東京エッジ~首都辺境を巡る写真紀行
第7回:元祖「せんべろ」の庶民派エリア——葛飾区立石
2019年1月29日 13:51
葛飾区立石に9年半住んでいた。私の30代はほぼ立石だったと言っていい。新宿や渋谷ならいざ知らず、恐らくこのコラムを読んでいらっしゃる方々の多くは「立石」を知らないだろう。無理もない。人口が多いわけでもなければ、お洒落な商業施設があるわけでもない。事実私も自らが暮らすまではまったく知らなかった。
そんな立石が少し前からプチブームとなっている。一杯飲み屋の街として。近年、飲み屋の街としてブレイクしたのは北区赤羽が有名だが、その赤羽に飽き足らず、よりディープな街として白羽の矢が立ったのが立石だった。
立石は元祖「せんべろ」の街といってもいい。せんべろとは1,000円でべろべろに酔えるという意味である。とにかく安くお酒が飲める。葛飾は町工場なども多いため、夕方仕事を終えたおじさん達が帰宅前に一杯ひっかけていく。昭和の良き時代、そんな光景が日常茶飯だったようである。
わざわざ来る場所に変貌
私が暮らし始めた2002年の頃は、一時期ほどではないにしろ、その名残はあった。ただしあくまで暮らしている人達が飲んでいるだけで、わざわざ余所から飲みに来るほどではなかった。それがいつの頃からか意図して訪れる街になった。人気の店などは、休日は一杯で入れないなんて事態までになった。当初から考えれば信じられない話である。
今でも覚えている。初めて立石を訪れた時に驚いたのは、立ち食い寿司があったことである。江戸時代、寿司はさっと食ってさっと帰る、いわばファーストフードだったという。東京に暮らして10年余り、それまで立ち食い寿司は見たことがなかった。
ソープランドがあることにも驚いた。基本立石は小さな街なので、風俗店が軒を連ねる一画などがあるわけではない。道路一本挟んだすぐそこから住宅街が始まるというようなところに唐突に一軒だけあった。ガチのやつ。その違和感たるや半端なかった。
あんなとこに入ったらすぐ噂になるだろうと、結局入りはしなかったけど、接客する女性はおばさんが一人いたようである。あれ誰が利用するんだろ? と暮らしていた時はほんと不思議だった。入って行く人は見たことがないのに、灯りは毎夜ともっていた。
立石を離れたいま、そういうのを写真に収めておけばよかったと今更ながらに後悔している。写真家あるあるで、親や妻など、いつでも撮れると思っている身近なものほど照れなどもあり案外撮っていない。
次はないのにな。画にならないと判断してシャッターを押さないのだ。そして失くして初めて後悔する。撮っておけばよかったと。写真の特色である記録性。これをもっと意識しなければと時折思うのだが、そう行動できていないのが実情である。
そんな立石が駅周辺の再開発により変わり始めているとのこと。これは写真を撮りに行かなければと向かった。
葛飾区の中心地にある街
立石は京成押上線上にあり、有名な観光スポットであるスカイツリーの最寄駅「押上」から4つめにある駅。京成押上線は、地下鉄の都営浅草線と京成線に連結しているため、実は案外便利である。品川、新橋、銀座、日本橋、浅草に一本で行けるし、羽田空港と成田空港も沿線上にある。また、立石には葛飾区役所があり、いわば葛飾区の中心地であって、暮らしている時はまったく不便は感じなかった。
立石は駅周辺の道路や店が密集していて、災害時に緊急車両が通れない。また一度火の手が上がると、たちまち被害が広範囲に及ぶことになると思われる。
今後そう遠くない未来、首都圏直下型地震が起こるとも言われている。再開発は妥当な判断だといえよう。ただし、長年暮らしていた者にとっては複雑だ。立石はあの密集具合が良かったのだから。
日本全国、ファーストフード店やチェーン店が並ぶ、皆おしなべて同じような街並みになっていく中、立石は違った。暖かくて親密な雰囲気漂う、昭和の匂いがした。特に夕餉の時間がそうだった。駅前のスーパーや総菜屋に保育園帰りの子供を連れた主婦が集い、飲み屋が色めきだす。そんな時間が好きだった。
駅を降りるとほっとした。人生には色んなフェーズがあると思うが、40代後半まで生きてきた私にとって、あの立石で暮らした30代が一番楽しかったように思う。それは立石だからかもしれないし、30代だったからかもしれない、あるいはその両方か。
一般的には青春といえば10代、ハタチ前後の頃のことを指すと思うが、まだ若さもあり仕事も充実し始め、子供も小さく可愛く、ある程度お金も持ち始めた30代はいわば大人の青春なんだと思う。基本的に立石には良い思い出しかない。ただ写真はそんなに撮っていない(笑)。あの頃、私はブラジルを撮っていた。
再開発は進んでいるものの
5年(?)ぶりに訪れた立石、電車を降り、ホームの階段を上りきった2階の窓から見た光景に驚かされる。北口方面、「店が無くなって更地になってるやんけ!」。線路沿いに飲食店が並んでいたのだが、跡形もない。吹き抜けのだだっ広い空間になってしまっている。
よく行った中華料理の「海華」、焼き鳥の「おらんだ亭」、定食屋の「与作」。それぞれが個性のある良いお店だった。そして件のソープランドもなくなっていた(後に分かったことだが、海華と与作は移転していた)。もちろんそれらの店がなくなったこと自体にも驚いたが、ごちゃごちゃと密集していたところが、すっかり風通しの良い何もない空間になってしまったことに寂しさを覚えた。なんせ9年半暮らした街だったから。
これは心配だ。南口はどうなっている? すぐさま線路を渡って反対側に行く。良かった。こっちはそんなに変わっていない。
飲兵衛の聖地とも言われる「立石」。その顔はどちらかといえばこちら側がメインだ。南口はアーケードが広がる。戦後すぐにできた仲見世商店街。シャッターが閉まっている店も多いが、なんのなんの、客で賑わう元気な惣菜屋や飲み屋が何軒かある。その光景は変っていなかった。むしろ北口よりこっちの方がよりごちゃごちゃと密集していて危ないと思うが、まだ再開発の手は入っていなかった。とりあえず安心し、次にかつて暮らしていた家に向かう。
北口方面へ
線路を再び越え、反対側へ。家は北口方面、駅から歩いて4、5分のところにあった。南北にまっすぐ延びる道を北に向かう。
左右には飲食店やドラッグストア、接骨院に病院など様々な店が並ぶ。距離にして2、300m。この道が北口のメインストリートである。線路に沿った道にあった店は、更地になってなくなっていたが、線路に対して垂直に位置するこの道は昔のままだった。
途中、左に折れ、よく通った店があるかどうかを確認する。格闘居酒屋「こちら葛飾区立石屋 極」はなくなっていた。店内にはとても大きな60インチほどのテレビがあり、当時人気のあった格闘技興行「PRIDE」の中継が流れ、それがない時は昔のプロレスや格闘技の映像が映し出されていた。
私は大概PRIDEは仕事を兼ねて、さいたまスーパーアリーナの現地で見たが、格闘技好きの仲間と飲む時は、敢えて立石に呼んで極で飲んだ。「キン肉マン」で有名な漫画家のゆでたまご、嶋田さんにもお越しいただいたことがある。極以外にも面白い店があり独特の雰囲気がある立石での飲みは、みんな満足して帰っていったはず。そう思うことにしている(笑)。
当時、私は新宿、渋谷、中野、吉祥寺、高円寺、下北沢、中目黒、代官山といった西側で飲むのが当たり前といった風潮を変えたかったのだ。東東京も面白いよと。浅草だけやないよと。
かつて住んでいたあの場所は?
そもそも私が立石に暮らすことになったきっかけは、妻の親友が立石に住んでおり、その夫婦に娘が生まれたのでお祝いに出掛けたのが始まりだった。初めて訪れた立石、庶民的でレトロな雰囲気に魅了された。いわゆる“東京”らしくないなぁと。
それから約一年後、私たちにも娘が生まれ、手狭になったので引っ越そうという話になり、それまで東京各地を転々と暮らしてきた私も、下町方面、東東京には住んだことがなかったので、一度訪れて印象に残っていた立石に住もうということになった。当時はそんなに長く住む気はなく、長い人生一度くらい立石に住んでも良いだろう、それぐらいの軽い気持ちだった気がする。それがまさか9年半も暮らすことになろうとは(笑)。
立石への引越しは、妻の兄と父に少し反対された。私は写真家、いわゆる業界人。そのような職種の人が葛飾に住んで大丈夫なのかと。カメラマンやデザイナーのようなマスコミ人は誰も住んでいないだろうと。確かにその手の職業の人は、山手線内か、山手線沿線、あるいは東京の西側に住んでいることが多い。出会いや縁がなくなり、チャンスを逃すのではないかと心配された。後に知るが、「キャプテン翼」の高橋陽一さんや、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の秋本治さんは葛飾区在住。漫画家は住んでいる。
当時暮らしていたサンビルは変わらずあった。3階建ての鉄骨コンクリートマンション。通りに面した2階の角部屋201が我が家だった。同じく1階の105も暗室として借りていた。越してきた時は上の子が0歳で、出て行く時はその子は小学校5年生になって、家族は4人に増えていた。
懐かしさのあまり、マンション内に入って2階に上がっていくと、現在その部屋に住んでいる方がちょうど帰ってきて、声をかけられた。激しく怪しまれたものと思われる。無理もない。カメラをぶら下げた迷彩服を着た強面風の男が自宅前にいたら、そらそうなるわな。むしろ声をかけてきただけ、あのおじさんは立派。