山岸伸の「写真のキモチ」

第87回:西田敏行さんは私の写真の師匠

今一度振り返る思い出

2025年2月18日(金)、増上寺にて故・西田敏行さんのお別れの会が行われ、山岸伸写真事務所が写真記録係として唯一会場に入り撮影した。また会場では山岸さんが撮影した写真が遺影として祭壇に飾られたほか、展示やスライドショーが流れた。西田さんはある意味自分の写真の師匠だと語る山岸さん。今一度思い出と共に振り返っていただきました。(聞き手・文:近井沙妃)

お別れの会を終えて

この連載で過去に何度か西田敏行さんの話をさせていただいた。今年2月18日(金)に行われたお別れの会で西田さんの写真を皆さんにお見せすると同時に、記録写真を撮影させていただいたということでもう一度話したいと思う。

お別れの会を終えた後日、私が最後に撮影したときに西田さんが着ていたスーツを形見分けでいただいた。私と西田さんは同級生でも同郷でもなく、友人でもない。ひとつの仕事で出会い、そして今回お別れをしたがカメラマンと被写体の関係をこれほど明確に、これほど思い出を多く残してくれた俳優さんは他にいない。

形見分けでいただいたスーツと

西田さんとの出会い

出会いは45年前、細かくは書かないが1枚のレコードジャケットを撮りに行ったことがきっかけ。テレビの撮影現場にお邪魔すれば絶対に待たされると今はわかる。当時はわからなかった。夏の小田原の小学校、朝から待ち続け撮影できたのは日が沈む1時間くらい前。無事にこちらの撮影を終えると西田さんが「待たせて悪かったね、飯でも行こう」と誘ってくれてご飯を食べに行きそのまま付き合いが始まった。

小田原の小学校にて

付き合うといってもあくまでも私は売れない年下のカメラマン。当時はタレントさんを撮る仕事が多く、西田さんのような売れっ子を撮ることはとても嬉しく心躍るような撮影の数々だった。ありとあらゆる仕事をさせていただき、個人的なお付き合いはしていないが仕事をした中で一緒にご飯を食べたりゴルフに行ったり海外ロケにたくさん連れて行っていただいた。

あまりにも多い思い出

今回はその中でも特に心に残っているロケの話をしたい。順番は狂うがまずは私が訪れたことのなかった北極圏。西田さんが主役の映画『植村直己物語』のロケに週刊プレイボーイのグラビアを撮るため同行した。何から何まで全てが初めて。当時はキヤノンを使用していて銀座にあるプロサービスに使用機材を持っていき、北極圏での撮影に耐えられるようにいろいろと工夫して撮影に向かった。直前にハワイで某生命保険会社のCM中のスチール撮影があったので常夏のハワイ用と北極用の機材を両方持ち、ハワイでアシスタントと別れてそのまま西田さんと北極圏のレゾリュートへ。

ワクワクドキドキ、こんな思いを撮影でしていいのかと思うぐらい当時北極圏に行くことは夢のようなことだった。今でも恐らく行くのは大変だと思う。滞在は約1週間、やはりハードな映画ロケの中に取材としてそばにいるとなかなか皆と馴染むのも大変。しかし主役の西田さんが「伸ちゃん伸ちゃん」と言って可愛がってくれるので皆さんもいつの間にかすごく優しく接してくれていた。

レゾリュートにて
(左)西田さん、レゾリュートにて(右)当時西田さんと同じく購入した赤いダウンを今も大切に持っている

このロケ用に西田さんと同じく赤いダウンを購入していった。40年経った今でも痛むことなく、冬の十勝帯広へばんえい競馬を撮りに行くときは必ず持っていく。ただ、真っ赤なダウンを競馬場で着るのは結構勇気がいるというか目立ちすぎるので朝調教では着るがレース中は着ないようにしている。一度このダウンを私の父親に貸したこともあった。
西田さんとの思い出が詰まった一着。西田さんはこのダウンのように温かい人だった。今年も着用し、また大切に持ち続ける。

2年前に撮影した際に当時の写真を持ち記念写真、そのままプレゼントさせていただいた

時代は変わり、これは私が当時使用していたキヤノンのカメラを西田さんが構えている1枚。西田さんは俳優の中でも写真のことに詳しい方だった。何故かというと主役を務めたドラマ『池中玄太80キロ』でカメラマンを演じたから。

アフリカ ケニアにて

テレビ番組でアフリカに行くときに西田さん係として同行した。まずはセーシェルという南の楽園に寄り、朝起きてホテル前のビーチに行くとトップレスの外国の方がたくさんいることに驚きバシバシ写真を撮った覚えがある。それからナイロビの空港に着いた瞬間スタッフの1人がパスポートを紛失してそこで足止め。ここから1週間のナイロビの旅。プロデューサー、西田さん、西田さんのマネージャーと私の4人でナイロビのクラブに飲みに行って皆が帰った後も朝まで西田さんとクラブで遊び惚け、ロケの待ち合わせに遅れてしまい皆からブーイング。当然主役の西田さんを怒る人はいないがお付きのカメラマンの私は皆さんの冷たい目線に1日耐えられなかった。

西田さんがキリンに向かって歩いている後姿。確か「おーい、おーい」ってキリンに話しかけていたような気がする。西田さんはどんなことにも怖がらず好奇心と強い気持ちでぶつかっていく。人間にも動物にも自分の思いを伝えるための行為を真っすぐする人。

声をかけながらキリンに向かう西田さん
アフリカにて

1981年、「もしもピアノが弾けたなら」という曲が大ヒットした。この時も私がジャケットから何までたくさん撮らせていただいた。当初は「もしもピアノが弾けたなら」ではなく「いい夢見ろよ」がA面だったが発売するとB面の「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットし、急遽A面とB面を逆にしたんだけど昔はこういうことがたくさんあった。このとき西田さんは喉の調子が悪く、スタジオの中ではなく窓越しから撮った写真。それがまたはっきりし過ぎずとても雰囲気よく写っているような気がする。

左が当初のジャケット、「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしA面とB面が逆になった

当時CBSソニーから歌を何曲か出されたがほとんどの撮影を担当し、レコーディング中や打ち合わせ、全て一緒についていき多くの作曲家や作詞家の方がスタジオに来て西田さんとお話ししているところなどもずっとそばから撮っていた。この人のそばにいると味わったことのない経験をたくさんできた。

西田さんが歌手としても活躍するようになり、コンサートなども撮るように。

西田さんの基盤は役者。劇団青年座に所属されていて、そこでの芝居や全国公演にもついて行った。映画もドラマも主役で入る。もちろんついて行った。広告写真もほとんど撮らせていただいた。加えて歌手としての活動の場も増えていき紅白歌合戦にもついて行った。その大きく変わる環境の中に私は全部同行し、1人の俳優さんであまりにも多くの仕事を見せていただいた。その量と幅広さは経験しないとわからないと思う。

たくさんの名優、たくさんの歌手の方たちの姿を見ることもできた。私の人生でこれほどたくさんの仕事場を見せてくれたのは西田さんだけだと思う。そこで得たものは私の絶対的な宝であり、それがあるから今の私がある。

私の30代前半は大げさに言うとそんなに美味しいものをたくさん食べてきたわけではない。西田さんは私に美味しいものをたくさん食べさせてくれた。「伸ちゃん、財布に金はあるよ。銀座に行こうか」と言われて銀座のクラブに行ったことがある。凄いものが飲めるのかなと思ったら西田さんはいきなり「だるま」と言い、だるまの愛称で親しまれるサントリーオールドというウィスキーをお願いした。その高級クラブには置いていなかったが西田さんが来たということでお酒を買いに行き皆で飲んだ。

1995年、銀座にあるコダックフォトサロンで写真展「西田敏行・劇団青年座」を開催するとたくさんの人に来ていただけて西田さんや諸先輩たちと1杯やりながら時間を過ごしたことも思い出の1つ。

写真展にて(上)私、故・長友健二さん、西田さん

最後の撮影、お別れの会

最後に先日行われたお別れの会。写真記録を私とアシスタントの近井、ヘルプを西尾豪くんに頼み3人で全て撮影させていただいた。私が西田さんに対してできる最後の撮影だ。

私のスタジオで撮影した写真が今回遺影として祭壇に飾られ、とてもいい遺影だと皆さんにお褒めいただきホッとしている。

お別れの会で遺影として使用された写真(2023年2月撮影)
私のライフワーク「KAO -日本の顔-」のために撮影し写真展で使用した1枚(2023年2月撮影)

撮影したのは2年前のバレンタイン翌日だった。西田さんに「バレンタインチョコは沢山いただきましたか?」と聞いたら「現場に行かないと貰うことないよ。あ、そういえば家に帰ったら(米倉)涼子ちゃんから届いていたよ」と嬉しそうに話していて、その時から米倉涼子さんの大ファンになった。お別れの会で米倉さんが弔辞を述べているとき、私はモニターの陰で彼女を撮影し西田さんに話しかけている姿をカメラに収めたが本当に西田さんのことを想っていることが伝わってきて私は目頭を押さえていた。

お別れの会にて、このようにモニターの陰で記録撮影をさせていただいた
弔辞を述べる米倉さん
献花に並ぶ皆さま

最後までこのようなご縁をいただき心から感謝している。今回皆さんにお話ししたかったことは人との出会いがどんなに大切かということ。ましてやポートレートを志す人はその出会いを大切にして欲しい。私はそうして毎日写真を撮っている。

西田さんは私の写真の師匠

常に笑顔で謙虚であること。人間としてもカメラマンとしても何が1番大切かを教わった。ある意味西田さんは私の写真の師匠だと思う。

最後に私のお気に入りの1枚。西田さんって、本当に渋くてかっこいい。この1枚は福島の海で撮ったもの。もう会うことは出きませんが私の想いはいつも同じ。西田さん、ありがとうございました。

(やまぎし しん) タレント、アイドル、俳優、女優などのポートレート撮影を中心に活躍。出版された写真集は400冊を超える。ここ10年ほどは、ばんえい競馬、賀茂別雷神社(上賀茂神社)、球体関節人形などにも撮影対象を広げる。企業人、政治家、スポーツ選手などを捉えた『瞬間の顔』シリーズでは、15年をかけて総撮影人数1,000人を達成。また、近年は台湾の龍山寺や台湾賓館などを継続的に撮影している。公益社団法人日本写真家協会会員、公益社団法人日本広告写真家協会会員。