ジョー・ホンダ写真展「孤高の戦士、アイルトン・セナ」

――写真展リアルタイムレポート


 ジョー・ホンダさんは1967年春、単身渡欧し、F1をはじめとするモータースポーツの撮影を始めた。そう、斯界における日本人カメラマンのパイオニアだ。

 以来、世界のレースを撮影してきたが、氏の中でも特別なレーサーの一人がセナだという。欧米勢が主流のレース界にあって、ブラジルの国旗を背負った彼は、常に勝つことが唯一の目標だった。

 時速300kmを超すスピードでマシンを操るレーサーは、極度の緊張と孤独を強いられる。その中でも常勝を自らに課したセナは、とりわけ孤高の存在であり続けた。

 ジョー・ホンダさんが捉えた写真には、命を賭して挑んだ男の光と影が焼き付けられている。

ジョー・ホンダさんはもともとキャパに憧れ、報道写真家を夢見ていたそうだ。プリントはフランスの印画紙、ベルゲールを使用。往時の美しい階調が堪能できる。
  • 名称:ジョー・ホンダ写真展「孤高の戦士、アイルトン・セナ」
  • 会場:Gallery E&M nishiazabu
  • 住所:東京都港区西麻布4-17-10
  • 会期:2012年4月10日~28日
  • 時間:12時~18時
  • 休館:日曜、月曜

セナとの出会いは1982年

 ジョー・ホンダさんが初めてセナに会ったのは、彼がカートレースに出ていた1982年のことだ。当時、セナはすでに天才的なレーサーだと注目を集めていた。スタート直後、トップで飛び出し、逃げ切るレースを展開していたのだ。

 ただジョー・ホンダさんが感じた初対面の印象は薄かった。

「孤独な青年だと思った。が、それは後に感じたことを、その時の記憶に投影しているのかもしれないけどね」

 セナが付き合うのは、限られた数人だけで、いつも孤独の中にいた。大きなビジネスであるモータースポーツの世界では、策謀や追い落としを狙った中傷が渦巻いている。異国から来たセナは、堅い殻を作り、勝つことだけに集中することが生き抜く術だったのかもしれない。

 それがレースになると一転し、強引ともいえるレース展開でトップを狙う。

「彼の頭にあったのは勝つことだけ。ある面、すごく純粋な人だったんだ」

 音速の貴公子といった華美な称号で呼ばれてもいたが、ジョー・ホンダさんが切り取ったセナの表情を改めて見ると、人の心の深淵が深く刻まれている。


一瞬の出来事に反応する

 レースに赴く男たちは、戦地に出かける兵士のようにも思える。音速に迫るスピードの世界は、戦場と同様に絶えず死の影が付きまとう。

 事故を起こすドライバーは、レース前、予兆を感じさせることが少なくないそうだ。同様のことは、戦地で戦場カメラマンがしばしば体験することでもある。

「レーサーの表情や、態度を観察して、撮影ポイントの判断材料にすることもありました」

 何度か、事故を起こした瞬間に居合わせて、シャッターを切ったこともある。ただし、その直後には主催者側のスタッフが現れ、カメラマンは手荒い形で追い立てられてしまう。

「撮りたい一瞬は、その時々でのひらめきの中にあるんだ」

 事前にコースを歩いて調査することはもちろん、F1を撮り始めた頃は、雑誌に発表された写真を研究して、どの角度から狙うと、どんなイメージが得られるか、丹念に研究した。そのうえで、現場で起こることに集中し、敏感に反応していくのだ。


ヨーロッパへの憧れ

 ジョー・ホンダさんは1939(昭和14)年に東京・杉並区に生まれた。戦後、近所に進駐軍のキャンプがあり、そこが遊び場の一つだったという。

「チョコやチューインガムをもらったり、ジープに乗せてもらったりしていたんだ。こんな豊かな国と、なぜ、戦争したんだろうって子ども心に思ったよね」

 日本大学芸術学部写真学科に進み、在学中から知り合いの紹介で早田スタジオでアシスタントを務めた。

「最初に与えられたのが、丸善に行って、売れ残った欧米の雑誌をもらいに行く仕事だった。よい写真を切り抜いてスクラップにして、早田先生に渡す。よい仕事だと思ったし、勉強になった。ハーパース・バザーで活躍していたヒロ(若林)の写真を見つけたりしてね」

 そこで感じたのもヨーロッパの華やかさと豊かさだ。日本とは全く違う写真に刺激を受け、何とか方法を見つけ出して、ヨーロッパでベストのカメラマンになると決めていた。その後、学習研究社にアルバイト契約で入った。

「その頃も、いろいろな雑誌を編集部や図書館で入手しては、情報を収集して、どうやったらヨーロッパに行けるかを考えていたんだ」

 1966年、静岡県に富士スピードウェイが完成し、そこでインディ500を走るマシンとレーサーを招致した日本インディが開かれた。編集部経由でプレスパスを手に入れ、取材に行くと、海外のレーサーたちは、親切に応対してくれた。

「イギリス人レーサーのジャッキー・スチュワートに『来年、ヨーロッパに行きたい』というと『是非、来い』って。帰り、明神峠からコースを見下ろした時、その偉容に、こういう時代が来るって直感したんだ」

 翌年3月、シベリア経由で渡欧する。


手持ち資金は約500ドル

 日本からマルセイユに自家用車を送り、現地の移動手段とした。手持ちは500ドルほど。何の目算もなく、写真を撮ったからといって、どこに発表する当てもなかったという。

 最初は南仏のポーで開かれていたF2グランプリに行った。そこでジャッキー・スチュワートと再会し、彼は歓待してくれた。

「車体にでっかくジョー・ホンダという名前と、日の丸を描いた。行く先々で、面白い日本人が来たと注目されたよ」

 レースは毎週末、開催され、ヨーロッパ各地を飛び回った。

「タバコ会社がレースに莫大な宣伝費を投入するようになり、毎晩、豪華なパーティが開かれていた。だからずいぶん助かったよ。酔って、プレスセンターに寝たこともあったね」

 およそ2年後、日本に戻ると、それから徐々にモータースポーツの写真が雑誌などに売れるようになった。


個展をきっかけに三木淳氏と知遇を得る

 ジョー・ホンダさんの名を知らしめたのが、1970年、銀座ニコンサロンで開いた個展「レーシングカメラアイ」だ。全倍のプリントを並べた斬新な展示空間を作り上げたが、それはアーティストの福沢エミさんがプロデュースにした。

 ただ彼女は、1969年、テスト走行中に事故死したレーサーの福沢幸雄さんの妹であり、ジョー・ホンダさんは彼女に頼むのに躊躇したそうだ。

「バイクの遊び仲間が彼女の知り合いで、紹介されたのです。結果、その展示は大成功だった。特に写真家の三木淳さんが気に入ってくれて、いろいろな人に僕のことを話してくれた。フランスでお会いした時は、三木さんが親しくしていたLIFE誌の専属カメラマンだったダグラス・ダンカン氏の別荘に一緒に招かれたこともありました」

 そうした付き合いの中で、見て、聞いた事が写真家として成長する糧になっていった。

「蒸気機関車から車が生まれた段階的な歴史をまとめたいんだ。そのほかやりたいテーマがいくつかあって、やり終えるのに80歳くらいになるかな。その後、娘がいるトルコで暮らそうかと思っている」

 永遠に輝きを失わない、一つの時代の姿がここにある。



(いちいやすのぶ)1963年、東京生まれ。ここ数年で、新しいギャラリーが随分と増えてきた。若手写真家の自主ギャラリー、アート志向の画廊系ギャラリーなど、そのカラーもさまざまだ。必見の写真展を見落とさないように、東京フォト散歩でギャラリー情報の確認を。写真展の開催情報もお気軽にお寄せください。

2012/4/13 00:00