小林稔の「クルマとカメラの半世紀」
デジタルカメラの進化でル・マンの夜が変わった
フィルムからデジタルに完全移行した2000年
2026年5月12日 07:00
JRPA(日本レース写真家協会)会長を務め、日本を代表する4輪レース「SUPER GT」「スーパーフォーミュラ」のオフィシャルカメラマンとして活動する小林稔氏。48年間にわたってレンズを通じて世界のモータースポーツシーンを見つめ続けてきた小林氏の証言から、技術革新と撮影現場の変遷をたどります。
今回は、フィルムからデジタルへの「完全移行期」となった2000年代のエピソードを中心に、ル・マン24時間の撮影手法を根本から変えた機材の進化、当時の過酷な舞台裏を伺った。(編集部)
「フィルム運び屋」の全社紛失事件と、盗難のリスク
デジタル以前の海外取材は、撮るだけでなく「届ける」ところまでが戦いだった。F1ブームの頃、速報誌の締め切りに間に合わせるため、土曜の予選が終わるとフィルムだけを抱えて日本へ飛んで帰る「フィルム運び屋」と呼ばれる担当がいた。編集部員が務めることもあれば、フォトグラファーが担うこともあったという。
「ある時、空港でその運び屋が全社のフィルムを盗まれるという大事件が起きました。予選の全データが消えるわけですから、現場は騒然です。だからこそ、食事中もカメラバッグのストラップを足に引っ掛けておくのは鉄則でした。イタリアのホテルで、朝食の隙に部屋へ入られてクレジットカードを抜かれたこともありましたね」
そうした時代が変わり始めたのが、2000年代の入口だった。2001年12月に登場したEOS-1Dは、小林さんが翌シーズンから実戦投入した最初の本格的なデジタル一眼レフカメラだ。メインとなるフィルムカメラ2台にデジタルカメラ1台を加えた重い機材を抱えながら、急ぐ場面はデジタル、残すべきカットはフィルムという使い分けが続いた。それでも、現場の空気は確実に変わりつつあった。
2002年ル・マン:EOS-1Dによる「新聞全面広告」ミッション
小林さんにとって、デジタルの可能性を確信させた大きな仕事が2002年のル・マン24時間レースだった。当時、日本のプライベーターとして参戦した「チーム・ゴウ(アウディ)」の写真を、アウディ ジャパンが翌日の新聞全面広告に使いたいというオーダーが入った。
「ル・マンを走っている写真は、その本番でしか撮れない。しかし翌日には日本で広告を出さなければならない。当時はEOS-1Dが出たばかりでしたが、フランスの現場からデジタルデータを送ることで、このミッションをやり遂げられました。モータースポーツの現場でデジタル写真を海外から送ること自体は以前にもありましたが、私にとって、これが初めての経験でした」
「EOS-1Ds Mark II」でオールデジタルへの決断
2000年代前半は、秒間8.5コマの「EOS-1D」、フルサイズの「EOS-1Ds」、そしてフィルムの「EOS-1V」を状況に応じて使い分ける過渡期が続いた。
本格的な「脱フィルム」を決意させたのは、2004年登場の「EOS-1Ds Mark II」だった。
「約1,670万画素という解像度は、当時の中判フィルムに匹敵するインパクトがありました。実際にテストして、雑誌のA3見開きに耐えられると確信した瞬間、『もう重い中判カメラを現場に持ち込まなくていい』と。ここから完全にオールデジタルへ舵を切りました」
この決断の背景には、長年の「フィルムとの比較」があった。
「デジタルを使い始めた頃からずっと、フィルムを超えられるかどうかだけを見ていました。ついに同じ水準に達したと実感した時の感慨は、言葉にしがたいものがありました」
この頃、デジタル移行の波は業界全体にも広がりつつあった。小林さんの長年の苦労を知らなかった周囲のカメラマンたちが一斉にデジタルへと移行し始めた時、小林さんは意外な言葉をかけられたという。
「みんなデジタルに移ってみて、初めてその大変さを実感したようです。『こんな大変なことを、何年も前からやっていたんですね』と、随分言われました」
さまざまなメーカーのカメラを手にする機会も増えていった。ニコンのD2Hや、フェラーリのスポンサーだったオリンパスのE-1でF1を撮る企画など、機材ごとの特性や課題と向き合う日々が続いた。
「どのカメラにも、そのメーカーならではの良さがある。新しい機材がどんなものか、とにかく知りたくなる。現場で感じた率直な意見は、できる限り各社の開発担当者に伝えるようにしていました」
ニコンD3が、ル・マンから休息を奪った
そして2007年末、ニコンD3の登場がル・マン24時間の撮影スタイルを根本から変えてしまう。
それまでのル・マンは、光の読み合いで成り立っていた。15時のスタートから日没の21時半まで撮り続け、完全に暗くなる夜間はピットやストロボを使った撮影に切り替える。朝日が出る頃から再び動き始め、太陽が高くなって光が平坦になる9時から12時頃に、ようやく一息つく——それがD3以前のル・マンのリズムだった。
「フィルム時代、ISO 400でも粒子の荒れが気になり、実際にはプロビアを+1増感したISO 200がギリギリの選択でした。そのため夜間は流し撮りしか選択肢がありませんでした。ところがD3の高感度は別次元。ISO 1600やISO 3200が実用域に入ったことで、真っ暗な雨の夜間走行を止めて撮れるようになったんです」
この進化は、しかし、カメラマンに過酷な現実をもたらした。
「夜でも撮り続けられるため、ホテルに戻る理由がなくなりました(笑)。メディアセンターを行き来して限界まで撮り続け、太陽が昇って光が平坦になるまで休めない。カメラマンの体力を根こそぎ削ってくるような機種でしたね」と当時を振り返る。
その場で確認できる、という革命
デジタル化の最大の恩恵は「その場で結果が分かること」だ、と小林さんは言う。
「フィルム時代、ピントや露出の失敗に気づくのは日本に帰って現像した後でした。改善できるのは、1年後のル・マンだけ。それがデジタルなら、夕日の色をその場で確認して、次の周回で露出を補正できる。試行錯誤のサイクルが1年から1分に縮まった」
小林さんはこの変化を、「写真が簡単になった」という言葉で表現する。ただしその真意は技術の単純化ではなく、露出判断の精度にある。
「フィルムの頃は、露出が正しいかどうか現像するまで分かりません。だから段階的に露出をずらして複数枚撮り、どれかが当たればという撮り方をしていた。それがモニターで即座に確認できるようになったことで、難しい光の条件でもその場でほぼ答えを出せるようになった。ル・マンのような撮影環境では、これは根本的な変化でした」
デジタル化とともに歩んだ2000年代は、Webメディア(デジカメ Watchも2004年開設)が成長するインフラとなり、写真の「速度」が極限まで高まった時代でもあった。















