編集後記

2020年9月25日

宮澤孝周

音を文字で表現するということは、どういうことなのか。古典文学を対象に、言語表記と表現の研究をしています。いわゆるパロールとエクリチュールの関係と密接に結びついてくるのですが、問題をごく簡単に紐解くと、解釈のあり方に行き着いてくるように思います。

そもそも音を視覚化することは不可能です。譜面があるじゃないか、と反論することも可能ですが、譜面に記されている「音」が、本来の「音」と全く同じなのか、という同一性を証明する術はありません。譜面に記されている「音」を聴覚化する際には、かならず奏者が存在し、その奏者による解釈と、聴衆の解釈が介在してきますので、その時点で現象している音は、また別の体験を生み出していきます。もちろん、解釈といっても原義どおりの意味ではなく、翻訳にかかわる問題や文化や風習の差異など、様々な要素が複雑にからみあってきます。

その音を再現するための道具——楽器にしても、それぞれの楽器ごとの違いがあり、音のバリエーションは無数にひろがっていきます。そうした無数に散らばるバリエーションを、いかに書き留めていくか。1,000年前、書き留めておくことがまだ特別だった時代にあって、人々は多彩な表現の原点を示す場所として音を文字化しようとしていたのかもしれません。

ややこしい話をしましたが、写真も、この関係性にとてもよく似ているように思います。一枚の写真にこめられた意図は存在するけれども、解釈のあり方で、その写真はまた別の何かになるということ。ごくごく当たり前のことではありますが、それが面白さでもあり、難しさでもあるのだと思います。

8Kや6Kの動画を撮影できるということが、スチルカメラの進化におけるひとつのターニングポイントになってきているように思いますし、できることが飛躍的に拡大する中で、表現方法や解釈のありかたも問われているようにも感じます。一方で写真を撮ることに意識を集中できるカメラもあったりなど、とても自由な状況が切りひらかれつつあります。

そうした中にあって、写真を撮るということはどういうことなのか。そんな視点をもった記事もお届けできるように色々と画策しています。ちょっと立ち止まって考えてみる、そんな場所をつくれるといいな、と思いつつ。