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 #1 横木安良夫

取材・撮影・文  HARUKI


横木安良夫(よこぎあらお)
プロフィール:1949年千葉県市川市生まれ。日大芸術学部写真学科卒。篠山紀信事務所を経て1975年独立、以後フリーランスで、広告、ファッション、ドキュメンタリー、タレント写真集、などあらゆる方面で活動。1998年頃からは文筆活動も。現在は印刷媒体の他にもテレビ朝日で放映中の帯番組「世界の街道をゆく」のムービーとスチール両方を担当。ローマ字表示はALAO YOKOGIとしている。


 横木安良夫という写真家は、一所に留まること事を知らない回遊魚のように常に動いている人だ。そして写真家以外の側面をもたくさん持っている不思議な人だ。長いキャリアの中で飄々とかつ変幻自在な撮影スタイルを操って、様々な被写体やその時代を切り取っていく天性の狩猟民族というか。

「ガールズ・イン・モーション」より2003年頃 Photo by Alao Yokogi (c)
「ZEGEN女衒」シリーズより1990年代 Photo by Alao Yokogi (c)
「ウラジオストック」2009年 Photo by Alao Yokogi (c)
「世界の街道をゆく」2010年 Photo by Alao Yokogi (c)

横木少年のカメラ

  東京郊外の住宅地、千葉県市川市に新聞記者の長男として生まれ育った横木少年。彼が初めて手にしたカメラは小学校3年生の時に父親から買ってもらったスタートというカメラ。最初がスタートという名前のカメラというのもこの世界へ入る何かの縁だろう。次に5年生の時にはフジペットで友人や近所の風景を撮っていたという。ボク自身、横木さんと同世代の兄がいたのでブローニーフィルムをつめて1と2のレバーだけで簡単に撮影できる富士フイルム製のこのプラスチックカメラを10年遅れで兄のお下がりとして使った記憶がある。

 話を横木少年に戻すと、中学の修学旅行直前にオリンパスPEN-Sを入手し高校までブラスバンド部の友人たちを撮っていたそうだ。まだカメラそのものが高価なモノで、何処の家庭にでもあるという今ほど一般的ではなかった時代の話しだからたいしたものだ。もちろん当時の横木少年にとっては、カメラや写真というものは仲間たちの記録を撮って楽しむための遊びのツールでしかなかった。

 そんな横木少年が高校を出てから先の進路で、どうして写真の道へ進もうとしたのかを訊いてみた。

「元々は中学くらいから学校でブラバンとか音楽をやってたんだけど、日大付属の高校に通ってたし、音楽以外で何か“アートみたいな事”をやりたいって思っていたから、朝日の新聞記者だった父親に相談してみた。そしたらさ、父親は息子が報道カメラマンになるんだったら良いなんて思い込み、母親も文化的な事に理解ある人だったんで『日芸(日本大学芸術学部)なんかが向いてるんじゃない?』ってことですんなりと反対もされずに決めた。父親が朝日新聞の記者だったので、アサヒペンタックスが一番だと思い、ペンタックスSPを買ってもらった」

 当時の横木さんは「朝日」と「アサヒ」で同じ系列だと思い込んでいたらしい(笑)。

 日芸写真学科という圧倒的な数の写真家を輩出していた学校ですから、当時のプロカメラマンへの道のりとしていわゆる王道コースを歩み始めたわけですよね?

「まぁそうなんだけど。ところがさあ、いざ大学に入ってみたら、高校くらいから写真部にいたとか、最初からプロカメラマン目指して来てる連中ばかりの中で、僕なんかは素人同然で写真の専門授業を受けたり、カメラ雑誌とか見ててもアートだとか全然わかんないし、こりゃあどうしようって……」

「最初はカメラを買った時にセットで付いてきた標準レンズの50mmと、やっぱり望遠レンズだと思って105㎜だけだった。そのうち同級生でダントツに写真が上手いT君に28㎜を借りたりしてた。彼が僕の最初の写真の先生だ。ワイドレンズが欲しくなり28㎜付きのコーワSWを手に入れて、ペンタックスSPとの2台体制で当時の学園紛争とか反戦デモを撮っていた」

 学生のこの頃からアシスタント時代を経て、カメラマンとして独立するまでの間に撮り溜めた、とてつもない数の写真群が後年、「あの日の彼、あの日の彼女。Teach Your Children 1967-1975」という分厚いモノクロの写真集となってまとめられることになる。

篠山紀信氏のアシスタント時代

 横木さんは大学卒業後に篠山紀信さんのアシスタントになられたわけですが、最初から就職とかスタジオで働くという意識はしてなかったんですか?

「就職する気持ちもそんなには無かったし、当時は写真学科を出たからって就職先なんてあんまり無い時代だった。だけど友人たちのほとんどはどこかの会社へもぐりこんでいて、僕も一応3社くらい受けてみたんだけど案の定やっぱりダメだったなあ(笑)。そのまま卒業してから、さてどうしようかって考えてる時に、ある人から篠山さんを紹介されて『今は助手が2人いるから無理だけど、君に待つ気があるんならそのうち使ってあげるよ』って約束をしてもらった。それで、親元ということもあり安心して今で言うフリーターみたいにアルバイトとかしながら、自分の好きな写真ばっかり撮って暮らしてた。山岸章二さんに会い、カメラ毎日のALBUMというページに掲載が決まったりもして、あの頃が一番たくさん写真撮ってたんじゃないかなあ? 楽しかったなー。篠山さんの所へ行くのはきっとは1年くらい先なんだろうって好きなスナップを撮りまくっていた。ところが12月頃になって、急に篠山さんの事務所から電話がかかってきて『すぐに来い』ってことで気がついたら新米の助手になっていた」

「カメラマンの助手になるには、大抵はスタジオマンとしての実務経験があったりするんだけど、僕の場合は学生時代から自分の好きな写真は撮っていたけど課題もちゃんとやってなかったしブツ撮りやスタジオのライティング技術なんて知らないかった。はじめてハッセルにフィルムを詰め替える練習からスタートするんだけど、何をやっていいのかさっぱりわからなくって(笑)」

「僕が篠山事務所にいたのは1972年から1975年の8月までだったけど、当時の篠山さんは1日に7本も8本もスタジオを行き来する撮影の毎日。おそらく世界で一番忙しいくらいのカメラマンだったんじゃないかな。幸運にも助手時代にイヤな思いってあんまりしなかったんだけど、一番下っ端の時はなんだかいつもお腹が空いていたな。撮影の時は篠山さんと一緒だからいいけど、撮影以外の時はね、僕の食い意地が張ってるのを知ってて先輩がわざと食事しなかったりね(笑)。あとから知ったけど影で本人はちゃんと食べたりしていたんだけどさ(笑)」

 会食で待ち合わせにボクが遅れて行くと、横木さんはいつも先に食べ始めている。いろんなカメラマンの人たちから聞く助手時代の辛さ話しのほとんどは、上下関係の陰湿なイジメや、睡眠時間の少なさ、薄給などが多いのだが、助手時代から食べ物の恨みだけが印象に強く残ってるというのは、実年齢は決して若いとは言えない今でも食欲旺盛でいかにも食いしん坊バンザイな横木さんらしいエピソードだ(笑)。

「一番楽しかった時間は、篠山さんがほかの助手を連れて海外ロケへ行っている間かな(笑)。いつもと違って撮影がないから暗室と事務処理を済ませば10時から5時で仕事が終われる。篠山さん所有の外車のエンジンを動かすように言われていて、夜ドライブするのが最高の楽しみだった。篠山さんのところで働けたのはスピードと緊張の連続で本当に厳しい4年間だったけど、いろんなタイプの一流の仕事を間近で見られて有意義な時間を経験させてもらったと思う。何よりも篠山さんの“写真大好きぶり”に一番影響されたね」

1975年に独立

 最初の仕事は「月刊プレイボーイ」の創刊1周年記念号の表紙で、プレイボーイのトレードマークのバービーのネオンサインを海岸や映画館に置いて象徴的に撮ったり、当時デビューしてすぐに人気上昇中の女優、池上季実子さんを「週刊少年マガジン」の表紙と巻頭グラビアで撮影という、新人としては順風満帆なスタートを切り、タレント撮影やほかの仕事も増えていった。

 篠山事務所での超多忙なスケジュールに慣れていたために、それまでと比較してギャップを感じてエネルギーを持て余しているから、横木さんは自分としては「ヒマだなー、こんなもんなのかなあ?」と不安に思っていたそうだ。フリーになり徐々に仕事も増えて慣れてきた頃、グラビア以外の撮影にもチャレンジしたくなった。

「当時の日本はファッション雑誌の変革期で、若いカメラマンにはチャンスがたくさんあった。ファッション写真がやりたくていろんな出版社へ売り込みに行ってみた。だけどファッションの写真なんて撮ってないから どこにも引っかからない(笑)。そんな中売り込みに行った当時No1のファッション誌、流行通信で『洋服がきちんと写ってる』と、イッセイ・ミヤケの特集ページをやらせてもらった」

「その後、助手時代に篠山さんとロケで一緒にインドへ行った横尾忠則さんから、プレイボーイで撮った女性ロックグループ『ランナウエイズ』の写真を見たと電話がかかって来て、京都の着物屋さんのカレンダーをやることになった。アイデアから、ロケハン全てを自由にやらせてもらった。皆忙しいので、7カットを皆ほとんど寝ないままで2日間静岡でロケした。カメラはキヤノンF-1に24㎜と200㎜。サンパックのオートストロボを日中シンクロで使ってさ」

 当時すでに世界的な存在だったファッションデザイナー・三宅一生さんが横尾忠則さんとコラボしたコレクションの生地を着物に仕立て、アートディレクションが横尾忠則さん、モデルは山口小夜子さん、ヘアメイクは川邊サチコさんという、全員が超一流豪華スタッフによる仕事。もしもボクだったら名前を聞いただけでも倒れてしまうだろう。若い横木さんにとっては千載一遇のチャンスだ。もちろん素晴らしい仕上がりで、それがきっかけとなりファッション撮影の仕事へと繋がっていった。

ターニングポイント

 デビューして約10年間は雑誌グラビア、レコードジャケット、ファッション、化粧品やクルマの広告など様々な仕事を忙しくこなしていた。しかし、それらはあくまでも自分一人の表現ではない「仕事写真」だった。一度原点に戻ってみようと日常をモノクロで撮った写真展をやったのが、1985年にニコンサロンで発表した「DAY BY DAY」だ。

「ある日、当時ニコンサロンの最高責任者でもあった写真家の三木淳さんに写真展をしたいと会いに行くと、東京ビルにあったニコンの広い応接間に通されて、しばらくすると『君は態度がなっていない!』と激怒され、テーブルに置いた僕の写真を放り投げられてしまった。一体なにが起きたのかよくわからなかったけど、三木さんを怒らせてしまいこれは大変なことになってるなって、とにかくひたすら謝った(笑)。あの頃の僕はきっと自信満々、態度がデカかったのかな、それでようやく三木さんも機嫌を直してくれて、『これは君、タイトルはデイ・バイ・デイだよ』って写真展のタイトルまで決めてくれた。三木さんのああいうのは、もしかしたら生意気な若者をやりこめる『手』だったのかな(笑)」

「トワイライト・ツイスト」シリーズより1986年 Photo by Alao Yokogi (c)
「トワイライト・ツイスト」シリーズより1986年 Photo by Alao Yokogi (c)
「京朋カレンダー」より1976年 Photo by Alao Yokogi (c)
「京朋カレンダー」より1976年 Photo by Alao Yokogi (c)

 横木さんにとっての1980年代は、仕事にも慣れ、中堅カメラマンとしての仕事に追われる日々の中、未だ強い作家意識までではないものの、不完全燃焼のようなものがあり、それを消化するための吐き出し口として写真展を立て続けに開催し、作品を発表していった時代だった。

 時を同じくして80年代。伊豆の海岸で、マツダの広告で自動車をナイトフォト撮影中、長時間露光で1カット撮影するのに20分ほども時間が掛かっている間、懐中電灯を持っていろんなモノに光を当てて遊んでいたら面白くなり「コレで人物撮影をしたらもっと面白いんじゃないか?」と思いついたのが、懐中電灯を光源に使用した、長時間露光によるポップな作風の「トワイライト・ツイスト」シリーズだ。

 “横木安良夫”という不思議な漢字組合せの名前の印象もあいまって、ボクは田舎の写真学生だった頃から前述の着物カレンダー写真も含めて横木さんの作品を雑誌などで知っていたが、この「トワイライト・ツイスト」には度肝を抜かれたのを覚えている。おそらくはじめて横木さんと面と向かって話しをした際に、このシリーズと、薄暮の淡い光の中でタレントを柔らかいトーンで撮ったシリーズとの2つが両極端な表現なのに、どちらも同じ作者だと知って驚いたとご本人に伝えたのを覚えている。

 最後に、好きな写真家を教えてください。

「篠山紀信、沢渡朔、高梨豊、鬼海弘雄、ウォーカー・エバンス、ロバート・フランク、ロバート・キャパ、ゲイリー・ウイノグランド、フィリップ・ロルカ・デコルシア、リチャード・アベドン、ギィ・ブルダン、ヘルムート・ニュートン、ダイアン・アーバスなど」(順不同)

横木安良夫のカメラ遍歴

 学生時代にはペンタックスSPとコーワ、助手時代はニコマートとブロニカの66。かつて銀塩フィルム時代には仕事では66のハッセルブラッドとマミヤRZ67がメインカメラだったけど、海外ロケなどではキヤノンF-1~NewF-1が多かった。独立してデビューする時にキヤノンF-1のセットを揃えたのでキヤノンの雑誌広告にも出たことがある。それ以来35mmに関してはデジタルになってもずっとキヤノンを使い続け、現在は仕事の大半はEOS 5D Mark IIがメイン。一方スナップショットなどの撮影では小型のリコーが多い。いつも持ち歩いてるのはリコーGXR。時には昔から持っているポラロイド製の195ランドカメラも使っている。

丸レフに見えるのは雑貨屋で見つけたティンパニか何か打楽器のヘッドと呼ばれる部品。中古で1,000円、2枚を即購入して実際に撮影で使っている。手前がポラロイド195ランドカメラ。フィルムは昔はネガ付きのタイプ665というモノクロを使ってたけど、現在は製造してないのでカラーのFP100を使用してスキャニングして原稿としている。右側にあるのはLPL製のLEDライト。被写体が近くて光量がちょっと足りない時などに便利。ムービーにも使えるのでボクも使って重宝しています。スチールと同時にムービーも撮影する横木さんにとっては一脚は必需品。自由雲台にスリックのクイックシューを装着して、これさえあればいつでもどこでも撮影臨戦態勢
現在ほとんどの仕事に使っているメインカメラはキヤノンEOS 5D Mark II。標準装備しているのはEF 24㎜ F1.4 L II USMとEF 50㎜ F1.2 L USMの明るい単焦点レンズ。基本的に開放近くで多用。もちろんこのほかにもいろんなレンズを駆使する。「世界の街道をゆく」などのロケで世界中を横木さんと一緒に旅するカメラやレンズはご覧のとおり戦場カメラマンさながらに小キズが絶えないが、頑張っている堅牢ボディーだ
スナップショットに欠かせないのがコンパクトなユニットシステムのリコーGXR。RICOH LENS P10 28-300mm F3.5-5.6 VCなども使うが、基本はGR LENS A12 50mm F2.5 MacroとGR LENS A12 28mm F2.5を装着した2台体制によるキャンディッドフォトを撮る
クルマのトランクにいつも積んでいる懐中電灯たち。何の変哲もない大型の懐中電灯。大型だから懐中ではないのかも?(笑)。これらのヘッド部分に白色のビニールや紙類を被せ、光源をソフトに拡散したものを使用して創り上げられたのが「トワイライト・ツイスト」シリーズだが、もちろん光源の一つとしてほかの撮影にもいろいろ使える、あると便利なグッズだ
ティンパニレフの使用法はレフ板として反射させるだけではなく、直射光が強いと困るポートレートなどの撮影時には、こうやってディフィーザーとしても使える1枚2役の優れモノ

写真ワークショップを主催

 いろんなタイプの仕事をこなしている横木さんだが、自身の作品制作だけでなく、2年前からAYPC(Alao Yokogi Photo Club)というワークショップで撮影会やレクチャー、作品発表を定期的に行ない、真摯に写真に取り組む人たちの指導も行なっている。今回の取材ではAYPCの日光での合宿にもお邪魔したのだが、横木さんもメンバーの皆さんも、一緒に楽しみつつも意見交換などは真剣そのもので、ボクも勉強になった。

 最近の主な活動としては、テレビ朝日で月曜~金曜日に放映中のテレビ番組「世界の街道をゆく」で、ムービーおよびスチールの両方の撮影を担当している。映像はムービーカメラマン、スチールは写真家が撮影するというセオリーがあるテレビの世界にあって、1人のカメラマンが両方を同時に撮影しているのはとても珍しいケースだろう。

 1カ月分の放送が1クールなので、だいたい2週間から1カ月にわたって、無休で連続移動と撮影のロケを繰り返すという。60歳を過ぎた肉体にはかなりハードな仕事だと思われるが、普段から親しくお付き合いさせてもらってるボクは、彼はそれをものともせず、平気でこなす強力な肉体の持ち主でもある事を良く知っている。

中禅寺湖にて。被写体を探して足早に歩く横木さんは狩人になっている首から下げたGXRを構えてすぐにシャッターを切る
そしてチェックしてまた次へと素早い動きだAYPCの皆さんと。さまざまな職業の人たちが参加。日光戦場ヶ原にて
「ロバート・キャパの最後」についてのいろんな意見や質疑応答が飛び交う勉強会
ロバート・キャパ最後の地についての説明を熱く語るある方から譲り受けたという「ちょっとピンぼけ」の貴重な初版本を手にキャパの日本での足跡に迫る
合宿では深夜遅くまでそれぞれの作品に対して思いを述べたり、意見交換したりと活発なやりとりも交わされる。翌朝、撮影に出る前にもプリントを交換したりとワークショップのスケジュールは続く
EOS 5D Mark IIを装着してムービー撮影中。手持ちの時には一脚の自由雲台をフリーにしておくと重りの代わりにもなりバランスが取りやすく使えるので、通常は2台のカメラを駆使してムービーとスチールの両方をほぼ同時に撮影していくというスタイルが横木流結構重い一眼レフカメラを片手で1台づつ完璧に捌く操作は大柄な身体の横木さんならではの余裕がさすがだ

 横木さん自らの企画で発刊している「Glance of Lens」というミニ写真集がある。アートディレクター原耕一さんデザインのオシャレでとても素晴らしい内容だ。電子書籍の波が来ている今、なぜ印刷メディアを発刊したのか、制作主旨をうかがってみた。

 「今日ではインターネットの多様化や電子写真集なども普及しつつあるけれど、実際に触れることのできるインターフェースとしての紙媒体というものには、情報だけでは終わらない、モノとしての存在にも魅力がある。だからこれからも残っていくだろうし、発展の可能性もあると思う。DTP印刷なら安くて質も向上した今は、自分で好きなように創るという事ができるから」というのが発刊理由の一部だ。

 1冊目は2008~2009年にウラジオストックで撮影したキャンディッドフォトの写真集だが、その他にオリジナルの短編小説も付録されていた。というのも横木さんにはもうひとつの顔がある。彼は小説家でもあり数々の写真集のほかに、「サイゴンの昼下がり」(新潮社)、「熱を食む、裸の果実」(講談社)、や「ロバート・キャパ最期の日」というノンフィクションも手がける文筆家としての才能も発揮している。

 刊行したばかりの2冊目は、過去に雑誌などで連載していたガールズ・イン・モーションという、モデルではない“今を生きている等身大の女の子”たちの写真が中心の構成になっている。このGlance of Lensは今後も発刊続けていくつもりとのこと。3号、4号とこの先も楽しみにしているのはボクだけではない。

 これまでに横木さんとは数え切れないくらい何度もお会いしているが、今回はじめて正式なインタビューをさせていただいた。

 彼の口からはいつものように機関銃のように矢継ぎ早に言葉が飛び出してきたが、すべてを掲載できないくらいの分量なので抜粋してのリポートとなった。

 いつまでも若者以上の体力と好奇心を維持して、遊び心を忘れないまま、ボクたち後輩を新しい発想力で驚かせて活躍していただきたい。





(はるき)写真家、ビジュアルディレクター。1959年広島市生まれ。九州産業大学芸術学部写 真学科卒業。広告、雑誌、音楽などの媒体でポートレートを中心に活動。1987年朝日広告賞グループ 入選、写真表現技術賞(個人)受賞。1991年PARCO期待される若手写真家展選出。2005年個展「Tokyo Girls♀彼女たちの居場所。」、個展「普通の人びと」キヤノンギャラリー他、個展グループ展多数。プリント作品はニューヨーク近代美術館、神戸ファッ ション美術館に永久収蔵。
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2010/12/24 21:14