Photographer's File

 #13:所幸則

取材・撮影・文  HARUKI


所幸則(ところ ゆきのり)
プロフィール:1961年香川県高松市生まれ。大阪芸術大学写真学科卒業後、上京しフリーのフォトグラファーとして活動。1992年、世界写真見本市「フォトキナ」で「世界の新しい表現者」の日本代表として作品が選ばれる。その後、海外の雑誌に特集が組まれるなど国内外で活躍。2003年、ZOOM Internationalで表紙と巻頭特集を組まれる。2006年に美術出版社から出された集大成的作品集「CHIAROSCURO 天使に至る系譜」をもって、第一期 所幸則としてのキャリアをリセットすることを決意。2007年よりモノクロームによる東京の渋谷のランドスケープを中心に新しい第二期所幸則としての作家活動を始める。2008年に瞬間とは違った概念の時間軸を取り入れたOne Secondシリーズの制作を開始。2008年秋には個展「渋谷1 Second瞬間と永遠」を渋谷で開催。2009年5月にはEYEMAZINGで特集が組まれる。2009年9月「東京フォト2009」に出展。2010年、所幸則写真展「PARADOX」をGALLERY 21にて開催。2010年「東京フォト2010」にメイン作家として出展。2010年、上海のM50にて「上海1秒」を開催。2011年「東京フォト2011」に東京画参加作家として出展。2012年、日中友好交流展「個園 - 中日現代美術交流展」(杭州)に草間彌生、荒木経惟とともに参加。2012年5月Niiyama's Gallery and sales Salonにて初のヌード作品による個展開催。



 デジタルの創世記、独特のインパクトある表現方法の写真で一世を風靡したTOKOROこと、所幸則氏。実はご近所さんでもあるのでお互いの家を行き来し、いつもはワインなど飲みながら深夜まで話し込んだりすることが多いのだが、今回は比較的素面? でのロングインタビューとなった。写真界の藤田嗣治ともいえる一度見たら忘れられない風貌。そして一見シニカルにさえ映る彼のメガネの奥にいる、もう一人の所幸則にも語ってもらった。



カメラ小僧TOKORO

「四国、香川県の高松市という田舎町なんだけど、生まれ育った場所がそこのど真ん中で瓦町っていって遊技場や商店が建ち並ぶエリアだったのね。家の横には写真館、裏にはカメラ屋さん、目の前にはキディランドじゃないけど7階建てくらいの男の子向けのオモチャ屋ビルみたいなのがあって、そういったお店をしょっちゅう覗いてたのね」

 それって銀座をものすご〜く小さくしたみたいなエリアなのかなあ?

「うーん、どちらかっていうと新宿ですかね。だってうちの家の2階から屋根伝いに、ビリヤード場とかに行けたから幼稚園くらいから半ズボン穿いてビリヤードやってたから(笑)」

「で、1960年代の終わり頃、小学生3年生くらいに、絞りもシャッタースピードも固定で、フィルムはブローニーをカットして1枚だけ入れて撮るっていうオモチャのカメラを売ってたのよ。確か250円だったか350円だったと思うんだけど、それを買って近所のミユキちゃんを撮ってましたね。毎日みたいにミユキちゃんを撮っては写真館へ持っていってはタダで現像してもらい、代わりに余ったフィルムまで詰めてもらってたんだけど、そのうち面倒くさくなり、お父さんにちゃんとしたフィルムを入れて使うカメラを買ってもらったのがリコーのオートハーフ。カタログとか見てたら36枚撮りフィルムで2倍の72枚撮影出来るってのが決めた最大の理由。なんせ小学校3年生のお小遣いだからね(笑)」

「オートハーフってゼンマイ式のモータードライブもどきだったからガシャガシャ撮って遊んでましたね。それから中学になって、一眼レフを買ってもらうんだけど、アサヒペンタックスと同じねじ込み式レンズマウントだったヤシカのエレクトロXってのがブラックボディで格好良くて安かったので。しかも当時の最先端で電子式の露出計とか付いてて、そのカメラで運動会とか臨海学校とかの行事を撮る係みたいになって撮ってたけど、実際には使いにくかったね(笑)」

「その次にオリンパスのOM-1、そしてOM-2になってった。中学生、高校生の頃は喫茶店にいる年上のお姉さんとかに声をかけて写真撮らせてもらってた。高松じゅうの学校の生徒を撮ってたんじゃないかなあ」

ソレって体の良いナンパ目的とかってわけじゃないの?

「いや、最初は純粋に写真のモデルとして頼んでただけで、そのうち向こうから……oВ*ツ三ムxёノ▽ニ……」

まあ、いいや(笑)。

で、高校生の時はやっぱり写真部とかだったの?

「本当はテニス部に入りたかったんだけど学校にコートが1面しかなくって、3年生まで球拾いだって云われて諦めて“テーブルテニス”って云うくらいだから卓球部に入ったんだけど、家にも卓球台あったからやめて写真部に入った(笑) 写真部に入ったら皆がニコンとかの時代だから、今度はオリンパスじゃ物足りなくなり売って、発売されたばかりのコンタックスRTSを2台モータードライブ付けて、レンズも85mm、35mm、標準のF1.4に、バリオゾナー40-80mmっていうズームレンズを買ったね」

 当時、しかも高校生にとってはものすごい金額じゃないの? よく買えたねー。

「私立の進学校だから医者や弁護士、地元企業の息子とか金持ちばかりで、うちも商売やってたしね。だけどそれは親にはいえず、パチンコで稼いだお金で買ったんだ。パチプロの息子が友人にいて、“ココを狙えって”出そうな台の釘を教えてくれてたお陰です。親には内緒でカメラ以外にもバイクを買って隠してたから、ローンを払うために朝一でパチンコして稼いでから、昼前には学校へ行くって生活(笑)」

(c)所幸則(c)所幸則
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所幸則は今も変わりゆく渋谷の街を撮っている。この日は渋谷東急百貨店の御厚意で、デパートの屋上から渋谷の街並みを撮るという珍しい機会だったので、現場同行でお邪魔させてもらった。近所に住んでいるのでウチの近くの大きな建物までクッキリと見える。この日の所氏のカメラ機材はシグマDP1とソニーα900。どちらもNDフィルターをレンズに装着。

この現場取材の日は春本番まで少し時間がある3月中旬の風の強い日だったので、屋上はすさまじい強風で、恥ずかしながら高所恐怖症のボクは手すりから手を離せないくらいだった。しかし晴れて風が吹いてるので、渋谷はもちろん遠くまで見渡せる東京は圧巻だった。目の前にはオープン間近の新しい渋谷のランドマークタワー、渋谷ヒカリエがそびえ立つ。※現在はオープンしています。

スクランブル交差点も宮増坂交差点もバスロータリーも上から見ると、人や車がおもちゃのように蠢いているのが不思議だった。最後は東急百貨店の屋上遊園地でお約束の記念写真(笑)

学生TOKORO

 大学は大阪の学校だったよね。田舎で商売やってる家の息子、特に一人っ子が出て行くのには反対されなかったの?

「お父さんは理容と美容の店を経営してて母親も働いていたけど倹約家だったので不動産とかもあり、一人っ子だったけど家を継ぐという必要もなく親が自分で職業を選べなかったのもあって、僕には自由にしていいよって感じで。高校までは国立の理系コースとかのクラスだったんだけど、当時の写真少年にありがちな篠山紀信さんが百恵ちゃんとかの写真を撮ってるのを見てて“オレだってああいう写真を撮ってやる!” みたいなことで写真家になりたいって決めて。写真をやるんだったら首都の東京だって思ってたけど、いきなり東京っていう大都会へ行くのにはちょっと勇気がなくって(笑)、大阪には親戚もいるし、言葉のアクセントも近いので大阪芸大の写真学科に行かせてもらった。学校があるのも田舎だしね」

大阪の学校へ行ってからは、具体的にどんな活動をやっていたんですか?

「何のために大学へ入ったかっていうと、カメラマンになるための手段を知らないから情報が欲しかったってのもあるよね。だけど最初、とくに1年2年の頃って、前から写真をやってた人間からすると、カメラの仕組みとか現像やプリントとか、知ってることばっかりでつまらないじゃない感じで過ごしてた」

「3年になってやる気になったのは、東京でバリバリ仕事してるアートディレクターの高岡一弥さんのゼミに通ったことかな。それは当時の先生の奥様が大好きな写真家だったので選んだ。8人くらいのゼミだったんだけど、そこではかなり実践的なゼミでどういう写真を撮るか絵コンテを描いて先生に見せて語り合ったりもしたね。僕が中心になって仲間を集めて1冊の本を印刷まで仕上げてそれを東京の書店で売ってもらったり、いろんな人の反応を見てみたいから。東京で活躍してる一流のカメラマンとかコピーライター、デザイナーを紹介してもらったり、雑誌社とかにも電話して会いに行って作品を見てもらったりとかしてたね」

「コマフォト(玄光社のコマーシャル・フォト)にも行ったけど“大阪人らしいパワフルな根性が……みたいな酷い云われかたをして、当時は“二度と行くか!”ってね、その後でコマフォトとは仕事の付き合いが始まるんだけどね(笑)」


渋谷にある所氏の自宅兼事務所スタジオにて。アドビ システムズの近藤祐爾さんが今日のモデル。近藤さんは「1second」のパソコン上での表現手法を所氏にアドバイスをしながら一緒に探り出した人だ。新しくスタートさせたポートレートシリーズで、第二期の1secondシリーズで所氏がお世話になった人、関係者の人たちのポートレートをその手法で撮っていくというもの。

この日のモデルは太田菜穂子さん。ウサギのぬいぐるみの影を組み合わせているのは、太田さんのイメージだと所氏はいう。太田さんはクレー・インクという会社の代表で、ギャラリー21の運営や「東京画」など写真表現プロジェクトの企画やディレクション、コーディネートなどをなさっている。いつ会っても隙のない着こなしでオシャレな方だ。そしてこの日も所くんの悩みに向けての適切なアドバイスが飛び交っていた。彼にとって大事な良き理解者のひとりだ。

現在のメインカメラはシグマのSD1、DP1、DP2シリーズ、そしてソニーα900など。いずれもたいていの場合は低感度・スローシャッターで撮ることが多いために、NDフィルターは必需品だハッセルブラッドやニコンなどかつての機材の一部が思い出として残っているが、すっかりホコリまみれだ

渋谷に近い自宅兼事務所の1Fは所氏の制作のスペースだ。Mac環境をメインにエプソンのA2プリンター、PX-5002やその他のデジタル機器で埋め尽くされ、電源が入りっぱなしなので、熱がこもらないように窓のカーテンはいつも閉まっている

第1期TOKORO

 その頃東京で出会った人たちからのアドバイスもあって、卒業してすぐに上京して小さなカット撮影の仕事からスタートしたが、最初から順調に食べられたわけではないらしい。

「最初に住んだのは渋谷区富ヶ谷の14畳の部屋で家賃は10万円くらいだった。風呂ナシ共同トイレの4万円くらいのアパートという選択肢もあるんだけど、そこに住んで僕が撮りたい写真の世界観ってのは、気持ち悪いっていうか違和感があると思うんで無理して少し背伸びして借りた部屋だった。洋服の会社の展示会の商品撮影などやってたね。1日拘束1万5,000円、カット数関係なしみたいなので食いつないでいたけどイヤだったなー(笑)」

「そんな時に知り合いのADから雑誌ペントハウスのヌードグラビアをやらないかって話しが来たんだけど、スタジオマンやった経験がないからスタジオ撮影のライティングとか知識まったく無いじゃない。一応やってはみたものの、仕上がり全然良くないんだ。このモデル色っぽくないしとか自分で言い聞かせるんだけど、やっぱ自分の責任で。結局3カ月くらい仕事ほされてしまう(笑)」

「その後、復帰してからは特集記事のトビラ用の撮影が増えて、そのうちフリーペーパーの表紙とかで “所さんのアイディアで好きなことやって”みたいなモデルからメイクまで全部任されるような仕事が入ってきて、学生援護会から発刊されたばかりの情報誌サリダの表紙を受け持ったり、それを見た流行通信からファッションの仕事が来たりどんどん仕事が増えてきて、家には帰れない生活が続いていった。サリダの表紙を見ての別の仕事の依頼が一気に増えて“所バブル”がはじまったのかな(笑)」


作品制作の技法〜アナログ時代

「カメラはトヨビューとホースマンの4×5、5×7、8×10のビューカメラ。そこにポジフィルムを詰めて。レンズはフジノン210mmと240mmで210を使うことが一番多かったかなあ。8×10だと240だけど、ちょっとワイド寄りですね」

「通常よりも濃いめのメイクで仕上げてもらったモデルを、露出オーバー気味(+2段くらい)で撮影した現像済み写真のポジフィルムがあって、カメラの向こう側にB全くらいの白い紙を吊って、そこに背景や肌を着色というかエアーブラシで噴いていき、カメラのスクリーンを覗きながら配置とか吹き付け具合をチェックするんだけど、ズレてたり思うようにいかないとやり直しをしながら仕上げていき複写をするわけです。その時にゼラチンフィルターの色味や種類を変えて6カットくらい撮影し、現像の上がりを見ながらクライアントと最終的に使用カットを絞り込みます」

「仕上がり1カットにつきそのくらいだから、ポラは4×5を上下に露出変えて2段階で撮って3箱、シートフィルムも露出違いやフィルター違いで40〜50枚を現像に出すしで、経費はすごくたくさん掛かってるんだけど広告じゃないからクライアントは悲鳴をあげてましたね。雑誌だから、僕のギャラよりも経費のほうが高かったりっていうのは多々あったよね(笑)」

 つーと、要約しますと、当時の“ファンタジック所な写真”というのは、白バックのスタジオでモデル撮影したものと、エアーブラシで描き込んだ背景用紙を事務所で同時に“カメラオブスキュラ”のように複写していって、しかもその時にゼラチンフィルターと露出をアレコレ変えて、仕上がった中からベストな1枚を選ぶという面倒な作業だったわけで正解?

「そう、そのとおり!」

あー、面倒くせ〜ボクには無理。絶対に無理(笑)


デジタルへ移行

「80年代後半くらいには、各社のパソコンを持ってて使っていたのね、その頃はゲームばかりやってたんだけど(笑) パソコン自体の操作には慣れてたから今のようにソフトがあってという使い方じゃなくプログラム作るみたいに打ち込んでいくんだけど、違和感なくデジタルでの試験的なことをはじめたんだ」

「作品用に巨大な真鍮製の十字架を美術さんに発注することもできたんだけど、見積もりを出すと270万円、移動させるにはクレーンが必要とかいわれて断念。そこで3Dで作ったものを8×10でポジ出力させて、撮影済みのモデル写真を組み合わせて複写するみたいなことをやってみてた時期があるけど、出力するだけでも10万円くらいかかるし、時間も掛かるので、納期に余裕があるような仕事でしか対応出来なかった」

「そういった試行錯誤を繰り返しているうちに、ソフトでは初期のPhotoshopがようやく使い物になりそうかなあって時期で、マシンの方もPC-98にプロセッサーを付けてスピードアップして3D計算させたりとか、ボードを挿せばフルカラーでMacより速かったのでMS-DOSの時代。やがてMacもフルカラーになり進化してきたんで、そろそろデジタルだけでやってみようかってことで、カレンダーとかの仕事からはじめてみたんだ。それが“オールデジタル化“のスタートかなあ」

「カメラは未だ使えるものが無かったので、印刷用のスキャナーで読み込んでましたが。MacのマシンはMacintosh II Fxという機種で、このマシンが当時は最高速なんだけど、バーチャル記憶とかにMOを使うんだけど、コレが遅い。1つの作業が3時間とか掛かるので、MOマシンの上に足を乗せて読書したり仮眠したり、で音が変わったら起きて次の作業みたいなことやってたから、デジタル導入しても結局家には帰れない生活が相変わらず続いてましたね。こりゃヤベーって(笑) だから時間の使い道を変えなきゃってことで、パソコンで何か作業する度に食事したり映画を見に出掛けてましたよ(笑)」

 今考えると気の遠くなるくらいの時間がかかる“オールデジタル化”なんだけども、それでも当時としては画期的な、いや革命的ともいえる手法だったわけですが、撮影に使うカメラの方は相変わらずの5×7や8×10のビューカメラだったんでしょ?

「スキャナーの性能がどんどん進化していって、5×7だったのが4×5メインになり、暫くしたらブローニーサイズでも大丈夫なくらいに対応してきたんで6×6のハッセルやフジGX680とかでポジ撮影して、1枚1万円で印刷屋さんと契約してて1カットを1万〜1万4,000ピクセルでスキャニングしてもらって使ってました。Photoshopも最初の頃はレイヤーが無くって、やり直し機能のUNDOもせいぜい1回しか使えなくって、ミスをしたら最初から全部やり直しという……そうなったら、まさにちゃぶ台をひっくり返したくなるよね(笑)」


“眠ル繭”を作り“不眠症”になる

「ファンタジーっぽい写真を撮ってたことから、ゲームデザイナー以外の人間にテレビゲームを作らせるというというゲーム雑誌の企画で、取材を受けて帰り、その気になって3日程で企画書を書き2,000枚以上の仕様書を用意してゲーム作りを実際にやることになって、「眠ル繭」というタイトルのPSゲームソフトをリリースすることになったのね。ところがゲームの企画に頭を使ったり数十人のスタッフをコントロールするっていうことが僕にはむいてなくて、ついには不眠症になって、しかもゲームを作ったせいで、自分が好きなゲームをする時間がなくなって、いったい何のためにやってるんだろう? って本末転倒だよね(笑)」

「雑誌FOCUSの表紙は、それまで担当してた美術作家の三尾公三さんが急逝されて、新潮社から電話がかかってきて、好きにやっていいよってことで引き受けたんだけど、本当はある程度テーマが決まっててその中で自由に作って行く方がやりやすいかな。最初は4枚作ってスタートしたんだけど、あっと言う間に時間が過ぎて手持ちのストックがなくなり、毎週毎週の入稿だから、漫画家の先生みたいに担当編集者がついてっていうのが、雑誌の廃刊まで9カ月間続いた。結果としては毎週アイディアの発想をするという試練の積み重ねが、自分のためになったし作品も溜まったし良かったと思うね」

「ちょうどその頃はカレンダーの仕事が多くて、おそらく日本で一番くらいにカレンダー用の写真を制作してたんじゃないかなあ?」

「ボブ・サップとかあたりはギリギリで8×10とハッセルを併用なんだけど、その直後にEOS-1Dsとかが出て35のデジタル一眼レフが使えるようになったね。その辺までが第1期かなー」


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第2期TOKORO

 2007年以降の活動は主に渋谷をモノクロで捉えた「1second」のシリーズに例えられると思うけど、発想の原点は「渋谷」なの? それとも「1秒」なの?

「僕自身では「渋谷」でスタートしたんだけど、後でいろんな人と話していると、1秒という時間軸に凝縮させたかったわけだから「1秒」なのかなあって。新宿や浅草、東京の下町を撮った優れた写真はいろいろあるんだけど、それまで渋谷を撮った写真で良いなあってものを見たことがなかったんだよね。渋谷って70年代80年代から西武や東急、パルコがあって若者文化の発信地だし、音楽では“渋谷系“なんて呼ばれたりするのに何故だか写真では残っていない。だったら自分が住んでる町ということもあるし、渋谷をカッコ良く表現したいと思った」

 モノクロ写真での展開というのは、どういう意味があるのでしょうか?

「ちょうどその頃、いろいろと気に障ることを云われたのね。“所さんの写真は極彩色ですよねえ〜?”とか。極彩色ってなんだよ! そんなに色をたくさん使ってるばかりじゃないぞ! って決めつけに対しての反感もあり、一度モノクロで風景を撮ってみようって」

「渋谷駅前のスクランブル交差点のTSUTAYA前でもたれて道行く人を眺めてたら、ダアアーって人が動くけど人が多すぎて誰が何処に動いたのかなんてわからないじゃない? その感覚を1枚の写真に表現しようと思ったんだ。それまでの僕の表現方法は“写真ぽくない写真”というイメージで、人物をカラーで撮ってきたんだけど、その真逆のモノクロで風景を撮ってみることにしたんだ」


2010年、所幸則写真展「PARADOX」GALLERY 21にて


「技法としてはシグマのDP1で3枚切りのオートブラケット機能を使って渋谷西武デパートの前で歩いてる人を撮ったらカッコ良くて1枚の作品になるかなって。HDRが流行り始めてたんだけど本来の目的じゃない不自然に目立つような写真が多いので、そうならないように見せる方法はないかとアドビにいる知り合いに相談したんだ。Photoshop自体は昔から使っているけど、限られた機能10個くらいしか使ってないから、実はPhotoshopそのものに詳しいわけじゃなくてね(笑) それで2日くらいかけて2人でいろんなやりかたを試しているうちに、レイヤーの重ね方などで、自分に合ったやり方が見つかった」

「昔からスローシャッターは好きだったんで、動いてる人や車はブラして撮ろうと。DP1は感度50があるので、昼間の太陽光でもNDフィルターを使うとさらに感度をグッと落とせる。で、HDR方式は避けて、黒い部分だけのレイヤーを重ねる、白い部分だけのレイヤーを重ねていくみたいに、表現したい部分や隠したい部分の濃度をレイヤーで処理することによって多重露光と同じ効果を出す。写真によって表現したい効果が違うからレイヤーが6つの場合もあれば10数個になる場合もあるんだけど、ルールとしては1秒間の間に撮ったカットしか使わない。別に撮ったモノとの組合せをしたらそれは写真じゃなくってコラージュになるからそれだけは避けて、あくまでも写真としての作品に仕上げるということです」

「その後ある雑誌の企画で上海に撮影に行ったのをきっかけに、1年で延べにして3カ月くらい滞在して撮りましたね。中国では北京や重慶も撮って。パリとかの写真は誰でも撮ってるし、自分の憧れも強すぎるから納得いく写真が撮れないんじゃないかという理由で自分では撮るつもりがまったく無かったんでずっと封印してたんだけど、パリフォトに出掛けた時に体調崩してやることがないんで、暇を持て余してホテルの窓から撮ってみたら良いのが撮れちゃって、もう解禁って感じで吹っ切れて(笑) そうなると今度は欲が出て、ニューヨークも撮りたくなりココも解禁、ハワイも解禁(笑)」




 渋谷とかの街中で撮影していて、トラブルとか困った事ってなかったのですか?

「最初の頃に怖かったのは、1secondのシリーズをやりはじめた時ってまだ慣れてなかったから、スローシャッターでブレないようにカメラを固定させるために電柱や壁にもたれて撮影することが多かったんだけど、渋谷のセンター街の突き当たりあたりで撮影してたら、客引きやってる身体の大きな黒人のグループに絡まれて“Youナニ トッテンダヨ!”って言うから“後ろにある店を撮ってるんだよ”って。“ウソツケ! カメラ、ミセロ”みたいに。それでカメラの画面を見せたんだけど、店しか写ってないように見えるから、“ホントダ”って。“デモ オマエ カメラ トリカタ マチガッテルゼ”ってカメラの構え方の指導を受けたよ。そこには実際には黒い影でブレてる彼らを撮ってたんだけどね(笑)」


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影響を受けたひとや、好きな写真家って誰なんでしょうか?

「大学生くらいからは、デボラ・ターバヴィル、サラ・ムーン、そして久留幸子さんですね。それまで目指してたポートレートの方向とは違う方向性だけど、ショッキングで強い写真だと思った。3人ともたまたま女性なんだけど、作品のアバンギャルドなところに刺激を受けましたね。その後に登場したニック・ナイトも好きだね。全部がいいとは思わないけど、デビューした時のままのチャレンジャブルなやりかたを貫いてるのは素晴らしいよね」

 なるほど。彼らに対しての意見はボクもまったく同感です。


Niiyama's Galleryにて。オーナー新山洋一さんとスタッフの相川淳子さんも加わって、意見交換しながら展示作品が絞られていく。最終的にどの作品が展示されたのかは、会場へ行ってみてのお楽しみだが10数点らしい。赤坂のビルの一室でこじんまりとしているので、目黒にあるコスモスギャラリーとはまた雰囲気が違って、ここもゆっくり話しながら作品を鑑賞出来るスペースだ。

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第3期TOKORO、そしてこれから

 まさにこれからはTOKOROの第3章ってことですね。

 今回の展覧会「所幸則写真展・1second - ほんとうにあったように思えてしまう事」について、所幸則本人からの言葉で締めくくってもらおう。

「実はこのヌード作品はまだまだ発表するシリーズではなかったのですが、 Facebookで一枚だけアップしているのをEyemazingの編集長 Susan.A.Zadeh が見かけて“このヌードシリーズはもっとあるんでしょう? 何枚あるの?”とメッセージを送ってきたところから急に発表しちゃおうか? と思い始めた シリーズです

「この作品はゆっくり気が向いた時に撮っていたもので、まだ当分発表する気はなかったNUDEシリーズでした。本当に気持ちが盛り上がって、撮りたくなった身近な相手を撮る。そういうペースなので、2008年から始めたにしてはまだ15〜16作品しかできていない。そんなシリーズがオランダのファインアートフォトマガジンEyemazingの 2012年3月21日発売号で特集が組まれることになり、それは日本以外の世界に発表することになったということなので、急遽日本でも発表することになったのですが、その頃、上海のキュレーター鳥本君からもオファーがあって中国でも発表となったわけです」

「日本では、“1second-ほんとうにあったように思えてしまう事” 所幸則写真展。曖昧な人の記憶、現実とは実は曖昧な物。確かにあったと思っている記憶も現実も【本当にあったように思えてしまう事】なのかもしれない。僕が現実に見て残したいと思って撮った美しいNUDEをEyemazingの編集長Susan. A. Zadehのセレクト中心に展示します。2012年5月10日〜6月9日、Niiyama's Gallery and sales Salon で開催することになりました」


 新しいTOKOROの序章となるこの展覧会は、小さな空間でゆっくりと時間をかけて鑑賞するには素晴らしい、隠れ家のようなスペースで開催される。今後のTOKOROの展開に期待しつつ見にいってみようと思う。


取材協力:株式会社東急百貨店、アドビ システムズ株式会社、サンディスク株式会社

今回の取材撮影使用機材

  • ペンタックス645D、FA 645 55mm F2.8、SMC Pentax 67 75mm F2.8 AL、
  • キヤノンEOS 7D、EF-S 10-22mm F3.5-4.5 USM、SIGMA 50mmF1.4 EX DG HSM 、SIGMA 85mmF1.4 EX DG HSM
  • ニコンD7000、AF-S DX NIKKOR 18-200mm F3.5-5.6 G ED VR、シグマ8-16mm F4.5-5.6 DC HSM
  • オリンパスE-P2、E-P3、M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6ⅡR、M.ZUIKO DIGITAL 40-150mm F4-5.6
  • パナソニックLUMIX G VARIO HD 7-14mm F4 ASPH、LUMIX G 20mm F1.7 ASPH
  • サンディスクExtreme Pro SDHC、Extreme Pro CF


(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
http://www.facebook.com/HARUKIphoto
http://twitter.com/HARUKIxxxPhoto

2012/5/11 00:00