赤城耕一の「アカギカメラ」
第14回:F0.8がもたらしたもの。SUPER NOKTON 29mm F0.8を試す
2021年1月20日 06:00
なぜ人は大口径レンズを欲しがるのでしょうか。これは写真において見過ごすことのできないきわめて大きな命題のひとつですが、フィルム時代と現在では「大口径レンズ」の役割というか、意味するものが異なっているようにも思います。
ずいぶんと古い話ではありますが、フィルムの感度がISO100のものでさえ「高感度」と言われた時代がありました。感度の低いフィルムを使い微量光下で撮影するためには、スローシャッターになるのはあたりまえだし、さらに暗い場所になれば長時間露光を行わねばならないため三脚の使用が必須となりました。
したがってレンズのF値が明るい大口径レンズでなければ、手ブレや被写体ブレが生じてしまい被写体を鮮明に描写できません。レンズからたくさんの光を取り込んで、フィルムにたくさん光を与えてあげる必要があったわけですね。大げさにいえば、撮影条件によってはレンズのF値によって被写体がきちんと“写るか写らないか”が決まることもあったわけです。
やがてフィルムが進化したとはいえ、一般的な写真用フィルムは高感度といっても、カラーフィルムではISO1600あたり、モノクロフィルムでもISO3200がノーマル現像での限界点でした。さらにISO感度を上げるために増感現像も試みられたものの、撮影条件やフィルムの性能、現像方法にもよりますが、実際には必要とする実効感度に到達しない場合もありました。
フィルムの感度がこの程度ですから、室内や舞台、夜間のスナップ撮影では大口径レンズが必須になります。ただ、低照度下で"写るか写らないか"と騒いでいた時代には、ボケ味がどうの、大口径レンズの描写の味わいがどうのと論議になることはあまり多くはなかったんじゃないかなあ。
極端なことをいえば、大口径レンズは低照度下での撮影において使うからこそ、はじめて効果を発揮するレンズと考えられていたわけですね。それが時を経て、次第に前景・背景の大きなボケを応用して自分が見せたい被写体を浮き上がらせる効果の方が注目されるようになりました。当初はスポーツや報道用に開発された特殊な"300mm F2.8"のレンズなんか、どちらかといえばポートレート用として名を馳せ、「サンニッパ」などと軽い調子で呼ばれるようになりました。私は絶対にこんな呼び方はしませんけどね。
大口径レンズは一眼レフのファインダーの性能にも大きく影響しました。昔はカメラを購入すると50mm前後の標準レンズがくっついてきたので、まずは最初はこれを使うしかありませんでした。標準レンズの開放F1.2〜F2あたりのものが多く、これもあって一眼レフのファインダーの明るさは、標準レンズを装着した状態がひとつの基準となったわけですね。
いっぽう一般的な単焦点の広角レンズや望遠レンズは開放F2.8くらいが普通です。小型軽量化を追求したものや廉価なズームレンズではF3.5〜F4.5あたりになることもあります。かつての一眼レフの交換レンズって、標準レンズなみの明るさを持つ広角や望遠のレンズなどはあまり多くなく、あったとしても種類が少なく高価でした。このためレンズを交換するとファインダーが暗くなり、撮影条件やレンズの種類によってはフォーカシングしづらくなることもあるわけです。
つまり、一眼レフに大口径レンズを装着するとファインダーの明るさが視覚的にも心地よく、明瞭であり、条件によってはフォーカシングしやすくなることもあるので、大口径レンズを使えばファインダーを通じた撮影体験においてもステータスを感じたわけです。でも実際にはすべての写真を開放絞りで撮影するわけではないので、ファインダー像と実際の撮影画像の乖離が極端に大きくなり、びっくりすることもあるのですが。
ただ、レンジファインダーカメラ、あるいは昨今のミラーレスカメラでは、ファインダー像の明るさがレンズの開放F値に左右されませんから、視覚的なありがたみは意外と薄いんですよね。これはこれで、せっかく高価な大口径レンズを購入したのに不満です(笑)。カメラが進化するとつまらなくなることもあるわけです。
ステータスといえば、大口径レンズ特有の大きさや重さもそうです。ボディにつけた姿が立派ということで、周りに見せびらかすためのレンズという役割を担ったわけです。一般的な撮影では、よほどのことがなければ開放絞りでなど撮らないというのに。周りの人がびっくりしてくれることを期待し、多少の重さには我慢し、私たちは大口径レンズを装着したライカを首からこれ見よがしに提げて街に出るわけです(笑)。
現代のデジタルカメラではISO感度が万単位となる高感度設定も可能ですから、微量光下の撮影であっても"写す"という目的では大口径レンズを使う必然がなくなったことなります。それでも人は大口径レンズが欲しいわけです。先にも言いましたが、いまの時代、大口径レンズを使用する主な目的は、大きなボケを得るためがほとんどです。最近は20mmくらいの超広角から105mmくらいの望遠レンズまで開放F1.4級のレンズが用意されていますが、ボケ表現を目的とするという意味では、焦点距離によらず似たような使い方になると思います。
あと、もうひとつ。マイクロフォーサーズのように35mmフルサイズよりも小さなセンサーを搭載したカメラにも大口径レンズは有用ですね。同じ画角のレンズでも焦点距離が35mmフルサイズのレンズより短くなるため、被写界深度が深くなるという宿命的な特性がありますから、大きなボケを得るためには大口径レンズがどうしても必要となります。
突然の"開放F0.8"登場
2020年末のことです、コシナからSUPER NOKTON 29mm F0.8 Asphericalが登場しました。例によって前置きが長くなりましたが、今回の本題はこのレンズです。F0.8という耳慣れない開放F値のレンズがマイクロフォーサーズシステムにどのような効果をもたらすかに興味を抱いたからです。このレンズは実写面でのテストを担当したこともあり、それなりの枚数を撮影しましたが、効果や性能面にも独自の個性が感じられ、好印象を持っています。
すでにコシナがラインアップしているの開放F0.95のマイクロフォーサーズ用レンズシリーズはすでにみなさんにもおなじみでしょうし、実際に好評を博しており、動画制作用としてもよく使われていることで有名です。それが今回のスーパーノクトンではさらに明るいF0.8という開放F値になりました。画角は35mm判換算画角で58mm相当になります。標準レンズとしてはやや狭角ですが、この"58mm"という焦点距離設定はマニアックなのです。
これまた古い話になりますが、黎明期の35mm一眼レフの標準レンズは50mmより長めの55、57、58mmあたりに設定されたものが多かったのです。これは一眼レフのミラーの動作距離を稼ぐため、つまりバックフォーカスを長めにとるべく余裕を持たせるために設定された焦点距離であり、本来なら50mmにしたかったようです。その後、レンズ設計技術の進化もあり、F値によらず35mm一眼レフの標準レンズはほとんどが50mmになりました。
ちなみに58mmといえば、最近では35mmフルサイズのニコンZシリーズ用の大口径レンズNIKKOR Z 58mm f/0.95 S Noctがありますが、この58mmという焦点距離設定は、必然というよりはFマウント時代に存在した「Ai Noct-Nikkor 58mm F1.2 S」のオマージュという考え方でしょう。またコシナ・フォクトレンダーの一眼レフ用レンズにもNOKTON 58mmF1.4 SLII Sという、外観にもこだわったレンズがあります。いずれも今回のスーパーノクトンの焦点距離設定にも影響を与えているように思います。
今回のSUPER NOKTON 29mm F0.8は光学設計も凝っています。しかも高価な研削非球面レンズ入り。レンズ設計者は「レンズは大口径化するほど収差の補正が困難になる」と言い、とくにサジタルコマフレアの収差をどう補正するかが重要なことであると強調します。そこで収差補正のために非球面レンズを開発・採用しますが、黎明期の非球面レンズは手磨きされる研削非球面レンズしかなく、研磨技能者の匠の技が必要とされました。安定した精度を保つために使われる神経も大変なものだったということです。そのため相当な製造コストがかかりました。そこで、目指す非球面の形状に作られた金型に、完成形に近いガラス材料を入れてプレスする「ガラスモールド」が発明され、非球面レンズの性能安定と生産の効率化、つまりコストダウンに成功します。
そんな中、SUPER NOKTON 29mm F0.8は、独自開発・自社加工のGAレンズ(Ground Aspherical・研削非球面レンズの意)を用いることでF0.8の明るさを実現できたとアナウンスしています。研削非球面はレンズそのものを削って加工するため、より融点の高いガラスを使用でき、ガラスモールドのみより光学設計の自由度が向上し、明るさと性能のバランスをとることに成功したということです。
レンズ構成は7群11枚(研削非球面1面、両面非球面1枚を含む)と昨今の大口径レンズとしては極端に多くはないのですが、素人目にもレンズ構成図が美しく、かなり凝ったものと感じます。絞りを挟んで対称となるレンズ構成を基本としていることも注目点で、ボケ味の質にもこだわりました。ただ、研削非球面レンズの製造コストは依然として高く、販売価格にも影響を与えていますが、性能面の信頼性は高いものとなっています。
実写した画像をみてみると、29mmという短い焦点距離なので被写界深度がそれなりに深いためか、F0.8の開放でも合焦点以外は何もかも溶かすようなボケという極端な印象は受けません。とはいえ、これよりも焦点距離が短い、例えば25mm F1.2レンズの開放画像と比較してもボケは大きいようです。
35mmフルサイズの50mm F1.0とかF0.95の標準レンズを開放絞りで撮影した写真は、これらが必然はないのに、いかにも無理して開放絞りで撮影しました!という印象を持ってしまうことが多くなります。個人的には35mmフルサイズの交換レンズだと開放の明るさはF2もあればもう十分に事足りていて、それよりも明るいレンズを使用する時には撮影そのものにもかなり神経を使います。
ポートレートを撮影する場合でも、まつ毛の先から眼球くらいまでの被写界深度は欲しいと考えるのは時代遅れのジジイの感性なのでしょうか。スーパーノクトン29mm F0.8で開放絞りで撮影しても画像から不自然さをあまり感じさせないのは好印象で、使いやすいように思います。このため、動画撮影にも向いているでしょう。
本レンズはマニュアルフォーカスということもあって、すべての撮影にお気軽に使えますとは言いづらいですが、たとえば従来のNOKTON 25mm F0.95と比較すると、EVF像でも明らかに被写体のエッジの切れ込みがよく、ピントのヤマが見極めやすいことがわかります。これも収差補正が行き届き、光学性能が高いからでしょう。自分の見せたい部分にフォーカスを追い込んでゆくのは結構楽しい作業です。
また、F0.8の開放絞りで撮影しても完全な実用性能を誇ります。フローティング機構を内蔵しているため、至近距離の撮影でも性能は維持されます。重量はレンズ単体で700gを超え、手にした時はさすがにずっしりとした印象ですが、携行性や撮影時のバランスにはさほど問題を感じませんでした。
レンズの大口径化が進む、すなわち"絞りの選択肢が増えれば表現の幅が広がる"というのは現実的には妄想にすぎない解釈なんですが、それでも私たちは夢が見たいわけですね。そのために、これからも過去に存在しなかったような大口径レンズが登場してくることを望みます。
スーパーノクトン29mm F0.8はマイクロフォーサーズユーザーに新しい表現をもたらしました。それにしても、こうした35mmフルサイズのシステムでは実現が難しいスペックのレンズを用意するのは、本来はパナソニックとかオリンパス(現OMデジタルソリューションズ)の純正レンズが先にやらねばならないことなんじゃないのかなあと思ってしまうわけなんですけどね、これらのメーカーのみなさまはどうお考えになるのでしょうか?