山岸伸の「写真のキモチ」
第24回:俳優 西田敏行さんとの出会い(後編)
夢中で西田さんを撮っていたあの頃
2022年5月30日 07:00
”カメラマン山岸伸”が生まれたのに、俳優の西田敏行さんが大きな存在だったことは、今までにも何度か話の中にも出てきてますが、今回はその西田敏行さんとの出会い、その後の2人の関係、当時の撮影話をたっぷりと伺いたいと思います。10年以上西田さんに付き撮り続けた話の後編です。(聞き手・文:rinco)
「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしてから
僕が撮ったレコードジャケット写真だけでも西田さんはこんなに歌を出しているんですよ。勿論ここでお見せしているレコードジャケット以後も西田さんの歌は続いて出てますが、僕が撮っているわけではありません。
レコードジャケットは、僕が西田さんの撮影で最も多く関わったものです。「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしたことは、西田さんとの仕事で僕には一番大きいことでもありましたし、皆さんの印象にも強く残っていると思う。これに付随してたくさんの仕事をし始めていったんです。
ベースはここ、劇団青年座
西田さんの本業である「役者」としての仕事を、所属していた「劇団青年座」で撮り始めてゆきました。西田さんを撮らせてもらっていたら、いつの間にか青年座で他の仕事の写真も撮る機会が増えていったんです。
青年座の俳優は100人くらい居たかな。毎年宣材写真を撮ってました。青年座で撮影セットを作ってどんどん撮影してゆくんです。撮影中に西田さんが「大丈夫か?」って心配して覗きに来たりしたな。それは、また他の仕事とは違う世界を見せてもらえたというか……そういう経験でした。
西田さんはまだ中堅俳優で当時は年功序列なところもあり、あくまでも芝居で主役にはなるけどほかに上の役者がいましてね。そんなのも見せてもらいながら撮影してました。
また新劇のポスター撮影は劇団の中にプロデューサーが居てそれも有名な方が劇を作るので、また映画とは違う独特なノリがありとても勉強になりました。青年座って役者だけでなく演出家から皆いましたから。
俳優の緒方直人さんは元々は裏方をやりたくて青年座に入り、その後役者になった方です。養成所もあって、色々な人達が舞台制作やったり演出やったりしてましたね。西田さんのベースはここ、青年座です。
自分の中での経験値が高まってゆくのが全て、西田さんだった
なので、撮影するには勿論台本も芝居も見なければならない。西田さんが主役でやるものは全部撮らせてもらいました。本番もリハも、ポスター撮りもそうです。西田さんの場合は本当に何から何まで撮りにゆきました。
有り難いですね。自分の中での経験値が高まってゆくのが全て、西田さんだったんです。
例えばね、人を撮るプロカメラマンの中で何を一番得意とするのか? ポートレートを撮る、レコードジャケットを撮る、舞台を撮る、ライブを撮る、プロフィールを撮る、コマーシャルを撮るといっぱいあるでしょう?
それが西田さんの場合は一人で役者であり歌手でありタレントであり、それと同時に引き出しがたくさんある人。全ての映画、芝居、歌。全部違うじゃない? 三拍子揃って全部やれた人って僕は他に知らない。西田さんは若くして成功した人です。映画はなかなか出来ないですよ。それにミュージカルもやってましたしね、でも流石に日生劇場は撮影させてもらえなかったな(笑)。
夢中で何も考えずに彼だけを撮っていた
西田さんとのたくさんの仕事がありましたが、その中でも印象に残っているものをご紹介します。
TBSの「寂しいのはおまえだけじゃない」とういテレビドラマの撮影現場での写真です。TBSの緑山スタジオへ行って、ドラマ収録の空き時間に外に出ていただいて撮ったんですよ。
こちらは、NHKの「昼のプレゼント」という番組で西田さんと北海道を半周一緒に周ったんです。ここは稚内の宗谷岬です。稚内からカニ釣り漁船に乗って毛ガニ漁へ出たんです。
そう、そこで初めて船上で毛ガニを食べたんだ。たくさん撮ったんですが、その時の1シーン。北方領土ギリギリまで漁をしているところについてゆき、普通の人は経験できないことを経験させてもらいました。
西田さんが一緒にいると、例えばこういう船に乗ったとしても怖くないし、一瞬危険だなって思ったりするところに行っても、西田さんが居ると全然怖くないんだ。不思議と安心していられた。夢中で何も考えずに彼だけを撮っていたからだと思う。この後も一緒に温泉入ったり……。ほんと、色々なところにゆきました。
テレビ朝日のドラマ「鬼が来た」で棟方志功の役を西田さんがやっていた時、実際の青森ねぶた祭りで西田さんが踊っている収録があって撮影したものです。
ねぶた祭りの時は宿も取れないほどの賑わいですが、スタッフとして一緒に行っているのでそういうのも貴重な経験ですよ。西田さんの右隣は地元の方だったと思います。西田さんにねぶた祭りの踊りを教えていた人です。目の前で踊りを撮りながらですから、すごいですよね。
「ロケーション」という松竹で上映した映画は、ロケ地が福島県。西田さんの地元での撮影だったので西田さんも気合入ってました。僕は動画用スチールの撮影でゆきました。この時に初めて、僕は西田さんを男前ですごいハンサム! って思ったね。かっこいいよね。
これは、NHK大河ドラマ「八代将軍 吉宗」の撮影現場でのショット。番宣などを撮りに行ったのではなく、西田さんを撮りたかったのでNHKに許可をもらい本番直前にNHKの通路を歩いて移動中に撮らせてもらいました。だから役とはちょっと違うイメージになってます。
西田さんの場合1つのクライアントと契約すると、1回だけではなくそのコマーシャルは1クール、2クールと続くのでコンテンツが色々と変わりポスター、パンフレット、レコードまで出たりするんです。僕にとっては大きな大きな仕事でしたね。西田さんは彼一人で僕に対して本当にたくさんの経験をさせてくれました。
ワイキキビーチにハワイ中のHMIを集める
これはハワイに撮影しにいった時の写真です。テレビのコマーシャルだったから、僕はついていって撮っているだけ。コマーシャルの時にもスチール写真がいっぱい使われたんですが、たくさん撮っていたのでもう何にどう使われたかわからないくらいでした。
ハワイの海辺でこれくらい派手なロケでしたよ。天気が悪くても撮っちゃう。この時はワイキキビーチにハワイ中のHMI(照明装置)を集めて撮ったんです。だからハワイのビーチが雨なのに晴れているという(笑)。「ビーチを晴らした!」っていう勢いありましたね。それぐらいすごかった。
この時、初めてゴルフしたんです。上の写真は左から山岸、西田さん。記念写真はいつも和気あいあい。いつも西田さんがそばにいてくれたから。
僕の撮っていた写真が広告写真に使われる。変な話、西田さんさえ写っていればその中から代理店がプレゼンして、広告になってゆく。西田さんに付いているカメラマン故に、何に使われるかわからないという。
山岸が撮ったプライベートフォトもそういう風に使われてゆくんです。最小限のスタッフしかいない場面にも僕は撮影させてもらえてましたから。
「オール西田敏行」という人生を10年くらい過ごした
テレビの番組で初めてアフリカのケニアに行ったんです。通常でしたら、テレビ局の方が撮影すれば済んだのかなぁとも思いますが……。
撮影対象が西田さん故に一緒に同じ飛行機で行って、同じところに泊まって、同じものを食べて。オール西田敏行という人生を10年くらい過ごしたので、アフリカにまで連れていってもらった。
この時、ケニアのマサイマラというところにブーンってセスナが飛んできたらタレントの関口宏さんが降りて来た。関口さんもアフリカに取材で来ていて偶然に会ったんです。「おぉ! 西やんだ!」って言って。一緒に記念写真撮ったりしましたね。
映画「植村直己物語」
1985年には映画「植村直己物語」で北極にゆきました。これは映画の番宣ではなく、週刊プレイボーイのグラビア撮り下ろし撮影で行ったんです。そのくらい当時、西田敏行さんは人気あったんですよね。
だってグラビアで北極まで行けるなんて、そうないことですから。また、「植村直己物語」という映画もひとつのキャッチでした。
レゾリュートっていうところでロケをしました。ここもアフリカと同じで二度と行くこともできないですし、僕にとってはもちろん初めてのことでした。僕がキヤノンのカメラを構えてる写真がありますが、キヤノンF-1です。
北極に行くのでとキヤノンのプロサポートでカメラのオイル抜きをしてもらい、モータードライブも全て外して、シンプルに寒冷地仕様で持っていったんです。現地はフィルムが割れるくらい寒い。この写真の僕のヒゲを見てもらうとわかると思うんですが、凍ってしまうくらい寒かったですからね。
なかなかできない経験でした。辿り着くだけでも精一杯。この時も皆と同じ宿泊所で、そこで一緒に寝泊まりしてました。
この時に、このダウンがいいだろうと多分好日山荘で買ったと思うんですが、今でもまだ着てます。北海道帯広のばんえい競馬の朝調教撮影時によく着てますよ。この帽子もまだあります。僕は物持ちいいんですよ(笑)。
映画撮影ではまず、エスキモー犬に餌をあげるところから慣らしてゆかないと犬ぞりに乗れないから、西田さんも大変だったと思います。犬との信頼関係も必要ですし、かなり犬とコミュニケーションを取ってました。
写真は思い出だけじゃなく作品としても残る
これは2022年に松屋銀座での写真展に写真家の種清豊くんから誘ってもらい展示した作品です。ちょうどこのサイズでプリントを保存してあったんです。当時はフィルムでしたしね。37年前に撮った写真でもちゃんとプリントして残っているということは、写真は思い出だけじゃなく作品としても残るんだと思います。
僕が持っている上の写真、氷が青いでしょ。氷を削って水にしてからそれをポットに入れて日本に持って帰って来たんです。帰国後、飲んでみたらしょっぱくてね。とてもじゃないけど、水割りにもできなかった。下のもう1つの写真は、トラック島に行った時撮影したものです。
僕は病気になってから色々な写真を捨てたんですが、西田さんの写真は一切、捨てなかったんです。今でも探せばもっと出てきます。この連載の記事が長すぎても困るからと2回に分けて話しましたが、喋りきれないくらい。もっと喋ることはたくさんあるんですが……。
結果、西田さんとの15年くらいをまとめた写真を発表したのが、1995年コダックフォトサロンで開催した写真展でした。開催中、会場に西田さんが来てくれたんです。この日の夕方は巨匠の先生方が集まって、こちらで一杯飲ませていただきました。
写真展に向けて西田さんからのコメント(雑誌「フラッシュ」から抜粋)
「僕みたいに映像のなかで生活する者は、写真に対しても妙に慣れている部分がある。伸ちゃんはその慣れを嫌って独特なカメラ・アイで、ほかの人の写真には出ない僕を撮ってくれた。新しい写真集『KAOS』などを見ていると、『やっているな。僕も負けられないぞ』と思いますね。才能を着実に開花させ、大きくなってきた伸ちゃんの仕事は今後も目が離せない。次は何をどう見つめ、どう表現していくのか、常に興味深く見守っています。今回の個展では伸ちゃんが僕をどう見ていてくれたかを、一つの表現の証として感じたい。“僕の知らない僕”がいそうで、とても楽しみです。もちろん見に行きますよ」
出会って今日まで写真を撮ってこられたのは一生の宝
写真展「瞬間の顔」は、本当は西田さんにお礼のつもりで始めたんですけど、方向が違っていったんです。これは最初の写真展の図録です。名前を50音で掲載していて、西田さんは後ろの方なのですが西田さんを最初に撮ったのが始まりです。
西田さんを想う気持ちと西田さんに何か写真で残せたらという気持ちで撮りに行って、それがスタートです。
今年の14回目で1,000人。「瞬間の顔」写真展も無事に終えることができました。西田敏行さんと出会って今日まで写真を撮ってこれたということは、本当に一生の宝です。なにがどうだ、ということではなく自分の中に西田敏行さんは生き続けているし、これからも西田さんが出演しているテレビを見たり映画を見たりすることが楽しみです。
僕が西田さんに近寄ると迷惑かと思って……今はもう近寄らないようにしています。西田さんの写真を他の人が撮っているのを西田さんも気を遣うだろうし、僕もなんか嫌だしね。西田敏行さんとは心の繋がりだけでいいなと思っている。一人の人がこんなに僕にものを教えててくれたことはないから。
西田さんにいただいた言葉。一番大切にしている言葉です。
「あなたの人生は
自分をいきる
だけじゃなく
他人の人生も生きた
欲張りの人生です」
2011年2月23日 西田敏行