三好耕三写真展「SEE SAW」
Cadillac, 1980 (c)三好耕三 |
※写真、記事、図表などの著作権は著作者に帰属します。無断転用・転載は固くお断りします。
三好さんは旅、移動を続けながら、目の前の光景を大判カメラで撮影してきた。その被写体は偶然出会った一瞬だが、作者の記憶、体験などとリンクした、ある種、必然と呼べるイメージなのだ。
「写真を通して、世の中と関わっていく。それしか私にはできないんですね」と三好さんは笑う。
長く8×10インチのカメラを使っていたが、最近では16×20インチがメインになった。使うカメラは変わってきたが、撮影のスタンスは初期の頃から一貫している。
今回、発表されるのは、作者が30代前半の1978年から83年まで撮影された「SEE SAW」からの作品だ。match and company, incから発売される写真集「ORIGIN」には、かつて発表された作品からデザイナーの町口景さんがセレクトし、P.G.I.のスペースには、当時、プリントされなかった作品から三好さんが選んだ約20点が並ぶ。
会期は2010年11月4日~12月22日。開館時間は11時~19時(土曜は18時まで)。日曜、祝日休館。入場無料。会場のフォト・ギャラリー・インターナショナルは東京都港区芝浦4-12-32。
12月4日には、作者と東京国立近代美術館学芸員の増田玲氏のギャラリー・トークを行なう。15時開演(ギャラリーは14時半閉館)。参加費2000円。参加申し込みは電子メールか、ファクスで。定員25名。
これまでは黙っていたけど、60歳を過ぎて老人の部に入れてもらったので、これからは発言していくよと三好さんは言う |
■「頭の中にあるもの」に出会う旅
三好さんの作品を見た時、まず誰もが感じるのが、再現されたモノクロームのグラデーションの美しさだろう。それはカメラを通した、ある現実の複製だが、1枚のプリントに焼きこまれたイメージは、また違った存在感を持って、観る者の心に入り込んでくる。そこには時代や地域といった情報が削ぎ落とされ、ある種の「本質」がすくい取られているようだ。
三好さんの撮影方法は基本的に1人で、自動車で移動しながら被写体を探す。
「大学時代から、そうなんだ。大学の先生は『車では撮れないから、歩け』と言っていたけど、歩いて撮るのは絶対に嫌だった」
ただ「最初の頃は走行中、被写体を見つけても、『次の時でいいや』と通過してしまうことが多かった。やはりそれをやっているとダメなんだよね。それに気づいてからは、停められるようにトレーニングしていった」
偶然、出会ったものを撮っているが、「頭の中にあるもの、それに出会う旅」だと三好さんは言う。それは三好さんの中にも具体的なイメージがあるわけではなく、ある光景に出会うことで、作者自ら「発見していく」のだと思う。
「写真家の先輩や仲間と一緒に車に乗った時なんか、全員で被写体を探し合うことがある。次々に見つかって口々に教えあうから、結構大変なんだよ」
■写真で世の中と関わっていこうと決めた
三好さんは1967年に大学へ入学するまで、写真を熱心に撮っていたわけではない。幼い頃から病弱だったため、小中学校の出席日数は半分程度で「机の前に向かってやる勉強が苦手。学問ではない、ほかのところで何かを得ようとしていた」。
最初は絵を描いていたが、「10枚のうち、2枚ぐらいしか思うように描けない。プロになるなら、8枚は思うように描けないと無理だろう」と断念した。大学選びで、見つけたのが日本大学芸術学部写真学科だ。
「入学と同時に、写真で世の中と関わっていこうと決めたし、そうなるだろうと分かっていた」
Airing, 1983 (c)三好耕三 |
あまり写真を撮っていなかった三好さんだが、高校の修学旅行で撮った記念写真は「ふと、自分で現像したらどうなるかと思ってやってみた」という。親が写真好きで、自宅に暗室があったわけではない。そこが写真家、三好耕三の始まりだったのかもしれない。
大学ではアルバイトで、広告カメラマンのアシスタントを行ない、4年になると1人で撮影現場を任されることもあったそうだ。
「写真でお金を稼ぐ経験をした。けれど、写真ってこれだけじゃないはずだという思いがあった。画家のような写真のあり方というのかな。そんな思いが、文化祭の時に見たエドワード・ウェストンのドキュメンタリーフィルムと結びついて『ああいうカッコいい、おじいちゃんになるにはどうしたらいいか』と考えた末に、あの人のいたところに行ってみようと思った」
写真といえば報道か、広告、写真館でのポートレートしかなく、アート表現とはまったく無縁の時代だ。大学を卒業した翌年の1972年から1年余、ニコンの35mm判一眼レフを持って、サンフランシスコとニューヨークを旅した。「その旅では、何をしていたんですか」と問うと、三好さんは「ただいるだけだったよ」と答えた後、「写真を撮って、人に見てもらう仕事をしている人がいることを感じて帰ってきた。それとサンフランシスコのギャラリーで、アンセル・アダムスのプリントが120ドルで売られていた。写真に値段がついていたのを確認している」
■意図を超えたイメージ
「その当時は、100%自分サイドで撮ったものを、見てもらうやり方を確立したかっただけ。その先のことは考えていなかった」
それより、自分の頭の中にあることを、いかに1枚のプリントに表現するか。そこのレベルにまで持っていくかが大変で、それには「卒業後、6~7年かかった」という。
その成果の一つが、今回の「SEE SAW」だ。
時代の表層的な流行にとらわれることなく、自らの内面を見つめながら、そこと引き合う光景を丹念に採取していった。
「その頃は、特に人がやっていないことをやろうと思っていました。モノを創るには、みんなと同じ方向をむいたらダメだってことを、アメリカで肌で感じていたからです」
Zo, 1983 (c)三好耕三 |
三好さんは、計算しつくした構図で被写体を精緻に撮影する作家というイメージがあったが、実際はそうではない。撮影の一部分をカメラに委ね、撮影者の意図を超えたイメージを捉えようとしているのだ。
「8×10はアバウトなカメラなんだよ。ファインダーはいい加減だし、風が吹けば揺れるしね(笑)。写真が誕生した頃の、写真がちゃんと写った喜びを感じさせてくれるし、それがやはり写真にとっては重要なんだ」
8×10を使う前は、自宅にあった二眼レフのリコーフレックスで撮影を始めた。
「被写体に向かって、お辞儀をして撮る姿勢がいいなと思って使い始めた。その後、ローライフレックスに変えたんだけど、最初から、もしハッセルブラッドで撮っていたら8×10にいかないで、きっちりと撮れる4×5判にいっていたと思う」
■プリントづくりの秘訣は「箱に書いてある通り」
フィルムや印画紙がなくなると危惧する声が多い中で、三好さんは「今、印画紙があるうちに、なくなったことを想定して行動するのはおかしい」という。
フィルムはTRI-X、印画紙は「湯水のごとく使う」ので、今はすぐに調達できるフジやニューシーガルを使っている。P.G.I.での展示は、30数年前のネガを使い、この春にプリントしたものだ。
「かつてプリントしたものと比べても、遜色ない。印画紙が以前より悪くなったとか言う人もいるけど、僕はそうは思わない」
三好さんに美しいプリントを作る秘訣を聞くと、「印画紙の箱に書いてある通りに処理すること」だそうだ。
最初の頃は温度を変えたり、蒸留水を使ったりと、いろいろと試したそうだが、結局、処方箋どおりが一番だということに気づいた。
「それで80点ぐらいができて、そこから先は、撮影したときの場面を思い描き、その時の息吹みたいなものをどう反映させられるかで決まると思う」
シャッターを切ったときのことを、最後の最後でのせる。それが写真だ。
Old Boy+Girl, 1983(c)三好耕三 |
■撮影当時の感覚に立ち返ったセレクト
今回の企画は、東京・原宿にあるオルタナティブスペースのVACANT(同会場での『三好耕三写真展』は2010年11月12日まで)と、デザイナーの町口さんからのオファーで立ち上がった。町口さんからは、8×10で撮る前の写真で写真集を作りたいという依頼だった。
「僕自身、過去を振り返るのはちょっと抵抗があったけど、若い世代の人たちに見てもらいたい気持ちも生まれた。30数年前、30代だった僕が6×6判のカメラで撮っていた写真だったら、共通点を感じながら見てもらえるかと思ってね」
VACANTと写真集は、これまでに発表した作品からセレクトを行ない、P.G.I.では、これまで未発表のネガから選んだ。
「当時の『何だか分からないものを作ろうと思っていた』眼、感覚に戻って、セレクトした。今の眼で改めて組み始めたら、2~3年はかかってしまうからね」
三好さんの今の夢は、16×20判のカメラを担ぎ、月から普通に地球を撮ることだという。作者の旅は、「SEE SAW」当時の歩みのまま、脈々と続けられているのだ。
Early Summer, 1983 (c)三好耕三 |
2010/11/15 00:00