写真展レポート

自動車写真家・小林稔がクルマと共に歩んだ約半世紀の記憶

写真展「CHASING GRACE」

小林稔氏

写真家・小林稔氏が、約半世紀にわたるモータースポーツとクルマの撮影活動を総括する写真展「CHASING GRACE」がキヤノンギャラリーSで開催されている。

会場では、ル・マン24時間をはじめとするレースの報道写真と、時代ごとのロードカーを捉えた作品を年代順に展示。人とクルマが共に戦う時間に生まれるドラマ、そして造形に込められた精神を、小林氏独自の視点で切り取った作品群が並ぶ。

当サイトの連載企画でキャリアの詳細は伺っているが、今回は写真展という「総括の場」に焦点を当て、展示への思いや作品選びの背景、そして来場者へのメッセージを聞いた。

年代順展示に込めた意図──時代と共に歩んだ約半世紀

今回の写真展では、1978年から2025年までの作品を年代順に展示している。展示点数は約200点、映像作品を含めると600〜700点という大規模なものだ。

モータースポーツとロードカーで分ける、シリーズごとにまとめる……様々な選択肢があった中で、なぜ年代順での展示を選んだのか。

ホンダ NSX(提供:小林稔氏)
1996年/全日本GT選手権(提供:小林稔氏)

「70歳という節目もあって、今年で写真家として48年が終わったわけです。どうやってまとめようかと考えた時、やっぱり時間、時代がいいのかなという結論になりました。デザイナーと話し合って決めました」

年代順という構成は、小林氏自身の歩みであると同時に、モータースポーツと自動車デザインの変遷を追体験できる仕掛けでもある。1980年代のグループC時代、1990年代のデジタル化の黎明期、そして2000年代以降の技術革新。それぞれの時代が、写真を通じて鮮明に浮かび上がる。

写真展の会場には、小林氏が使用してきたカメラやプレスパスも用意。キヤノン ニューF-1にNew FD85mm F1.2L、EOS-1N RSにEF200mm F1.8L USMという、80年〜90年代に小林氏が愛用した組み合わせが展示されている。

左からプレスパス、撮影機材、撮影用の耐火服

膨大なアーカイブからの選定──1年半の格闘

約200点という展示作品を選ぶまでには、想像を絶する作業があった。

写真展の開催が決まったのは約1年半前。その時から小林氏は、自分が撮影した写真を思い出すたびにメモを取り続けた。「あの時こういう写真撮ったな、イタリアのあそこで撮ったな。思い出すたびに書いていきました。自分の記憶ですね、思い入れが強い写真だと思うんです」

写真は年代で並べられている

カーグラフィック時代の写真は、資料室に保管されている。しかし、自分が何を撮ったか覚えていないため、在籍期間のバックナンバーを全て見返すことから始めた。フリーランス時代のフィルムも、何ヶ月もかけてルーペで確認する作業が続いた。「NGカットは処分していたはずですが、それでも大変な量でした。何ヶ月もかかりましたね」

1980年/F1イギリスグランプリ(提供:小林稔氏)

デジタルデータの扱いも困難を極めた。1996年頃からデジタルカメラを使い始めた小林氏だが、当時のデータはCDに焼いて保存されていた。「CDが読めるかどうか確認して、読めた瞬間に全部ハードディスクにコピーする作業をやりながら、フィルム写真を探す作業を並行してました」

フィルムだけで約1,000枚を選び出し、そこからデザイナーと相談しながら絞り込んでいく。

「展示できなかった写真はプロジェクターで流しています。来るたびに、こっちの写真じゃなくてあっちにすればよかったなと思うこともあります。でも、正解はないんです。自分が撮ってきた写真ですから、偽りもない。ベストを尽くしたと思います」

フィルムとデジタル──「決定的瞬間」の意味

年代順に並んだ作品を見ていくと、フィルムからデジタルへの移行が如実に感じられる。

「フィルム時代は36枚撮りを20本で、720枚。今はワンセッションで1,000枚以上撮ってます。何撮ってるのかって思いますよ」と小林氏は笑う。「僕はまだフィルム上がりだから少ない方です。今の若いデジタルの人たちは半端ないですよね」

この枚数の差は、撮影スタイルの根本的な違いを生んでいる。「今は連写でバーッと押しといて、その中から拾う。でも、フィルムの頃はそう押せなかった。その差はありますね」

改めて当時の写真を見返して、小林氏は複雑な思いを抱いたという。「なんでこの間がないのかな、間があればよかったのにって思うわけです。それを考えると今の方がいいのかもしれない。確実に記録するという意味では。でも、その時代の道具で一生懸命やってたから、許してあげようって自分に思いました」

プロジェクターで上映しているデジタル初期の2004年頃までの作品を見ると、色の再現性に苦労した痕跡が残っている。「初期のデジタルは色が出なくて、本当に苦労しました。ベタッとした色になっちゃう」。当時モータースポーツでデジタルカメラを持っていたのは小林氏だけだったという。そういった黎明期に撮影された貴重なカットも、今回の展示には数多く含まれている。

スクリーンでは1980年〜直近までの約450点の作品を上映している

光への執着──ル・マン24時間が教えてくれたこと

展示作品を見渡すと、ル・マン24時間の写真が圧倒的に多い。

1989年、初めて訪れたル・マンで撮影したメルセデス・ベンツのカットは、小林氏にとって特別な1枚だ。

1989年に小林氏が初めて取材したル・マン24時間レース。当時の様子を語ってくれた

「1970年代に『栄光のル・マン』っていうスティーブ・マックイン主演の映画があって、それを見てからずっとル・マンに行きたいなと思ってたんです。それが叶った時は本当に嬉しかった」

映画で見た景色が、実際にそこにあった。「映画で見た場所が、まだこの頃は変わってなかったから、当時と同じように見ることができたんです。ピットの裏とか結構汚かったりするんだけど、そこでスティーブ・マックインがこうしゃがみ込んでたりとか、そういうシーンがあって。『あ、ここじゃない』『ここだ、あれここだ』みたいな。そういう確認をしてました」

憧れの地で撮影した初めてのル・マン。その興奮と感動が、1枚の写真に結晶している。

「自分の中では、やっぱりドラマが撮れるレースなんです。そういう意味ですごく面白い」と小林氏は語る。

1989年/ル・マン24時間レース(提供:小林稔氏)
2012年/ル・マン24時間レース(提供:小林稔氏)

「心を動かしたい」──来場者へのメッセージ

小林氏にとって、この写真展は自分のためというより、来場者のためのものだという意識が強い。

「やっぱりお客様にどれだけ喜んでもらえるかっていうのを考えちゃう。この写真展も、来てくださった方が楽しんでいただければ。すごくお客さんの意見と気持ちと感想が気になってて、知り合いが来ると『どうだった』って聞きたくなるんです」

特に意識しているのは、写真を見た人の心を動かすことだ。

「すごく軽い言い方になっちゃうけど、おじさんたちを泣かせたい。時代時代でモータースポーツを見てきた人たちが、その写真を見ることで『懐かしいな、この車ね、あの時こんなだった、このレースね』って思ってくれるのがまず第一。そこからもうちょっと深く、80年代や90年代の写真を見て『この頃って自分はこんなことしてたな』って、思いが広がったらすごくいいなと思うんです」

ランチア・デルタHFインテグラーレ(提供:小林稔氏)

それは音楽を聴いた時の感覚に似ている、と小林氏は言う。「古い音楽を聞いて懐かしくて、あの頃はあそこであんなことしたとか、辛かったな、楽しかったなって思うじゃないですか。それと同じように、写真を見ても同じように思っていただけたら嬉しい。見る方の心を動かすこと、そこは狙ってます。はっきり狙ってます」

集大成、そして次へ

48年間の写真家人生を総括する今回の写真展。しかし、小林氏にとってこれは終わりではない。

「集大成って言っても、別に集大成にしなくても、チャンスがあればまたもう1回やりたい。これだけ大きい展示って人生初めてだから、初めてのことってなかなかうまくいかないと思って。2回目をやれればね」

新しい機材や技術に積極的に挑戦を続けている。流し撮りアシストを使った流し撮り、シネマカメラでの動画撮影。「せっかく持ってる機能は使いこなさないともったいない。新しいカメラでないとできないことがありますから」

年代順に並んだ約200点の写真は、小林稔という写真家の軌跡であると同時に、モータースポーツと自動車の歴史、そして撮影技術の進化の記録でもある。

開催概要

開催日程

2025年12月19日(金)〜2026年2月3日(火)

開催時間

10時00分〜17時30分

休館日

日曜日・祝日・年末年始(2025年12月27日〜2026年1月4日)

会場

キヤノンギャラリー S

トークイベント

  • 日時:2026年1月31日(土)14時00分~15時30分
  • 登壇者:小林稔氏(写真家)/由良拓也氏(レーシングカーデザイナー)/高橋二朗氏(モータースポーツジャーナリスト)
  • 参加費:無料
  • 定員:200名(先着申込順)
本誌:佐藤拓