生誕120年 野島康三 肖像の核心展
日本で写真表現が行なわれ始めた黎明期に、重要な活動をした写真家の一人が野島康三(1889~1964)だ。日本で初めて量産された「チェリー手提暗函」の発売が1903(明治36)年であり、野島はその3年後、慶應義塾大学のパレットクラブ写真部に入り、写真を始めている。
チェリー手提暗函は名刺判の乾板を使ったカメラであり、その後まもなく、フィルムの時代へと変わる。ロールフィルムを採用した「ベストポケット・コダック」が日本に輸入されたのが1913(大正2)年だ。その技術革新が写真表現に与えた影響の大きさは、現在と比べても遜色ないようにも思える。
本展では明治から昭和にかけて、野島康三という写真家が取り組んだ写真表現の成果を振り返る。展示作品約150点は、作者の手による貴重なヴィンテージプリントだ。この展示の企画、構成を担当した松涛美術館の学芸員、光田由里さんに話を聞いた。
「肖像の核心展」は松涛美術館で開催中。会期は2009年9月29日~11月15日。休館日は月曜(祝日の場合は翌日)、祝日の翌日。入場料は一般300円、小中学生100円。開館時間は10時~18時(金曜は~19時。入館は閉館30分前まで)。所在地は東京都渋谷区松濤2-14-14、問合せ先は03-3465-9421。
10月18日には京都大学大学院教授・岡田温司氏を招き講演会「肖像のエニグマ 絵画と写真のまなざし」を開くほか、11月6日には担当学芸員が展示の解説を行なうギャラリートークを行なう。時間はいずれも14時から。また会場では初の本格的作品集となる「野島康三写真集」(赤々舎刊、4,410円)を発売中。
ゴム印画では水彩用の紙などを使用している。その表現を微細に味わおう | 書簡など資料も展示。宮本憲吉などとの交流もあったようだ |
資料の中には木村伊兵衛、中山岩太らと刊行した「光画」も含まれる | 風景、静物、肖像などモチーフと制作技法別に展示 |
■写真表現の黎明期に活躍
写真が趣味として楽しまれるようになったのは、明治20年代以降。制作に手間のかかる湿板から、乾板写真が開発され、カメラが小型、軽量化し始めたからだ。
「写真のプロは営業写真館だけで、それ以外の職業はありませんでした。その頃の人も写真館で仕事をしながら、プライベートで作品を作り、発表するようになっていったのです」と光田さんは説明する。
芸術写真を志向する写真家団体の中で、最も活発な活動を行なっていたのが東京写真研究会と浪華写真倶楽部だ。東京写真研究会の創立は1907年で、その2年後に野島は入会し、そこで頭角を現していく。
「当然、芸術写真が売買されるなどという発想はない時代。仲間の中で、自分の新しい表現を発表することだけが目標なので、どうしても閉じたサークルになりやすい。たくさん写真家はいましたが、優れた作家ばかりではなかったのです」
「題不詳(さざえ)」 1938-39年 300×254mm |
■目指したのは現実を超えたイメージ
その中でも傑出した一人が野島康三だったと、光田さんは強調する。
「同時代の海外の写真作品と比べても、日本人作家のレベルは高かった。というのも、日本の写真家たちは海外の写真雑誌が行なっていた誌上コンテストに盛んに応募していて、かなりの数が入選していました」
写真材料や新しい写真の情報は海外から手に入れるしかなく、イギリスやアメリカ、フランスの写真雑誌や技術書を購読し、研究していたのだ。
「国内の写真雑誌は、写真材料商がスポンサーとなり発行していました。その記事の多くは、海外の記事の翻訳だったり、自分で研究した現像法やプリント術の成果だったのです」
野島をはじめ、芸術写真を志す写真家たちが取り組んでいたのは、ゴム印画やブロムオイル法といった手法だ。簡便なゼラチンシルバープリントもあったなかで、手間のかかるこの方法を敢えて選び、自らの表現を模索していたのだ。
ゴム印画の場合、感光液を塗布した紙に、ネガを密着して焼き付けては現像を繰り返して制作していく。その作業の中で、自分の目指す画像イメージを作り上げていくのだ。
「現実をそのまま再現しようとは考えておらず、写した像に手を入れて、自分にとっての現実を表現にすることを目指していました。ゴム印画は現像を繰り返すので、硬い表現になりますが、野島の作品はとても鮮明に仕上がっているのが特長です」
「Y君肖像」 1920年 ゴム印画 227×218mm 第11回東京写真研究会展出品「写真月報」1921年8月号 |
■社会と芸術は不可分の関係にある
「野島は一貫して芸術至上主義でした。写真で芸術をやるとはどういうことか、常に考えていて、明治、大正、昭和と時代が変わることで、その表現は変わっています」と光田さんは指摘する。
野島の交流は写真界だけでなく、中川一政、岸田劉生、梅原龍三郎、柳宗悦といった新進の芸術家たちなどにも広がっている。
「芸術は社会と強く結びついていて、人間、人生を豊かにする原動力の一つに芸術があるという信念があったようです」
大正時代において、多くの写真家のモチーフは風景だったが、野島は肖像写真を多く手がけた。
「風景は作者の心象を託しやすい。が、野島の写真はそうしたスタイルではありませんでした」
彼が重視していた要素の一つは美だ。野島が木村伊兵衛、中山岩太とともに創刊した雑誌「光画」には、「思ふこと」というタイトルでほんの短い文章を寄せているが、そこには繰り返し、美を捉える重要性を書き記している。
また1933(昭和8)年、東京銀座の紀伊國屋ギャラリーで開いた個展「女の顔」について書いた一文では、表情は実によく変化し、その面白みをつかむことは絵ではできないと指摘し、「この点、写真は便利で、またそこに写真のありがたい特長がある」と断じている。
「女の顔」 1933年 552×412mm 個展出品作 「写真月報」1933年10月号 |
■肖像写真の描き方の変化
ゴム印画で制作していた初期の頃は、人をモニュメントのように捉え、「人の中に、確固たるものが存在している感じを受ける。昭和初期に取り組んだ静物も同様の感興を起こさせます」と光田さん。
その後の肖像写真は、動きが生まれ、1点で見せる写真から連作で見せる表現へと変わっていく。被写体となったモデルたちは、野島の友人など身近な人たちがほとんどらしいが、数多く撮影されている「モデルF」はどんな人か、情報が残っていない。
「野島が見つけ、強く依頼して何年か通ってもらっていたようです。実物は写真とはまったく違い、おとなしい人だった話もありますが、会った人はいないので今となっては分かりませんね」
野島作品の特長を示すエピソードの一つだ。
■作品には時代に向けたメッセージがある
1930(昭和5)年頃、日本は写真の変革期を迎えた。それまでの絵画主義的な写真表現から、より自由な写真表現を志向する『新興写真』という流れで、それを実現するために野島が取り組んだのが、1932(昭和7)年に創刊した「光画」だ。
「木村伊兵衛は下町のスナップを得意とし、中山岩太は高度な暗室テクニックで幻想的な世界を作り出す。この2人を両脇に置き、自身は真ん中を行こうとした。それが光画に込めた彼のメッセージだと思います」
1940(昭和15)年ころからの野島の写真には、中山の影響が見られる「写真上にしかありえないフェイクの光」が写った作品を多く制作している。
「戦争に向かう時代、そんな耽美的な表現は非国民とそしられた。その頃、珍しく野島が反論をアサヒカメラに書いたのです」
今、役に立つような写真という言い方で良い悪いを言っているが、本当に役に立つのはどういうことか考えるべきだ、と。
20世紀の初め、新しい技術を貪欲に消化し、自らの表現を生み出そうとする写真家たちがいた。そして21世紀を迎え、その作品と彼が込めたメッセージを、真摯に受け止めなければいけない時代になってしまったようだ。
「ぎんれい花」 1939年 361×304mm 「アサヒカメラ」1939年3月号 |
2009/10/16 00:00