赤城耕一の「アカギカメラ」
第72回:終わらない標準レンズの旅へ。キヤノンEF50mm F1.4 USM
2023年6月20日 09:00
写真家の飯田鉄さんが、5月にお亡くなりになりました。説明する必要もないと思いますが、飯田さんは写真家としてのお仕事のみならず、長年カメラ雑誌のカメラ・レンズのメカニズムの評論やレビューに携わられており、執筆や作例撮影を軽いフットワークでこなしていました。
筆者は読者側からも長いあいだ仕事を拝見していましたが、筆者自身が同じ仕事をするようになってから、飯田さんの仕事を範とさせていただいたところも多く、密かに私の中のココロの師匠と思っていました。いま、とても寂しく感じています。
飯田さんには荻窪や吉祥寺にあるカメラ店でよく遭遇しました。お住まいが近かったこともあると思います。お会いすると、場所が場所だけに、こちらもなんだか照れてしまい、他愛もないカメラ談義ばかりしていたような記憶しかありませんが、飯田さんは写真以外の文学や芸術についての造詣も深かったことは著作や記事からも想像され、もっと教えを乞えばよかったと、今さらながら悔やんでいます。
このところ拙宅にある飯田さんの写真集やら著作を引っ張り出して、何度も読み返していますが、中でも飯田さんの名著「レンズ汎神論」(日本カメラ社・2002年)には何度読み返しても思わず膝を打ってしまう記述がたくさんあります。
これはオールドレンズを主体とした、エッセイ・作品集ですが、この分野で飯田さんは草分け的な存在だったわけです。「鋭い蛍石」、「デフォーカスの研究」、「沈む鏡胴」なんていうキャッチフレーズだけでもワクワクして楽しくなるのですが、中から一本のレンズの記述が目に止まりました。
これが今回ご紹介する、キヤノンEOS一眼レフの現役標準レンズとしてラインアップされている「EF50mm F1.4 USM」なのであります。登場は1993年ですから、レンズ汎神論の中でも珍しく現役でした。レンズ構成は6群7枚。重量は290g、絞り羽根は8枚とオーソドックスな標準レンズです。なぜ飯田さんはこのレンズを自著に取り上げたのか、これは後ほど推測してみることにして、まずここからキヤノン一眼レフ時代の50mm F1.4について考えてみることにします。
“50mm F1.4”は、メーカーを問わずフィルムカメラ時代の35mm判一眼レフカメラにおいて、長きにわたり標準レンズの王道中の王道ともいえる存在でした。
キヤノンではMF一眼レフのFT時代からFL50mm F1.4を用意していました。程なくしてここからレンズ構成を変えてFL50mm F1.4 IIとなり、ここからは基本構成を変えることなくFD50mm F1.4となり、マルチコーティングを施したFD50mm F1.4 S.S.C.となります。このレンズは安定した光学性能、優れたカラーバランスを有した銘玉と言われ、今でもオールドレンズファンには人気があります。
ところがAF時代のEOS時代となってからは50mm F1.4レンズはなかなか登場しませんでした。1987年に登場するEOS一眼レフのEFマウント50mm標準レンズはマクロレンズを除くと、EF50mm F1.8しかありませんでした。開発発表が事前に行われていたEFマウント標準レンズのフラッグシップであるEF50mm F1.0L USMが登場するのは1989年です。
ただ、標準レンズといってもEF50mm F1.8とEF50mm F1.0L USMはあまりにも立ち位置が違いすぎます。後者はカメラのAF化とマウント変更に伴う、これまでのFDマウントでは不可能だった世界初スペックのレンズを生み出せるという可能性を世間に知らしめるために登場したものではないでしょうか。とても高価で巨大であり、実用にならないとは言いませんが、普段持ち歩くにはあまりにも大きく重たいレンズです。2007年にEF50mm F1.2L USMが登場しますが、F1.0のほうはそのまま退場してしまいます。
いっぽうのEF50mm F1.8は“撒き餌レンズ”などと呼ばれますが、標準ズームレンズに対して、低照度撮影に強いとか、大きなボケ味が得られる廉価な単焦点レンズとして用意されたのでしょうか。その理由はよくわかりませんが、さすがに単焦点標準レンズを用意しておかねえとまずいんじゃねえのかということになったのかもしれません。
このレンズはEF50mm F1.8 IIにマイナーチェンジされるのですが、この時に距離指標を省略、マウントはプラスチック製とずいぶんと安っぽくなり、筆者なんかはこれを見て暴れそうになりました。中古市場では初代の方がレンズの作り込みが良いとして人気があります。写りは同じですし。
この光学系を継承しつつ、レンズコーティングや絞り羽根の枚数に改良が施され、AFモーターをSTMとしたのが現行のEF50mm F1.8 STMです。ミラーレスのEOS Rシリーズが登場してからも、RFマウントのRF50mm F1.8 STMとして生き残ります。
RFマウントの50mmレンズは、この他にRF50mm F1.2 L USMが存在するものの50mm F1.4のレンズは現時点では登場していません。EFマウントレンズの登場と同じ作戦を取っているのかもしれませんが、これもまた謎であります。
MF一眼レフの後半から世の中はすでに「標準ズームレンズ時代」を迎えており、今さら50mm F1.4を出しても仕方ないという意識が働いたのかどうか、それはわかりません。けれど50mmレンズは一眼レフを購入した時、欲しくもないのに同梱されていたレンズ、最初の一本として選ぶレンズとして、凡庸で地味なものとして少々軽んじられていたフシもあるのですが、飯田さんもこれらのことを踏まえた上で“標準50mm F1.4”の権威を回復するため、EF50mm F1.4 USMを自著に収めたのではないでしょうか。
少し余計な話をしたくなってしまいました。50mm F1.4は長い間、多くのカメラ、レンズメーカーに用意されていましたが、ほぼガウスタイプを基本としています。ツァイスではプラナータイプと言ったりします。一眼レフ時代になってからの共通項ですが、そこにとんでもないレンズが登場しました。これが、2014年にコシナが発売したカールツァイス Otus 1.4/55です。
何がとんでもないのでしょう。それは55mm F1.4という一眼レフカメラ用の交換レンズとして馴染みのあるスペックに対して、びっくりするほど巨大かつ重量級の“標準レンズ”であったことです。レンズ構成は10群12枚、全長119.6mm、重量1,010g(EOS用)。もちろんMFレンズであります。標準レンズ好きの木村伊兵衛が生きていたら、なんと言ったかと時々考えます。
Otus 1.4/55はツァイスが世界最高性能レベルの標準レンズを作るということで、協業関係にあるコシナが協力して実現したわけですが、製造に関しても最高のレベルが求められたということです。
開放から各種収差を徹底して追い込むため贅を極めたレンズ構成を採用、その代わりに巨大化したわけです。簡単に言えば、ツァイスは性能のためなら他は全てを犠牲にして良いという姿勢でOtus 1.4/55を実現したのでした。
例えばレンズタイプは、それまでのダブルガウスではなくて逆望遠型、ディスタゴンやレトロフォーカスとも呼ばれるタイプが採用されています。F1.4の標準レンズ設計では巨大化するとして避けられてきたタイプですが、先に述べたように実際にこれを採用したわけです。
日本のカメラメーカーのレンズ設計者はこのOtusを「本当にコレをやっちまったのかよ」という思いで見ていたに違いありません。これ以降、一部の日本のカメラ、レンズメーカーの50mm F1.4レンズにレトロフォーカスタイプも採用されるようになり、Otus 1.4/55は高性能レンズのひとつの基準になります。まさに「Otus以降」というやつですね。
ところが、ここにあえて乗ることがなかったメーカーがキヤノンでした。EF50mm F1.4 USMに自信があるからそれでよろしいと思ったのかは知りませんが、新型の50mm F1.4の噂は時々出てくるものの、RFマウントレンズになってから、その予定があるのかどうかもわかりません。
私自身、Otus 1.4/55を試してその性能にはたしかに驚きました。プライベートな写真制作には楽しみを見出せそうなレンズですけど、時間や仕事効率を追求するアサインメントでMFレンズである、Otusのポテンシャルを最大限に発揮するにはそれなりの覚悟が必要になります。
そんな事情もあり、キヤノンがレトロフォーカスタイプのEF50mm F1.4を作ってくれないので筆者は浮気することにしました。人間の夫婦間と異なり、ご存じのとおり交換レンズとは不倫、重婚しても問題にはなりません。
このお相手がシグマ50mm F1.4 DG HSM | Artでした。レンズ構成は8群13枚。重量も800g以上あります。Otusのミニ50mm F1.4 AF版というところでしょうか。性能はさすがでした。フォーカシングさえ正確に行えば間違いのない結果をもたらします。
が、シグマの設計者には怒られてしまいそうですが、とてもよく写ることに対する贅沢な悩みというやつです。絞りや撮影距離による性能変化が小さく、開放絞りでもギンギンな写りです。ご存知のとおりすでにシグマからはミラーレス専用の標準レンズ50mm F1.4 DG DN | Artが登場していますが、いずれRFマウント版も登場するのではないでしょうか。これもまた恐ろしく優れた性能になるに違いありません。
すみません、今回はもう本題がなんだかわかりづらくなってしまいましたが、何を言いたかったかと言えば「ガウスタイプのEF50mm F1.4はその役割を終えてしまったのか」ということであります。個人的な結論としては否なわけです。
確かに最新のレトロフォーカスタイプの50mm F1.4と比較すれば明らかにユルい描写性能です。開放ではどことなく甘く、コントラストも低めなところがあり、逆光耐性もそこそこですね。キヤノンから公開されているMTF曲線をみると、開放絞りで周辺が急落しています。あまり最近見ることのないMTFです(笑)。少しですが、あまり美しくないタル型の歪曲収差もあります。
今ふうに言えば、EF50mm F1.4 USMの写りは、いわゆるオールドレンズの仲間ということになるのでしょうが、繰り返しますが、2023年6月時点では現行商品です。
それに私たちにはDLO(デジタルレンズオプティマイザ)という強い味方があります。いわばお古でも新型でも、レンズデータがありさえすれば残存収差を補正しちゃうわけですから頼もしい。これを反映させれば、完全とは言わないまでもそこそこ収差が補正された画になります。
ここではEF50mm F1.4 USMにコントロールリングマウントアダプター EF-EOS Rを介してEOS R5で試してみました。古いレンズだから4,500万画素に耐えられるか、なんていう人もいらっしゃると思いますが、写真のどこを見ることが重要なのか。開放絞りで撮影した画像のごく一部を抜き出すなんていうことをしなければ十分実用可能かと思います。
古いレンズとは言いましたが、ガウスタイプ標準レンズの描写を味わいとするならば、これは将来的にも残しておいた方がいいんじゃないかと思いましたよ。だってですね、1/3絞りの設定でも、撮影距離の違いでも微妙に差が出てくるんです。
開放絞りの次はF1.6になりますが、よく見るとそれでも描写にはなんらかの違いがあることがわかります。鑑賞する人には関係ないかもしれないですが、EF50mm F1.8 STMでも、RF50mm F1.8 STMでも実質的にはEF50mm F1.4 USMの代わりは務まるかもしれないけど、それでも何か違うわけです。
言葉にするとなんでしょう「湿度感」かしら。筆者の好みでは、絞りF1.6〜F2付近での合焦点のしっかりした再現性と、大きくクセがなくなるボケがお気に入りです。
と、こう調子の良いことをここまで書いてきましたけど、どこかで“RF50mm F1.4 L IS STM”(筆者の妄想仕様です)を待っている自分もいるわけです。レンズの旅は本当に終わらないんですよね。そうですよね、飯田さん。