橋口譲二展「Hof ベルリンの記憶」
(c)橋口譲二 |
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橋口さんが今回の撮影地である旧東ベルリンのミッテ地区とプレンツラウアー・ベルク地区に出会ったのは1990年10月。ベルリンの壁が壊された1年後であり、ちょうど東西ドイツが統一された時だ。
「壁越しに聞いていた東は、抑圧され、非人間的な場所だと言われていたし、僕もそう思い込んでいた。実際に行ってみると西側にはない、とても人間的な温かさを、このエリアで強く感じたのを覚えていますよ」
今、街はきれいに修復され、観光客に人気のスポットになっているが、橋口さんが眼にしたのは、19世紀後半から20世紀前半に建てられた建物だ。
「ドイツ国民にとっては戦争中の負の記憶がある場所でもあるが、僕にとってはそんな歴史を含めて、建物や中庭が自然に朽ちて行く姿に美しさを感じて、惹かれた。僕が知る古い建物が壊された時、撮りためていた写真が歴史の中の光景に変わったと思い、作品を発表する時が来たなと」
このモノクローム写真が見せる像と光は、終焉を迎えた星のきらめきを想起させる。失われたが故に、永遠性を持ち得たのだ。
橋口さんはプリントが並ぶ会場を見ながら、「良い展示ができた」と何度もつぶやいていた。タイトルのHof(ホーフ)とは中庭のこと |
- 名称:橋口譲二写真展「Hof ベルリンの記憶」
- 会場:銀座ニコンサロン
- 住所:東京都中央区銀座7-10-1 STRATA GINZA (ストラータ ギンザ) 1階・2階「ニコンプラザ銀座内」
- 会期:2011年9月14日~2011年9月27日
- 時間:10時30分~18時30分(最終日は15時まで)
- 休館:会期中無休
なお、同名の写真集が岩波書店より発売されている。価格は7,770円。
■ベルリンとの出会い
橋口さんはドイツ・ベルリンを「第2のマザーランド」と呼ぶ。以前より同市内にアパートを借り、日本と行き来している。ちなみに、その建物も1904年に建てられたものだ。
最初にベルリンを訪れたのは1981年末。NHKが10代の若者をテーマにした番組を、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本の4ヵ国で共同制作することになった。橋口さんは日本版の協力を依頼されたことで、ほかの3カ国の撮影現場を見に行くことにした。
「その少し前に10代のベルリンに住む1人の少女が書いた自伝『われら動物園駅の子どもたち』を読んで、少女が抱えている社会背景に興味を持っていたこともあった」
ロンドン、リバプール、ニュルンベルグ、西ベルリン、ニューヨークで、若者たちに会い、彼らを撮影した。その作品は写真集「俺たち何処にもいられない」で見ることができる。
「出会いは路上。皆のことを知りたい。そのことをストレートに伝える。始まりはいつもそこからですね」
被写体はたくさんあったが、西ベルリンでは最初、まったく写真が撮れなかった。だからこそ、ベルリンに興味が沸いた。
(c)橋口譲二 |
「どこの国も階級社会から来る問題が路上にあったけど、ベルリンは特別だった。当時は東西冷戦の最前線で政治的に軍事的な緊張感が漂っていたし、階級社会が固定化していて、人々は分断されていた。同じ集合住宅に住んでいても、所属する階層が違うと言葉も交わさない。そんな社会構造の中で、物だけは溢れ初めていたし、人間の感情や思いの行き場や置き場に行き詰っている印象を受けた。そういう中で、僕は彼らとセックスとドラッグ以外は共有していた」
橋口さんが30代前半の頃だ。
■ドイツ人にとっては汚い風景だが
撮影地となったこの地区の一角には、戦争中、ナチスの地下要塞があり、激しい爆撃を何度も受けた場所だという。
「最初は知らなかったけど、この地区は19世紀頃から東欧からやってきた貧しい人々が大勢住んでいた地区で、先の戦争でもユダヤ人や同性愛者、精神障害者、コミュニストなど、社会から排除されナチス政権下で、多くの人が収容所に送られ、多くのドイツ市民がそれに加担していた。ドイツ人にとって、そうした忌まわしい記憶を思い出させる地区なんですよね」
この地区が修復されると、ある公式の場での挨拶で僕の作品を見たドイツ人出席者が「汚い風景はなくなった」と発言したのを橋口さんは聞いている。
「ドイツではホロコーストとか、過去のあやまちをモニュメントとしてドイツ的な方法でたくさん残している。その反面、もうナチスの犯罪には触れて欲しくないという、深層心理が働いているのも事実ですね。ただ日本みたいに過ちを隠すことをしないから、僕はドイツやドイツ人は素敵だ思いますよ」
(c)橋口譲二 |
この地区は戦後、旧東ドイツに組み入れられたことで、修復されずに、19世紀から20世紀の面影が手付かずのまま残された。街は分断されたが、この町がもっている時間は分断されずに済んだ。それは橋口さんにとってとても幸運なことだった。もしこの地区が西側社会に組み込まれていたら、進歩と発展と言う価値観のもとで、とっくにリノベーションされて街の佇まいは変わっていただろう。
「集中して撮ったのは1990年からの3年ほどだけど、出会ってからこの20年ほど、この光景を見続けられたし、時の気配の中に身を置くことができた」
この地区と出会い、惹かれる自分がいた。なぜ惹かれるのか。それを確かめるために見続けた。
■4×5判と6×6判で撮影
最初はこの地区としっかり向き合うために、4×5判のカメラを選んだ。街のエリアは歩いて30~40分ぐらいの広さ。特に大好きな冬に集中して毎日朝から身体がくたびれるまで、歩き回って撮った。
「撮るべき被写体は迷わずに決まる。それもワンカットで、1枚か2枚しか撮っていない。自分の身体が反応したものしかシャッターを押していないから、捨てるカットはほとんどないですよ」
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修復が進むうちに、集合住宅の入口に鍵がかけられることが増え、被写体を探して動く距離が伸びた。そこでカメラを持ち歩きやすいローライに変えた。
撮影された街は、人の姿がなく、静謐で、廃墟のようにも思えるが、人々の生活があった。ある1枚には窓の向こうに人影があり、撮影後、橋口さんはその住人にお茶に招かれたという。
磨り減った石段、昔使われていた看板、戦争中の弾痕の後など、過去の明瞭な痕跡もあるが、何より長い時間の堆積がこれらの写真の中に存在するのを感じる。
「今度の作品ではベルリンという街の時間の蓄積と、僕自身の写真家としての時間の蓄積を表現したつもりです」
■匿名の歴史を形にする
「この街と出会ってから歴史とは何かという問いが僕の中に芽生えて消えなかった」と橋口さんは話す。
ベルリンは目の前に壁の存在があり、常に歴史が目に見える形である。
「歴史は基本的に勝者のものだった。ただ僕自身が今、ここにいることも歴史だし、僕の隣にいる人にも歴史があり、流れている時間がある。そんな歴史を形にしていこうと思ったのもベルリンでですね」
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世界14都市の動物園で、訪れる人たちを撮った「動物園」や、日本人シリーズ(「17歳の地図」「Father」「Couple」)は、すべてベルリンにいた時に着想したものだ。
「今度の作品は久しぶりの新作ですが、僕自身は新作を発表しなかった長い期間もクリエイティブな意識の中にいたつもり。日本的な人間関係や諸々のしがらみが嫌だったのと、出来るだけクリエイティブなところに身を置きたかった。そんなことも有り世間の表にでることが少なくなったので、皆を随分と心配させたりしたみたいですけど、僕は何時も表現の前線にいたつもりですよ。だから他の大都市から少し遅れて、流行りの少ないベルリンと出会ったことは、とても僕には大きな意味のあることでした」
■プリントは技術ではなく感覚
今回の印画紙は、6年前に製造中止になったアグフア製を使った。そのニュースを聞いて、ベルリンの写真材料店で買って置いておいたのだ。
「自分でプリントするのは久しぶりで、何枚もダメにした。印画紙のストックが限られているので、最終的にプリントがそろわずに、写真展ができないんじゃないかという恐怖にさいなまれて気が狂いそうでした」
頭の中でイメージした完成形が、プリントの上に現れない。最初は16×20インチを使っていたが、数が足りなくなって、12×16インチに変えた。
「綺麗にプリントしようと思っていたのがいけなかった。プリントは技術ではなく、むしろ感覚を大事にしていけば良かった。印画紙が無くなりかけた頃になって、そのことに気づいて、気に入ったベルリンの黒が出せるようになりました」
なぜ、ここに惹かれたのかを大事にする。撮り始めた時は冬が始まりかけた頃で、どのアパートにも暖房が入れられていた。燃料はコークスで、街にはその少し鼻を突く匂いが漂っていた。
「コークスの匂いとか、湿ったかび臭い空気を思い出したら、写真を撮っていた頃のベルリンの気持ちになれた。暗室作業はメディテーション。自分の中に蓄積した感情との対話ですよね」
これらの写真には、写真家の肉体を通し、幾重にも折り重なった時間が焼き付けられているのだ。そして、それは見る人の中にある歴史をも立ち上がらせる。
(c)橋口譲二 |
2011/9/20 00:00