富山治夫写真展「OUR DAY」
「Water Shortage 水不足」(『世界』表紙、1996年11月号) |
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「過密」を写真で表現しなさいと言われたら、あなたなら何を撮ろうと思うだろうか。すし詰めの満員電車、過密ダイヤ、過密スケジュール……言葉をそのまま置き換えた写真では面白くないことに気づき、嘆息するはずだ。
「朝日ジャーナル」が1964年9月13日号から始めた人気連載企画「現代語感」は、当時の新聞、雑誌で頻出していた2文字熟語を選び、写真部員と作家たちに競作させた。そこで写真家は時代の流れを鋭敏に捉えつつ、その言葉から新たなイメージを広げ、1枚の写真に切り取った。
「今起きていることに対して、『何故?』と問いかけること。それが写真なんだ」と富山さんは言う。
以来、このシリーズは発表舞台を変えながら、およそ40年、連載が続けられた。本展では1997年以降、富山さんがデジタルカメラを使い始めてからの写真を展示している。
会期は2011年6月21日~7月15日。開館時間は10時~17時半。日曜、祝日休館。入場無料。会場のオープンギャラリーは東京都港区港南2-16-6 キヤノンSタワー2F。
富山治夫さんは1935年、東京・神田生まれ | 展示風景 |
■写真と言葉の共鳴
写真は本来、言葉による説明はいらず、写真だけを見て、感じ、楽しめるものだ。ただこの「現代語感」シリーズでは、写真の解説ではない一語を添えることで、写真と言葉が共鳴して、それだけでは見えなかった何かを浮かび上がらせる。
地下道の鏡の前で抱き合うアベックの横を、女性が通り過ぎる1枚には「総会屋」(『月刊現代』1998年1月号)との言葉が添えられている。どんな関係があるのかと首をかしげる向きもあるだろうし、クスッと可笑しさを感じる人もいるだろう。
「当時、企業の株主総会で暴れる総会屋が社会問題になっていた。そんな時、偶然、こういう場所に居合わせた」
「総会屋」(『月刊現代』1998年1月号) |
そのほか被写体は取材で赴いた場所もあるし、狙ったイメージを探して撮りにいったこともある。さまざまな要素が混在して「現代語感」シリーズは成立している。
■出版写真部のカメラマンが競い合う
朝日ジャーナルの連載では、写真は朝日新聞社の出版写真部が担当した。部員は24名いて、その前年の63年より富山さんは嘱託カメラマンとして在籍していた。執筆陣は安部公房、飯沢匡、井上光晴、大江健三郎ら12名の錚々たる顔ぶれだ。
「2文字の言葉を執筆者が選び、文章を書く。カメラマンは一つの言葉に対し、デスクが何人かのカメラマンを割り振って、撮りに行かせる。締め切りの日にすべての写真を机の上に並べ、デスクが1枚を選ぶ。その緊張感は凄かったよ」
同誌では68回の連載中、富山さんの写真が誌面を飾ったのは42回。その結果、現代語感イコール富山治夫となり、連載終了後、「カメラ毎日」、「話の特集」、「太陽」といった雑誌で続けられることになる。
「大事なのは執筆者もカメラマンも、その言葉から自分のイメージを脹らませて文章と写真を作り上げたこと。文章は写真の解説ではないんだ。お互い、誌面に載って、初めて見るんだから。そのぶつかり合いが面白かった」
「Pianist on the Roof 屋上のピアニスト」(『潮』1995年8月号) |
■写真が持つ強さは?
連載初回のテーマが「過密」だ。この言葉から富山さんは「小さな日本国に人があふれているようなイメージ」を発想し、高校通学時に目にしていた都電の安全地帯(車道の中央に設置された停留所)で人が待つ光景を当てはめた。
通勤ラッシュの時間に3日間通い、撮影した1枚が誌面を飾った。
「より良い写真をと思って撮りに行ったけど、選んだのは最初のショットだったよ」
「賢人」(1965年8月1日号)では、道に座り、通行人から施しを乞う人を写した。その中年男性は銀座4丁目の交差点にいて、夕方、帰り支度を始めた彼を見かけた富山さんは、そのあとを追ったそうだ。
東京駅で服を着替え、私鉄に乗り換え、駅を降りて向かった先は一戸建ての家だった。
「『ただいま』と彼が言う声を聞いて、引き返したんだけどね」
もちろんこのエピソードは誌面には一切出されていない。
「Conversion 転換」(1965年12月26日号)は、膨大な数の人の顔型をとったマスクが置かれた光景だ。ある美容整形外科が施術前の患者の顔からとったものだが、もちろんそういった背景の説明はしていない。
「何かわからなくても、伝わる怖さとか、不気味さがある。なんだろうと想像をかき立てられながら見る、そこに写真が持つ強さがあると思う」
なお、この「現代語感」は1978年にニューヨークのI.C.P.と、1999年には北京の中国美術館、その後、パリでも写真展を開き、それぞれ大きな話題を呼んでいる。
■1997年からデジタルへ移行
富山さんは中学を卒業し、4年半、紡績工場で働く。その後、兄の時計店を手伝いながら、独学で写真撮影と暗室技術を習得し、DPE店を開業した。
「最初、何度現像しても真っ黒のネガしかできなかった。悩んだ末、友人に教わりに行くと、彼は暗室に入ったら電気を消した。どの本にも『部屋の電気を消す』なんて書いていなかったんだよ」と富山さんは笑う。
「Big Bang ビッグバン」(『月刊現代』1997年8月号) |
撮影会にも頻繁に参加し、月例コンテストでは常に入選者に名前が入った。1958年に、撮影仲間から紹介され、創刊したばかりの「女性自身」の嘱託カメラマンとなり、その後、朝日新聞社へ移っている。28歳の時だ。
1997年から、デジタルカメラに切り替えたきっかけは、写真集「禅修行」での取材だ。永平寺で、暗闇の回廊を走る僧侶を撮影するために、試行錯誤した後、EOS DCS 3(1995年7月発売)、同1(1995年12月発売)を使うと、彼らの姿を写し込めた。
「十数万円分のフィルムを買い、冷蔵庫も用意していったんだけど、ほとんど必要なかったね。もったいなかったなあ、あれは」
■時代が変わったのか?
本展には展示されていないが、「The Critical 臨界」(『世界』1999年12月号)という1枚がある。逆光で入る光の円を周囲に入れ込みながら、剃髪した男性の横顔を捉えた。ただ、その彼の耳の上には、四角く黒と白の縦線が入っている。頭の中が覗ける檻のようにも見えるけど、痣ってことはないよなと思考は巡る。
これは自宅に僧侶の知り合いが遊びに来た時、このイメージをひらめいたそうだ。頭を貸してくれと彼に頼み、バーコードを貼った。
「東海村で臨界事故があった頃でね。僕の写真のベースは冗談なんだよ」と富山さんは韜晦の弁を述べる。
1990年代の終わりから、「時代を象徴する言葉の面白さが減ってきた」と富山さんは感じ始めたそうだ。最近の新聞から、いくつか拾い集めてみると、格差、放棄、先送り、孤立、想定外……。国としてのまとまりがほつれつつあるのかもしれない。
さて、これらの写真から、どんな「何故?」を感じるだろうか。このシリーズを写真集にまとめた「現代語感 1960-2004 OUR DAY」(2004年講談社刊、3,990円)も出版されているので、本展を入口に、そちらも手にされることをオススメする。
「東京・立川」(『世界』表紙、1995年5月号) |
2011/6/27 00:00