インタビュー

ニコンが考える“レンズの味”とは?

AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gの設計に見るレンズ計測装置「OPTIA」の活躍

 既報の通り、 ニコンが交換レンズのすべての収差を測定できるという計測装置「OPTIA」(Optical Performance and Total Image Analyzer)と画像シミュレーターの連携運用を開始した。これにより「“レンズの味”と収差の対応関係を明らかにできる」というが、実際にはどういった計測が行なわれ、どのようにレンズ開発に活かされているのだろうか? 今回は、同社のレンズ設計部門責任者、レンズ設計者とOPTIAの開発支援担当者に話を伺った。(本文中敬称略)

お話を伺ったメンバー。左からニコン映像カンパニー 開発本部 第二設計部 第二設計課 技監補の田中一政氏(OPTIAの開発支援を担当)、同第二設計部ゼネラルマネジャーの稲留清隆氏(レンズ開発全般のとりまとめを担当)、同第二設計部 第二設計課 主幹の佐藤治夫氏(AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gの設計を担当)。

「波面収差」の計測ですべての収差を導き出す

――まずは、OPTIAがどのようなものか教えて頂けますか?

稲留:簡単に申しますと、OPTIAはレンズの収差をはじめとする、あらゆる性能の測定ができる次世代型の計測装置です。レンズの性能の評価尺度にはいろいろな手法がありますが、従来は性能評価を行なう場合、例えばMTFであればMTFだけを測定する、球面収差であれば球面収差だけを測定するというふうに、それぞれ専用の計測装置で計測するのが一般的でした。しかし、OPTIAでは、レンズの「波面収差」と呼ばれる収差を測定し、その測定結果を分析することであらゆる収差の測定が一度にできるようになりました。つまり、波面収差の情報にはレンズの特性を示す情報がすべて含まれていて、これを測定することでレンズの性能をすべてを把握することができます。

OPTIA

――カメラ用交換レンズの全ての収差を測定できるとのことですが、具体的にはどのような収差を測定しているのですか?

稲留:いわゆるザイデルの5収差と呼ばれる、球面収差、コマ収差、非点収差、像面湾曲、歪曲収差をはじめ、軸上と倍率の色収差などはもちろん、スポットダイヤグラム(点像強度分布)からMTFに至るまで、計算によって導き出すことができます。

――波面収差とはどのような収差ですか?

田中:光を波としてみますと、例えば星のように無限遠と見なせる被写体からくる光は平面波としてレンズに入射しますが、レンズを出た光は最終的に一点に集まりますので球面波となるはずです。また、有限距離にある一点から出た光は、球面波としてレンズに入射し、再び一点に結像しますので、レンズから出る光はやはり球面波になります。

レンズを通った光の波面が、本来あるべき球面からずれると波面収差となる。星は無限遠、花は有限距離の場合を表す。

 理想のレンズの場合、レンズから出る波面の形状はきれいな球面波になるのですが、実際のレンズを通過した光の波面は、いろいろな収差や製造誤差などにより乱れが生じ、きれいな球面波にはなりません。このように、理想レンズの球面波からの波面のずれのことを波面収差と呼んでいます。OPTIAは、この波面のずれを測定していますが、この情報にはレンズの収差をはじめさまざまな情報が含まれており、これを解析することで、先ほどの諸収差をはじめレンズの各種特性を求めることができるのです。

――レンズ設計において、従来でも設計段階である程度の収差はシミュレーションできたと思いますが、実際のレンズの収差を測定するのはどうしてですか?

田中:レンズの試作段階で測定しますと、設計値とのずれが一目瞭然になりますし、何か不具合があった場合も、従来なら収差をひとつひとつチェックしないとわからなかった原因が、OPTIAで計測すれば一度であらゆる収差の測定結果が出ますので、よりスピーディな対応が可能になります。

――実際の計測には例えばチャートを用いるのでしょうか?

田中:いいえ、チャートではなく、点光源を用います。

――OPTIAは半導体製露光置用に開発した計測手法をカメラ用レンズむけに応用したものとありますが、どんなところが違いますか?

田中:半導体露光装置は通常単一波長の光しか使用しませんので、波面収差の測定も1波長のみで高精度に行ないます。しかし、写真撮影用レンズは可視域すべての波長が対象になりますのではるかに広い波長域の測定を行なう必要があります。

――レンズ設計の基準になる波長はよく、C線(赤、656nm)、d線(黄、588nm)、F線(青、486nm)、g線(青、436nm)の4つの波長を基準にしているといいますが、この4つの波長で測定するのでしょうか?

田中:詳細についてはお答えできませんが、もっと細かく測定を行なっています。

――OPTIAで、過去に評判の良かったレンズの収差を分析したとありますが、評判の良かったレンズをいくつか挙げて頂けますか?

佐藤:いわゆる銘玉と言われるレンズは、自社、他社を含めていろいろと計測しています。自社レンズでは例えば、「Ai AF Nikkor 85mm F1.4 D IF」(1995年発売)と、「AF-S NIKKOR 85mm F1.4 G」(2010年発売)をOPTIAで比較評価してみました。

Ai AF Nikkor 85mm F1.4 D IF
AF-S NIKKOR 85mm F1.4 G

――それはおもしろいですね、収差にどういう特徴がありましたか?

佐藤:シャープネスなどは最新設計のGレンズのほうが良いのですが、一世代前のDレンズが良くないのかと言えばそうではなくて、三次元的な特性などはむしろDレンズのほうが優れていると思われる部分もありました。Gレンズのほうが残存収差は全般に小さくなっているのですが、Dレンズは収差をうまく残すことでバランスの良い描写を実現している。そのような様子がOPTIAから得られたデータを解析することで理解できます。

 レンズの収差測定は、古くはアスカニア光学ベンチという大型の光学機器を用いました。この光学機器は熟練したオペレーターによってはじめて球面収差やコマ収差、非点収差などの計測が可能でした。しかし、今ではOPTIAで波面収差を測定するだけで、すべての収差がすぐに計算できるようになり、非常に効率が良くなりました。

――Ai AF Nikkor 85mm F1.4 D IFの収差の残し方が良かったということですが、具体的にはどんな収差だったのですか?

佐藤:例えば、球面収差はマイナス方向に膨らませて残しているところですとか、コマ収差も若干残っていたりするのですが、MTFベースで考えても、点像の形状ベースで考えても破綻のない収差の残し方をしています。特に三次元的なMTF特性が優れていて、ピントの合ったところから手前にボケはじめる部分のMTFの落ち方と、後ろ側にボケはじめる部分のMTFの落ち方がよく似ていて、前後のボケのようすが両方とも類似し、バランス良く見えます。Ai AF Nikkor 85mm F1.4 D IFのボケ味が良いとされるユーザーが結構多いのですが、その理由がデータからもわかります。

――それに対して現行のAF-S NIKKOR 85mm F1.4 Gはどうなのですか?

佐藤:現行のGタイプは特に後ろ側のボケをよりきれいにしようと意識しています。前側よりもより後ろ側のボケがなだらかになるように設計しております。

――前後にボケを入れるような構図をとる場合はDタイプ、後ボケを優先する場合はGタイプがいい?

佐藤:好みにもよりますが、そうなります。

いいボケを作り出す秘訣とは?

――ニコンにとってのレンズの味とは?

佐藤:一口にレンズの味と申しましても、レンズ鏡筒の不要な反射によるフレアや、レンズの製造誤差によるボケやにじみ、トイカメラのレンズなどもレンズの味と言われるお客様もおられますし、中には周辺光量が大きく落ちたものや、全体の色調が黄変しているものまでレンズの味と言われるお客様がおられます。したがって、レンズの味を客観的に特定するのが難しい面があります。

 そこで、ニコンでは結像性能に関わる部分だけをレンズの味として取り扱っています。具体的には、シャープネスとピントの合ったところから、ボケ始めて、大きくボケるまでのボケ方を味としてみています。そのため、先に挙げました周辺光量の不足や色調、構造や製造誤差に関する味の部分は、レンズの味とは考えておりません。

――「解像力」、「ボケ味」といったレンズの味には、それぞれどのような収差が関連しているのですか?

佐藤:解像力に関しましては歪曲収差を除く、すべての収差が関わってきます。ボケ味に関してもすべての収差が関わってきますが、とりわけ球面収差、コマ収差、非点収差の3つが重要ですね。よく、ボケ味の話をするときに球面収差についてだけ語る方が多いのですが、あれは説明しやすく、聞く側も理解しやすいからであって、実際には球面収差だけがボケ味に影響しているのではありません。

 球面収差によるボケ味の説明で画面の中央に集まる光の例を使いますが、実際には画面の中央付近には主要被写体があって合焦している場合が多く、むしろ画面の周辺部のほうがボケる場合が多い。画面周辺部では、コマ収差などの横収差の影響が大きくなってきますので、結像点のすべての収差を見たほうが良いのです。しかも、二次元ではなくピントの合ったところから、三次元的にボケがどう変化するかをつぶさに見るというのが、いいボケを作り出す秘訣になってくると思います。

稲留:レンズの味はどの収差によって決まるかというような単純な構造になっているのではなく、ボケ味ひとつとっても多くの収差が複雑に絡み合っているというのが実状です。逆に言うと、従来はレンズの味を解析する有効な手だてはなかったのですが、OPTIAによってレンズの味にはどのような収差が関わっているかが徐々に明らかになってきました。

田中:OPTIAでは、さまざまなレンズの測定をしているのですが、例えば現代の基準ではボケボケのソフトな描写のレンズを測定してみますと、なるほどこういう収差の残し方をしているのかという、興味深い結果が続々と出てきていますので、将来はかつて銘玉と言われたレンズの収差特性を取り入れたレンズ設計も可能になってくるでしょう。

――そうしますと例えば、ピントの合ったところはシャープに、ボケ味は銘玉風にとかという設計も可能になってくるのですね。

田中:極端に言えば、中央付近は従来のニッコール風、中間部分はドイツの○○風、画面周辺部はドイツの別のメーカー風というような設計も可能になるかもしれません。

OPTIAの開発支援を担当した田中一政氏

稲留:銘玉と言われるレンズは、ある程度は意図したものかもしれませんが、多くの場合は偶然の産物でそのような特性が生まれたのではないかと考えられるのですが、OPTIAによってそういうレンズの解析が進んで、レンズの味と収差の関連性がもっと蓄積され、その傾向が明らかになってくれば、今後は設計者の意図によってそういった味を持ったレンズを意図的に作れるようになるのではないかと考えています。

――DC-Nikkorはリングを回すことで前ボケと後ボケのボケ味を調節できますが、ユーザーがレンズの味を切り替えできるレンズが出てきてもおもしろいなと思いました。さて、つぎにOPTIAと連携して使用すると言う画像シミュレータについてお聞きしたいですが、まずは画像シミュレーターとはどのようなソフトウエアか教えて頂けますか?

Ai AF DC-Nikkor 135mm F2 D

稲留:かつてはレンズ設計が完了するとまず試作機を製作して実写評価していましたが、画像シミュレータはレンズの設計データを入力するだけで、そのレンズで撮影した場合に最終的に作り出される画像をシミュレーションで作り出すことができるソフトウエアです。つまり、実際にレンズを試作して実写しなくてもどのような描写になるかわかります。また、画像シミュレータによる画像は、実写と区別がつかないほど高精細ですので、実写と同等の評価が可能になります。その結果、レンズ設計の微調整を行なう場合も、実際に試作品を作る必要がありませんので、スムーズな設計の進行が可能になりました。最近発売されたレンズは、ほぼすべて画像シミュレータによって描写性を確認しながら設計されました。

――画像シミュレーターの仕組みは、例えば実際の人物と背景など被写体の空間構成を、非常に小さな色の点の集合体として捉え、その色情報と空間上の位置情報を記録したデータがあったとして、あるレンズである方向と距離から、ある絞り値でその被写体を撮影すると、点像の集合体として撮影される画像がどうなるか、つまり撮影される画のシミュレーションが計算できるということでしょうか?

稲留:詳しくはお答えできませんが、おおむねそのようなものと考えて頂いて結構です。

――従来のスポットダイヤグラム(点像強度分布)の考え方とどう違うのでしょうか?

佐藤:スポットダイヤグラムは、1点から発した光がレンズのいろいろな箇所を経て結像した際にどういう点の広がりになるかというものですが、これを見て設計者が実写結果を推測できるようになるには、かなりの熟練が必要で、個人差もありました。しかし、画像シミュレータでは、実際の画像としてシミュレーションの結果が出力されますので、誰でも設計中のレンズの実写性能が簡単に評価できるようになります。

――被写体の1点から発した光のスポットダイヤグラムを積分と言うか、すべて重ね合わせた感じなのでしょうか?

稲留:そのようなものです。考え方は昔からあったのですが、今までは最終的にそれを画像として結びつける道具がなかったのです。

佐藤:一番大きいのは、コンピュータの発達でしょう。昔は結像点一点の計算をするだけでも大変だったのですが、現在では瞬時に計算が可能です。われわれはOPTIAや画像シミュレータなどのツールを道具と呼んでいるのですが、最近は道具立てが良くなりましたので、設計も比較的楽になりました。

田中:例えば新人のレンズ設計者であっても、今自分が設計したレンズで窓の外の風景を撮影したらどのような描写になるかが一目瞭然でわかりますし、ポートレート撮影で片方の目のまつ毛にピントを合わせると、アウトフォーカスしたもう一方の目のまつ毛のボケ方なども詳細にシミュレートできます。

――その画像シミュレーターから出てくる画像を見てみたいですね。

稲留:皆さん見たいとおっしゃいますが、申し訳ありませんが公開はできません。

佐藤:画像シミュレーターの画像はほとんど実写と変わらないイメージです。実写と比較したとしてもどちらが画像シミュレータかわからないと思います。

――例えば森の中のような撮影条件で、画面の周辺部で色収差やフリンジが出る様子などもわかるのですか?

稲留:もちろんわかります。

――それはすごいですね。

佐藤:設計をしては画像シミュレーターで確認して、よくない部分があれば設計をやり直して、再び画像シミュレーターで確認するという感じですね。例えば、以前は高倍率ズームで大口径のレンズを設計する場合は、難易度が高いために、どうしてもシャープネスを確保することを優先せざるを得ませんでした。したがって、なかなか満足いくボケ味を実現するのは難しかったという側面がありました。しかし、最近では道具立てが良くなったので、その先まで十分考察できるようになったと言えます。

三次元ハイファイなレンズとは何か?

――それで、OPTIAとの連携は、どのように行なうのでしょうか?

佐藤:OPTIAで計測し、解析してわかったレンズの特性を、今度は設計に反映し、画像シミュレータで確認する。そうしてできた試作レンズの収差をOPTIAで計測し、設計値とどれくらい違いがあるか再び検証するというループです。

――そうしますと、従来に増して設計者の意図がレンズに反映されやすくなったのではないですか?

佐藤:そうです。従来からも設計意図を反映することは可能でしたが、これらの道具を利用することで比較的短時間で簡単に、多くの検討ができるようになりました。今までは、時間の都合上ある程度限界があったと言えますが、OPTIAや画像シミュレーターによって、検討できる領域が大きく広がりました。

――最近ニコンのレンズ設計者からよく聞かれる“三次元ハイファイ”なレンズとは、どんなレンズなのでしょうか?

佐藤:現在一般によく使われているレンズの評価尺度としては解像力、コントラスト、MTFなどがあります。しかし我々は、これからの時代も従来の評価方法のままでいいのであろうか? と常々考えていました。つまり、これらの評価方法がいずれも、物点像点の関係が、平面対平面で成立する評価尺度だと言うことです。無限遠被写体の場合、無限遠方の平面物体から発した光と考えることができますから、二次元対二次元の評価は正しい評価方法といえます。しかし、有限距離にある被写体は普通三次元であり、これを二次元の結像点だけでしか評価していないのは問題ではないかということです。

 そこで我々が考えたのは、三次元の被写体に対して結像点の前後を含め、連続して三次元で評価するという方法です。例えば、結像点の1点だけをシャープに尖らせたように描写する設計も可能なのです。そのような結像点の前後が急激にボケてしまって何が写っているかわからないようなレンズ、または、ボケ部分に本来あるはずのない造形物や幾何学模様(いわゆる2線ボケ、3線ボケ)が浮かんでくるようなレンズが高い評価を受けてしまうようではいけないと思うのです。

 ピントの合ったところから、なだらかに徐々にボケていく、輪郭がとけるようにスーッと消え、ボケの中にも深度があって何がボケているのかがわかるボケが得られる、そんなボケ味まで考慮されたレンズが高く評価される評価方法でなければならないと考えています。

 具体的には、三次元的に見たMTFの減衰率ですとか、点像強度分布の変化のしかたを緻密に評価すると、結像点のピークだけを尖らせるのではなく、三次元的な幅で見たときにいいレンズというのがわかるようになります。ニコンではそのような特性を達成できたレンズを三次元ハイファイと呼んでいます。別の言い方をすれば、三次元の被写体を二次元の画像に写し込むときに、不自然さがなく、心地の良い画像になるものを、三次元ハイファイなレンズと表現しているのです。

――仮に収差のない、理想のレンズがあったとすると、ボケ味はどうなりますか?

佐藤:理想のレンズの場合、ピントの合ったところは面積のない点になって、ボケはそのまま円状に広がっていきます。つまり点光源のボケの場合は、輝度変化のない円形のボケになります。ボケた円の輝度分布をとると羊羹のような四角い特性になるということです。

 決していいボケではないのですが、2線ボケなどの悪いボケでもない。さきほどの結像点の解像力のみを著しく高めるような設計のレンズはボケが汚くなりがちですが、そういったレンズよりは理想のレンズに近い設計をしたほうがボケがきれいになると思います。さらに、三次元特性まで考慮した設計のレンズは、理想のレンズ以上にきれいなボケになります。

――きれいなボケの輝度分布はどうなるのですか?

佐藤:中央にピークがあって周辺に行くに従ってなだらかに輝度が下がる、富士山のような輝度分布のボケが自然できれいだと思います。

――OPTIAと画像シミュレータの技術を使ったレンズは、既にリリースされていますか?

佐藤:今回発表しました「AF-S NIKKOR 58mm F1.4 G」が第一弾になりますね。OPTIAとたまたま開発時期が重なりましたので、測定に利用しました。

10月31日に発売したAF-S NIKKOR 58mm F1.4 G。価格は19万9,500円。

AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gの味に迫る

――それでは、このレンズのコンセプトからお願いします。

佐藤:先ほどからご説明していますレンズの三次元的ハイファイの考え方で設計したレンズを、お客様にこちらから提案をさせて頂くという意味では、初めてのレンズなのかなと考えています。すなわち、このレンズは無限遠におきましては、先ほどの評価方法の考え方の通り、平面対平面の評価で良いことになりますので、MTFが極力高くなるように設計しています。また、無限遠では点が点に写るようにサジタルコマフレアを極力抑えた設計になっているのもこのレンズの特徴です。

 一方で、近距離撮影になるほど収差バランスを調整することで、ピントの合ったところから徐々につながりの良い美しいボケ味が得られるようにしています。つまり、無限遠付近では描写はあくまでシャープに、近距離ではピント面はある程度のシャープさを維持しつつも美しいボケ味が得られるという風に、1本のレンズで2通りのレンズの味をお楽しみ頂けるようになっています。従来はこのように、意図して撮影距離に応じて徐々に写り方が変化するレンズはなく、その点が初めての試みということです。

AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gの設計を担当した佐藤治夫氏。

――なるほど、夜景や星空、風景などはシャープに写り、近距離のポートレートなどではボケ味が美しいという訳ですね。ところで、「サジタルコマフレア」とは何ですか?

佐藤:サジタルコマフレアは夜景や星空などの点光源が画面周辺部で鳶のような形になったりカモメが飛んだような形になったりする収差です。サジタルコマフレアが大きいと点像の歪みやにじみが出て、好ましい絵になりません。サジタルコマフレアが減少すると夜景や星空の写真で不自然な光の光芒がなくなり自然な絵になります。また、夜景だけでなく一般的な絵柄でも画面周辺部に写った遠くの被写体も、質感がわかるようになるなど、描写のクリアさが変わってきます。

 AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gでは、像高の7割前後の部分までは、点がほぼ点に写ります。画面の最周辺部は難しいのですが、点像が乱れると言っても三角おにぎりの形くらいに収まるように抑えています。一般的な50mmレンズと比較して頂ければ、点像再現性の優秀さががおわかり頂けると思います。

――例えば「AF-S NIKKOR 50mm F1.4 G」と比べると、絞り開放時の描写はどの程度違うのですか?

佐藤:イメージとしては、AF-S NIKKOR 50mm F1.4 Gを1段から2段絞った場合と同等の絵が絞り開放で得られると考えて頂くとわかりやすいと思います。天文写真の専門家にお聞きしますと、明るいレンズでも実際にはF2.8程度まで絞ってお使いになるということでしたが、このレンズの場合はF2まで絞れば十分シャープな撮影結果が得られると思います。

AF-S NIKKOR 50mm F1.4 G
AF-S NIKKOR 58mm F1.4 G(左)とAF-S NIKKOR 50mm F1.4 G(右)のMTFグラフ。58mm F1.4のほうが全般にMTFが高く、シャープなレンズであることがわかる。また、サジタル(実線)とメリジオナル(点線)の特性が近く、非点収差が少なく点像再現性に優れることを示している。

――ところで美しいボケ味が得られるということですが、このレンズの球面収差はどのような状況になっているのでしょうか?

佐藤:球面収差は無限遠ではほとんどありませんが、近距離になるに従ってマイナス側に振れる傾向があります。もちろん球面収差だけではなく、他の収差についても近距離になるほど後ボケがきれいになるような収差バランスをとっています。このレンズは近距離になるに従って収差を変動させています。例えば撮影距離が5m、3m、1m、最短撮影距離の0.58mと近距離になるに従って、よりピントの合ったところから、つながりがよく徐々にボケて、特に美しい後ボケが得られるような収差バランスになります。

 一般に、近距離になるほど被写体の周波数成分は低くなり、無限遠になるに従って周波数成分が上がる傾向がありますので、無限遠では高い解像力が必要ですが、近接撮影では解像力は無限遠ほど重要にはならないので、ボケ味を優先した収差バランスをとるには好都合なのです。そのため、例えばこのレンズを評価される際に近距離撮影でチャートなどを撮影されますと、解像力の数値はあまりいい成績にはならないと思います。

――収差バランスの調整はインナーフォーカスのメカニズムで行なうのですか?

佐藤:いいえ。このレンズは全体繰り出し式です。

――全体繰り出し式のレンズは、近距離撮影で球面収差が増えると聞いていますが、それを強調したイメージでしょうか?

佐藤:そうです。全体繰り出し式レンズの特徴を逆手に取って、通常より収差変動が大きくなるようにしているのです。しかも。三次元的につながりの良いきれいな描写を維持できるようにしています。

――絞った場合はどうなりますか?

佐藤:絞った場合でも、三次元的な特性が乱れないように配慮しました。F1.4、F2、F2.8と絞るごとにボケは小さくなりますが、美しいボケが得られる三次元ハイファイの特性は残ります。

――F8まで絞るとその傾向はなくなりますか?

佐藤:F8から11くらいまで絞るとオールマイティなレンズになると思いますが、それでも背景の奥行き感やボケの傾向は悪い方向には行かないと思います。

ノクトニッコールを超える性能

――奥が深いですね。ところでこのレンズは、旧ノクトニッコール58mm F1.2のコンセプトに似ていると思いますが、意識して設計されたのでしょうか?

初代のノクトニッコール「Ai Noct-Nikkor 58mm F1.2」(写真)は1977年の発売。その後1982年に二代目となる「Ai Noct-Nikkor 58mm F1.2 S」が発売された。

佐藤:“点が点に写る”という設計思想はもともとノクトニッコールの設計思想を伝承したものです。当初は「ノクト」の名前を冠することも考えていました。しかし、点像の描写がさら良くなるように大きく改善していますし、MTFもさらに向上させていますので、ノクトニッコールを性能面で超えた部分もあります。そのため、ノクトの名称は敢えて使用しないことにしました。

――F1.2ではなく、F1.4になった理由は?

佐藤:F1.2のバージョンも設計はしていたのですが、中央の光量はF1.2であっても周辺部の光量を十分確保するのが難しくなります。その点、F1.4であれば周辺部の光量もお客様に満足して頂けるレベルを確保することができます。つまり絞り開放から使えない1.2を作るより、開放から使える1.4を作ったほうが良いとする考えです。サジタルコマフレアもF1.2ではここまで抑えることができなかったでしょう。

――「Ai Noct-Nikkor 58mm F1.2 S」は、定価で16万5,000円もしたそうですが、1枚目の研削非球面レンズが値段を上げる要因だったと言います。このレンズも1枚目のレンズは研削非球面レンズですか?

AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gのレンズ構成図。水色は非球面レンズを表す。

稲留:いいえ。このレンズで採用しています非球面レンズはガラスモールド非球面レンズと複合型非球面です。最近のガラスモールド非球面レンズは、研削非球面レンズよりも精度が高いのです。そのため、ニコンではかなり前から研削非球面レンズは製造していません。

佐藤:研削非球面レンズは、それを制作する技術者の力量が大きく、1個だけを生産すると非常に高精度なものができる可能性があるのですが、量産するとなると当然歩留まりが落ちますし、微妙な研削痕がボケ部分にでてしまうこともあります。

――研削非球面レンズは今や神格化されていますが一種の都市伝説だったのですね。ただ、ガラスモールド非球面レンズにしては価格がやや高めですね。

佐藤:ガラスモールド非球面レンズといっても精度が高く、口径が大きくなるほど等比級数的にコストが上がりますので、非常に高価になってしまいます。また、高精度に加工するために、あえてコストのかかる製造工程をとっていることも一因になっています。

――レンズ部分がマクロレンズのように奥まったデザインになった理由は?

佐藤:鏡筒のモーターや基板の配置の関係でこのようなデザインになっていますが、そのおかげでレンズの繰り出しによる全長の変化をなくすることができました。

「AF-S NIKKOR 800mm F5.6 E FL ED VR」に蛍石を採用したわけ

――今日はせっかくの機会なので、5月に発売された超望遠レンズ「AF-S NIKKOR 800mm F5.6 E FL ED VR」についても伺いたいと思います。まず、蛍石レンズが採用されましたが、その理由は?

AF-S NIKKOR 800mm F5.6 E FL ED VR(212万1,000円)

稲留:従来は、蛍石は取り扱いが難しく非常に高価でもあったので使用を控えてきましたが、最近は超望遠レンズの軽量化の要望が大きく、軽量化を最優先する目的で採用しました。従来のEDレンズに比べ蛍石レンズは1〜2割ほど軽く、全体の重量の低減に大きな効果があります。そのため、今後は超望遠レンズを中心に、軽量化のために蛍石レンズが採用される機会が増えると考えています。

佐藤:800mmにもなりますと、相当重くなりますので、軽量化が課題になりました。

――蛍石自体は自社生産なのでしょうか?

稲留:半導体露光装置には自社生産した蛍石を使用していますが、このレンズに採用している蛍石は協力会社で生産しています。

佐藤:弊社では蛍石を戦前から顕微鏡などに使用してきた歴史があり、最近ではUVニッコール(UV-105mm F4.5)などに搭載した例もありますので、蛍石の使用は今回が初めてということではありません。

レンズ構成図。紫色が蛍石のレンズ。

――電磁絞りが採用されましたが、今後は一般レンズでも採用が進むのでしょうか?

稲留:レンズの仕様によると思います。800mmは鏡筒が長く、絞り機構のメカニズムもマウント位置から長い距離の連動が必要になり、精度維持の面で設計が難しくなってきます。そこで、今回の場合は電磁絞りのほうが高精度な絞り制御ができると判断して採用しました。今後も鏡筒が長いなど、機械連動の絞りより電磁絞りのほうが高精度な絞り制御ができると判断した場合は、採用する可能性はあります。

レンズ開発全般のとりまとめを担当した稲留清隆氏

――絞り込んだ場合、レリーズタイムラグの遅延はないのですか?

稲留:F22までは変わりません。メカ絞りに比べますと、さらに小絞り時に多少の遅延はあるかと思いますが、どちらかと言えば、絞りをより細かく制御するために時間をかけていると言うことです。メカ絞りよりも細かな絞り制御が可能な点にメリットがあると考えています。

――確かに、このレンズであまり絞ることはないでしょうね。それと、レンズ鏡筒に採用されたマグネシウム合金のメリットについて教えてください。

稲留:マグネシウムは、軽量化のため以前から超望遠シリーズで採用させて頂いていますが、強靭でかつ軽量であるというメリットがあります。

――バックオーダーは解消しましたか?

稲留:予想を大きく超えるご注文を頂き、バックオーダーは未だ解消に至っていません。大変申し訳ありませんが、ご注文のお客様は、今しばらくお待ち頂きますようお願い申し上げます。

――かなり高額な商品ですが、欲しい方が結構多いのですね。

稲留:世界的に多くのご注文を頂いていますが、特に日本での需要が予想以上に多かったのには驚かされました。

――やはり、野球などのスポーツ系や野鳥系のユーザーが多いのですか?

稲留:我々も、当初はそのようなお客様を想定していましたが、最近規制が厳しくなったモータースポーツのお客様も増えていらっしゃいます。

インタビューを終えて

 その昔、レンズの膨大な収差計算は、こつこつと人海戦術で行なうしかなかったと言うが、そんな話は今や昔、現代ではレンズ設計用の汎用ソフトが売り出され、設計値を入力するだけで、撮影後の絵まで再現できてしまうというのだから驚きだ。そしてニコンでは、有史以来の銘玉と言われるレンズを解析して、レンズの味と言われるものが何かをOPTIAという科学の目で解き明かそうとしている。

 古いニッコールレンズは、どちらかと言えばシャープネスが優先されていたようなイメージがあるが、Ai AF Nikkor 85mm F1.4 D IFの頃から、ボケ味を意識したレンズが多くなってきたと記憶している。佐藤氏の言う道具立てが良くなったことで、余裕が出て、ボケ味までケアできるようになってきたのだろう。そして今、ボケ味とは何かが解析され、AF-S NIKKOR 58mm F1.4 Gでは撮影距離に応じてその描写性が異なるようにコントロールできるまでになった。

 今回のインタビューを通して、レンズとは現実空間の光を二次元に瞬時に変換するアナログ式の計算機のようなものだと感じた。そのプログラムのレシピはOPTIAで明らかにされ、画像シミュレータにかければ自在に絵が取り出せる。つまり、高解像度3Dデジタイザによる被写体の点情報とOPTIAによるレンズデータまたはレンズの設計値、画像シミュレータを組み合わせれば、いつでもお望みのレンズの絵が取り出せる時代が、そう遠くない将来に実現される可能性がでてきたということになるのではないだろうか。そんなことを考えはじめると、ちょっと今夜は眠れそうにない。

杉本利彦

千葉大学工学部画像工学科卒業。初期は写真作家としてモノクロファインプリントに傾倒。現在は写真家としての活動のほか、カメラ雑誌・書籍等でカメラ関連の記事を執筆している。カメラグランプリ2013選考委員。