コラム
いまに息づく歴史を求めて 国境の島・対馬を撮り歩く
大樹がそびえる原始の森 戦争遺跡の名残も
2019年3月15日 12:36
私が撮影を進めている作品テーマのひとつに、日本の各地で暮らす人々とその土地の関わり合いを地勢、歴史、建築物などの多方面から写真に収めていくというものがある。昨年は沖縄の南大東島・北大東島を訪れて絶海の離島特有の風景や人々の暮らしなどを撮影した。その様子の一部はこちらのレポートにてご覧いただける。
撮影の舞台は長崎県対馬
今回訪れたのは長崎県の「対馬」だ。対馬は九州本土の北西に約130km離れた位置にある島だ。島といっても面積は696平方kmと本州、北海道、九州、四国を除いた、日本の島のなかでは6番目に大きな島だ。東京都23区を合わせた面積(619平方km)よりも広い。
一方、朝鮮半島からは距離にして約50kmと日本本土よりも近い。国が定める離島振興法で指定された有人指定離島(人口3万901人、平成31年2月現在)となっている。
対馬へ赴くには長崎空港もしくは福岡空港から空路でおよそ40分、海路では博多港からフェリーで約5時間、高速船のジェットフォイルでも2時間少しかかる。
今回の旅ではいったん飛行機で福岡に入り、その後、博多港からフェリーに乗船して対馬に入った。対馬島内の移動と宿泊はレンタカーでの車中泊とした。車中泊は早朝から深夜まで撮影を行う私の撮影旅における基本スタイルである。全旅程でおよそ10日間の旅だ。
着替えや防寒装備、寝袋と荷物も多くなるため、撮影機材は高画質と軽量かつコンパクトさを両立するべく、すべてミラーレスカメラで揃えた。今回の撮影で使用した機材は以下の通り。これ以外に三脚2本、ドローン1機、充電のための電源装置などを携行している。
撮影機材リスト(カメラおよびレンズ)
【ボディ】
・オリンパス OM-D E-M1 Mark II 2台
・ソニー α6300、α6500
【レンズ(オリンパス)】
・M.ZUIKO DIGITAL ED 8mm F1.8 Fisheye PRO
・M.ZUIKO DIGITAL ED 7-14mm F2.8 PRO
・M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 IS PRO
・M.ZUIKO DIGITAL ED 75-300mm F4.8-6.7 II
【レンズ(シグマ)】
・16mm F1.4 DC DN Contemporary
・30mm F1.4 DC DN Contemporary
・56mm F1.4 DC DN Contemporary
島形成の歴史が生む独特の景観
対馬の地形は大小の島が寄りあつまるように構成されており、それにより海岸線は小さな入江が幾重にも連なる、リアス式海岸と呼ばれる独特な地形だ。島の大部分が山や丘陵といった高地で形成されており平地は少ない。そのため島の中を通る道路は狭く起伏が多い。
対馬のほぼ中央に位置する烏帽子岳展望台より望む浅茅湾(あそうわん)。リアス式海岸特有の入り組んだ入り江と点在する島々が印象的な風景を形作る。
小さな入り江はそのまま船溜まりとなっており小さな漁船や連絡線が停泊する。島民の多くが舟を所有しており、かつては集落間を行き来するためには舟を使わなければならない地域もあったという。波の穏やかな日は入り江の海面は水鏡のように輝く。
今回、私が対馬を訪れたのにはいくつかの理由が挙げられるが、そのひとつに対馬という島が地勢的にも独特な歴史をたどってきた島であり、その名残は現在の対馬においても多く見受けることができると聞いたからだ。
対馬は日本と朝鮮半島の中間に在る島であることから、古来より中国大陸・朝鮮半島から日本に流入する人や文化の表玄関としての役割を担ってきた島である。古の日本神話の伝承から始まり、3世紀頃に書かれたという中国の歴史書「魏志倭人伝」においても、すでに日本のなかの「国」の一つとして対馬国の記述があるとされている。
また鎌倉時代においては、いわゆる「蒙古襲来」として知られている元寇により二度の侵攻を受けており、当時の様子を伝える史跡はいまでも目にすることができる。これら歴史の教科書のうえでしか知らずにきたものが、対馬では現代においても間近に感じ取ることができるというのだ。ならばこの目で実際に見てみようと思い立ち、対馬を訪れた次第である。
このレポートではその際に撮影した作品からいくつかをみなさんにもご覧いただきたいと思う。
対馬に伝わる神々の伝承と信仰
対馬の地を周っていると実に多くの神社を目にする。古い伝承が伝わる古社から小さな社を祀るものまで様々だが、多くの神社に共通するのは社が海の近くにあるということである。平野が少なく農作物を十分に穫ることが難しかった対馬では、昔から漁業を中心とした生活が続いてきたことから、漁の安全を祈願する神社が多く鎮座なされたのであろう。
古墳に寄り添うように建つ漁港の小さな社 霹靂神社
上対馬町の舟志(しゅうし)湾の小さな漁港にひっそっりと鎮座する霹靂(へきれき)神社は、船から直接階段を上り参拝することもできる。鳥居をくぐるとすぐに拝殿が建ち、その裏手の小山を登った頂きに小さくも綺麗に整えられた本殿が祀られている。
本殿の建つ小山は朝日山と呼ばれ、本殿のすぐ裏手には古代の古墳の石室墓が数基残されている。まるで古墳を護るように社が建てられており、また綺麗に手入れが行われていることからも、地元の人々によりとても大切に祀られていることがうかがえる。なお、この古墳は朝日山古墳と呼ばれ出土した副葬品から5世紀後半のものとみられており、古墳文化中期の遺跡として学術上でも重要な遺跡とされている。
日本最古の銀山を見守る神社 銀山上神社
対馬には日本最古の銀山が存在する。日本書紀には天武天皇3年(西暦674年)の頃すでに銀が産出され天皇に献上されていたという記述もあり、ここで採れた銀は朝鮮や大陸との交易にも重用されたという。銀山はすでに閉山しているが、当時の銀山での作業の安全を祈願するために建立されたという「銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ)」が、今でも厳原町久根田舎(いづはらまちくねいなか)に祀られている。
この銀山上神社に祀られている祭神は「諸黒神(もろくろがみ)」という神様だが、通常、日本神道においては神社に祀られている祭神は有名な神社からの分霊を祀ることが一般的なので、同じ神様を祀っている神社が日本中に複数存在する。だが不思議なことに諸黒神を祀っている神社はこの銀山上神社以外は存在しないそうだ。このことから、おそらく諸黒神は朝鮮から渡ってきた鉱山技術者が対馬に持ち込んだ神なのではないかと言われている。
また、寿永4年(1185年)に壇ノ浦の源平の戦いにおいて、数え年8つの幼子にして入水したとされる安徳天皇も、何故かこの銀山上神社に祀られている。実は対馬のこの地方には、壇ノ浦から密かに生き延びた安徳天皇が、後に対馬へと渡り生涯を全うしたという言い伝えが残っているのだ。さらに安徳天皇の子孫が、対馬を島主として治めた宗家の祖となったとも言い伝えられている。それによりこの銀山上神社には、この地に暮らす人々の思いを受け、安徳天皇を神として祀っているそうだ。なおここの近隣には宮内庁指定の安徳天皇御陵墓参考地が実存しており、対馬における歴史ミステリーの一翼を担っている。
日本神話に伝わる海神の宮 和多都美神社
対馬の中心部に広がる浅茅湾に面した位置に鎮座する「和多都美神社(わだつみじんじゃ)」は、古くから朝廷に認められた神社として平安時代に編纂された「延喜式」神名帳にも記されている格式の高い神社である。日本の神話にも登場する海神 豊玉彦尊がこの地に宮殿を作ったのが、和多都美神社の起源とされる伝承が残っており、これが有名な竜宮伝説の基となったとも言われている。本殿へと続く参道は目の前の海へと繋がり、潮が満ちると鳥居は海中へと沈み神秘的な光景を目にすることができる。
和多都美神社は対馬のなかでも特に大きな神社であり、日中は外国からの観光客も多く賑わう。しかし日没から深夜、早朝に至る間は訪れる者もなくなる。神域において星空の下ひとり撮影を行っていると、いつしか厳かな気に包まれるような感覚に見舞われるのである。
海峡を見据える小さな社 曽根崎神社
上対馬町五根緒(ごにょう)の海岸 塔ノ鼻に鎮座する「曽根崎神社」は、対馬海峡に対峙するかのように海岸の岩場に本殿と鳥居がぽつんと建つ。以前は別の場所にあったものを明治期に集落ごとこの地に移したという経緯があるそうだが、なぜこのような寂しい岩の上に移設したのであろうか。さらにこの塔ノ鼻への道は非常に細く案内も一切設けられていないため、辿り着くのはなかなか難しい場所である。
この社の近くの岩場には、見た目も不思議な石積みの石塔が4基建てられている。いつ誰が建てたものなのか詳細が伝えられていないそうだが、一説によると元禄の世にはすでに建っていたともいわれ、かなり古い時代より存在しているものらしい。対馬には古来より独特の信仰があり、それに関連した塔ではないかとも考えられている。
対馬の天童信仰とその聖域として守られてきた原始の森
対馬には古くから伝わる独特な信仰がある。7世紀後半に対馬南部の豆酸(つつ)郡に生まれた天童は、母親が太陽の光を浴びたことで受胎し生まれた子と言われている。幼少期より聡明に育ち9歳で上京、神の言葉を伝える巫祝(ぶしゅく)の術を得たのちに帰島し、のちに時の天皇が病に臥せった際には空を飛び駆けつけ、天皇を癒したという伝承が残る。以来、天童法師と人々に崇められ、古来よりの太陽信仰と結びついたことにより、天道信仰として現代に伝わる。
現在でも豆酸郡ではこの天道信仰が根強く信仰されており、龍良山(たてらさん)はそれ自体がご神体とされ、近年まで不用意に足を踏み入れることを禁じられた禁足地とされていた。ここには天童法師とその母の墓と伝わる八丁角・裏八丁角が祀られている聖域があり、人々の祈りの場としてもいまも大切にされている。
龍良山一帯は長い間、信仰の対象の禁足地となっていたことから、森林の開発が抑制されてきた。低地から山頂まで良好な照葉樹林が残されており、それにより現在まで樹齢の長い大樹が伐採されることなく、いくつも存在するなど、原始のままの姿が残っている、日本の中でも貴重な森林である。
日本の国土を守り続けた最前線の島
古来より中国大陸および朝鮮半島からの人と文化、交易の表玄関としてその役割を担ってきた対馬は、同時に飛鳥〜平安時代に派遣された防人から現在に至るまで、外国からの侵攻を食い止める最前線の国境の島でもある。鎌倉時代には2度の元寇に島中を蹂躙され、文禄・慶長の役では豊臣秀吉による朝鮮出兵の陣が設けられるなど、軍事面の緊張にも幾度となく晒されてきた。
明治期以降は日清戦争・日露戦争に伴いロシア艦隊の侵攻を食い止める為、当時の軍部により対馬全体が要塞として整備された経緯がある。そのため対馬の山々には侵攻してくる外国艦艇を迎え撃つための砲台が設置された。第二次世界大戦終結後はGHQの政策により砲塔はすべて撤去されたが、砲台施設自体はその姿のまま対馬の山々に遺されている。現在に至るまでにいくつかの砲台施設は朽ちてしまったが、いまだ多くの施設が当時の姿のまま対馬の山中に存在しているという。
今回、私が訪れた姫神山(ひめがみやま)砲台跡は対馬最大級の砲台であり、現在でもその姿を間近に見ることができる。美津島地区の集落にある姫神山登山口から、細く荒れた軍道を徒歩で30分ほどかけて山頂まで登ると、山の木々に覆われた赤煉瓦の建物が見えてくる。明治34年に作られた砲台なのだが、予想以上に保存状態が良いことに驚かされる。
建物の一階に当たる部分に設けられた弾薬庫。アーチ状の構造は庫の強度を上げるための設計だと思われる。また天井に厚く塗られた漆喰は、湿度を調整することで砲弾の劣化を防ぐ役割をしたという。
砲台には2門ずつ3箇所、計6門の28cm榴弾砲が設置されていた。砲塔はすでに撤去されているが、円形の設置跡が明確に遺されており当時の様相を伺い知ることができる。
浅茅湾を一望できる施設最上部に設けられた右翼観測所。施設反対側に設けられた左翼観測所と連携して、ここから浅茅湾へと侵攻してくる敵艦を観測し着弾点を導き出し砲弾を打ち出す。
石組みで築かれた施設構築物は、紙一片の隙間もないほど緻密かつ頑強に作られている。構築後100年以上が経っているとは思えないほどだ。近代建築として貴重な歴史的遺構であることは間違いないが、永い年月のなかで少しずつだが自然へと取り込まれゆく姿に、被写体として、強さと儚さが混在する魅力を感じた。
兵待避所と思われる遮蔽部から砲台を垣間見る。100年前ここに駐留していた兵達が見たであろう光景を想像する。
対馬にはこの姫神山砲台跡以外にも未だ多くの砲台遺構が遺されている。戦後ながらく放置され荒れてしまった時期もあったそうだが、近年になり島の観光資源としても見直されつつあり、地元の有志による整備なども行われ比較的安全に訪れることができる遺構も増えている。「天空の要塞」とも呼ばれる対馬の砲台遺構群は、写真撮影においても魅力的な被写体だといえるだろう。
対馬という被写体に思うこと
対馬には砲台跡以外にも、防人が築いた古代山城や、鎌倉時代以降明治維新まで島を守り続けた島主である宗家由来の武家屋敷など、多くの歴史的な史跡が島内の至る所に多く遺されている。また近年、国防の観点より対馬の重要性が再認識されるようになり、今も昔も国境の最前線の島であることは間違いない。
一方、現在の神道にも繋がるとされる日本神話の伝承や古の信仰に関するものが、日常の生活のすぐ傍に存在するなど、国境の離島という厳しい環境と国際政治の圧力のなかで、綿々と繋がれてきた対馬独特の文化や人々の暮らし、自然にと興味は尽きない。
今回紹介させていただいた作品は旅程で撮影したもののうちのごく一部である。更に今回の旅では訪れることができなかった場所もまだまだ多くある。これを機に私は今後も回を重ねて対馬へ撮影に赴き、機会を設けて作品として発表していきたいと思っている。このレポートをご覧いただき興味を持たれた方がいらっしゃったならば、ぜひとも撮影地としての対馬へ訪れていただきたい。歴史と伝承、豊富な自然があなたを迎えてくれるはずだ。