山岸伸の「写真のキモチ」
第53回:「山岸伸写真展」の歴史
個展開催数40回以上、共同展50回以上
2023年8月31日 12:00
私の写真展の始まり
今から35年前、38歳の時に開催した写真展「KAO’S」が私にとって初めての写真展。コダックフォトサロンがまだ銀座並木通りにあり、その前には東洋現像所があってちょっとした写真の町になっていた。この場所で写真展を開催することは私にとって憧れだった。ちょうど米米CLUBも上り調子の頃で、祝花は会場に収まらず外まで並び、お客様もたくさん来てくれた。パーティーの時は米米CLUBの方や芸能界で言えば演歌歌手の長山洋子さんなどたくさんの方が来てくれて警察が交通整理に出動する事態になるほどだった。
当時は最初で最後のつもりでこの写真展を開催させてもらったが、ここから想像もしていなかった数の展示機会を得ることとなる。今回はその一部をお見せしたい。
広がり続けるテーマ
当時、月刊「CAPA」という写真雑誌の表紙撮影を担当していた。たくさんのアイドルや女優さんたちを撮らせていただき、キヤノンサロン銀座で写真展を行うことができた。とても賑やかな写真展だった記憶がある。キヤノンサロンもまだ銀座5丁目で、後に3丁目に移転し名前がキヤノンギャラリーに変わって今でも銀座にある。一度新しいキヤノンギャラリーでも写真展をやってみたいと思っている。……そんな機会があればいいな(笑)
豊臣秀吉と北政所ねねの寺としてよく知られる京都東山高台寺には我が家のお墓もあり縁が深く、写真展を開催することに繋がった。会場の富士フォトサロンは数寄屋橋の2階にあったが今は大きくなって六本木に越していった。ギャラリーの歴史も肌身で感じてきたが故に新しい地でも、という願望がどうにも湧いてくる。加えて今年初めて「富士フィルムフォトコンテスト」の自由写真部門を審査することもあって、お願いしたい気持ちでいっぱい(笑)。一度六本木のフジフイルム スクエアでも写真展を開催することが展示に関しては人生最後の夢かな。
私にとっては西田敏行さんが写真を教えてくれたと言うくらい、写真の心を学ばせてもらった人。この写真展は私が思う西田敏行像だった。今回も思い出すのは今から12年前に西田さんにいただいた「あなたの人生は自分を生きるだけじゃなく他者の人生も生きた欲張りの人生です」という言葉。たくさん写真を撮ってきた結果、西田さんがこう言ってくれたんだと思う。
さあ、私がオリンパスにお世話になった第1回目の写真展がこの「世界の光の中で」。当時は神田小川町にあり、1階だけでなく2階のホールまで使用した大きな写真展となった。こちらも現在は新宿に移転した後、OM SYSTEM GALLERYと名称が変わったね。まだデジタルカメラが今のようなクオリティではない時代にオリンパスのカメラでいち早く写真展をしたことが私の自慢。この時から私はカメラマン人生において「世界の光の中で」というテーマをずっと持ち続けている。
瞬間の顔は2007年のVol.1から始まって2022年のVol.14で終止符を打った。1年に60~100名を撮影し毎年発表を続けて撮影人数は1,018名に達した。
私がライフワークとして撮影しているばんえい競馬。直近では7月末に行って朝調教や競馬場周辺の様変わりに驚きながら撮影をしてきた。コロナ禍ではなかなか撮影に行くことが出来ず、早く早くと焦るばかりだったが今回は新しい場所を見つけて最高の1枚を撮ることができた。
OLYMPUS PENを手にしてから日夜カメラを離さず撮影の合間にも撮り続け、PENと共に旅をした。私が気に入っているアートフィルターで撮影した女の子たちの作品群。2010年にオリンパスギャラリーで開催した写真展を再度フレームマン.ギンザ.サロンで展示させていただいた。
私が2008年冬に慢性骨髄性白血病という病にかかり、少し苦しんでいるときにキヤノンさんから「ギャラリーSで写真展をやりませんか」と優しくお声がけいただいた。このような立派な写真展会場でできたことは大満足の一言。タイトルを「カメラマン」と題したのはカメラマンという肩書きを背負って一生生きていくという固い決心の表れ。
どんどん撮影テーマが広がっていき興味があるものを撮っているうちに京都最古の神社である世界文化遺産 賀茂別雷神社の第42回式年遷宮を全て撮らせてもらうことになり、2度に分けオリンパスギャラリーで写真展を開催した。2021年に1度の式年遷宮を残し発表できたことは私の生涯の宝。
さあ、面白いものでデジタルというものにいち早く取り組んできた結果、オリジナルさえあれば今の技術である程度アーティスティックな写真へと更に生まれ変わることができる。30年前の写真がこうして蘇りたくさんの人に見てもらえる。場所は品川のキヤノン オープンギャラリー。会期中には定員400名で米米CLUBの石井竜也さんとジェームス小野田さんとトークイベントを開催し、始まって以来の観客数だったと当時の担当の方から聞いた。それはそれは本当に楽しかった。これだけの人数の前で自分の写真を見ながら一緒に話すことができ、私にとって非常に勇気と自信をつけてくれた。
ある時出会ったひとりの農業女子、その方の紹介で農業女子を撮り始めた。この時エプソンさんとは特別お付き合いは無かったが、東京写真月間の絡みで写真展を開催させていただいた。会場で撮影をした農業女子の皆さんと顔を合わせ写真を見ながら話をすると「自分はこんなにいい企画をやっていたんだな」と再認識できて今も撮り続けている。当時はカメラ誌のフォトテクニックデジタルで、そして少し間が空いて現在はフォトコンで「新・農業女子に会いたい」を連載中。
ソニーイメージングギャラリーで初めて女性ポートレートの写真展を開催させていただいた。モデルは竹内茉音さん1人、そして平成最後の夏というのも印象深く残る。自分が撮っているグラビアの延長線で写真展ができたことで、また自分の新境地を開けた写真展だった。
銀座の吉井画廊さんは画廊と言っても写真との縁もとても深いところ。吉井社長から「1度ここでやってみたらいかがですか」と提案いただいて写真販売も兼ねての開催。初の試みで非常に不安だったが、なんとかマイナスにならず開催を終えることができた。これを機に写真を販売するということを常に考えている。モデルとなった高岡千恵さんの和彫りアートは現在進行形でついこの前撮影を終えたばかり。これからを彼女と思案中だ。近々雑誌で10ページほど発表予定だが将来的には海外で作品を販売したいと思っている。
ここから本格的にライカを使い始め、初めて夫婦で写真展を開催することができた。個々に作品を出し合い会場に飾ることができたのは夫婦としても誇りであり間違いなく生涯の思い出だ。
「瞬間の顔」から「KAO-日本の顔-」というタイトルに変え、カメラメーカーのギャラリーから離れて初めて大きな会場で写真展を開催することができた。来年も7月頃に開催予定で今撮影を開始したばかり。
7月に大洋図書から出版した華彩なな写真集「キセキ」。そのデザインを三村漢さんにお願いした関係から、ななさん本人が三村さんのギャラリーで写真展をやってみたいということで開催が決まった。今回は全て三村さんにプリントのチェックや諸々含めてお任せしているのですごく楽しみ。写真集から写真展へ、そしてそのアートディレクションを一貫して担当してもらうのもまた新しい試みとなった。
先程も少し触れたが輓馬(ばんえい競馬)の撮影もまだまだ続く。私の写真は常にテーマごとに撮影期間が長く、最低10年かかっている。ほんの数回の撮影ではどうも納得がいかない。1度でいいから短いスパンの作品を撮って写真展ができたらと思うが基本的に写真があまり上手じゃないのかな(笑)。長く撮ってお見せするというのが私の写真展の考え方。まだまだたくさんのテーマを進行中です。
掛け算で見える景色
共同展も50回以上と数多く開催してきたが、これは一部をピックアップしたもの。ありがたいことに若い頃は本当に数多くの共同展に誘われ参加してきた。いつの間にか声がかからなくなったけどね(笑)。
これは3人展と言っても当時はT-FMで放送していた「山岸伸 世界の光の中で」というインターネットラジオ番組で私が企画・プロデュースをして3人別々のオリンパスのカメラを持ってN.Y.で自由に写真を撮り歩こうというものだった。同年にニューヨーク・フォトガイドブックとして書籍も出ている。カメラマン同士の共同展はもちろんだが、職業の垣根を越えて一緒に何かをするとまた新しい景色が見える。
球体関節人形もまた私が10年以上撮り続けている被写体。球体関節人形作家 大竹京先生とのコラボで創作人形展と写真展を合同でおこなった。2011年の東日本 太平洋沖地震及び長野県北部の地震を受け、震災に見舞われた大竹先生は祈りながら作品「エンジェル」を制作された。特に親を亡くされた子どもたちのために何かできないかと共に話し合い、売上の一部を寄付させていただいた。
ライカでの2人展の後も、嫁の佐藤倫子と2人での企画を進めていた。帝国ホテルが建て替えられるにあたり帝国ホテルの記憶を写し残そうと。撮影を続けながら帝国ホテルプラザ東京にてその作品を展示する運びとなった。会期を4回に分け、徐々に展示スペースの拡大や変更がある。現在は第2期として2~4階を使用して展示中。9月8日からは第3期として展示がスタートする予定だ。
歴史がまた背中を押す
写真展の開催は何度回数を重ねても常に緊張感が張り詰める。「これが自分の写真だ」「自分の写真には悪意が存在せず、自分なりのシンプルな好意や応援の意でしかない」「そして謙虚に粛々と」という軸がありながら、同時にお客様が来てくれるかどうか、見る人の目にどう写るのか、どう捉えられるのか。その緊張感がどこか心地よく、気が引き締まる思いでまた次へと背中を押してくれる。そして振り向けば確かな自分の歴史と自分と関わったものの歴史が残っている。これからまだまだ、やれる限りはやっていこうと思う。