クルマとカメラの半世紀
EOS DCS3が拓いた新時代 1997年のF1鈴鹿GPで証明したデジタルカメラの可能性
2026年3月5日 08:00
JRPA(日本レース写真家協会)会長を務め、日本を代表する4輪レース「SUPER GT」「スーパーフォーミュラ」のオフィシャルカメラマンとして活動する小林稔氏。48年間にわたってレンズを通じて世界のモータースポーツシーンを見つめ続けてきた小林氏の証言から、技術革新と撮影現場の変遷をたどります。(編集部)
ベルビア時代の到来とフィルム技術の完成
1990年代初頭、小林稔氏はフジクロームベルビアの登場に魅力を感じていた。コダクロームから乗り換えた理由は明確だった。
「使ってみたら、結構色が派手で、しかもすごくきめ細かくて粒状性も良かったのです」
現像処理の速さも大きな魅力だった。コダクロームが時間を要する中、ベルビアは2時間程度で仕上がる。報道写真において、この差は決定的だった。
「ベルビアいいよねって話になって、周りが一気にベルビアに変わりました」
ベルビアの最大の魅力は、その独特な色彩表現だった。
「ベルビアの色は面白くて夕景とかにぴったりなので、フィルターもあまり使わず、ベルビアをそのまま使うのが1番良かったのです」
PLフィルターを使わなくても鮮やかな発色が得られる特性は、撮影現場での機材簡素化にも寄与した。この時代に培われた色彩感覚が、現在の小林氏の作風の基礎となっている。
フィルム技術がピークに達した90年代前半、小林氏は1レースあたり30本程度のフィルムを使用していた。しかし、写真業界を根底から変える技術革新が静かに始まっていた。
1995年、デジタルカメラとの出会い
小林氏のデジタルへの関心は早くから芽生えていた。1990年のPhotoshop登場時期から、Macintosh Quadra 840AVを使ってビデオ映像を静止画に変換する実験を行っていた。
「ビデオで撮って複写してデータにしたのですが、別にそれが何に使えるわけでもなかったのです」
当時Photoshop 2.5を使用し、画像加工の可能性を探っていた。デジタル画像への興味は人一倍強かったという。
真のターニングポイントは1995年、キヤノン EOS DCS3の発表だった。これまでのレンズ一体型のデジタルカメラとは異なる、一眼レフカメラベースのプロ仕様機材だった。
130万画素という当時としては画期的なスペックだったが、実際の使用には多くの制約があった。記録メディアも特殊で、ハードディスクカードを使用していた。
DCS3との最初の出会いは、1995年のモーターショーだった。メーカーからの借用機材で、業務での初めてのデジタル撮影を体験することになる。
このテスト撮影は、後の本格的なデジタル移行への重要な第一歩となった。静止した車両の撮影であれば、DCS3でも十分な結果が得られることを確認できたのである。
しかし、画質面では明らかな課題があった。130万画素という解像度の制約に加え、色再現性にも問題を抱えていた。
特に微細な色の変化を表現することが難しく、グラデーションが滑らかに再現されずベタ塗りのような平坦な印象になってしまうことが多かった。色が出しにくいという根本的な問題は、フィルムに慣れ親しんだ写真家にとって大きな違和感として残った。
1996年F1鈴鹿、歴史的なデジタル撮影
小林氏がモータースポーツにデジタル撮影を取り組んだのは1996年のF1日本グランプリだった。翌年の1997年には雑誌社から「スタートシーンを速報で見開きに使いたい」という依頼があり、初めてF1をデジタルで撮影することになった。
DCS3では解像度が不足すると判断し、より高性能なDCS1をメーカーから借用することになった。DCS1は600万画素の高解像度を誇る当時最高峰のデジタル一眼レフカメラだった。フィルムカメラと2台体制で撮影に臨んだ。
厳しい技術的制約
しかし、現実は厳しかった。バッファ容量とデータ書き込み速度の制約が想像以上に深刻だった。
「スタートして1コーナーに来るまでに2枚ぐらいしか撮れないのです。書き込みに時間がかかるので」
バッファ容量の制約により、連続撮影は実質不可能だった。「3枚ぐらい撮ると、次の周まで戻ってくるまでぐらいで、やっと書き込みは終わる」
フィルムならF1のスタートシーンで何十枚も連続撮影できるが、デジタルでは狙いを定めて確実に撮る必要があった。「フィルムよりもっとたちが悪くて、数枚しか撮れないのでデジタルのメリットが活かせないもどかしさがあったのです」
データ伝送の苦闘
撮影以上に困難だったのがデータ伝送だった。1コーナーで撮影した写真を、編集部員が受け取り、メディアセンターへ運ぶという原始的な方法を取った。
当時のネット環境でのデータ送信は気の遠くなる作業だった。小林氏がスタート撮影からレース終了、表彰式まで撮影してメディアセンターに戻っても、まだ1枚目の写真を送信中だったという状況だった。
それでも、その日のうちに雑誌の見開きページとして掲載できたことは画期的だった。
──しかし革新的な取り組みにも関わらず、周囲の反応は冷淡だった。
「撮影が終わってメディアセンターに戻ってきて、セレクトなど後処理をするわけですが、当時はみんなフィルムだから、終わったら『今晩何食べに行くか』って帰ってしまうのです」
デジタル機材を使う小林氏は1人メディアセンターに残り、深夜まで画像処理に追われた。
「デジタルって大変なんだってみんなに言われました」
ほかのカメラマンたちは保守的で、当時はデジタルカメラへの関心は薄かった。
未来への確信
厳しい制約と周囲の無理解にも関わらず、小林氏はデジタルの可能性を確信していた。速報性という報道写真の根幹に関わる革新を体験したからだ。
「このタイミングでちゃんと見開きができたわけですね。デジタルなら新しいことができるじゃないって話」
90年代はフィルム技術の完成期でありながら、同時にデジタル革命の萌芽期でもあった。小林氏のような先駆者がいたからこそ、現在の撮影環境が実現している。
90年代だから、半分フィルムで半分デジタルという状況は、技術移行期特有のものだった。しかし実際には、デジタルの用途は極めて限定的だった。
「デジタルは速報用の新聞を作るためだけのものだったので、フィルムと併用していたのです。デジタルとフィルム、両方を持って撮影していました」
用途別使い分けの現実
デジタルカメラの使用目的は明確に限定されていた。最も重要な用途はフォーミュラ・ニッポンでの予選速報新聞の作成だった。
予選日にデジタルで撮影し、その日のうちに新聞形式で速報を作成する。ポールポジションを獲得した車両やドライバーの表情など、翌日の決勝レースへの期待を高める情報を即座に提供できた。
「ポールポジションの車は予選の日に撮らなくてはいけないし、ドライバーの顔も撮らなくてはいけないので、本当にその新聞を作るためだけに使っていたのです」
決勝日は従来通りフィルムで本格撮影を行い、予選日はデジタルで速報対応という合理的な使い分けが確立されていた。
小林氏の「予選速報新聞」の取り組みは、カメラメーカーの開発陣にとって救いの手となったと話す。
「このカメラをどうするんだという話だったらしいのです。せっかく出したものの、フィルムより良くないし何に使えるのか、何のためにこのカメラを作ったのかと。結構反対派が多かったそうです」
DCS3は技術的には画期的だったが、実用面での用途が見えていなかった。新聞社もネガカラーのシステムを既に構築しており、デジタルへの移行に消極的だった。
「新聞社は当時みんなネガカラーのシステムを使っていて、既にそのシステムを構築してしまっていたから、デジタルには変えられないと言うんですよ。結局、ほとんどの新聞社は使ってくれなかった」
そこで小林氏の活用事例が重要な意味を持った。
「僕が予選速報新聞みたいなことに使えるって示したことが、メーカー側にとって追い風になったっていう話なんです。雑誌だとかそういうところだったら、結構いけるんじゃないかって話になって」
この成功例により、メーカーは雑誌媒体での用途開拓という新たな方向性を見出すことができた。
90年代の印象的なレースシーン
90年代で最も技術的に印象深いのは、やはり1997年のF1鈴鹿でのデジタル撮影だった。撮影された鈴鹿サーキットのスタートシーンは、モータースポーツ界でのデジタル撮影の歴史的な第一歩となった。
また、この時代はグループAの全盛期でもあった。現在のSUPER GTの前身である全日本GT選手権もはじまり、日本のモータースポーツシーンは非常に盛り上がっていた。
フィルム面では、ベルビアの導入により色彩表現が劇的に変化した時期でもある。「ベルビアの色は面白かったので、夕景などにはやっぱりぴったりでした」という通り、現在の小林氏の作風にも繋がる色彩感覚の基礎がこの時代に築かれた。
業界での注目度
小林氏の先駆的な取り組みは業界内でも注目を集めていた。1996年にはCPS(キヤノンプロフェッショナルサービス)のニュースで、DCS3を使用する小林氏の活動が特集として取り上げられた。
これは当時のデジタル撮影がいかに珍しく、注目すべき技術だったかを物語っている。













