写真を巡る、今日の読書
第118回:「いま」に読み直される写真集の面白さ
2026年9月2日 07:00
写真家 大和田良が、写真にまつわる書籍を紹介する本連載。写真集、小説、エッセイ、写真論から、一見写真と関係が無さそうな雑学系まで、隔週で3冊ずつピックアップします。
写真と「いま」
写真集は、刊行されたその時代だけを生きるものではありません。新しい作家の手によって未知のかたちへと更新されることもあれば、読まれる時代によってその解釈を変化させることもあります。読むたびに、それぞれの現在から、私たちに問いを投げかけてくるものだと言えるでしょう。
今回は、異なる時代に生まれた3冊を通して、写真が「いま」を捉え、また「いま」に読み直されることの面白さを考えてみたいと思います。
『復刊 生きている』佐内正史 著(青幻舎/2026年)
1冊目は、佐内正史の『復刊 生きている』です。1997年に刊行された佐内のデビュー写真集は、長く入手困難な状態が続いていましたが、再び手に取ることのできる1冊として復刊されます。
住宅地の一角、グラウンド、花、夕暮れといった、私たちの生活の周縁にある何気ない風景が、佐内の写真では不思議な密度を帯びています。何か決定的な出来事が写っているわけではありません。それでも、見慣れた世界が1回きりの時間として立ち現れてくるのが佐内の写真の特徴ではないかと思います。
90年代以降の写真を考えるうえで欠かせない1冊ですが、復刊によって重要なのは、これが単なる歴史的資料ではなく、いまなお若い写真家や読者の視線を揺さぶる生々しい写真集であることが、あらためて確かめられる点でしょう。
私自身、写真学生時代に影響を受け、嫉妬に近い憧れを抱いた写真集でもあります。静かに佇んでいた植物に花が咲いた新たなカバー写真は、同じ時代を駆け抜けてきた多くの写真家にとっても、感慨深いものになるのではないでしょうか。
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『私の現代 新装版』山沢栄子 著(赤々舎/2026年)
2冊目は、山沢栄子の『私の現代(新装版)』です。山沢は戦前から長い年月にわたって写真に向き合い、晩年には色彩とフォルムを大胆に組み替えた、きわめて自由な抽象写真を制作しました。
本書に収められた〈What I Am Doing〉をはじめとする作品群を眺めていると、写真が現実を写し取るためだけのものではなく、画面の内部に新しい空間をつくり出すための装置でもあることに気づかされます。鮮やかな色面や切り詰められた形は、いま見てもまったく古びていません。むしろ、写真というメディアに与えられてきた役割を軽やかに越境しようとする意志が、今日の私たちに強く響きます。
新装版としてこの仕事に出会い直すことは、日本の写真史にあった豊かな実験を、自分たちの現在へと引き寄せることでもあるはずです。今夏、渋谷ヒカリエで開催された展覧会「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」でも紹介された山沢の写真世界を、より広く俯瞰できる1冊です。
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『Spin around the Night Consumed by the Fire』中野泰輔 著(ふげん社/2026年)
3冊目は、中野泰輔の『Spin around the Night Consumed by the Fire』です。自身と同姓同名の人物が加害者となった、2000年の「ゲイ狩り」殺人事件を起点に、中野はリサーチ、インタビュー、そして撮影を重ねながら、現実と想像、生と死、自己と他者のあいだを往還するイメージの連なりをつくり上げています。
ここで写真は、事実を説明するための図版にとどまりません。むしろ、ひとつの出来事が残した痛みや、そこから連想される欲望と恐怖を受け止めるための、複雑な回路として機能しています。ページを繰るうちに、写真の意味は1枚ごとに定まるのではなく、隣り合うイメージとの衝突や反復のなかで揺れ続けることがわかります。写真集という形式そのものを、思考し、想像する場所として押し広げた意欲作です。
同写真集の刊行にあわせて、目黒のふげん社ギャラリーで行われた個展にも伺いました。実際の空間で写真を見ていると、若者の身体と夜の光をめぐるイメージにはライアン・マッギンリーを、現実と幻視が入り交じる画面には志賀理江子を思わせる瞬間もありました。そうした既存の表現との距離を測りながら、中野が自らの切実な主題をどのように引き受けているのかを考えさせられたことも印象に残っています。
佐内正史の日常、山沢栄子の抽象、そして中野泰輔の連想。それぞれの写真は異なる方向を向きながら、写真はいかに現在を捉え、また新たな現在と結び直されるのかを問いかけています。過去の写真集を復刊や新装版によって読み返すことも、新しい写真集の未知の構成に身を委ねることも、私たち自身の見る力を更新する行為なのでしょう。





