特別企画
カールツァイス入門・第一章「設立175周年、カールツァイスの成り立ちと思想」
2021年7月30日 12:00
カールツァイスといえば、カメラ用レンズに限らず双眼鏡、顕微鏡、医療機器、三次元測定機、半導体製造装置、眼鏡レンズ、プラネタリウムなど、今さら語るべくもないほど有名なドイツのブランドである。2021年は、そんなカールツァイスの設立から175年、日本との関係が始まって110年、写真用レンズ「プラナー」誕生から125年と周年づくし。
そこで今回はカールツァイスジャパンの協力を得て、光学産業におけるカールツァイスという存在をより身近に感じてもらうべく「カールツァイス入門」と題し、その歴史上の重要な話題について取り上げてみたい。「カールツァイスって名前は聞いたことあるし、なんかスゴそうなのは知ってる」、「詳しい人が、“レンズはツァイス”って言ってるけど……」といった距離感の皆さま、お待たせいたしました。
カールツァイスの発展は“三位一体”
カールツァイスの歴史は1846年、ドイツ中央のチューリンゲン地方にあるイエナに、カール・ツァイス(1816年9月11日生まれ)が顕微鏡工房を開設したところに始まる。人命を救い人類に貢献することへの情熱によりツァイスの顕微鏡は改良を重ね、1860年代にはドイツで最も優秀な装置のひとつに認められ、大公宮廷の御用達にも任命される。
しかし、ツァイス自身はその状況に満足できずにいた。なぜなら当時の顕微鏡レンズの製造方法は、“作業台に立てたロウソクの炎がレンズの中心で正確に像を結ぶように、レンズをひたすら手で磨く”という熟練と根気に基づくもので、理論的な裏付けがなかったからだ。
工房開設から20年後の1866年、ツァイスはイエナ大学の物理学者エルンスト・アッべと協力を開始し、優れた顕微鏡を製造する裏付けとなる光学理論を作ることをアッベに求めた。光学ガラスの特性を示す際に「アッベ数」(波長ごとの屈折率の違いを表す。逆分散率とも)という言葉を用いるが、これはエルンスト・アッべに由来している。
そのアッべの研究による物理学的な光学理論“アッベの公式”を反映したツァイスの顕微鏡が市販されると、細菌学者のロベルト・コッホが使用し、1882年に結核菌を、1884年にコレラ菌を発見したことが多く語られる。後にコッホは結核菌の発見で1905年にノーベル賞を受ける。
光学理論が完成したのち、アッベはその理論を実践するのに適切なガラス材料がないことに注目する。そこで出会うのが、30歳前の若き“ガラス博士”こと化学者オットー・ショットで、ガラスメーカーのショット社にその名を残している。
ショットはアッベの依頼を受けて新種のガラス開発を手がけ、1884年にはイエナに本格的なガラス工場を設立する。ショットもまたアッべと同様に、ガラス溶解法の発展について科学的なアプローチを取っていた。そしてバリウムを含む新種ガラスのひとつ「クラウンガラス」とアルプスの山から採取した蛍石により、色収差を抑えたアポクロマートレンズの製造を可能とするなど、アッべの計算による光学レンズやプリズムの製作に成功した。
この、ツァイスの情熱、アッベの光学理論、ショットのガラス製造という基礎が、カールツァイスの歴史における“三位一体”として語り継がれていく。
世界初の“8時間労働”
カール・ツァイス逝去後の1889年、アッベはカールツァイス財団を設立する。アッべは紡績職人である自身の父親が、理不尽な労働条件で毎日14〜16時間も立ちっぱなしで働き通していた姿を忘れられず、全従業員が平等に利潤の恩恵を受けられる法人組織を理想とした。財団の名前は、会社の設立者であり友人であったカール・ツァイスに敬意を表し、また、アッベは自らの財産を全て財団に寄贈した。
カールツァイス財団は1900年、まだ世界的に12時間労働が妥当とされていた時代に“8時間労働”を確立する。アッベが5年を掛けて同年に書き上げた定款では、残業手当、固定時間給、有給休暇、共同年金規約、健康保険、労災補償、障害者の雇用・保護、労組設立、非営利組織への寄付行為なども定め、その後の世界の社会保障の基本となる。これもまた、光学技術と並ぶカールツァイスの偉大なる社会貢献だ。
カールツァイスは光学理論と技術によって社会に貢献することをモットーとしており、“発明は広く公開して社会の利益にすべき”との思想から、当時の定款では学術研究に役立つ発明や改良については新発明の特許を取ることも禁じられていた。
しかし、他社がツァイスの開発した新技術で特許を取得するようになり、自らが開発した新技術に対して特許料を支払わなければならない事態も生じたため、アッベの没後には特許取得禁止条項が削除され、特許を取得するようになった。
初期のツァイスレンズ
カールツァイス写真部門の始まりは、“元祖”という意味を持つレンズ「プロター」をパウル・ルドルフが開発した1890年。この設計に用いられた“ルドルフの原理”と呼ばれる理論は、レンズ設計の基礎として以降も活用される。
ルドルフは1896年に「プラナーF3.6」を、1902年にはエルンスト・ヴァンデルスレブと「テッサーF6.3」を設計する。ルドルフとヴァンデルスレブは共に数学教授志望でありながら、アッベがツァイスに招き入れた。これらの設計に学んだ写真用レンズはその後に世界中のメーカーから登場した。
プラナー(Planar)
球面収差と非点収差を高度に補正し、“無収差レンズ”と呼ばれた。収差曲線が比較的平面であることから、ドイツ語のプラーン(平面)より命名。諸収差が増大しにくいため大口径レンズによく用いられてきたという。
テッサー(Tessar)
名前はギリシャ語のテサーラ(4)に由来する。3群4枚構成ながら周面まで描写がよいことが評価され、ツァイスの名を広めた。これを参考にした“テッサータイプ”と呼ばれるレンズは特に数が多い。キャッチコピーは「The Eagle eye of your Camera」。
ゾナー(Sonnar)
1929年にルードヴィッヒ・ベルテレが設計した大口径レンズ「ゾナーF2」に始まる。基本設計に無理がなく、あらゆる目的に応用できるレンズタイプとして知られる。名前の由来は、ゾナーが生まれたツァイス・イコンのコンテッサーの工場があった、ゾントフォーフェンという地名。
その他のツァイスレンズの特徴と名前の由来(一部)
ディスタゴン(Distagon)
1960年代からツァイスは光学設計にコンピューターを導入。この時代の代表的な設計者であるエルハルト・グラッツェルが手がけた。距離を示すディスタンスと、大きな角度を示すゴニオに由来。バックフォーカスを長く取れる点が特徴で、ミラーボックスを有する一眼レフ用として登場した。
ツァイスと戦争
1926年に誕生したカメラメーカーの「ツァイス・イコン」は、イカ、エルネマン、ゲルツ、コンテッサ・ネッテルの4社が合併したもの。その背景には第一次世界大戦後の経済恐慌があり、カメラ産業の衰退によりツァイスがレンズの供給先を失うことを危惧した。
この時期の他のドイツ企業にも目を向けると、光学メーカーのエルンスト・ライツは雇用を守るべく小型カメラ(後のライカ)に参入。ともにガソリン自動車の始祖でありライバル関係だったダイムラーとベンツも、経済状況が好転しないことから合併に至り、メルセデス・ベンツのブランドで自動車の生産を開始している。
いわゆる“ツァイスの東西分断”は、第二次世界大戦が引き起こした。1945年5月のドイツ無条件降伏に先立つヤルタ会談により、ドイツは分割占領される。東側となったイエナでは、アメリカ軍がツァイスの科学者や設計者とその家族を連れ出し、設計図や研究機材とともに西側へ移った。アメリカ軍の本来の計画はカールツァイスの主だった施設や従業員の疎開だったが、ソ連による接収までに間に合わなかったため、ツァイスとショットの頭脳とされた126名のみを選ぶこととなった。
彼らはその1年後から、現在もカールツァイスの本拠地であるオーバーコッヘンに移転し「オプトン光学工業オーバーコッヘン有限会社」(Opton Optische Werke Oberkochen GmbH)として生産を再開する。ソ連軍はイエナに入り、「人民公社カール ツァイス イエナ」(VEB Carl Zeiss Jena)を設立した。
以降、1989年にベルリンの壁が開放されたことによるドイツ再統一まで、東西ドイツのそれぞれに“ツァイス”が存在した。その歴史の中では、東西どちらのツァイスがホンモノであるか、長期にわたる商標争いも巻き起こっていた。最終的には西ドイツのツァイスが「カールツァイス」、東ドイツのツァイスが「カールツァイス・イエナ」を名乗ることで決着し、1991年に旧西ドイツのカールツァイスがカールツァイス・イエナを傘下に収める形で統合され、現在に至る。
次回は、カールツァイスと日本の110年について振り返る。
参考文献:ツァイス企業家精神(野藤忠:九州大学出版会)、カールツァイスの経営倫理(野藤忠:ミネルヴァ書房)、Only Zeiss I・II、カールツァイス(小林孝久:朝日新聞社)、カールツァイス100周年記念Webサイト、夕刊フジ1969年2月28日「ドイツの悲劇 日本で裁判」、アサヒカメラ2004年12月号「カールツァイスを訪ねて」、100 Years Carl Zeiss in Japan
制作協力:カールツァイス株式会社