薄井一議写真展「昭和88年」
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昭和88年と言われると、それは未来のようでもあり、レトロ感も漂う。ただ冷静に計算すると昭和は64年までなので、ほぼ現代を指す年号だ。
「昭和が今まで続いていたとしたら、今がどう見えるのか。そういう目線で撮ったものです」と薄井さんは話す。そのイメージは、現実を写しながら、どこか虚構性が漂う。
精緻さとシンプルな表現が同居し、どぎついまでのカラフルさと、しっとりした色合いが共存する。作者が描き出した光景は、見る人それぞれの中で写真的な感興を及ぼし始める。
作者によるトークセッションを12月18日の15時~16時30分に開く。ゲストは東京工芸大学の吉野弘章教授。予約不要。
また写真集「昭和88年」(ZEN FOTO GALLERY刊)も発売中。
- 名称:薄井一議写真展「昭和88年」
- 会場:禅フォトギャラリー
- 住所:東京都港区六本木6-6-9 ピラミデビル208
- 会期:2011年12月9日~2011年12月22日
- 時間:12時~19時(日曜は17時まで)
- 休館:月曜、火曜、祝日
薄井一議さん。父はファッションやポートレートで活躍するカメラマンの薄井大還さん | プリントのイメージは、イエローとマゼンタがかった退色した昔の写真だ |
■写真の良いところを使う
このシリーズの元は薄井さんが2001年ごろに撮影した「ボレットボーイ」(Bullet Boy)という作品だ。鉄砲玉のヤクザが刺されて死ぬ時、脳裏にどんな光景を思い浮かべるのか。それを想像したフォトストーリーを組んだ。
「東映ヤクザ映画の雰囲気が好きだったので、それをどうファッション的に落し込めるか試みたものです。撮っていて面白かったのですが、やるうちに『これは映画でやる内容だな』って気づいた。写真の良いところを使っていないなって」
一つ一つの写真が明確に物語を伝えてしまい、見る人に想像する余地を与えていなかった。ホームページで20点の作品として形にはしたが、わだかまりが残った。
「その『間』を作るカットが必要だと思い、3年ほど前からスナップで街を撮り始めました」
任侠は昭和の文化の一つであり、架空の時空を設定して素材を探す視点がアイディアとして浮かんだ。それが昭和88年だ。人間の生の形が濃密に感じられる場所に出会うと、シャッターを切った。
「僕自身、大阪は好きな街で、飛田新地や京都の五条楽園は何度か通いました」
カメラはペンタックス67。元遊郭の街は、人を撮らなくても、街中でカメラを出すことは憚られる。特に中判カメラになればなおさらだ。
「グリップを握ったまま、巾着袋でカメラをすっぽりと包みました。いざとなったら武器にもなるかなと期待もしたりしてね(笑)」
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■仕事と作品制作の良い関係
薄井さんは高校まで、映画の道に進みたいと考えていた。ファッションカメラマンだった父は映画好きでもあり、幼い頃から父と一緒に映画を見ていたからだ。
「高校時代、父の本棚にあった細江英公写真集『男と女』を手に取った。いけないものを見てしまった感じとともに、凄い衝撃を受け、写真に興味を持ちました」
写真をやっておけば後々映画もできるとの父親の言葉に後押しされ、東京工芸大学の写真学科に進み、卒業後はカメラマンとして博報堂(現在は博報堂プロダクツ)に入社した。
広告写真は制約が多い仕事だと思われがちだが、薄井さんは「結構自由度が高いですよ」と話す。自分で作る作品が無からすべてを創造するクラシック音楽だとすれば、広告写真は映画音楽だとたとえる。
「ストーリーに合わせてサウンドを作る。だけど60年代のイタリア映画なんか、映画自体はあまり見られなくなったけど、サントラはいまだに聞き継がれている。それっていいですよね」
広告は商品なり、打ち出したい企業イメージがある。カメラマンはクライアント、ADが何を意図しているかを読み解く。
「そこからどうイマジネーションを膨らませ、どういうアウトプットをするかがカメラマンの腕の見せどころだと思います」
思い描くイメージは、薄井さんの映画や音楽の引き出しから取り出され、ADとの会話やプレゼンに使われる。
「最近、ジャーロ系(イタリアのZ級サスペンス映画のジャンル)の映画が気になっていて、独特のトーンがかっこいい。『良い悪趣味で作ろうよ』って投げてから、そうした映画の資料なんかを見せて、イメージを説明します」
だから仕事でのフラストレーションは、ほとんど感じない。仕事と作品が二つの軸としてあり、そこを行き来するやり方が自分に合っているという。
「ADに自分がプライベートで撮った作品を見せ、そこから仕事が振られることもありますから。仕事のプレゼンはフリーの人と競わされていますが、僕たちなんかは会社内でコミュニケーションできるという、シード権をもらっているようなところはありますね」
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■事実と虚構を同居させる
大学在学中から作品制作を始め、最初に作ったのは「マカロニキリシタン」という作品だ。撮りたかったのは東京の今だが、ストレートなドキュメンタリーでは面白くない。
キリストに扮した主人公を作り、彼とともに街をめぐるストーリーを設定した。撮影地は山手線の通勤ラッシュ、新宿西口地下街のホームレス、原宿のホコ天で踊るフィフティーズ系など、時代のトピック的な場所を選び、そこにキリストという虚構の要素を投げ込んだ。
「フィクションとノンフィクションの間に興味がある。そこを行き来する作品を撮りたい。それが写真の本質で、一番面白い部分だと思うからです」
日本では写真は真実を写すものというぬぐい難い大前提があるが、本来photographは「光が描いたもの」という意味だ。その先入観を逆手にとり、リアルと虚構を混ぜ込むことで、見る人により振幅を与える表現が生まれる。そう薄井さんは考えている。
■偶然を呼び込む
当初は光や構図、撮る順番など、きっちり計画を立てて撮影を行なってきたが、徐々に偶然性を重視するようになった。
「広告写真でも、ライティングとかどんどん凝っていくけど、何年かやると飽きる。どう引くか、シンプルだけど深い味のある表現を探るようになってきましたね」
経験を積めば写真はうまくなるけど、それは良い写真とイコールにはならない。
「ピントをずらしたり、わざとブラしたりすることじゃないし、一歩の引き方がセンスになってくる。多分、死ぬまでその自問自答を繰り返すんでしょうね」
その考え方が昭和88年には反映されている。現代の中に、昭和の日本というフィクション世界を探すのだが、まずは現場をじっくりと体験する。
「飛田新地にクリスマスから正月にかけて撮影に行ったんですが、毎回寄るショットバーでの会話が楽しい。裏の社会が垣間見えたように思えるんですが、まあ、店の人がどこまで本当のことを話しているのかはわかりませんけどね」
西成にある喫茶店には、トイレの中に『注射器を捨てないで下さい』と貼り紙がある。それは事実だ。そうした体験が写真家の神経を刺激し、新たな出会いを生み出す。
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■すべてが作品に反映される
薄井さんにとっては、もう一つ大きな出来事があった。ダライ・ラマの記録映像を撮影したことだ。ダライ・ラマ日本事務所からの依頼で、2007年から撮り始め、今は編集段階に入っている。
「一度、食事をする機会があり、その時、人間の幸せとは何ですかと聞いたら、『満足すること』と言われた。それって深いですよね」
ダライ・ラマの著作なども読み、仏教への興味もわいた。その後、東日本大震災が起きた。
「物質社会だけでは成り立たないことに、みんなが気付き始めた。ではどうやっていけばいいのか。神頼み的なところに来ているのですかね」
そうした体験から被災地の風景も取り入れ、作品を完成させるため、最後に撮影に行ったのは青森のイタコだ。
「あまり、我を張らず流されるのがいいと最近は思う。未知のものに出会った時、そこでどう発想するか。そうすることで頭の中にあるものを越えられるし、自分の新しい引き出しに気づく。ただそうは言っても、まだまだ計算する習性から抜け切れていませんけど」
昭和な光景は、一人ひとりに違う滴を落とすことだろう。
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2011/12/14 00:00