろ実験していたんです。そうして作った作品を石井さんに見せに行ったら「すごい! すごい! すごい!」と喜んでくれたんです。石井さんは人をのせるのがうまくて、それだけ言われると「もっと良いものを作ろう」と思うようになりました。
当時、ホクトカラーという会社にいた先輩が、画像処理ができるコンビューターが日本に入ったと教えてくれたんです。「伸ちゃん、写真貸して。面白いことしてもらってくるから」と。それで米米CLUBの写真を何点か渡したら、テストで水道の蛇口から顔がびろーんと出てきたりする加工をしてくれました。ただ、いまいち自分の思うイメージとは違ったのですが(笑)。
それで僕が、「時間が合ったら石井さんをホクトカラーに連れて行くから、一回やらせてくれないか」といって快諾してもらいました。すると、写真をスキャンしてペンタブで描くだけにしておいてくれました。石井さんは担当者から使い方を聞くとすぐに、ひゅひゅひゅーと描いていった。手元も見ないで、どんどん絵ができていきました。今度はこっちが「すごい!」と驚きましたね。
最初に石井さんが描いてくれた作品です。写真は僕のオリジナル。白い色を顔から拾って広げて描いたものです。石井さんの初めてのコンピューター作品なので、それ以外は加工せずに残してあります。
またこのように、上の写真と同じ顔を違ったペイントにしてもらったものもありますね。
KAO'Sはアートだ。そして写真展へ
そうこうしていると、どんどん米米CLUBが有名になってなかなか会えなくなっていたときでしたが、2年くらい撮りためた作品で何かしようと思って石井さんに見せたら、当時の事務所の社長がCBSソニーに持ちかけて、立派な写真集にしてくれました。これが1994年、米米CLUBが絶好調の頃です。その頃に石井さんが、「これはアートと言おう。言ったもん勝ちだからね」と言って、僕たちの意識が確かなものになりましたね。
この僕たちのアートをどう発展させていくか? 最終的には多くの人に見てもらえる写真展という形で、海外も含めて実に6回も開催することになります。その経緯を次回お話ししたいと思います。