山岸伸の「写真のキモチ」

第25回:野田会長と山岸さんと。その時代を輝かせたグラビアアイドルたち(前編)

伝説の元イエローキャブ野田会長が山岸さんと語り合う

山岸さんがグラビアカメラマンとして飛躍したのには、この方の存在があってといっても過言ではありません。元イエローキャブの野田義治会⻑です。野田会⻑にご登場いただき、当時の貴重な話を語っていただきました。(聞き手・文:rinco)

雛形あきこさんの話

山岸 雛形あきこさんは本当、画になる子、でしたよね。身体じゃなくて、顔が。彼女は目つきひとつでも、何か、力強さがある。

野田 そうだよね。学研のボムという雑誌に3cmくらいのモノクロ写真、小さく載っていた雛形を見つけたのが、最初。ちなみに、白夜書房の雑誌に載っていたのを見つけたのが、かとうれいこと羽田美智子。

山岸 雛ちゃんは確か、そのときすでに東俳に所属していたんですよね。

野田 東俳にいた子は以前にも、うちの事務所の子でいたんですよ。だからスカウトしても大丈夫かな、と思っだけど、雛形は東俳でもトップの子だった。でも、一番手の子の割には放ったらかしで。もうその頃には写真集を1冊出していたけど、その写真集の仕上がりもどうなんだろって思えて……このままでいたら潰されちゃうわぁって思ってね。

写真集「The 10th ANNIVERSARY MEMORIAL BOOK1992-2002」(アクアハウス)2002年

写真集「The 10th ANNIVERSARY MEMORIAL BOOK1992-2002」(アクアハウス)2002年

電話帳から「雛形」って名前を探した

野田 当時、東俳の社長は知り合いだったけど、話に行ったらガードされちゃうだろうと思って……取り敢えず、うちのマネージャーを東俳の稽古場に2週間、立たせていたんだよ。

で、「雛形」っていう苗字は珍しいし、日本にそんなに無いだろと思って、電話帳から「雛形」って名前を探したんです。そしたら4件あったの。横浜に1軒、九州に1軒、もう1軒どこか忘れちゃったけど、4軒目が東京。全部電話して、「うちの子です~」って言われたのが東京。それから家に通ったね。

彼女のお母さんと、ずーっと話した。本人はまだ私のことは疑っているの、私、人相悪いから(笑)。何回か行った時に、すかいらーくで待ち合わせしてお母さんと話をしていたら本人が来てくれて、そこで色々話をしたんだ。何話したか忘れたけど。

写真集「雛形あきこグラフィティ」(スコラ)1996年

山岸 当時の会長が、そこまでスカウトに力入れたんだから、すごいです。

野田 1994年のこと。

山岸 僕が飯倉スタジオで撮影しているときに、会長からちょっと撮影してほしいって電話が来て、それで来たのがそのまんま、制服着ている雛ちゃんだったのよ。その時の写真がこれ。写真集の中にも入れた写真。

写真集「雛形あきこグラフィティ」(スコラ)1996年

野田 そうそうそうそう。本人が「はいわかりました」って言ったその週に、連れて行ったと思います。この撮影の時、私も2回か3回しか、まだ会っていなかったんだ。

山岸さんとの撮影時にできた“雛ポーズ"

山岸 当時、何をどう動いていいか、彼女はわからなかったんだ。“雛ポーズ”は、こうしなさい、ああしなさいって動いている時にできたポーズなんですよ。

アーカイブ写真集「Spring time 雛形あきこ」(双葉社)2018年

山岸 バストを強調していたわけではなかったの。まだね、子供だったから。ブルマの跡とか付いているわけ。だからその跡が見えないように見えないようにって、撮影していたらそういうポーズになっちゃったんだよね。それがまた、とっても良かったのよ。

野田 あのあどけない表情で、その下にそういうポーズが付いてくるんですから。出版社でもなんでも皆んな“雛ポーズ”を真似するようになってね。本人も「あれは、山岸さんの撮影の最中に、偶然できたポーズなのよね」って、今でも言ってるよ。

写真集「FLOWING」(コンパス)1994年

写真集「雛形あきこグラフィティ」(スコラ)1996年

山岸 この写真集の撮影でシンガポールに行った時、JALのビジネスクラスで一番後ろの席に会長と雛ちゃんが並んで座って、その前の席に僕が座っていたんです。そしたら、二人とも搭乗直後から着くまで一度も、起きないし、飲まない、食べない、トイレにも行かない。すっごいな〜って思ったんですよ。相当疲れていたんだと、本当驚いたもの。

野田 そうでしたね……その時の財産があるから、私は今でもやっていられるんです。

写真集「PHUNKY PHAT PHOTOGRAPHY」(タイガーエンタープライズ)1996年

山岸さんと野村誠一さんの撮影時だけは、横で撮っていても怒られなかった

野田 昔、こういう背景ボケしてる写真が、好きでさ。流行でしたね、当時。

山岸 あの頃、会長はキヤノン3台持っていましたよね。

野田 持ってたよ。機材が必要な時は、銀座のキヤノンにも借りに行ったりしてね。当時は、キヤノンのプロ会員だったから。キヤノンの人が「野田さんどうやって撮るか知っているの?」って聞くから「知らないよ。そんなの現場行って、カメラマンに使い方聞くよ!」って(笑)。

写真集「FLOWING」(コンパス)1994年

山岸 撮影中に、僕の横で撮るんだよ、会長が。横でバシバシに撮るから、そりゃ、女の子たち嫌がるわけよ。もう、れいこちゃんなんかは、「やめて!」っていうわけ(笑)。

野田 唯一、山岸さんと野村さんの撮影時だけは、横で撮っていても怒られなかった。

山岸 僕がここから撮っているでしょ、会長はその横とか、下から撮っている。その自分が撮った写真を今度は会長自らで持ち込んで、違う週刊誌に載せちゃうのよ(笑)。

写真集「The 10th ANNIVERSARY MEMORIAL BOOK1992-2002」(アクアハウス)2002年

アシスタントにカメラをあげてしまった野田会長

山岸 ある時、僕が会長の仕事ではなくサイパンでロケしていたら、偶然同じビーチで会長が、木の上にタレントを登らせて、下からカメラで撮影していたの。そしたら、あ~俺、やっぱりもうダメだわって言って、その場で僕のアシスタントに持っていたキヤノンのカメラ、レンズ一式をあげたの。当時、最新式のカメラ。

野田 自分が撮っているのとプロのカメラマンとの差を感じたんだ。どんなに同じ場所で、同じモデルを撮っていても、自分はうまく撮れない。これはもう、歴然と出ていた。

例えば、私がフィルムを100本撮ったとして、その中で1枚か2枚しか使える写真ができない。でも山岸さんが100本撮ったら、50-60枚は使える写真を作るんだ。プロとアマチュアの違いを思い知った。

山岸 3台だよ、3台。僕のカメラより、いいカメラだったんだ。

野田 でも本当に、むちゃくちゃやった時代でもあるけど、いい時代でもあった。

山岸 会長がカメラ持って歩くなんて、信じられないよ。

野田 でも意外と早く辞めましたよね、私。

山岸 すぐ辞めた、すぐ。

アーカイブ写真集「Spring time 雛形あきこ」(双葉社)2018年

アイスから生まれた3人組”Pino”

野田 森永のアイスで「pino」ってあるでしょ。あの商品が最初に発売になった時に、コマーシャルのキャラクターで作られたのがこの3人組の”Pino”なんですよ。その時はロスまで行って、コマーシャルの撮影をして、歌のPVも撮影してきたの。

写真集「Pino the first」(コンパス)1995年

写真集「Pino the first」(コンパス)1995年

野田 三宅恵美をメインに作られたグループでしてね。三宅は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの俳優の奥さんになっているでしょ。

山岸 朝の番組司会者でも有名な方ですよね。

俺が売り損なった唯一の子

野田 三宅は当時から本当に、妙な色気があったんだよね。

山岸 そうね、彼女は女優になれた。今だったら女優になれたね。

野田 三宅は、俺が売り損なった子、唯一の子だね。今はどなたかの奥さんになって、幸せそうだからいいんだけどね。見てよこれ、可愛いじゃない。

野田 小谷みさこは、セーラームーンの主題歌を歌ったりして、結構売れたのよ。こうしてみていると、結構手間暇かけて、撮影していたよね。1枚の写真を撮るのに。山岸さんは、表情の切り方が上手だと思う。

山岸 掛けていたよ。大変だったよ。順番に、みんなそこに待っているんだから。同じところでコロコロ変えて撮っている。でもそれが違う仕上がりになるんだ。3人それぞれ、違うんだよ。

話は尽きないです。次回もグラビアアイドル秘話が続きます。

(やまぎし しん) タレント、アイドル、俳優、女優などのポートレート撮影を中心に活躍。出版された写真集は400冊を超える。ここ10年ほどは、ばんえい競馬、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、球体関節人形などにも撮影対象を広げる。企業人、政治家、スポーツ選手などを捉えた『瞬間の顔』シリーズでは、15年をかけて総撮影人数1,000人を達成。また、近年は台湾の龍山寺や台湾賓館などを継続的に撮影している。公益社団法人日本写真家協会会員、公益社団法人日本広告写真家協会会員。