写真業界 温故知新

第4回:瀧島芳之さん(元キヤノン取締役、元カメラ事業本部長、元ソフト統括-開発本部長)

瀧島芳之さん

キヤノンは、今日までカメラ業界において電子化のリーディングカンパニーとして存在してきました。そのきっかけとなったのはフィルムカメラ時代の「AE-1」(1976年4月発売)、「A-1」(1978年4月発売)、「AF35M(オートボーイ)」(1979年11月発売)などの高度に電子化されたカメラで、これらを手がけ、さらにデジタルカメラ以前の電子スチルカメラ、「RC-701」(1986年7月発売)、「RC-250 (愛称:Q-PIC)」(1988年12月発売)など固体撮像素子による電子スチルカメラ開発などを指揮されていたのが瀧島芳之さんであり、キヤノンのデジタルカメラ時代の創成期を築きあげた方です。(市川泰憲・日本カメラ博物館)

”電気漬け”の少年が、”メカと光学”のカメラ産業へ

市川 :瀧島さんはどんな経緯でキヤノンに入社されたのでしょうか?

瀧島 :キヤノン入社前、私は学習院大学の研究室で助手をやっていました。ある日、学部長から「キヤノンから人材を紹介して欲しいという依頼が内々に来ているけれど、大学を辞めてキヤノンに行く気があるか?」という事を言われました。ちょうどその頃、将来の身の振り方を考えていた時期でしたし、当時の私は電気とカメラを趣味にしていましたので、キヤノンに行けば両方やれて色々できるぞという気持ちもありました。まさに”渡りに船”で、ご縁があったのだと思います。

市川 :大学でのご専門は電気ではなく物理でしたよね?

瀧島 :はい、大学での専門は物理です。物理学の分野で半導体の研究をしていました。

市川 :電気がご趣味というのは?

瀧島 :趣味の電気については小学生や中学生の頃から傾倒していまして、中学校の頃には送信機について自由研究をしたり、兎にも角にも電気漬けの少年でした。

そんな電気漬けの人間が1963年にキヤノンに入ってまず驚かされたのが、当時のカメラというのはメカと光学の世界だったのです。

市川 :まだ電子化される以前のことですから、当然そうなりますね。

瀧島 :そうなのです。まだ「メカと光学でどっちが偉いか?」と争っていた時代で、電気なんて“そっちのけ”で全く相手にされませんでした。

市川 :やはり当時はカメラと言えばメカと光学が花形でしたから、容易に想像できます。もちろん彼らにも屋台骨であるという矜持があったのでしょうね。

瀧島 :電気回路の図面を試作部門に出しても、抵抗の取り付け角度が書いていないとか、電気的にはどうでもよいことを問題にして「電気屋はいいかげんだ」……というような事をいわれ、私も若気の至りで、売り言葉に買い言葉で突っかかっていました。

市川 :入社されてご自身の電気の経験が活かされる時があったかと思いますが、思い出深いものはありますでしょうか?

瀧島 :メカ屋さんと意地の張り合いみたいな事をやっていたある日、ストロボを同期化・自動化しようという話が僕のところにやってきました。ご存知の通り、ストロボにはガイドナンバー(GN)という指標があります。GNを距離で割って適正露出となる絞り値を算出します。

さらにGNには発光誤差として1絞り分の誤差が許容されていましたので、絞りの設定には「勘」や「慣れ」が必要で、正にプロの熟練の技が必要でした。当時のストロボはまだ専業メーカーが作っていたこともあり、カメラとの連携もありませんでした。ですから「素人ではとてもじゃないが撮影チャンスに間に合わない」ということで、カメラとストロボを連動させようという計画はありましたが、実際には実現にほど遠く、なかなか上手く行かなかった。そんな時に「瀧島が電気をやっていたな」ということで声が掛かりました。

市川 :ストロボの同期化ということは、AE-1の頃でしょうか?

瀧島 :もっと前の、キャッツ・アイ・キヤノネットのストロボ同期システムのお話ですね。

キヤノン広報 新野 :「キャッツ・アイ・キヤノネット」は、「ニューキヤノネットQL17」(1969年7月発売)のことですね。昼も夜もEE撮影でという猫の目のような機能から「キャッツ・アイ・キヤノネット」というキャンペーンを展開したモデルです。難しいガイドナンバーの計算なしにレンズの繰り出しに連動して付属品のスピードライト(キヤノライトD)の光量に対する適正絞り値を自動設定する、全自動のフラッシュオート機構(CATS=Canon Auto Tuning System)が開発され、初採用になりました。CATSはキヤノンのその後のレンズシャッター機の一部や1970年代前半の一眼レフにも使用されています。

ニューキヤノネットQL17(1969年発売)
ニューキヤノネットQL17+キヤノライトD

瀧島 :メカ屋さんからすると許容された1絞り分の発光量誤差の扱いが難しかったのだと思いますが、電気屋の僕からすると、発光量の誤差を絞り値に反映させるのは簡単な話で、ストロボ発光時の電圧を測定して絞り値にフィードバックすれば良いのではないか?と提案しました。その案が認められ実際にシステムになり、それが評価されて賞を頂きました。

市川 :それは社内での評価でしょうか?

瀧島 :いえ、社外での評価になります。こちらがその賞状です。

市川 :なるほど、東京商工会議所の賞状ですね。おや、水井さんも名を連ねていらっしゃる。

瀧島 :スピードライトの開発に携わっていた懐かしいメンバーですね。雑誌にも何度かこのキャッツ・アイのシステムを取り上げていただいたり、この賞状のように評価して頂いたことで、開発現場における電気屋の地位が徐々に上がってまいりました。

カメラ用測光素子の開発

市川 :カメラそのものに関わったお仕事について教えて頂けますか?

瀧島 :スピードライトの開発の次に携わったのが、測光に使う測光素子です。当時カメラの測光にはCdS(硫化カドミウム)を用いるのが主流でした。ほとんどすべてのメーカーがCdSを使っていたと思います。CdSには公害問題や低照度下の安定性などの扱いに問題がありました。そしてCdSの代わりに目をつけたのがシリコン・フォト・セル(SPC)素子、いわゆるシリコン・フォト・ダイオードです。当時「F-1」(1971年3月発売)には低照度用のブースターなんてものがありました。

キヤノンF-1(1971年)

市川 :ありましたね、たしか「ブースターTファインダー」でしたか。

瀧島 :そうです。今だからお話できますが、ブースターは効果的というほどのものではありませんでした。先程も申し上げました通り、公害問題や低照度下での安定性など扱いに難のあるCdSの代わりに目をつけたのがシリコンです。シリコンは分光感度特性が長波長側に寄っていたり出力が小さいという難点はありましたが、少ない光でもすぐに出力が立ち上がりますし、高い照度まで光量に対して反応がリニアという優れた特性があり、「これは将来カメラに使えるだろう」という実感がありました。そこで当時シリコンの研究をしていた東京芝浦電気(東芝)に共同研究をしようと話を持ちかけまして、東芝に素子を作ってもらいました。

シリコンの測光素子で実験を進めていくと、EV−3位の暗さでも素子は反応出来たのですが、その出力がピコアンペア、10のマイナス12乗という大変微弱な値で、当時は専用のメーターでなければ測定できませんでした。その専用のメーターは当時数十万円もしましたから、そんな代物をカメラに使うのは現実的ではありません。そこで微弱電流を増幅器で増幅して回路を動かすという計画になり、増幅器を作ろうとしたのですが、その開発も一筋縄では行きませんでした。

キヤノンをはじめとして、当時シリコンの研究に手を出していたどこのカメラメーカーも開発には苦労していたと、後になって耳にしました。キヤノンでは1973年11月に発売する「キヤノンEF」の開発をやっていましたが、CdSによる測光センサーの開発が難航していて開発が中断状態にありました。

そのタイミングで、東芝と共同開発したMOSトランジスタを用いたログアンプ(対数増幅器)でシリコン・フォト・ダイオードの微弱な信号を何とか取り出せる所まで漕ぎ着けました。実験がやっと上手く行ったことを当時の上司が知ると「測光センサーにはCdSではなくシリコンとMOSトランジスタによる測光センサーで行くぞ!」とすぐに決めてしまったのです。それはもうカメラのメカ部分がほぼでき上がっていたタイミングでしたので、何処にもスペースがありませんから「どこにこの回路を入れるんだ?」と大問題になりました。

何とかしてようやく見つけたペンタプリズムとカバーの隙間と、フレキシブルプリント基板上に部品を載せる方法を田口君が考え、ようやく製品化の目処が立ちました。

AE-1ペンタプリズム上部の電子部品

キヤノン広報 新野 :社史に、「東京芝浦電気とMOSFETの長所とBIトランジスタの長所をうまく取り入れたBi-MOS構造のICの共同開発を行い、1972年12月31日に試作品が完成。技術陣は正月休みを返上してデータの測定を行い、そのダイナミックレンジの広さに改めて感激を味わった」と記録されている話ですね。

市川 :EFからかなり積極的に電子化を進めていった。あるいは、カメラの電子化を推進するキッカケになったのがEFという事ですね。

キヤノンEF(1973年)

瀧島 :ええ、そうなります。EFのフレキシブルプリント基板ですが、不良品が大量に出てしまうというトラブルが発生しました。当時は工場でのカメラの組み立てについての知識が、僕らのチームにはありませんでした。ある日、当時の工場長に呼ばれて基板の不良品の山を見せられて「瀧島、これはどういう事だ!?」と言われて生産の現場を知り、愕然としました。

そこで初めて知ったのですが、工場では素子や基板をプラスチックのケースに入れて持ち運んでいたのです。その時は季節が冬だったのですが、冬だと空気が乾燥していますので、そんな運び方ではなおさら静電気が起きてしまうのです。静電気でショートしてしまうとMOSやシリコンは一発でやられてしまう。ですから、現場でプラスチックケースに入れて持ち運ぶ姿を見た時はヒヤヒヤして悲鳴を上げてしまいそうでした。

こりゃいかん!ということで搬送方法の指導と対策をやって、工場で組み立てをやってくれている工員さん達に帯電防止のブレスレットを付けてもらって生産するようにお願いしました。

市川 :それは、アースのためですよね。今の工場では、アースをして組付けというのが当たり前になっていますね。

瀧島 :そうです。電気屋の僕たちからすれば、電子基板の取り扱いはアースをして行うというのは当たり前の事だったのですが、そういった電気屋の「常識」が工場生産の現場では周知されていませんでした。これは僕たちが教育しなかったことが原因なので、僕たちにも責任のあることなのです。

それらの対策や教育をしたことでEFの生産は安定しました。が、電子化というのは非常にコストが掛かることが分かりました。当時は電子化するとカメラは高くなるというのが常識だったのです。

世界初のマイコン搭載一眼レフカメラが誕生

市川 :EFの後に登場し、カメラが本格的な電子化へと歩みを進めることとなったのがAE-1です。世界で始めてカメラにマイクロコンピューターが搭載されたことで話題になりましたが、このAE-1についてお聞かせ下さい。

キヤノンAE-1(1976年)

瀧島 :キヤノンEFが世に出た当時、そのころの民生用カメラといいますか、一般ユーザー向けのお手頃なカメラの市場はペンタックスやミノルタが幅を利かせており、一方でプロ御用達の高級機はニコンがシェア90%以上を独占していて、キヤノンが付け入る隙は何処にもありませんでした。

その上キヤノンの一眼レフは、スーパーキヤノマチックなどに代表される1959年に登場したRマウントから、1964年登場のFLマウント、F-1や先程のEFが採用していた1970年登場のFDマウントなど、「スピゴットマウント」という点では共通ですが、マウントの細部形状が定期的に変わってしまっていたことも、一般ユーザーの方々に受け入れられなかった理由だろうと思います。

そこで電子化、つまり自動化を進めることで簡単に撮影を楽しめ、それでいて手の届く安価な一眼レフを作ろうということで、1974年1月に「Xタスク」という計画がスタートし、開発チームが組まれました。先程も申し上げましたが「電子化するとカメラは高価になる」という常識に対する挑戦と、自動化によって誰でも失敗なく撮れること、部品点数削減による生産の効率化や合理化、販売体制まで含めた、総勢250名にも及ぶキヤノン始まって以来の大掛かりなプロジェクトとなりました。

僕の関係した電気の分野では、EFの開発で大変苦労した反省からシリコンの測光素子とIC化したログアンプ(対数増幅器)を一体型にしました。オートフォーカスはまだありませんでしたが、その他にもストロボの自動化など、考え得る電子化をドンドン取り入れて高性能化を目指しました。

AE-1のボディとワインダーの電装部分

そして生まれたのが、世界初となるマイクロコンピューターを搭載した一眼レフカメラ「AE-1」です。おかげさまで成功したカメラとなりまして、量産が始まってから増産に次ぐ増産で、それでも間に合わなくて「またラインが増えるぞ」と工場からうれしい小言を聞く毎日でした。この一眼レフカメラは篠田君、櫻田君達が開発した「A-1」と合わせて、生産台数でトップに躍り出ました。

キヤノン広報 新野 :Aシリーズ6機種(AE-1、AT-1、A-1、AV-1、AE-1プログラム、AL-1)で総生産台数は、1,100万台を達成したという記録が残っています。

キヤノンA-1(1978年)
キヤノンA-1のブレッドボード
キヤノンAE-1(1976年)
AE-1の電装部分
AE-1プログラムのフレキシブルプリント基板

瀧島 :その上、1977年10月に「高度の電子技術との結合による一眼レフカメラの開発」の功績により、精機学会から「大越記念会記念賞」を頂くなど、さまざまな賞を受賞する栄に浴しました。これも多くの仲間の支えがあったからです。

市川 :この測光センサーはBASIS(ベイシス)、俗に言うCMOSだったのでしょうか?

瀧島 :いえ、BASISではなく、シリコン・フォトダイオードとIC化したログアンプを一体化したものをTI(テキサス・インスツルメンツ)と共同開発しました。

市川 :では、その時はまだキヤノンが半導体の内製化をするという話が表に出ていない頃だったのですね?

瀧島 :全く出ていませんでした。TIとの共同開発では色々なことを勉強しまして、TIの開発ノウハウ蓄積術や人材登用法を参考に、主担当に若手の打土井君などの優秀な人材を積極的に登用し、また生産の要である工場の現場でも、計算機で培った優秀な技術者である木本君達を生産担当に回していただきました。あれ?少し話しすぎていませんか?

市川 :大丈夫です(笑)

アクティブAF機「オートボーイ」誕生

市川 :オートボーイについてお話を聞かせて下さい。

瀧島 :1963年3月の第8回フォトキナで、キヤノンはオートフォーカスのカメラ「キヤノンAF(試作機)」を発表しました。

市川 :良く覚えています。箱型でレンズが横に2つならんだAFカメラですよね?

キヤノンAF試作機
AF試作機がフォトキナを騒がせた翌年、前年のショックを和らげる目的で作られた126インスタマチックAF試作機(「写真工業」1991年10月号より)※12月16日追加掲載

瀧島 :その通りです。試作品でしたが「キヤノンAF」、コダックの8mmフィルムをカセットにしたもの(後にスーパー8フィルムとして1965年に発表される)と、あと1つは失念してしまいましたが、その3つが写真の3大発明として当時はセンセーショナルに扱われました。

ところが、世間の評判とは裏腹にキヤノンAFに対するキヤノン上層部の評価は「その測距方式だと、低コントラストのシーンや少しでも動く物体に対してはピントを合わせられない」という大変厳しいもので、開発はそこから上手く進みませんでした。そうこうしているうちに、AF実用化でコニカに先を越されてしまいました。

市川 :ジャスピンコニカですね。

瀧島 :はい、「ジャスピンコニカ」こと1977年に発表された「コニカC35AF」は、アメリカのハネウェル社と特許問題を抱え、かなり苦労されたと聞いています。

ハネウェルの方式は、ビジトロニクという測距素子を使用し、三角測量方式によって求められた被写体の2つのパターン(二重像)を電子的に検出するパッシブAF方式でしたが、暗所や低コントラストに弱い部分がありました。その弱点を克服するためにキヤノンでは、赤外線を当ててその反射を利用することで三角測量をするという暗闇でも測距可能な独自のアクティブ方式でやろうと決心しまして、その研究を進めていたのですが、それに適した素子が無くて暗礁に乗り上げてしまいました。

ハネウェル社開発のビジトロニクAFモジュール(撮影:市川泰憲)

そんな時、日立の倉田氏が研究していた赤外発光ダイオードが製品化されたという記事を新聞で見かけまして、「これだ!」ということで日立に押しかけましたが、カメラに採用するには価格が高く、納入価格で2万円前後もしました。

私も一応は大学で半導体の研究をしていましたので、レーザーダイオードの構造を見てみるとどんな代物かが分かりました。構造は複雑でしたが、生産方式を何とかして量産化できれば価格の問題は解決できるという直感が働いて、強引でしたがゴーサインを出しました。

市川 :ちなみに、量産化が成功した初めの価格はどのくらいだったのですか?

瀧島 :たしか1,000円をちょっと超えたくらいだったと思います。

市川 :2万円前後が1,000円程度とは凄いですね!

瀧島 :僕は日立が既にレーザーダイオードの量産計画を進めているのを知っていましたので「ラインさえ変えてくれればすぐに量産化できるだろう」と高をくくっていましたが、開発の全員から「瀧島さん、これをやると首が飛びますよ」と本気の忠告を受けるほど大反対されました。

当時TIでも光通信用に同じ研究をやって成功していることが分かったので、これは2社購買をやるべきだと思い、TIに詳細を伝えて実際に商談をしに行ったのですが、担当の女性マネージャーは僕と合うなり「You tell a lie」(あなたは嘘をついている)と。彼女が言うには「日本の市場を調査したところ、日本では日立がやっていて、その販売価格も掴んでいる。その日立よりは安く販売できるが、瀧島さんが言うほどは値段を下げられない。嘘を言っているのではないか?」という返事でした。

僕は「製造工程を変えれば安く出来る」と説明したのですが、向こうでは分業化が進んでいて製造方法までは指示できないということが分かりました。やればできるという確信はありましたが、泣く泣く断念しました。ある程度は予想していたことではありましたが、それで青くなって、辞表を用意して、辞表を片手に仕事をしていました(笑)。

市川 :最終的に日立のものが採用されたのですよね?

瀧島 :そうです。幸いなことに私が大学で研究室の助手をしていた時に4年生で研究生だった佐野君が当時は日立に就職していて、ちょうど僕らの主担当だったのです。彼は会社の機密を漏らすようなことのない非常に真面目な男でありましたが、同時に気力もある人間でした。やる気のある人だけを集めてくれて「瀧島さん、僕らは真剣にやっています。指示通り量産ラインに乗せられるようにやっていますから」と頑張ってくれて。大変な苦労はありましたが、そうして生まれたのが1979年11月発売の「AF35M(国内愛称:オートボーイ)」でした。

キヤノンオートボーイ(AF35M)1979年

市川 :そんなストーリーがあったのですね。ところで量産化初期では1,000円少々だったレーザーダイオードの回路の納入価格は、最終的にどの程度まで下げられたのですか?

瀧島 :カメラ業界参入を希望していた国内の他のメーカーにも委託して、最終的には180円くらいで納入していました。今となってはLEDなら100円ショップでも買えますが、あの当時の話ですから本当に苦労しました。

市川 :それは凄いですね、ご苦労が忍ばれます。

ところでアクティブ方式のオートボーイ(AF35M)が1979年に登場したことによってキヤノンの世界シェアがガラリと変わりましたよね?

キヤノン広報 新野 :1980年はシェアが11.8%で4位でしたが、1984年には26.6%でシェアトップに躍り出ました。発売後1年足らずのうちに月産7万台を超えても市場ニーズに追い付かず、生産打ち切りの1984年末までに累計400万台を販売しました。

瀧島 :徳田君達が開発したオートボーイと増永君達が開発した「AF35ML(国内愛称:オートボーイスーパー)」(1981年7月発売)と合わせて、世界シェアの拡大に貢献したと思います。

市川 :オートボーイスーパーというと、AFがパッシブのSST方式ですね。

オートボーイスーパー(AF35ML)1981年

瀧島 :そうです。オートボーイスーパーは、AF35Mのアクティブ三角測量方式とは別方式で、受光素子であるCCDラインセンサーを使って三角測量方式で距離を測るSST方式(Solid State Triangulation)のパッシブAFです。SST方式は他社からの技術導入や他社製のAFモジュールの買い入れによらず、独自技術で創り上げたキヤノン独自のパッシブAF方式でした。

市川 :SST方式というとスーパー8のシネカメラの方に使われたという印象があります。

瀧島 :そうですね、8mmシネカメラの「AF514XL-S」(1980年3月発売)に採用されていました。

SST方式パッシブAFを採用した8mmシネカメラ「AF514XL-S」(1980年)

半導体の内製化にむけて

瀧島 :オートボーイによって見えてきた課題もありました。それは製品の心臓部である半導体を外部に依存する現状に疑問を持ったのです。やはり自分たちの思い通りに回路を作れないと今後の競争で優位に立てないということで、内製化しないといけないと思いました。

そこで生産技術のトップである内藤さん達に同じ生産技術の小西君達と半導体の内製化の提案を行い、キヤノンとしてのゴーサインをいただきました。僕は研究室で半導体の研究をしていたとはいえ、生産・製造に関しては素人でしたし、キヤノンにも設備やノウハウがなく、経験者もいない、本当に何も無い状態からのスタートでした。

かといって、半導体メーカーにとっても製造はトップシークレットの極秘事項ですから、当然教えてくれるはずもなかった。ある半導体メーカーに技術導入のために多額の費用を支払って技術供与の契約をして、内製化がやっと動き始めました。私は半導体の設計や製造については何もやらずに、人集めで引き抜きや場所を作ったりして、何とか計画が進められるようにと奔走していました。

キヤノン広報 新野 :1977年から本格検討が始まり、1979年3月12日より、半導体内製化のための検討グループ「Lタスク」が発足したとの記録があります。当時の製品技術研究所ではテーマ名称に動物の名前をつけており、LSI Independence Operation(IC独立作戦)の頭文字をもとに、百獣の王LIONから名称を付け、1980年に「IC内製化長期計画」が提出されました。

市川 :瀧島さんのおっしゃる「半導体」というのは、イメージャーという意味での半導体ですか?

瀧島 :イメージャーではなくICです。

市川 :というとBASISになるのでしょうか?

瀧島 :いいえ、BASISはまだ先の話で、MOSやCCDを集積した回路になります。

市川 :それは平塚の事業所ですよね?

瀧島 :ですが、始めたのは玉川事業所です。

半導体を作るのには無塵室や重機などが置ける場所が必要でした。そんな折、ピッタリ当てはまる場所をカメラ事業部が作りつつありました。僕はカメラの開発と半導体研究部とを兼務していましたので、専任で担当していた小西君からなんとしてもワンフロアー確保するよう頼まれました。

当時カメラの事業本部長であった那須さんに話したら、いっとき考えてからあっさりOKしてくれました。答申書も出さずにOKしてくれていた事を後になって知り、驚きました。

市川 :当時玉川に半導体工場があったのですか?

瀧島 :半導体製造が始まった一番初めの頃ですね。

キヤノン広報 新野 :1980年代初めに、キヤノンにおける半導体内製化の原点「0次装置」を玉川工場に設置し、大学の実験室程度の設備で、ごく小規模のバイポーラICの試作ができるようにしていました。1980年末に神奈川県平塚市の土地を入手、1981年4月に半導体研究部(Lタスク)が移転、平塚事業所が開所しました。

市川 :なるほど、そのあと平塚に移転した、と。

瀧島 :そうなります。現在は綾瀬事業所などでも半導体デバイスの開発・生産を行っています。

市川 :たしか、大分にもありますね。

キヤノン広報 新野 :はい、大分事業所でも半導体デバイスを生産しています。

市川 :那須さんとはカメラグランプリの初期の頃、授賞式の後にお会いしたことがあり、豪快な方だという印象がありました。

瀧島 :大変豪快な方でしたね。私は2度ほど大きなお世話になっていますので那須さんには頭が上がりませんが、工場の人からは「恐ろしい人だ」ということで別の意味で頭が上がらなかったそうです(笑)。

市川 :そういう時代でしたね(笑)。

瀧島 :ええ、そういう時代でした。

スチルビデオカメラの時代

市川 :1980年代と言えば、フィルム記録の時代からフロッピーに記録する、いわゆるデジタルカメラの前身であるスチルビデオカメラが登場した時代でもありました。「デジタル」と言っても実際にはデジタルデータではなくまだカセットテープなどと同じくアナログによる磁気記録でしたが、それでも光をCCDで受け止め電気信号に変換して記録するというのは画期的・革新的な出来事でした。

瀧島 :僕らは”SVカメラ”と呼んでいました。1977年だったと思いますが、TIから極秘の提案があり、4代目社長の賀来社長と後に5代目社長となる御手洗肇さんなどと一緒に数名でTIに行きました。

市川 :1977年ですか? ずいぶんと早かったのですね。ソニーから1981年夏にマビカが発表されるよりもずっと前のお話ですね。それもTIから?

瀧島 :はい。もうすでにフロッピー記録が実現されていましたが、記録装置に問題があったり、画質の面では画素数が十数万画素しかなく、兎にも角にもすぐに製品化できるというレベルではありませんでした。ですから持ち帰って研究テーマにさせてくれということになりました。

デジタル化の話も当時あったのですが、当時の技術では処理能力の問題でどうにもなりませんでした。デジタル画像を扱うというのは当時ではそれこそスーパーコンピューターを持ち出さないと実現できない話でしたし、画像処理にはスーパーコンピューターを使うというのが常識でした。その後、「アナログで行こう」という事になりました。

そして、ソニーとともに規格委員会を設立し、国内外のカメラ・電機メーカー32社の参加を得ながら、フォーマット作りをはじめとして真剣に取り組みました。当時は不揮発性メモリーなんかも無かったですから、そこで業界統一のフォーマットとしてフロッピー記録するスチルビデオカメラの規格が決まりました。

撮像素子の開発も行い、19万画素の素子がやっとできたという時には、協力してくれた半導体メーカーの偉い人も含めて皆で拍手喝采したことを覚えています。19万画素しかありませんでしたので、もちろん現在のスマートフォンのような鮮明な画像は得られませんでしたが、それでも大きな成果でした。

そうして完成したカメラを国技館の天井に取り付けて相撲を撮影しました。

市川 :ああ、大相撲の!ありましたね。

瀧島 :当時、業務用カメラの分野はほとんどをソニーが独占していたため、キヤノンのカメラはすぐにソニーに変えられてしまいました。

市川 :野球場にも当時はありましたよね。

瀧島 :飛行機にも取り付けたりしました(笑)。そんな折、1983年9月、読売新聞社から1984年7月末に開催されるロス五輪で画像を電送する為に業務用のSVカメラを開発してほしいという依頼が舞い込んできました。それもカメラだけではなく、電送機や受信機、プリンターなどシステムすべての話です。

当時のキヤノンが持っていない技術が必要なのに、タイムリミットが1年も残されていないという状況でした。当時はまだバブルジェットプリンターの技術も未成熟で、プリント時間の短いカラープリンターの開発もやらなきゃいけないのです。一度請け負ってしまえば当然お仕事ですから、失敗した時の責任も大きいので一大決心が必要でした。当時カメラ事業本部長だった那須さんに毎日のように「無償でやらせてくれ」と頼み込んで、開発を無償で請け負うことを了承してもらいました。

ロサンゼルスオリンピックで実験したスチルビデオ「D701」

市川 :たしか瀧島さんはカラープリンターの開発もやられていましたよね?

瀧島 :はい。カラープリンターは必須条件だったため、社内の事務機部門にお願いに行きました。そうしたら「技術者を3人よこせば2年間でカタチにしてやる」という事を言われましたので断念。何しろ、残された時間は1年もなかったからです。急遽、電子部品メーカーと弊社の櫻田君、石川君達とチームを作り、ギリギリの時間で昇華型熱転写式プリンターを誕生させる事ができました。

市川 :昇華型熱転写式プリンターは商品化されていましたよね?

瀧島 :はい、現在でも続いています。SELPHYシリーズが有名かと思います。

市川 :現在でも続いていると。それは凄いですね。

瀧島 :もちろん30年以上も前の話ですから当時とくらべて進化していますが、そこで生み出したものを改良進化させながら現在まで続いています。

ロス五輪の業務用SVカメラシステムのプロジェクトは、参加した全員が覚悟を持って、それこそ死に物狂いで取り組みました。土日無しでほぼ1年間、全員の残業時間が毎月200時間を超えていたと思います。そんな過酷な状況ではありましたが、皆が燃えていました。

ロサンゼルスオリンピックで活躍したスチルビデオ伝送実験機器
キヤノンスチルビデオシステム(スチルビデオカメラRC-701など)
キヤノンスチルビデオトランシーバーRT-971
キヤノンカラービデオプリンターRP-601

市川 :1970年代から1980年代初頭というのは、夢や目標があって燃えることができた時代だったという気がしますね。

瀧島 :あの時はもう必死でしたね。失敗は許されない。失敗したら依頼元の読売新聞はもちろん、方々に迷惑を掛けますから。僕が辞表を書くだけでは収まりがつかないという覚悟でやりました。

カメラには自信がありましたが、例えばそれ以外の電送機などは経験が無くて素人同然という状況でしたから、苦労の連続です。プリンターを作るにしてもプリンター用のプリント紙を作ってもらうと、今のようにすぐ使える状態じゃなく、太巻きで届くのです。それもトンデモナイ金額で。隠せると思ったのですが、那須さんにバレて大目玉を喰らいました。

業務用カラー電子スチルカメラの開発成功を伝えるニュースリリース(1984年)

市川 :1984年のロス五輪の前後で読売新聞と組んでチョモランマから連日報道を行う、というのがありませんでしたか?

瀧島 :チョモランマからSV写真を電送するというプロジェクトはロス五輪の後ですね。

市川 :こちらにチョモランマ隊を取り上げた記事がありますね。日付は1988年の5月ですね。

東大生産技術研の小倉磐夫先生が、ロス五輪は「スチルビデオ・オリンピックである」と表現していたのを思い出しました。ソニーは朝日新聞と組んで画像電送を行って、ニコンは共同通信と組んでフィルム画像の電送を行っていましたね。

瀧島 :はい。ライバルの開発状況はチラホラと情報が入ってきていましたので、「ライバルは白黒でやるらしいからウチはカラーでやるぞ!」ということで発破を掛けて取り組みました。開発メンバーには新婚さんも居たのですが、当時は家に帰らずほとんど会社に寝泊まりしていて、会社から家に帰れと言われると今度は会社の駐車場に車を止めて、そこで寝泊まりしてまで開発に精を出してくれました。いまでは労働基準法違反もいいところなので、とてもじゃないけれどそんな事は許されませんが。

キヤノン広報 新野 :社史では"1983年11月にタスクフォースを編成し、5ヶ月半で試作品を完成。1984年6月には引き渡しを完了した。"と1行にまとめられていますね。

挑戦の70年、そして未来へ、キヤノン70年史(2007年)

市川 :当時は言えないことの方が多かったのですね(笑)。

瀧島 :結果的にキヤノンはTI社と共同開発した約40万画素のCCDを搭載したSVカメラ「D701」でカラーと白黒の写真を撮り、1984年7月27日付の読売新聞夕刊に電送写真第一号が掲載されたのち、最終的に48枚が同紙に掲載されました。しかし画質は褒められたものではありませんでした。

その後、業務用SVカメラシステムを商品化することが会社の方針として決まりましたが、商売的には業務用カメラというのは成功しませんでした。当時としては最先端の技術を結集したもので、このシステムは高く評価され、日刊工業新聞社が主催する「第9回(1986年)十大新製品賞」を受賞しましたが、画像プリンターは非常に高価でしたし、CCDの解像度が現在のように十分ではありませんでしたので、画質は銀塩フィルムから大きく劣っていました。期待したような業績とはならなかったので、業務用SVカメラの生産は幕を閉じる結果となりました。

この新聞写真は十大新製品賞に選出された時のメンバーで、左から現キヤノン社長の真栄田、桜田、石川、瀧島、木下、国吉、須加尾、坂田、手塚さん達ですが、その他に飯塚君、堺君、畠山君なども仲間です。

日刊工業新聞に掲載された「十大新製品賞」記事のスクラップ

RC-701実写画像(12/18追加掲載)

RC-701

世界で初めて商品化された電子スチルビデオカメラRC-701による実写プリントを2019年にスキャンしたもの。1986年の製品発表会で撮影し、その場でビデオプリンターRP-601によりプリントされた。(提供:市川泰憲)

モデルさんと市川泰憲(用紙サイズ181×128mm、実画面サイズ91×69mm)

以下の2点は、1986年の製品発表会でキヤノンが配布したプリント。

モデルさん(用紙サイズ181×128mm、実画面サイズ121×92mm)
スイセン(用紙サイズ181×128mm、実画面サイズ91×69mm)

・1986フォトキナ写真電送

1986フォトキナ正面玄関(用紙サイズ181×128mm、実画面サイズ91×69mm)

1986年9月3日から9日にフォトキナが西ドイツ・ケルンで開催された。当時キヤノン・写真工業・凸版印刷は、現地からRC-701で撮影した画像データを、スチルビデオトランシーバーRT-971を使って、ケルンからキヤノン株式会社の新宿本社(当時)へ国際電話を使い画像データを送り、スーパーコンピュータを使い画像処理し、そのデータを直接凸版印刷で直接製版するという実験を行った。電送時間はR.G.B.各色20分以上かかり、画像1枚ごとに3.5インチフロッピーディスク1枚に収められ、凸版印刷へ持ち込まれた。(写真工業1986年10月号より)

フロッピーカメラQ-PIC

市川 :今回瀧島さんにお話を伺おうと思った理由を、今更ですが明らかにします。

現在の電子カメラ・電子写真、いわゆるデジタルカメラとそれによって得られるデジタル画像の分野において、先頭を走っているのはキヤノンだと私は考えています。それは時間軸、つまり非常に早い段階で電子カメラに参入した草分け的存在であることですとか、細かくジャンル分けすれば色々な見方があるかとは思いますが、トップもしくはトップクラスのシェアを誇っていることや、写真業界にあってある意味でのトップというのが私の認識です。

カメラの歴史で100年以上続いた銀塩フィルムの時代が、デジタルへと交代しました。それは銀塩フィルムからの電子画像化という意味はもちろんですが、そこにはアナログだった電子カメラそのもののデジタル化という2つの側面があり、その両方の変遷の一翼を担ったのが電子カメラのパイオニアであるキヤノンだと勝手ながら思っているわけです。そこで頑張っていた瀧島さんに話をお伺いするのは非常に意義のあることだろうと、そう考えたことが理由であります。

瀧島さんの言葉をお借りすると「民生用」ということになりますが、1988年に10万円を切る価格で発売された、手軽に電子写真が楽しめる記録・再生・消去一体型のスチルビデオカメラ、通称「Q-PIC」(RC-250)についてお話を伺いたいと思います。

Q-PIC(RC-250)1988年
Q-PICのシステム

瀧島 :Q-PICは日本のTVのコマーシャルで「フィルムを使うより新しい」などと派手なことをやっていましたので、社内の銀塩カメラのチームから顰蹙を買ってしまった思い出がありますが、これまでに蓄積したノウハウから電子カメラを低価格で、より手軽な操作とサイズを実現した民生用のカメラ作ろうと考えました。

と言いますのも、最初に発売したSVカメラのRC-701は39万円もしましたので、一般のユーザーが手にするには非常に高価でした。

キヤノンRC-701(1986年)

この点をなんとかしなければと、販売価格は10万円を切ることを絶対条件にしました。また、撮影した写真を家庭用のテレビといったものに直接繋いですぐに再生することができるよう、カメラ本体に再生機能を持たせたり、デザインから操作性に至るまで銀塩カメラの面影をなくして、銀塩カメラの代替ではない全く新しい印象を与えるカメラシステムにしようと企画しました。

Q-PICのインデックスプリント

市川 :1988年当時のQ-PICのカタログを見ると、その先進性が今でも伝わってきます。ところでQ-PICのCCDは、TIとの共同開発でしょうか?

瀧島 :はい。TIとの共同開発です。当時はまだ自社の力だけでは解決できない項目が多々ありました。TIは分業化が進んでいると先ほどオートボーイの話でも触れましたが、分業化の進んだTIの良いところは、プロジェクトが持ち上がると「この指とまれ」で人が集まってくれるところでした。

当時の日本の会社はプロジェクトが持ち上がった時に「ダメな理由」や「やらない理由」を次々と挙げてくる勢力に対抗するところから仕事を始めなければならないことがあったり、上司の顔色を伺いつつ話を進めたり、というのがまだ当たり前のようにありましたが、TIでは「とにかくやってみよう」というスタイルで前向きにプロジェクトが動き始めるので驚きました。

また回路設計の歴史と言いますか、ノウハウがしっかりと蓄積されていて、例えば定電圧回路のICが欲しいとなると、そういったものがポンと出てくるシステムがしっかりとできていて、開発をスピーディに進められました。

市川 :その時代の要素技術開発というのは、まだまだアメリカにアドバンテージがあったのですね。

瀧島 :そうです。Q-PICは諸般の事情により鉛電池を採用してしまったことが寿命を縮める結果となり、心残りになりました。画質的にもまだまだ銀塩カメラに届きませんでしたが、低価格を実現できたことと、これまでのカメラと同様の手軽さでフルカラーの電子写真を得られるということで評価されたことを嬉しく思っています。

市川 :それにしても素晴らしいデザインのカメラですね。現在でも通用すると思います。

瀧島 :デザインしたのは入社2年目の社内のデザイナーでした。

市川 :これは社内デザインなのですか? 素晴らしいですね。

瀧島 :キヤノンはだいたい社内でデザインをやっています。

市川 :1980年代にこれほどのデザインを社内でまとめ上げる体制が整っていた、ということは大変な驚きです。

瀧島 :当時デザイン室のトップが安斎さんという方で、若手に任せて自由にやらせて口煩く言わない人でした。Q-PICのデザイン設計をお願いする時に、彼らに「自由に設計してみてくれ」とお願いしたら想像もしていなかったような凄いものができて、我々も驚きました。特に白いQ-PICは強烈でした。

キヤノンQ-PICのデザインは、今見ても斬新だ。
Q-PIC発表時のニュースリリース。市川さんが当時から保管していたもの。

市川 :今見てもオシャレですね。今日は実はシリアルナンバー00000001番のQ-PICを持ってきています。出どころは聞かないで下さい(笑)

瀧島 :僕と市川さんは誕生日が同じなので、その友好の証に贈らせて頂きました。

市川 :皆さん惑わされないで下さいね。これは日本カメラ博物館に寄贈して頂いたものですので(笑)。

瀧島 :こうしてカメラの電子化を成し遂げられたのは、多くの優秀な仲間の支えがあったからで、私の力だけでは不可能でした。一緒に協力してくれた仲間に心から感謝している次第です。

また、何年にもわたり、外部の方にも陰ながら大きくご指導とご協力をいただきました。お一人は東京工業大学の名誉教授である柳沢健先生、もう一人は元写真工業編集長の市川泰憲さんです。お二方には電気グループ一同、心から感謝致している次第です。

豊田慶記

1981年広島県生まれ。メカに興味があり内燃機関のエンジニアを目指していたが、植田正治・緑川洋一・メイプルソープの写真に感銘を受け写真家を志す。日本大学芸術学部写真学科卒業後スタジオマンを経てデジタル一眼レフ等の開発に携わり、その後フリーランスに。黒白写真が好き。