特別企画
カールツァイス入門・第二章「日本とカールツァイスの110年。ベテラン社員が語る“ツァイスの存在意義”とは」
2021年8月31日 17:00
カールツァイス(Carl Zeiss)といえば、カメラ用レンズに限らず双眼鏡、顕微鏡、医療機器、三次元測定機、半導体製造装置、眼鏡レンズ、プラネタリウムなど、今さら語るべくもないほど有名なドイツのブランドである。2021年は、そんなカールツァイスの設立から175年、日本との関係が始まって110年、写真用レンズ「プラナー」誕生から125年と周年づくし。
第二章は「カールツァイスやコンタックスの名前は知っているけれど」というカメラファンの皆さまに向けて、ツァイスと日本の関わりにまつわる話題をお届けする。第一章に引き続き、ツァイスのイメージを具体化するきっかけとなれば幸いだ。後半では“ツァイスひとすじ40年”のベテラン社員に登場していただき、内側から見たカールツァイスの会社像などについて聞いた。
日本とカールツァイスにおける歴史の始まりとして語られるのは、1905年の日露戦争日本海海戦で東郷平八郎がツァイス製のプリズム式5-10×25双眼鏡を使い、その勝利に大きく貢献したこと。これを機に日本は双眼鏡や測距儀の国産化に着手したと言われている。
それより古く年表に残っているのは、1885年に内務省衛生局東京試験所(現在の国立医薬品食品衛生研究所)へ油浸対物レンズつきの顕微鏡3台が輸入されたこと。ツァイスの顕微鏡を愛用した北里柴三郎は1894年にペスト菌を発見している。
今回振り返る“110年”の歴史の始まりは、1909年からツァイス製品の販売代理を行っていたドイツ人の貿易商レオ・レーミッシュがカールツァイス合資会社を設立した1911年。これが現在のカールツァイスジャパン(カールツァイス株式会社)に繋がる。
初代社長のレーミッシュは東京・築地の外国人居留地(現在の中央区明石町)に住んでおり、朝は向かいにある高等小学校の先生が日本語を教えに来て、夜にはレーミッシュが近隣の日本人にドイツ語や英語を無料で教えたという。レーミッシュは高等小学校の先生を通じ、給仕志望の卒業生をカールツァイス合資会社に採用していた。会社の並びには欧文正鵠学館(当時は“サンマー学校”などと呼ばれた)があり、これを創立したジェームズ・サマーズとエレン・サマーズの三女スーザンがレーミッシュ夫人となる。欧文正鵠学館は日本の“鹿鳴館時代”を反映するように、英文学のほか社交やダンスも教えていたことで知られる。
カールツァイス合資会社は1923年の関東大震災を受けて神戸に移転。1926年に東京へ本社を戻すと同時に株式会社に改組するが、第二次世界大戦の敗戦をきっかけに連合軍に接収・解散させられてしまう。この際に資料のほとんども失われたという。
戦後の輸入再開は1950年に設立された「ファイン テクニック プロダクツ カンパニー」(略称FTPC)によって行われ、1961年には西ドイツのカールツァイスが全額出資した新生カールツァイス株式会社が設立される。先のカールツァイス合資会社では、初代社長のレーミッシュが25%を出資していた。
第一章でも触れた通り、第二次世界大戦の終結と共にカールツァイスは東西に分断される。そして東西のそれぞれが“自分達こそが本当のツァイス”だとして、西独側は「戦後、イエナの技術者の大半が移ってきて再開されたから西が本家本元」、東独側は「創業地のイエナに工場があるから東が正統」とそれぞれに主張し訴訟合戦となった。二社は東西ドイツ統一後の1991年に統一され、1992年からは日本での取り扱いもカールツァイス株式会社に一本化された。
“ペンタックス”の旭光学と提携した「旭カールツァイス」
カールツァイスは、医療用具としての科学的根拠に基づいた初の眼鏡用レンズ「プンクタール」(Punktal)を1912年に発表。その特徴は「レンズの中心から周辺まで、どの方向を見ても像が滲まない」という、当時画期的なものだった。
その眼鏡用レンズの分野において、カールツァイスは1972年12月に旭光学工業と提携。日本に「旭カールツァイス株式会社」を設立する。これはカールツァイス株式会社の眼鏡部門を引き継ぐ合弁会社で、ツァイスのノウハウや技術を導入し、それぞれのブランドで眼鏡レンズを販売した。旭光学の眼鏡レンズはカメラと同じペンタックスのブランドが冠されており、将来的に眼鏡レンズのみならずカメラや光学測定器を扱う計画もあったようだ。
当時の新聞はこれを受けて、日独の光学分野が“競争”から“協調”の時代を迎えたと伝えている。旭カールツァイス設立から5か月前の1972年7月には、日本のミノルタカメラと西ドイツのエルンスト・ライツ(ライカでお馴染み)の提携が話題となっており、旭光学とカールツァイスの提携もこれに続く流れと見られていた。
なお、カールツァイスがレンズを供給していたツァイス・イコンは、この1970年代初頭にカメラの生産から撤退。カメラ製品では後にヤシカと提携することとなり、ここで「コンタックス」の名前が復活する。
日本のエレクトロニクス+ツァイスレンズの“新生コンタックス”
1950年代中頃にドイツは好景気を迎え、ドイツのカメラは世界的評価を受ける。とりわけツァイス・イコンは品質や売り上げも高かったが、1960年代中頃に日本メーカーのカメラが市場に広がり、ツァイス・イコンは1972年にカメラの生産を中止する。
そこで残った写真用レンズを、日本のエレクトロニクスとカメラ製造の技術を反映したヤシカのカメラボディと組み合わせ、西ドイツのポルシェデザインがスタイリングを手がけた「コンタックスRTS」が1974年に登場する。これらの一眼レフカメラと交換レンズは現在でも“ヤシコン”(ヤシカコンタックス)などと呼ばれ親しまれる。ヤシカ/京セラのCONTAX事業は2005年まで続いた。
カメラ名として復活した“ツァイス・イコン”
カメラメーカーとしてのツァイス・イコンの歴史が1972年に終了したのは前述の通り。しかし2004年にカールツァイスと日本のコシナが提携すると、コシナ製レンジファインダーカメラの名称として翌年「ツァイス・イコン」が復活。これにはライカMマウント互換の“ZMマウント”として、同じくコシナ製(一部はドイツのカールツァイス製)のツァイスレンズが供給された。
ツァイス・イコンのカメラボディは既に生産が終了したが、戦前のブラック・コンタックスの誇りを受け継ぐ基線長の長さ(ピント精度に影響する)や、ファインダーの見え味など、現在でも根強いファンを持つ。
ベテラン社員に聞く「カールツァイスとは」
ここまでは外から見たカールツァイス像について紹介してきたが、今回はカールツァイスジャパンことカールツァイス株式会社に40年勤める田中亨さん(※カメラ好き)に、内側からみたカールツァイスや、個人的に愛するツァイス製品について話を聞いた。
——カールツァイス株式会社に入社したのはいつですか?
1981年に新卒で入社しました。高校生の頃に報道カメラマンになりたいと思い、写真の専門学校に進みたかったのですが、親に反対され大学に進むことにしました。そこで写真関係の勉強ができる東京工芸大学(旧:東京写真大学)工学部の写真工学科に入りました。
学校ではカメラのことや写真の化学などを勉強しながら、ニコンOBの教授推薦でニコンに就職することを考えていましたが、必須科目以外の卒業単位を3年間で取ってしまい研究室所属の4年生で不真面目な日々を送ったため、教授推薦を受けられませんでした。
ニコンに入りたかったのは、父がニコンのカメラを使っており、私もその影響でニコンを使っていたからです。いわゆる“ニコン神話”に取り憑かれ、ニッコールクラブにも学生時代から入っていました。
ただ、ニコンへの推薦は受けられなかったものの、大学にはレンズメーカーや警察の鑑識など様々な求人がありました。その中のひとつがカールツァイスでした。まだ世間が週休2日ではない当時に、カールツァイスはもう週休2日制を取り入れていて、初任給は12万2,000円でした。
——なぜ、カールツァイスを選んだのでしょうか?
大学の卒論で、写真レンズの3次元性能、いわゆるボケの評価をやりました。ツァイスのプラナー50mm F1.4とニコンのニッコール50mm F1.4を用意し、ダミーヘッドを被写体に、撮影距離などで背景との距離などを変えて、夜には点光源も置き、ボケ像の形などを評価しました。カメラボディはコンタックスRTSとニコンF3でした。そこでツァイスの結果が良かったのが印象に残っていました。
面接は、当時は四ッ谷にあったカールツァイスに、後輩から借りたライカM2を提げて行きました。私としては“同じドイツのカメラだから良いだろう”と考えていたのですが、いま思えば競合製品を持っていくなんて考えられないことですよね。ただ、そのおかげで珍しがってもらえたようです。
顕微鏡は観察だけでなく、顕微鏡像を写真で撮影して記録を取り、論文などで発表することが重要ですが、日本のカールツァイスには写真の専門家がいませんでした。私は営業として採用されましたが、写真のことを勉強していたおかげで「写真とカメラのことは田中に聞く」といった具合に重宝されました。
——これまで、どのようなお仕事を担当されましたか?
好きなカメラの仕事をしたかったのですが、部門がなかったために顕微鏡の営業担当になりました。当時のコンタックスは京セラ(※1983年にヤシカを吸収)ですし、社内でカメラ関連といえば、京セラでのレンズ検査と、細々と古いコンタックスI〜III型やコンタレックス、スーパーイコンタなどを修理する職人がいるだけでした。
そして東京で就職しましたが、1年も経たないうちに福岡営業所の顕微鏡営業マンになりました。私は福岡出身なので、これ幸いと転勤し10年ほど福岡で勤めました。更に東京と福岡を行き来し、50歳の時に「アプリケーションサポート」という顕微鏡の使い方を教える部門のマネージャーとして東京に呼ばれました。それからマーケティングやテクニカルサービスのバックオフィスなどを担当しています。
私は現在62歳ですが、カールツァイスに勤めてきた40年の中で、夢だったカメラに関わる仕事はしていません。しかしカメラ好きとして、CP+でブースの手伝いはしていました。
——印象に残る「ツァイスらしさ」とは何でしょう。
日本のツァイスのことでいえば、私の入社当時は社内の公用語としてドイツ語の教育がありました。同期入社の12人のうち、2人は会社のお金でドイツに留学していました。
製品を見て感じるのは、作り込みが質実剛健であることです。“ドイツ的”と言うのでしょうか、全てに力を抜いていません。昔の機械はマイナスネジを使っていましたが、それでもネジ穴がなめず、ネジを緩めるときには“パチン”という音がします。材料と加工の精度が良い証拠です。それゆえに製品が高価になり、日本のビジネスには多少難しい部分もありますが、こうした点がドイツ製品やツァイス製品には脈々と受け継がれています。
ドイツ製の光学機器と聞けば、20世紀の名品の数々を連想するだろう。しかし創業者カール・ツァイスが顕微鏡製造を始めた19世紀、光学機器の本場といえばイギリスやフランスであり、Made in Germanyとはそれらの国で作られた“ホンモノ”と区別するために明示を義務づけられたものだった。これに対しドイツは、自国製品を世界水準にすべく尺度の精密化と規格化を進める。
日本のカメラ産業においても、粗悪品のイメージを払拭すべく1954年に日本写真機検査協会(JCII。現在の日本カメラ財団)が設立され、輸出する光学製品に対し検査を行ってきた歴史がある。金色で楕円形の“PASSED”シール(ごく初期は紙のタグだった)が貼られていない製品は港で船に積むことが許されず、こうした取り組みが海外における日本製カメラの評価を高めた。
——カメラ好きの田中さんにとって、個人的に思い入れのあるカメラやレンズについて聞かせてください。
まず思いつくのは、父が使っていたニコンSやF系のボディは何しろ頑丈で壊れないということです。自分がツァイスに入る前から使い慣れているということもあります。個人的に三指に入るレンズは、ミラーレスカメラ用のTouit 12mm F2.8、コンタックスG用のGビオゴン28mm F2.8、ハッセルVシステム用のゾナー150mm F4です。
大学の研究などでコンタックスを使うまで気づかなかったことですが、ツァイスレンズの写りには色の濁り、歪み、変な誇張がなく、プラナーやディスタゴンには抜けの良さがあると感じました。昔、娘達の写真をたまにコンタックスで撮ると、カメラに詳しくない家族からも「何かが違う」と言われたことがあります。
そうしたレンズの人気もあり、コンタックスRTSが出た当時には、ニコンから乗り換えるというユーザーも少なくありませんでした。私も「なぜニコンのボディにツァイスのレンズがつかないのか? そうすれば最強なのに」と考えていまして、2006年にニコンFマウント用のツァイスレンズ(ZFレンズ)が登場して夢がかなった時には「時代がきた。最高だな」と思いました。
私は社会人になるまでずっと35mmカメラを使っていましたが、ツァイスに入社が決まった後に父から50万円(ツァイスの初任給の4か月分)を借りて、入社記念にハッセルブラッド500C/Mの標準セットとリンホフの三脚を買いました。
そうして買った夢のハッセルにモノクロフィルムを入れて自分で現像・焼き付けをしてみたところ、その仕上がりには目から鱗がもう1枚落ちる思いでした。当時のコマーシャルフォトグラファーがハッセルを使っていたのも納得です。120フィルムの6×6という原板の大きさもありますが、同じツァイスレンズでも、ひと目で別次元と感じました。正月に娘達に着物を着せて写真を撮るときにゾナーの150mm F4などを使うと、絹の質感が出るのです。
ハッセルを自分で使ってみて、1969年に人類初の月面着陸をしたアポロ11号が月面の記録用にツァイスレンズのハッセルブラッドを採用したのは、当時の技術で最高の写真を撮るために当然の選択だったと実感しました。
大事なのは「解像力とコントラストのバランス」。先駆者という使命を持つツァイス
——ツァイスのレンズの良さとは何でしょう?
これは顕微鏡の例ですが、長時間観察していると、レンズのコントラストが高いだけではだめなのです。解像力とコントラストのバランスが大事です。コントラストだけを高めたレンズを持つ顕微鏡は、一見高性能で好印象を与えるのですが、長く使っているうちに「実は細部がそこまで見えていない」といったことに気づくケースがあります。
ツァイスの顕微鏡を使う方の言葉で印象的だったのは、「“自分の眼がそのまま倍率を上げていったら、こう見えるんだろうな”というぐらい何も誇張されず、何も引かれずに見える」というものです。これは写真レンズも同様で、目で見た印象から何の誇張もなく、クリアでスッキリした写りが得られると言われます。
カールツァイス175年の歴史の中では、顕微鏡から巨大天体望遠鏡のレンズまで、つまり1mm以下から何メートルというサイズのレンズ系を作ってきましたから、そうした技術のノウハウがあるのでしょう。ドイツの本社では、カメラや顕微鏡などの各部門でも行き来があるため、創業以来175年に及ぶレンズについての考え方やノウハウがそれぞれで共有されています。
——カールツァイスについて、カメラ好きの皆さんにもっと知ってほしい点を教えてください。
自分が使っている道具のルーツを知ることで、その国の文化や企業、製品に対するこだわりが見えてくるのは楽しいことです。そうしたストーリーを楽しむ趣味の対象としても、カールツァイスはうってつけだと思います。なにしろドイツではツァイスの創業からの歴史が「Die gläserne Fackel」(1989年)という大河ドラマになるほどの存在です。
さすがは“カールツァイス財団”だなと感じることのひとつは、創業地のイエナにあるアーカイブです。ここに古い顕微鏡の写真とシリアル番号を問い合わせると、その顕微鏡が出荷された日や、どこの誰にどのような組み合わせで出荷されたという出荷関連書類も照会できます。写真資料も膨大にあります。
またカールツァイス財団の定款には、「あまり他社が手を付けたがらない孤独な分野で今すぐ役に立つかわからなくても、将来的に何かの役に立つ可能性があれば、進んで先駆者として取り組む」という思想があります。仮に10の新しいものを作ったとして、全てがビジネスとして成功するわけではありませんが、後にその技術のうちのいくつかは世の中のためになります。
例えばコロナ禍で人の往来が大きく制限される現在では、海外など外部の現場からの情報共有や作業の指示、研修といったことをリモートで行う技術が必要です。ツァイスでは高価だった国際電話回線を使い、かつてその先駆けと言える顕微鏡遠隔操作技術にチャレンジしていました。
また近年では、iPod/iPhoneに接続するヘッドマウント型の「シネマイザー」や、スマートフォンを挿入するVRゴーグル「VR ONE」といった製品も早くから開発していました。この“先駆者”という姿勢もアッベの定款から始まったカールツァイスらしさであり、このような技術を開発し続けていることこそがツァイスの存在意義だと言えるでしょう。
第三章では、プラナーが125周年を迎える写真レンズと共に現在のカールツァイスを構成する、各分野の製品について見ていく。
参考文献:カールツァイス株式会社 社内報「Hauspost Nr.1」、夕刊フジ1969年2月28日「ドイツの悲劇 日本で裁判」、日経産業新聞1974年3月25日号、市政「英語の母 リリー・サマーズ」「続・英語の母、リリー・サマーズ」(1988年)、築地物語「カール・ツァイス合資会社の発祥」(1996年11月)、グッズプレス1991年2月号「ドイツのモノ作り哲学」(篠田雄次郎)
制作協力:カールツァイス株式会社