切り貼りデジカメ実験室

ポラロイドのプリンター内蔵デジカメで「フォトモ」を作る

「ナントカとハサミは使いよう」という言葉があるが、カメラも使いようで立体作品「フォトモ」が作れてしまう。フォトモとは、写真プリントを切り貼りして作る3D写真の一種で、ぼくの表現の原点となった手法だ。ポラロイドのプリンター内蔵デジカメ「Z2300」を使えば、フォトモの撮影から制作までこれ1台で行なえる。

デジタル版ポラロイド写真から立体作品「フォトモ」をつくる

 先月、本誌「デジカメアイテム丼」で水咲奈々さんによるプリンター内蔵デジカメ「Z2300」のリポートが掲載されていたのだが、ふとこれで「フォトモ」を作ってみようというアイデアが閃いた。

 フォトモについては「Web写真界隈」のインタビュー記事でも紹介されているが、ぼくの代表作にして「切り貼り」的思考の原点となったシリーズだ。簡単に言えば、フォトモとは「写真プリントを切り抜き、立体的に再構成して制作する3D写真の一種」である。言い換えれば「写真を素材とした模型」であって、ぼくはこれをフォト(写真)+モデル(模型)の略語として「フォトモ」と命名したのだ。

 フォトモを制作するには、プリントの素材が問題になる。ぼくがこの技法を始めたのはまだフィルム全盛の1990年代初頭だったが、それもあってフォトモの素材には銀塩のカラープリントを使用してきた。これが切ったり曲げたり貼ったりする工作素材としても最適なのだ。

 しかしデジタルの時代になって、インクジェットプリントを試してみたのだが、意外なことにフォトモの素材としては適さないのだ。表面にインクを吹き付けるインクジェットプリントは、折り曲げた部分のインクが禿げたりして、非常に扱いにくい。

 そこで気になるのがZ2300に採用された、ZINK Imaging社開発の「ZINKペーパー」の性質だ。調べてみると、感熱式の染料結晶が塗布された層を、ポリマーオーバーコート層で保護した構造らしい。店頭で試させてもらったところ、プリントを折り曲げた箇所が傷むことなく、表面も丈夫で工作の素材として適していることが確認できた。というわけで、さっそく編集部経由でZ2300をお借りして、ZINKペーパーによるフォトモ制作にチャレンジしてみた。

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カメラの確認と撮影の工夫

フォトモ撮影の前に「Z2300」がどんなカメラなのかチェックしてみる。イマドキのデジカメとしてはちょっと大柄だが、プリンター内蔵であることを考えれば驚くほど小さい。デザインはチープでありながらオシャレで、銀塩時代のポラロイドカメラの雰囲気を継承してると言える。ピントは目測2段切り替えと割り切った仕様だが、このあたりも往年のポラロイドカメラを彷彿とさせる。
背面は一般的なデジカメと似たような感じで、基本的操作で迷うことはない。しかし右側面にプリント排出スロットが設けられているところがこのカメラらしい特徴だ。プリントは右下のボタンを押してスタートする。
デジカメなのに裏ぶたがパカンと開くのもZ2300ならでは。ここにフィルムならぬプリント用のZINKペーパーを装填する。このZINKペーパー自体に熱を加えて発色させる仕組みなので、インクの装填は不要。非常に合理的で簡便なシステムと言えるだろう。ペーパーサイズは約5×7.6cmで名刺よりも小さい(笑)。
さて、プリントボタンを押すと液晶モニターにこのようなプレビューが表示されるのだが、上下の赤ラインは何だろうか? と思って確認したら、このラインからはみ出た部分はプリントでトリミングされてしまうのだ(デジカメの撮像素子と、ZINKペーパーの画面比率が異なるため)。このカメラのレンズはライカ判換算33mm相当だが、プリント時の画角は当然ながら少し狭まる。
トリミング範囲を示すラインは、どういうわけか撮影画面には表示されない。これではフォトモ製作に支障をきたすので、ラインに合わせ背面モニターの上下に黒ケント紙を貼り付けた(両面テープ使用)。これで撮影準備OKである。
Z2300の撮影画像だが、トイデジカメのCMOSセンサー独特の色合いでよく言えば味わいがある。画素数は1,000万画素だが、実は500万画素のセンサーを補間している。しかしそれ以前に、無限遠で写したにもかかわらず今ひとつピントが悪い。(クリックすると等倍の画像を表示します)
同じ画像データをZINKペーパーにプリントアウトするとこんな感じ(イメージスキャナーで600dpiのJPEGに変換)。ご覧の通りオリジナル画像より上下がトリミングされる。また画質はさらに味わいを深め、元画像のピントの悪さも気にならない。すぐプリントできる利便性と引き替えに、いろいろな要素を割り切っているようだが、この感覚こそがポラロイドの伝統だと言えるかも知れない。

フォトモ制作編

まずは撮った写真のうちフォトモの素材に使えそうなものだけをセレクトし、プリントする。プリント時間は最初の1枚は約60秒かかるが、2枚目以降は約35秒に短縮され(実測値)待ち時間のストレスはほとんど感じられない。
今回プリントした写真はご覧の12枚。これがフォトモ製作用の素材となる。撮影場所は藤沢市内のとある街道沿い。道路を挟んだ2つの地点から、同じ場所の風景を分割撮影している。建物の他、信号機や自動車や通行人なども、それぞれ撮影している。
プリントした写真を並べ直し、フォトモの大ざっぱな構成を確認する。メインの建物を写した写真は、それぞれ3枚ずつの「ツギラマ」に構成する。分割撮影した写真をツギハギするツギラマが、実はフォトモの基本なのだ。その他の写真はパーツの素材となる予定。
構成が決まったら、さっそく工作に取りかかる。まずは先の丸いニードルと定規を使い、写真に写るビルの角に沿って折り目を入れる。
写真を折った部分をのりしろにして、5mm幅の両面テープを貼る。
ツギラマの2枚目の写真は、ビルの角に沿ってカッターナイフで切り離す。
2つの写真を貼り合わせると、ビルの角が立体的に再現される。
さらにツギラマの3枚目の写真を貼り足し、地面の部分ののりしろを折り曲げる。
余計な空などの部分を除きを建物だけハサミで切り抜く。「バカとハサミは使いよう」という言葉があるが、カメラとハサミは使いようでフォトモが作れてしまうのである。
でき上がった左建物のパーツ。ZINKペーパーが小サイズのため、そのぶんフォトモも小さくなり、精密な工作が要求される。
同様に右建物のパーツも製作。これも写真を3枚貼り合わせ、建物の角を折り曲げている。Photoshopなどパソコンソフトを使わずに写真プリントを合成するのも、フィルム時代から始めたフォトモの流儀だ。
建物の周囲にいた人や車のパーツなどもハサミで切り抜く。これもかなりの小ささで、最近老眼となってしまった自分としては、ちょっとつらい(笑)。
小さな信号機も制作。曲がらないように真ん中に折り目を入れているのがミソ。繊細なパーツなので切り抜きには慎重を要する。
製作した各パーツを並べてみた。これを両面テープで台紙に貼り付ければフォトモが完成する。いや実のところ、この時点でZINKペーパーは裏がシールになっていることに気付いたのだが、その特性を活かすには作り直さなければならず……。なので今回はこのまま両面テープで台紙に固定することにした。基本的にそれで特に問題はない。

フォトモ完成編

これが完成したフォトモ。縮小模型でありながら、写真としてのリアリティーを兼ね備えており、一種独特の存在感がある。また立体でありながら、写真的パースペクティブを採り入れているのも特徴。街道沿いにチェーン店などが建ち並ぶ光景の、その空気感までもが再現されている。
斜めから写すと立体作品であることがわかるだろう。立体構成はごく単純で、ディテールの立体感は写真本来の描写を活かすのが、フォトモ製作のポイントだ。また、パースペクティブに従い手前に大きなパーツを、奥に行くに従って小さなパーツを配している。
裏側から見たところ。各パーツがどのように構成されているかがよくわかるだろう。
部分的にマクロ撮影すると、不思議な立体感の写真が撮れる。実際に目を近づけると、フォトモはこんな風に見えるのだ。ZINKプリントは正直それほど高画質とは言えないが、立体に切り抜くとあまり気にならなくなる。
1つの作品の中に、いろいろな構図が探せるのもフォトモの魅力だ。
俯瞰で撮ると、ジオラマモードにしなくてもこんな写真が撮れる(笑)。
作品を屋外に持ち出し、実際の風景と比較してみた。フォトモの目的はあくまで現実世界をリアルに再現することにあり、その意味では紛う事なき「写真」だと言えるだろう

「フォトモ」と「写真」の関係について

 ここのところ、この連載を通じて「反-反写真」のコンセプトのもと「写真」を追求してきたが、今回は原点回帰として、久しぶりに「フォトモ」を製作してみた。フォトモの手法は、実のところ「写真が撮れない」という自分の挫折から生み出されたもので、その意味ではまさに「反写真」なのである。

 フォトモは立体作品であり、従って写真に付き物の「四角い画面」や「構図」と言った概念から解放されている。逆の見方をすれば、ぼくは四角い画面に構図を収めて写真を撮ることの意味がどうしても理解できず、その反動からフォトモの手法を見出したと言える。

 恐らくそれは、写真の形式そのものがあまりに「自明」となっているため、それを対象化して分析的に捉えることができない事が原因ではないかと、最近は思っている。

 写真に限らず、物事を分析的に捉えられなければ、それをコントロールして自分の表現を生み出すことはできない。対象物を分析的に捉えられなければ、その対象は「自明」というモヤモヤした塊でしかなく、原因不明の病人に対した医者のように、どうにも手の施しようがないのである。

 ぼくにとっての「写真」とは、そのように取り付く島もないような対象物なのであり、だからフォトモの技法によって、突破口を見出そうとしたのかも知れない。

 自分が見出した技法であるフォトモには先駆者が存在せず、それが何であるかの自明性も存在しない。従って、自ら分析的に捉えようとしなければ、フォトモは制作できない。フォトモには自明性がないからこそ、自ら分析的に手法を発展させることが可能であり、その中にぼくは「作る喜び」を見出したのだった。

 ところがそのようにフォトモを作り続けて何年も経つと、どういうわけかだんだんと飽きがきてしまう。自分としてはフォトモで表現できることのあらゆるパターンを試そうとしたのだが、徐々にそれがやり尽くされてしまう。はじめは新鮮だったフォトモの手法が、自分の中でいつのまにか自明化してきたのかも知れない。

 実のところどんな対象物も、それだけを見つめていると目の前から消えてしまう。なぜならあらゆる認識は、他のものとの比較において成立しているからだ。フォトモをはじめとするぼくの作品は「写真」の否定の上に成立しているが、だからこそ一方で「写真」ときちんと対峙する必要もあったのだろう。今回は久しぶりにフォトモを制作しながら、そんなことを考えてしまった。

糸崎公朗