東京エッジ~首都辺境を巡る写真紀行
第4回:憧れをカジュアルに崇拝する江戸庶民の感覚——富士塚
2018年8月13日 12:00
私は富士山に魅せられて、季節を問わず何十回と登ってきた。1月から12月までのすべての月に登っている。20回ぐらいまで数えていたけど、面倒くさくなって数えるのをやめてしまった。もうそろそろ100回に到達するかもしれない。
それほどまでに魅せられる富士山、その霊威は特別だ。
多くの登山者で賑わう夏の富士山と、誰もいない静かで恐ろしくも美しい冬の富士山。生と死。そのコントラスト。俗も聖もすべてを受け入れる、あの巨大な山塊自体がエネルギー体である。
私だけではない。江戸時代、富士山に魅せられた多くの人々がいた。
東京エッジでは、これまで(過去3回)県境のような物理的な意味での、本当にエッジ(端)な場所を紹介してきた。しかし今回はもう少し解釈を広げてみたい。
エッジとは、端という意味だけでなく、切れ味、鋭さ、優勢、強さなどの意味も表す。そこから転じて、鋭い感覚をしていることや、先端をいっていることを、エッジが効いていると表現することがある。
富士塚というものをご存知だろうか?
塚というだけに文字通り、周囲の地面よりこんもりと盛り上がった所で、富士山に見立てている。そういうものが東京には約50基ある。(塚は墓の一種なので「基」と数える)。意図的に土を盛って作ったものや、実際に富士山の溶岩を運んできて山のように積んでこしらえたもの。あるいはもともと盛り上がっていた、古墳を利用したものなどがある。
江戸時代、富士山に登る人は飛躍的に増えた。それまでは山といえば、信仰の対象であって市井の人が登る場所ではなかった。せいぜい山の民が山菜を採ったり、獣を狩る目的などで山に入るぐらい、それでもおそらく山頂には立たず、山中で恵みを頂いていたぐらいだと思われる。
そんな中、飛鳥時代にひとりの超人が現れる。役行者(634〜701年)、本名、役小角(えんのおづぬ)。山に籠り、自らを律し鍛え、紀伊半島の背骨、大峰山脈にある山上ヶ岳で金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)を感得した修験道の開祖。
修験道とは、万物に神は宿るとする、日本古来の自然崇拝に裏打ちされた山岳信仰と、大陸から伝来した仏教の密教や道教などが結びついて成立した宗教。験力を得るための山中での厳しい修行と加持祈祷を信条とする。その流れは平安時代より盛んになっていき、全国の山々は修験者(山伏)によって次第に開かれていった。富士山もそのひとつ。
そうした修験者の活動により、山を麓から眺めて崇める信仰から、実際に自らの足で登ってご利益を賜ろうとする信仰へと次第にシフトしていった。その流れは江戸時代中期に花開く。きっかけは富士講を始めた長谷川角行(はせがわかくぎょう)と、それを引き継ぎ大きく発展させた食行身禄(じきぎょうみろく)のふたり。
ふたりについては、拙著『山をはしるー1200日間山伏の旅』(亜紀書房)から引用してみたい。
長谷川角行は、富士の人穴(洞窟)に籠り7日間不眠不休の行をおこなった後、15cm四方の角材の上に爪先立ちするという、ある種奇行ともいえる「爪立行」を千日間続けたと言われている。仏教の教えを学んだ経験もなければ、そのための修行をしたこともない。ただ自ら各地の霊場に赴いては断食、不眠などの激しい行を繰り返した。すべて我流。教えを乞う師がいるわけでもなければ、規範となるべき教義経典があるわけでもなかった。
ただ、諸国遍歴修行の旅で立ち寄った陸奥国達谷の洞窟での断食修行中、角行の前に役行者が現れ、富士山に登拝するよう、また山麓の人穴で千日の修行を行うよう告げたという興味深い言い伝えがある。
役行者の言にしたがい富士の人穴で千日の籠り行をしていたあるとき、角行は富士山の神の導きによって自らの思想、教義に開眼した。その神様は「仙元大日神」という姿で角行の前に現れ、こう告げたという。
「一国の乱れは天子のおこないによる。汝に天子の名代を申しつけるので、天子に変わって大行を勤め、国の乱れを鎮めよ」
角行はこれを聞いて自らのために行う自行をやめ、万民救済を目的とする活動に向かったという。角行はもともと身分の高い生まれにはなく、僧になるような環境に育ったわけでもない。早い話がエリートではなかったわけだ。
こうした角行の存在は、お上から抑圧されて沈滞と閉塞の状況下に喘いでいた庶民層にいたく受け入れられた。角行の教え、いや、むしろ彼の存在自体が、教義などの因習や伝統に一切とらわれない信仰を民衆のあいだに育んだのだ。
世直しを第一義とする現世的富士信仰。これを境に、富士山が大衆の下まで降りてきた。富士山が大衆のものとなったわけだ。誰でも登れる山、登ればご利益がある山として。現代まで脈々と受け継がれている、国民すべてに愛される山、富士山が誕生した瞬間であるといっていいだろう。
106歳まで生きたとされる角行の死後、富士山信仰は、角行から数えて6代目の弟子にあたる食行身禄の登場により最盛期を迎える。
食行身禄という名前は、釈迦が亡くなって56億7,000万年後に出現して世直しをするという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の弥勒から取ったものだ。
身禄は1671年、伊勢国の百姓の家に生まれる。13歳にして江戸に出ると呉服雑貨商で奉公。17歳のとき、江戸で広まりつつあった角行の富士信仰に身を投じ、独立して始めた油売りをしながら、瞬く間にのめり込んでいった。
身禄は呪術による加持祈祷を否定し、正直と慈愛をもって勤労に励むことを信仰の原点とした。宗教というよりむしろ道徳というべきか。しかし先鋭的な部分もあった。この時代にして男女の同格や身分の否定などを謳い、江戸幕府からたびたび弾圧を受けたという。身禄もまた、高い身分の出ではなかった。
彼が活躍したちょうどその時代、日本各地で自然災害が猛威を振るった。1703年には関東地震のひとつである元禄大地震が、1707年には東海・南海・東南海連動型地震である宝永大地震が、そしてその49日後にはかの有名な宝永の富士山大噴火が起きた(以降、現在まで富士山は噴火していない)。
このような大難が続いた時代、「将来をよくするためにはまず自分がいま置かれている立場、足元から見直すべし」という身禄の教えは、否が応にも庶民の間に浸透していったことだろう。
元禄、宝永、正徳ときて、次に享保と元号が変わり、1732年には享保の大飢饉が起きる。元禄時代の急成長の後の地震、噴火、飢饉と世はまさに国難続き。その苦境を踏まえて江戸幕府により断行された享保の改革下では、なによりも倹約、質実の精神に重きが置かれた。身禄の教えがより広まりやすい土壌が、時代の要請によってできあがっていったといえるだろう。
こうしたふたりの活動により、富士信仰は爆発的に広まった。人々は講を結成して、富士山を目指した。
講とは、広辞苑によると「神仏を祭り、または参詣する同業者で組織する団体。一種の金融組合または相互扶助組織」とある。同じ信仰を持つ人々が集まって、宗教行事をおこなう会合や組織のこと。
昔は富士山に登りたいと思っても、そう簡単にはいかなかった。費用もかかれば日数もかかる。庶民には相当な負担だ。そんなとき、講のメンバー全員で少しずつお金を出し合って、集めたお金で代表者に富士山に行ってもらう。そうすることで、直接足を運んだ代表者のみならず、メンバー全員がご利益を享受できるというシステム、それが講である。当時は「江戸八百八講、講中八万人」といわれるほどの賑わいをみせていたという。
人々はさらに講を組織するだけでなく、富士山に見立てた塚を作る。富士塚である。富士塚そのものを御神体として崇め、それに登れば富士山に登ったと同じご利益があるとした。近所に富士山を作ろう、持ってこようという発想である。なんてエッジの効いた発想だろう。
いたく御都合主義のような気もするが、電車も車もなかった時代、憧れの富士山はあまりに遠かった。登りたいけど登れない。でも富士山の神様(現在は木花咲耶姫命とされる)にお近づきになりたい、ご利益を賜りたいという想いが、そんな突拍子もない発想を生みだした。馬鹿馬鹿しくもチャーミングな、それでいて実用的なアイデア。江戸っ子恐るべし、である。
私はこの取材のために、7月富士塚を訪れながら、「今年は忙しくて2月以来登ってないな。でもこれで富士山に登ったことになるんだな」なんて、まるで江戸時代の富士講の人々のように、富士塚の効用を噛み締めながら、都内各地の12基の富士塚を回った。
今年のように猛暑の夏は特にありがたい。遠く富士山まで行かなくとも、気軽に登れる東京の富士山「富士塚」、意外と皆さんの近くにあるかも。どれひとつとして同じものはありません。